◎ 5月11日 ドイツ(デュッセルドルフ)から一時帰国
聖パウロ女子修道会 シスター比護 キクエ
海外宣教者を支援する会の皆様へ
4・5年務まれば…と軽い気持ちで受けたドイツでの宣教も、今年ではや30年になりました。ここまでこれたのも、日本の本会の姉妹や、海外宣教者を支援する会の皆様、そして多くの知人、友人の多くの祈りと様々な援助のお蔭と、つくづく感じ、心から感謝しています。
この30年の間に、ドイツの教会も国も本当に大きく変化しました。私が現在住むデュッセルドルフは、ノルトライン・ヴェストファーレン州の州都であるために、日本の多くの企業が支社を置いており、約6,000人ほどの日本人が住んでいます。人口は約60万人で、今から40年ほど前は、町のカトリック信徒は85%でした。それが、現在は35%になりました。教区の司祭の数も減りに減り、以前は各教会に主任司祭と助任司祭2・3人がいましたが、今では一人の主任司祭と二人の助任司祭で7~8の教会を司牧しています。そして、司牧者の祈りと努力にもかかわらず、毎年多くの教会離脱者が出ています。その数は2011年は12万6千人でした。
そんな中で私がいつも感心するのは、ドイツの教会が行っている発展途上国や貧困国への援助です。ドイツ司教団に属する支援団体だけでも7つあり、なんと2011年の1年間だけでも41億5百万ユーロを支援したのです。その他に、各教会が独自に世界のあちこちの町と姉妹関係(例えば東京とケルン教区のように)を結び援助しています。待降
節が近づくと、どの教会でも「良い目的のために」といって、バザーをして、支援金を集めます。不思議なことに、毎年教会離脱者が増えているのに、この援助金寄付は減らないのだそうです。
近年、聖職者による未成年者への性的暴力や、ハンブルグの司教による巨額の乱用なので、ドイツ教会は批判され、窮地に立たされました。でも、新たに起こっている難民問題にドイツ国民と一体になって積極的に取り組むことによって、少しずつ評価し直されつつあります。首相のメルケル氏は、どんなに反対されても、その人道主義を貫こうとされています。隣国ポーランドは難民受け入れ拒否、チェコはキリスト信者のみ、スイスは正式にビザを持った人のみです。ドイツの2015年の難民受け入れは115万人でした。もちろん将来の問題は山積みです。犯罪者数は畝義のりで、そのあり方もケルンの大晦日のように未曾有です。
でも、日本と同じく、第二次世界大戦の敗北の廃墟から立ち上がり、長年の悲願だった東西ドイツ統一を果たして、ここまで来たドイツ国民の忍耐と努力は、またしてもこの困難を自国だけでなく隣国をも巻き込み、必ず乗り越えていくと、私は信じています。できれば、キリスト教的愛に基づいたこの隣人愛の精神と姿勢が、今世界中で起きている争い・戦争・飢餓の原因となっている国々の模範に少しでもなれば、と心から願っています。
最後に嬉しいニュースを二つ。一つは、今年の1月にドイツ人が一人入会しました。二つ目は、今年の8月にマダガスカルがら一人の姉妹が宣教女としてドイツに来ることになっています。二人のためにどうぞお祈り下さい。では、感謝のうちに!
◎ 3月14日 東ティモール(デリー)にて
JLMM/AFMET 深堀 夢衣
東ティモール通信
日本の皆様、ボタルディ(こんにちは)!ロスパロスはほぼ毎日雨が降っています。 雨と雷で大木が倒れて道をふさいだり、電線が切れて電気がこなかったり…仕事にならないときもありますが、ろうそくを灯して静かな一夜を過ごすこともあります。
雨の毎日なのですが、ロスパロス人(特に男性)は傘を差しません!びしょびしょで出勤するスタッフに理由を聞いてみると、「だって格好悪い!男が傘を差して歩いていたらおかまだと思われる…。」という、なんじゃそりゃ!な返事でした…。雨に濡れて風邪を引くよりも、カッコ良さを追求する男たちのようです。笑
さて、今回はAFMET副理事長と理事が東ティモールを訪問して下さった際のお話です。
*イリオマール訪問*
2月2~5日、AFMET副理事長と理事が東ティモールを訪問して下さいました。現在プログラムを実施しているイリオマールへの訪問、スタッフを集めて今後の話し合いを行う等、とても有意義な時間を過ごすことができました。
ロスパロスからイリオマールへは車でおよそ3時間かかります。車中ではAFMETの歴史が話題にのぼりました。私が派遣されたのは2010年のこと。これまでたくさんの方がAFMETの一員として東ティモールを訪れ、事業を実施していたことがわかりました。私がはじめてロスパロスに来たときは、電気が夕方6時から夜12時まで。ネットは電話回線でした。蚊のいる部屋で汗だくになりながらメールを書いていたことが懐かしいです。2010年以前にいらした方はもっと大変な環境であっただろうし、そのために日本人同士でケンカになり、理事の方が仲裁のためにロスパロスを訪問しなくてはならないこともあったようでした。そう考えると、ロスパロスで毎日を一緒に過ごした先輩方には、本当に感謝しなくてはいけません。日々の悩み、嬉しかったこと、イライラしたこと、感動したこと、泣けたこと…。それらをすべて共有し、何よりも、つらさやイライラを笑顔に変えてくれました。
当時の私は23歳!社会経験もない23歳を受け入れるとなると、今の私ではとても不安になります。ぶっとんだ若僧にみられていたんだろうな…と思います。知らないことは罪だと最近思うのですが(単になにかの本で読んだだけの文章ですが)、知らないということで間違いを起こすことってたくさんあると感じます。当時の自分はどうだったんだろう?知らないことを平然と(そして堂々と)話し、主張して、先輩方を嫌な気持ちにさせたこともあっただろうな…と反省しました。また、知らなかったAFMETの歴史を知ることができた3時間でした。AFMET設立に貢献して下さった皆様、AFMETに関わり、これまでにプロジェクトを実施して下さった皆様に、改めて感謝するときでした。
イリオマール到着後は、CHC(コミュニティヘルスセンター)を訪問しました。副CHC長のナルシジュ氏、一緒にプログラムを実施しているCHCスタッフのアンセルモ氏(栄養・マラリア・ヘルスプロモーションの3つのプログラムを兼任されています)と面談し、プログラムの進捗状況と現在イリオマールが抱えている問題について話し合いました。
2015年に一番多く発症した病気はISPA(呼吸器罹患)。下痢、蟯虫、皮膚病と続きます。これらは衛生環境の悪さが原因で罹る病気です。CHCのスタッフたちはイリオマールの衛生環境について、口をそろえて「a’at liu(かなり悪い)」と言います。それもそのはず、イリオマール準郡の中でトイレがある世帯はたったの20%だけです。実は私もスタッフたちも、イリオマールに行く際の排泄は青空トイレでおこなっていました。さすがにこれでは病気になってしまう…と思い、トイレのあるお宅と交渉し、現在はトイレのあるお宅で滞在させてもらっています。
衛生環境が悪い原因(トイレを設置できない原因でもあります)の一つに、水不足が挙げられます。CHC付近には水タンクが設置されていますが、1日に蛇口を開けて良いのはなんと1時間のみ。乾期などで水の量が少ない場合は、2日に1度の使用となることもあるそうです。1時間では世帯全部に必要な水量をカバーすることは出来ません…。水を入れる容器は“ジェリゲン”と言われるもので、通常はこの中に油が入っていて、お店やキオスクで販売されています。油を全部使い終わったあと、洗剤で洗い、水を入れておく容器とするのです。飲み水、料理、手洗い、水浴び…。水は生活に絶対必要なものです。CHCはイリオマール準郡の中で都会的な方である、イリオマールI村とII村の中ほどにあります。もっと奥地に目を向けると水を貯めておくタンクもなく、川などに水を汲みにいかなければなりません。多くの世帯が200m以上先の水源に水を汲みに行っています。家族の中で水を汲みに行くのは女性や子どもたちです。1つのジェリゲンに約5Lの水が入るため、およそ5kgある容器を頭に二つ、両手に一つずつ抱えて悪路の道のりを歩くのです(赤ん坊がいる場合は赤ん坊も背中におんぶした状態です)。
また、水にアクセスしている世帯は、イリオマール全体で約40%。ただし、この水は安全であるとは言い切れません。乾期になると水源が枯れてしまうか、水量は大幅に激減してしまいます。どんなに泥が混ざっていても、どんなにこれは飲みたくないと思う水でも、その水を料理に使い、飲み水とするしかありません。
イリオマールCHCのスタッフたちは、「環境衛生改善と水設備とトイレの設置を最重要課題として活動を実施していきたい。」と話してくれました。AFMETがどの程度介入できるかはわかりませんが、現状を知った者として、なにが私たちにできるのかを考え、人々と話し合い、イリオマールでの活動を継続していきたいと思います。
水 浴びをする女の子 ジェリゲンに水を汲むお母さん
*日々の感謝*
2015年12月で、東ティモールに派遣されてから丸5年が経ちました。早いなぁ…と毎年思うのですが、先日はデング熱にも罹り、若い頃とは違う身体になっている(確実に歳をとっている)と実感しております…。身体のことは別にして、JLMM/AFMETのスタッフとして、本当にたくさんのことを日々学ばせてもらっています。また、現地スタッフの声をAFMET理事の方々が親身になって聴いて下さっていることに感謝しています。現地のスタッフたちがどんなプログラムを実行したいのか、AFMETの将来をどんな風にしていきたいのか。現地の声を重視して下さっています。また、AFMETのスタッフとして日々奮闘してくれている3名のスタッフにも感謝です。開発が進んでいるためなのか、政府機関や他のインターナショナルNGOのスタッフ給与も、物価も、年々上がってきています。他機関と比べると給料が少なめなのですが、「それでもやりたい事ができる!」とAFMETに残り、頑張ってくれている彼らです。
2月4日、スタッフが全員集まり、副理事長と理事と共にAFMETの将来について話し合いを行いました。実は、ローカルNGO化を考えていたのですが、先に挙げた理由もあり、スタッフたちがAFMETから離れていってしまったためにスタッフ人数が不足し、ローカル化どころではなくなってしまったのです…。今後は、東ティモールでも政府登録を行い、現地AFMETは現地で、日本AFMETは日本でそれぞれファンドを探していくかたちになりそうです。今後、どんな事業を行っていきたいかも話し合われ、それぞれのスタッフからたくさんの意見を聞くことができました。それがどんな事業なのかは、決まり次第お伝えしたいと思います!
事務所の看板前で 会議終了後、新しい事業に関する
たくさんのアイディアが出ました!
◎ 3月11日 フィリピン(マニラ)から
お告げのフランシスコ姉妹会 シスター白石 幸子
アライカブアのこと
私は、2013年6月にアライカブアのボランティアとしてマニラのレヴェリザに派遣されました。アライカブアというのは、1979年にフィリピンの善き牧者修道会のシスター・クリスチン・タンと4人のシスターたちが、貧しいレヴェリザ地区で始めた活動です。
当時のレヴェリザの様子を知っている人々によれば、女性はシラミを取り合ったり、噂話にふけったり、男性は酒を飲んで酔っ払っては、掛け事に興じ、けんかや犯罪の巣のようだったそうです。そこに住む人々は、働きたくても仕事がなく、家と呼べる場所もトイレもなく、食べるものにも事欠く中で暮らしていました。そんな貧しい地区にやってきたシスターたちは一軒一軒を訪問して、お母さんたちと顔見知りになり、聖書の勉強会に誘い、一緒に神様のみことばを分かち合う中で、お母さんたちの本音を聞き出しました。「神様のみことばはとてもいいのだけれど、私たちはお腹が空いているのです」とお母さんたちは言いました。「それなら、何か収入を得られる道を考えましょう」と言って始まったのが、キッチンタオル作りでした。トイレが欲しいという声に、共同トイレ・プロジェクトを、家が欲しいという声にハウス・プロジェクトを立ち上げました。国の内外からシスター・クリスチンに寄せられる寄付金で、建築資材を購入し、専門家を一人雇って、その指導の下にアライカブアの会員たちが労力奉仕をするという形で、お母さんたちの夢は一つ一つ実現していきました。
このようにして、レヴェリザで始まったアライカブアは、今ではマニラ周辺のパコ・パンダカン、マリア・オロサ、ダコタ、カビテ地区のヘネラル・トゥリアス、そしてセブ島に広がり、会員数は3,564人に上っています。会員はそれぞれの場所でグループに別れて、毎週、祈りの時を持ち、聖書の分かち合いを続けています。
1984年、ちょうと最初のタオルが製品化したころ、私はレヴェリザでシスター・クリスチンに再会する機会があり、二つのことを頼まれました。第一は日本に帰ったら、こんなにも多くの人々が貧しさに苦しんでいることをみんなに知らせて欲しいということ。第二にはキッチンタオルの販路を日本で探して欲しいということでした。タオルには、「一枚お買い上げ頂ければ、8人家族の一日の食事が賄えます」と、小さなタグがついていました。持ち合わせのお金で20枚のタオルを買って持ち帰り、姉妹たちに話したところ、「手伝いましょう」という返事が返ってきました。そして、姉妹たちが働いていた幼稚園、保育園、養護施設などの職員や保護者、また広く友人や近隣の方たちの協力を頂くことが出来ました。その他にも、石鹸、ローソク、カード、コイン入れ、クリスマスデコレーション、電話帳の紙をこよりにして編んだバスケット、ジュースの空き袋で作ったバッグ等々、たくさんの手作り製品の販売は今も続いています。
現在、アライカブアとして特に力を入れているのは、青少年の教育で、小学生441人、高校生503人、大学生165人に奨学金を提供しています。教育によって貧困の連鎖を断ち切り、次世代の子供たちが、親の味わった貧困の苦しみから解放されることを目指しています。
生前のシスター・クリスチンからは、遠い日本で製品の販売をするだけでなく、レヴェリザに来なさいと何回も声を掛けられました。そして、ピナツボ火山の噴火をきっかけに、アライカブア訪問が始まりました。毎年、希望者のグループで体験学習を実施し、今年は24回目になります。
私のレヴェリザへの派遣は、30年余りにわたるアライカブアとの交流に続いている物です。こちらに来て2年8か月になりますが、私なりに地域が何を必要としているかを見つけ、2014年1月から給食サービスを、10月からあそびの部屋を始めました。給食サービスは土曜日と日曜日に行っています。一品料理なのですが、毎週350食から400食になります。対象はスマイリング・サントニーニョという3歳から6歳までのバイブルクラスの子供たちですが、お腹を空かせた近隣の子供たち、大人たちも1ペソを持って買いに来ます。あそびの部屋には本とおもちゃを置いて、毎週月、水、金の午前中、誰にでも開かれています。給食サービスもあそびの部屋も、アライカブアのお母さんたちにスタッフになってもらい、地域のお母さんたちが一番必要としているのは、収入を得られる仕事なので、どうしたらそれを増やすことが出来るかが、今の一番の課題です。
◎ 2月28日 カンボジア(カンポートにて)
ショファイュの幼きイエズス修道会 シスター橋本 進子
海外宣教者を支援する会の皆様へ
「光陰矢のごとし」、本当に早いですね。2月も終わりを迎えました。カンボジアは今、乾季で、今年の乾季は風が強く、朝夕は大変涼しくカンボジアの人たちにとっては寒いのでしょうか、ジャンパーやカーデガンを羽織っている姿をよく見かけます。事実、彼らは「寒い!」と言っています。暑さに弱く一年中汗をかいている私にとってはとても有り難い日々です。
さて、2015年1月29日付けで援助をお願い申し上げ、受理くださいましたガソリン代と図書関係経費の援助金は、2015年4月から使わせていただいております。間もなく1年になります。別紙の通り1年分の会計報告を申し上げます。そして、カンボジアの近況と私たちのミッションの近況をお伝えし、2016年も引き続きご支援くださいますようお願い申し上げます。
人は、首都プノンペンを見る限り、「カンボジアは貧しい」とは言わないでしょう。事実、高層建物は引き続き建設中で、あちらこちらで外国企業の進出の姿が目に付きます。カンボジアの人々の日々の暮らしはどうなのでしょうか。外国企業の進出で雇用は増え、賃金も上がっています。例えば、私たち二人の住まいは、プノンペンから148キロ離れたカンポート州にあります。そこへ行く国道4号線の左右の田甫、広大な土地を購入した中国系の繊維工場が林立しています。初年度には月50ドルの賃金で働き始めた村の女工さんたち、今年は給与が2倍以上になりました。また、私たちがカンボジア入りをした10年前は、学校の先生や警察から月25ドルでは生活できないと聞かされ、びっくり驚き、大変だなあと思いました。今は100ドル以上、まもなく平均200ドルになるそうです。しかし、物価が年々上昇していますので、金額は確かに上がっていますが、生活は楽でない家族がまだまだ多いことと察します。貧富の差が一層広がっているのではと心配です。
私たち二人のミッションの場は田舎です。村の家族の生活は質素で、貧しいです。タケオ州のチョンカチアン村、キリボン村、ブレイクバ村、身体に障害を持つ子供たちのセンターとエイズの家族の家のある「平和の村」、カンポート州のチョンケリー村、コッソラー村、プレイプロ村、そしてカンポート・カトリック文化センターなどで、キリスト教教育に従事しています。シスター園田国子は、8つあるカトリック教会付属の幼稚園で、その先生方の教導・監督の責任を委ねられています。その一つ、チョンカチアン村の幼稚園でモンテソッリー教育を始めて3年になります。その教育を受けた子供たちは、彼らの成長のすばらしさを見せてくれています。他の幼稚園にもモンテソッリー教育を取り入れたいと話していますが。まだしばらく時間が必要です。シスター橋本進子はカンポート・カトリック文化センターの図書館を中心に5つの村で、アンチェ教室の指導、読書室の世話と運営を委ねられています。嬉しいことに、本を読む子供たちが年々増えています。大人たちへのポルポト政権の影響は根強いためでしょうか。また、日々の生計のために精一杯だからでしょうか。大人の皆さんが本を読む姿は、まだまだ見かけられません。何らかの方法で呼びかけたいとあがいています。
ところで、私たち二人は上記の村々へ車で通勤しています。主要道路は3・4年前から舗装されて、良くなりました。所要時間も少し短縮されています。しかし、主要道路から折れて、田舎道に入ると、以前と比べて良くはなっていますが、それでも近いところで40分、遠い所へはまだ2時間以上かかります。ですから、私たちのミッションにとって車は「いのち」です。
シスター園田は毎週2泊3日で、まだ水道や電気がないチョンカチアンの幼稚園の先生方を指導する日を含め、車で村の幼稚園を週4・5回巡回しています。シスター橋本は5つの村の読書室の管理・監督とアンチェ教室のスタッフたちとコンタクトを取るために、それぞれの村を月に平均2回ずつ回ります。ですから、車がなければ動きがとれません。それで私たち二人が車での往復ができますように、ガソリン代を援助くださるよう別紙「援助申請願い書」を添えて、お願い申し上げます。
それから、私、シスター橋本は上記の8つの村のうち、5つの村の小中高生たちの学びと成長、そして彼らの生涯教育につながることを願って、読書推進活動に従事しています。簡単な英会話の勉強と本を読む集いの「アンテイェ教室」を、村のスタッフたちの協力を得て、日曜日ごとに行っています。これは、私がカンボジア入りをした2004年の翌年に始めました。当初、子供たちは60~70名、いや100名も集まってくれました。しかし、ポルポト政権下で書籍類は全部焼かれて、本がまだない時でした。尋ね歩いて40冊ほど揃えることができましたので、3つの村でそれぞれ定員30名で始めました。その後、徐々に出版書が増え、現在はお金が追いつかないほどたくさんのクメール語の本も書店に並ぶようになりました。カンボジア小学校の2部制登校は変わっていないのですが、カンボジアも教育に力を入れるようになり、先生の家などでの課外授業などで、子供たちは勉強で忙しくなっています。
それから、田舎でのもう一つの活動があります。2007年10月にキリボン村の教会の一角に「読書室」ができたのを皮切りに、2015年11月にはチョンカチアンの新しい幼稚園舎と共に、かわいらしい円形の図書館ができました。これで田舎の読書室が5つになりました。カンボジア民話の絵本、小説、教科書(子供たちは、ノートとボールペンを持って登校、多くは教科書を持っていない)、辞書など500冊前後、ゲームとお絵描き用具を揃えています。火曜日から日曜日まで1週6日、生徒たちが来やすい時間帯に開館しています。子供たちは絵を描くのが好きです。年々本を読む青少年が増えています。うれしく神に感謝です。
お陰様でカンポートセンターの図書館では、蔵書が3,600冊を超えました。ここでも低学年の子供たちがゲームやお絵描きをしている傍らで、静かに本を読んでいる人たちが多くなりました。村の若いお母さんや幼稚園の先生に村の読書室とそこに通ってくる生徒たちの世話をしてもらっています。司書のお仕事です。赤ちゃんがいたり、幼稚園や小学校に通う子供たちのいる若いお母さんたちで、家族の世話・家事などもこなさなければなりません。皆さん貧しいです。司書としての手当があれば、助かる人たちです。月35ドルほどの手当をご援助いただけないでしょうか。
それから、カンポート・カトリック文化センターの図書館に、昨年に続き大学生の参考図書や大人たちのための本を揃えたいと計画しています。そこで、図書購入の経費をご援助くださいますよう、援助申請願い書を添えて、お願い申し上げます。
祈りと感謝のうちに。
◎ 2016年1月27日(水)
日本カトリック信徒宣教者会(JLMM)カンボジア派遣者 細川昭雄
貴団体「きずな」への投稿
みえない貧困・かくれた差別
2014年8月からカンボジア国の北西部トンレサップ湖に近いシェム リアップ市のカトリック聖ヨセフ教会(以下、教会と略します)で働いております。世界的に有名なアンコールワット遺跡群が近くにあるため、アジア・欧米・南米・ロシア他世界中の成果中の人々が訪れます。その目的も観光・祈りの巡礼・若者の体験学習・貧しい村への支援活動など多種多様です。
派遣当初は、教会が管理運営する8か所の共同体を中心に訪問し、子供のお粥給食の手伝い、病院・刑務所訪問で貧しい人・病者・服役者の食料支援と傾聴・学生たちへの奨学金支援そして訪問客の同行などをしながら、日々の活動として働いておりました。次第に慣れていくにつれて、何となくぼんやりと「これでいいのだろうか?」と、私自身への問いかけが増えていきました。同時に、現地の寒村で無電化の地に住むカンボジア人、クメール語の話せない水上村のベトナム人が、時折見せる笑顔を見ながら、これまでの「何でも与えることが支援なのか?」と、反芻する毎日へと変わっていきました。2016年の6月には、IMF(国際通貨基金)がカンボジア国を貧困国から低所得国へと、生活のランクを一つ引き上げます。年間の平均所得が$1100を超え、経済成長率も12%がこの数年続いておりますから、当然の結果だと言えそうです。シェム リアップ市の人口も20万人と増え、州全体では100万人となりました。国内第3位の都市です。確かに町や近郊農村でも車の激増、建設ラッシュ、着飾った人々のレストランでの食事風景などをよく見かけます。その反面、交通渋滞・事故、若者のドラッグ遊び・事件、家庭内暴力・貧富の差の拡大などが、目立ち始めました。将に目に見える負のつけです。
昨年末には主任司祭を含む大きな人事異動があり、教会内の組織・活動内容・建物改修などを含めて、全ての点で見直しに入りました。将に産みの苦しみの時期を迎えております。教会と8か所の共同体で、約100名の仲間が働いております。結果として、10名の退職者と30名以上の配置転換となりました。時宜の表れだと受け止めました。
支援活動の在り方が第2段階に入ったと言えます。即ちこれまでの「何でも与える」方式の見直しです。 現地人との話し合を重ねて、誰に対して、何がどの時期まで必要なのかを見直すことです。しかし、これまでの長年の外国人による供給の中で染みついた「甘えの構造」を一気に変えるのは、中々、大変です。一緒になって考えてみる契機づくりをあれこれと模索しました。そして、思いついたのが日本製品のバザーでした。良品質で人気のある日本製の装飾品を中心に、教会でのミサ終了時に販売しました。現地人が買える$1商品中心の値段設定に心掛けました。近所
の日本人や若いカンボジア人女性にも、手伝いをお願いいたしました。カンボジア人そしてベトナム人の現地の人々が、身銭を切って商品を買い、収益金を得る。全て教会に献金することにしました。何とこれまでにバザーの経験がなく、初めての試みでした。集まってくる人々に、バザーの目的を説明するために、掲示板だけでなく対面販売をしながらの口頭説明が、大いに役立ちました。一人の子供が何度も品物を見ながら、決心してしわくちゃの現金をポケットから出し買う姿をみて、感動でした。「バザー」・「献金」の意味や目的が十分に伝わらなくとも、とにかく小遣いを出して買ってくれたことが、嬉しく少しは達成感を得ました。身銭を切って買い、献金する。富裕層の$1とは重みが違うことを、バザーの現場で学ばされました。
この日本製のバザーは、2月で第3回目となります。小さくとも続けていくことが、お互いの励みとなることを願っております。
ところで、生活の向上は、必ずや対局として貧富の差の拡大を産むようです。さらに一歩進んで、「みえない貧困・かくれた差別」に、行きつきます。現地人の仲間と家庭訪問を続けるうちに、病人のお母さんを見舞った時に、異様な光景「頭の怪我と左大腿部の痣」を見ました。聞けども本人は、泣くだけで答えません。見かねた隣家の人が口を開き「旦那に殴られて、怪我をした。」と、言ってくれました。夫婦での共働きが、ある日の妻の病気で一人になって、稼ぐ金も減り生活苦が増していく。不満を酒に求め、遂に捌け口を最も身近な家人に暴力で気を紛らわす。また、教会では、ミサに参加する信者さんの極貧家庭に、帰路の交通費や主食の米を支給しております。ある日、母親が両手両足を鎖で施錠した息子を連れてきました。大学生でしたが精神異常で、時折、独り言を言いながら暴れるからです。まさにこの日も手に負えなくなり、医者を呼び鎮静剤の注射で落ち着かせました。一緒に居た中学生の妹は、人前にさらされる兄の姿と自分の家庭のあからさまな貧困さを見られても、涙さえなくきっと耐えている姿がありました。普段から見知っているとはいえ、さすがに泣けてきました。「今、出来る事をせよ。」との内声に、動揺しました。一晩、教会内で過ごし、翌朝、一週間分の米と交通費を与えて、母子ともに帰っていかれました。
教会も市や州政府と組んで、自立支援に取り組む時が来たと、痛感しております。以上日常の一例を挙げました。こうした家庭内の悪循環を断ち切り、貧しくとも働ける環境を整える。それぞれの家庭に見合った自立の道をさがす支えとなっていく。いま、求められるのは、「ばらまき支援」ではなく、息の長い地道な「共に苦しみながらの支援」に、精を出すことでは、ないでしょうか。無理をしないで、出来る事をやってみる。私の働く教会だけでなく、カンボジア全土に、こうした「みえない貧困・かくれた差別」」に苦しむ人々が、潜在化して増えているのです。それだけに、日本の皆さまの支援を、目に見える「支援物質・奨学金」として役立てていきたいと、決意を新たにしております。