やっと気がついた
鎌倉雪ノ下教会信徒・当会運営委員 後 藤 美 佐 子
ワタクシタチは「きずな」発送作業のために、3、6、9、12 月の第1木曜日にマリアの宣教者フランシスコ会瀬田修道院に集まる。(現在はコロナ感染防止のため異なる形でおこなっている)
ココに呼ばれたワタクシタチ。真ん中に主イエズスさまがいてくださるココはひとつの共同体。海外に派遣されている方々、海外から再び日本に派遣されている方々におもいをはせながら手足を動かす。以前はお昼をはさみ 15 時前後に終了、ほっと一息つく茶話会。Sr. 斎藤ハツエさんがこの会の歴史のお話をしてくださったり、みなが分かち合えるようにいろいろな話題を提供してくださった。「ここは単なる作業場ではないのよ、海外に派遣されている宣教者を思い巡らし分かち合いながら祈り働く場なの」と。
数年前から、ヴェトナムからのシスター希望者、エスコラピアス修道女会修練者の方々が仲間に加わった。初めはお互い身振り手振りであったが会うたびに会話が弾んでいく。その効果は作業速度にもおよび、今では昼前には完了し、軽く茶話会をして散会となるようになった。
作業の前に隣接する瀬田教会のおみどうに聖体訪問し修道院に向かう。シスター方が事前に準備をして待っていてくださる。無事に作業を完了できたことに感謝し清々しい気持ちで坂を下り駅に向かう。
きずな No.140 に寄稿させていただいたが、母方に3人の修道者がおり、長らくブラジルに、ペルーに、国内に派遣されていた。(現在3人は国内派遣)
身内ゆえ中途半端に「ワタシの海外宣教者」と抱え込んでしまい、自分が何を知っていて何を知らないのか、解らないことが沢山ある。
1979 年、先にブラジルに派遣されていた佐々木治夫師(横浜教区)の「生きた教会がみられますよ」という言葉にむかえられオバは南米の地におりたった。4年ごとに帰国、保土ヶ谷の実家を家庭訪問するときに我が家は一家あげて、ブラジルの地図持参で押し掛けた。日本は高度成長期からバブル期、地球の裏側異国のお話を食い入るように聴いた。
派遣先はブラジルのなかを西に東にあちこちと、2000 年過ぎてからはアマゾナス州奥地へ奥地へ(cf. カトリック新聞 p.04(No.3814)2005)、伝染病に罹患したり事故にあわないようにと祈りと手紙のやりとりで気持ちを繋いでいた。
後日知ったのだが、ペルーに派遣されていたもう一人のオバは 1997 年、「日本大使館占拠事件」の際、取材に来た新聞記者とマヌエル加藤師と3人でその後の厳戒体制中のその地区を知るため現地に情報集めに走り回ったと。その時日本の放送局でニュースのために現地の情報を集めていた方が瀬田の作業の仲間にいらしたのである。
海外から再度日本に派遣された方々が多くおられた時期、修道院の草取りに寄せていただいていた。バラ園やフランシスコのサークルで鎌をふりまわしている時に宣教先のお話をうかがう機会が多々あった。
内戦勃発のため国連軍により強制的に空路ベルギーに移動させられた話、反政府軍のとらわれ人として何ヵ月もジャングルを移動することになった話、草取りしながら「ひとり海外宣教者のお話を聴く会」なんと贅沢な。
その頃から「海外に出ていくこと」とはなんだろう?もやもやと考えるようになった。
無事に海外ミッションを完了することは容易ではない、兄弟姉妹の祈りに支えられてなしえるのであると深く感じ、感謝の気持ちで一杯になった。いただいたものはお返ししなくては。
猛威を振るうコロナから解放され国内・国外の宣教者が移動可能になった時、その活動を充分に支えることができるようにワタクシタチは今を「準備して待つ」貴重な時間ととらえたい。
井戸の水(自分の身内)しかみていなかったワタシは、きずな発送作業に関わることによって、やっと大海原に気が付くことができた。
仲間とともに学ぶ時を大切にしていきたい。みなさま、よろしくお願いいたします。