イエズス会 司祭 片 柳 弘 史
教皇フランシスコは、使徒的勧告『福音の喜び』の中で、「福音の喜びは、イエスに出会う人々の心と生活全体を満たします」と語りかけ、「キリストとの人格的な出会い」から生まれる喜びを新たにすることこそ、現代の教会に最も必要なことだと説いた。キリストと出会った喜びを忘れ、「復活のない四旬節を生きているような信者」であるなら、福音を人々に伝えることなどできないからだ。
わたしは昔、インドのコルカタにある「死を待つ人の家」というマザー・テレサの施設で働いていたことがあり、そのことがきっかけとなって司祭への道を志した。「神の愛の宣教者会」という修道会を設立し、世界中の貧しい人々のもとへ神の愛を届けることに生涯を捧げたマザー・テレサだが、彼女も、会のシスターたちに、福音宣教のために何より必要なのは、「キリストを愛する喜び」だと言っていた。日々の祈りの中で、頭で想像したのではない「本当に生きているイエス」との出会いを体験し、イエスから愛される喜び、自分をこれほどまでに愛してくださるイエスを愛さずにはいられない喜びで心が満たされていること、それこそが宣教者の第一の条件だというのだ。「イエスを愛する喜びを、いつも心に持っていなさい。そして、その喜びをあなたが出会うすべての人と分かち合いなさい」とマザーはよく話していたが、それこそマザーにとっての福音宣教そのものだったと言っていいだろう。
そのことが最もよく表れているのが、マザーが帰天する3年ほど前に、会のシスターたちに宛てて書いた「霊的な遺言」とも呼ぶべき手紙「ベナレス・レター」だ。マザーがいなくなった後、自分たちはどうやって宣教を続けていけばいいのか書き残してほしいというシスターたちの要望を受けて書かれたこの手紙の冒頭で、マザーは、「あなたたちの中に、まだイエスと本当に出会っていない人がいるのではないかと心配です」と書いた。喜びにあふれる笑顔こそが「神の愛の宣教者」の条件であるのに、シスターの中にときどき、つまらなそうな顔や不機嫌そうな顔をしているのを見かけることがある。マザーは、それを気にかけていたらしい。シスターたちに向かってマザーは、「あなたはイエスが愛情深くあなたを見つめているのを、心の目で見たことがありますか。あなたは、生きているイエスを知っていますか」と問いかける。もし祈りの中でイエスと出会っていないなら、貧しい人の中におられるイエスと出会うこともできず、貧しい人々の中で「渇く」と言っておられるイエスの声を聞くこともできない。それでは、神の愛を人々に伝えることができないというのだ。相手の中にイエスを見つけ出す喜び、愛してやまないイエスに直接奉仕できる喜び、それがあるからこそ、「福音の喜び」を人々と分かち合い、神の愛を人々に届けることができる。マザーは、そう確信していた。
司祭、信徒の高齢化や若者の教会離れによって、日本の教会はこれからいったいどうなるのかという危機感が広がっている。そんな中で「どうやったら教会に人を集められるか」というような問いが上がることもあるが、残念ながら、小手先の工夫をしたところで、人が集まることはないだろう。わたしたちの心が「福音の喜び」、「イエスを愛する喜び」にあかあかと燃え上がっていてこそ、人々は、その喜びの光、希望の光を目指して集まってくるのだ。まずは、自分自身がイエスと出会うこと、イエスと出会って喜びに満たされ、救われること。そこから宣教を始めたい。