諸民族の間で(2025/6/1)

 新潟教区司教  成 井 大 介

第2バチカン公会議の「教会の宣教活動に関する教令」は、Ad gentesという言葉から始まっています。日本語では「諸民族のもとへ」という意味です。
教会の歴史の中で、宣教には、「キリスト教国から非キリスト教国に向けて」行うものというイメージがありました。「キリスト教圏の中と外」の線引きが意識され、宣教活動が行われていましたように思います。

しかし、今ヨーロッパ、特に西ヨーロッパ諸国の教会では、非常に多くのアジア、アフリカ、南米出身の司祭や修道者が働いています。私の所属する神言会では、すでに1990年、ヨーロッパ諸国の管区長たちが、「ヨーロッパの神言会はこれまで宣教師を派遣してきたが、これからは宣教師を派遣される必要がある」と宣言し、他の地域で新たに終生誓願を立てた会員の初任命先としてヨーロッパ諸管区を入れるよう総本部に願い出ました。これは、ヨーロッパにおける召命の減少と、いわゆるグローバルサウスにおける召命の増加を背景としたものですが、同時に諸文化の多様性の豊かさをヨーロッパにおいても表すことが意識されていました。

神言会は約80カ国で活動していますが、どこでも、意図的に、違う文化的背景を持った会員で共同体を作るよう心がけています。それは、諸文化を尊重して宣教するということを、会の共同体の中でまず実践することにより、共同体の存在や生活そのものが宣教の証しとなるためです。
世界はもうずいぶん前から移民の時代となっており、ヨーロッパでもどこでも、一つの民族で社会が構成されているわけではありません。「諸民族のもとへ」という表現は、もはやある国から他の国へ、という意味で使うことが困難な時代になっています。

神言会では、ad gentesという言葉に加え、inter gentesという言葉を使っています。「諸民族の間で」という意味です。この「間で」という言葉は、宣教の姿勢を示唆するものです。どこにでも様々な民族がいて、その人たちの間で宣教する姿勢。福音をまだ知らない人に知らせるだけでなく、福音を知らない人にも神が働いておられ、宣教者がそこから学ぶという姿勢。様々な違った文化を通して育った信仰が出会うことで、互いを豊かにすることを信じる姿勢、等など。
私はこうした、諸民族の間で行われる宣教は、外国であろうと日本であろうと全く同じだと考えています。日本には様々な民族の人々が生きていて、日本人も含めて皆互いに外国人です。私も一人の外国人として、お互いに、対等に、違いから学び、変えられ、豊かになっていくという思いで宣教しています。

最後にもう一つ、宣教師の養成と交わりについて書かせてください。神言会では、有期誓願期に海外での宣教を2年ほど体験したり、そのままその国に留まって神学の勉強をしたりするプログラムがあります。日本で養成を受ける神学生は海外に行き、海外からは神学生が名古屋にある神言会の神学院に来ます。ここ10年くらいでしょうか、海外から来た神学生が名古屋で日本語で神学を勉強し、終生誓願を立て、司祭に叙階され、出身国以外の外国に派遣されるケースが増えています。「せっかく日本語で神学を勉強したのに」と思われる方が多いのですが、A国からB国に来て養成を受けC国に派遣されるということは世界では当たり前に行われており、日本も宣教師を送ったり受け入れたりするだけでなく、養成や研修の場として、世界的な宣教師の交わりのために役割を担っていけたら素晴らしいと思っています。