コロナの問いかけ
べリス・メルセス宣教修道女会 弘田 しずえ
コロナは、収束するどころか、先の見えない不安が、私たちの生活に、ひたひたと押し寄せています。「早く、前のような普通な当たり前の生活に戻りたい」という言葉が、聞こえますが、今までの現実が、当たり前なのかということを考える必要があるようです。べリス・メルセス宣教修道女会は、世界各地で奉仕していますが、普通の当たり前が、日常的にいのちを脅かされる状況が「普通」という場所も少なくありません。新型コロナウィルスは、このような日常的な不条理を、より鮮明に暴き出し、イエスに従って生きる私たちに、チャレンジをつきつけているようです。
今まで日本でフィリピンの方々の司牧にかかわっていたフィリピン人のシスタージョイが、今年の始めからメキシコで奉仕しています。メキシコは、米国と国境を接しており、長年、とくに中米からの移住者が、米国との国境を目指して、メキシコの南から北までの 3,000 キロ以上の危険な旅を続けています。彼らの多くは、自国での貧困、暴力、あるいは、弾圧を逃れて、自分のいのちを守るために、貨物列車の屋根にのぼり、ある場合は、数か月かかって米国との国境までたどり着きます。貨物列車は、べスチア(野獣)と呼ばれ、文字通り、危険に満ちた旅で、まず、つかまる所のない貨物列車の屋根の上で、雨、嵐、風にうたれ、カーブや、スピードで、転げ落ちる人も、少なくありません。さらに、貧しく、無力の移住者を食い物にする麻薬密売者が、待ち受けていて、追剥、強盗の餌食となります。
ベスチアを利用する移住者のために、イエズス会難民センターが、メキシコ市から 166 キロ離れたウイダルゴ州のウイチャパンで、宿泊施設を開いています。居眠りをすれば転落する危険のある旅は、途中で列車を降りなければ、続けることは不可能です。ウイチャパンの宿泊施設は、「巡礼者の家」と呼ばれ、旅を中断した人たちが、シャワーを浴び、食事をし、休み、清潔な着替えをもらって、一泊して立ち去ります。「巡礼者の家」の大きな目的は、衣食住の提供だけでなく、彼らの話を丁寧に聴くこと、ともに祈り、「巡礼者」が、癒しと慰め、励ましを感じて、危険な旅を続ける勇気を与えられることなのです。シスタージョイは、ここで奉仕していますが、コロナが始まってから、ベスチアが使えなくなったにもかかわらず、「巡礼者」は、到着し続けているそうです。また、以前よりも、一人ひとりの宿泊日数が多くなったため、場所、食料などの確保が困難になり、寄付を集めるためにスタッフが苦労しているという連絡もありました。トランプ政権は、移民、難民を拒否する政策をとっているため、ようやくの思いで、国境までたどり着いた人たちが、メキシコに送りかえされ、こどもと引き離され、収容所に入れられるなどの悲劇が続いています。さらに、収容所は、文字通りの3密状態で、感染予防も徹底せず、きわめて危険な状況です。メキシコでは、米国とブラジルに続いて、感染者と死者が増え続けています。
移民と難民の問題は、米国だけでなく、全世界の課題ですが、なぜ人びとは、自分の故郷、祖国を離れて、見ず知らずの場所に危険を冒して行くのかを考えると、冒頭に述べた現代世界の不条理が見えてきます。中南米だけではなく、アジア、アフリカの多くの国ぐにでは、大部分の人々が、安心して、人間らしい生活を生きられない状況があります。恒久的な貧困、政治的抑圧、腐敗、紛争、差別が、構造的な不正として、その国の憲法では謳われている基本的人権を侵害しています。コロナウィルスは、世界でもっとも金持ちである米国でのアフリカ系米国人にたいする深刻な差別を暴き出しました。4億人のこどもが極度に貧しく、毎年 7,000 万人が、自分の住んでいるところから強制的に移動させられている現代の世界の現実が、「普通」と言えるのでしょうか。コロナウィルスが、私たちに問いかけているのは、コロナが収束する時、私たちは、新しい普通、今までとは違う普通の世の中を実現しなければならないということではないでしょうか?