マリアの宣教者フランシスコ修道会 奥田 知香
私は 2018 年に終生誓願を宣立し韓国への派遣を受け 2020 年に来韓しました。1年目はソウルで韓国語を学び、2年目に釜山へ派遣され知的障がい者の施設で奉仕をしていましたが、現在は一時的に仁川にある移住民センターで不法滞在者の赤ちゃんたちを保育する仕事をしています。
私が音楽の授業でアリランという曲を聞いたのは小学生の頃でしたが、美しくも悲しげに聞こえるメロディーがなぜだか心に残りました。その後も、学校で歴史を学ぶにつれて、多くの苦難を経験したこの国への関心が強くなりました。20 代の頃、旅行で韓国に来た時にはソウルにある大聖堂でこのように祈りました。「神様、もしお望みなら、私がこの国で人々と共に喜びや悲しみを分かちあえる道をお与えください。」当時はまだ修道会にも入会してはおらず、どんな道があるのかも分かりませんでしたが、20 年後に神様は宣教者として韓国に来る道を与えてくださいました。
韓国に来て1年が過ぎたある日のことです。60 代のシスターがこう言われました。「信仰を持っていても、修道女であっても、日本が戦争の時にしたことを赦すことは簡単ではないし、今の日本政府の考えを理解することもすごく難しいです。」 また別の日には「話したいことがあるので良かったら一緒に散歩に行きませんか?」と誘ってくれた 50 代のシスターに「実は、日本人のシスターと一緒に住むようになると聞いた時、日本人というだけで身構える気持ちがありました。でも、シスター知香と一緒に生活しているうちに日本や日本人に対する考えが変わってきました。韓国に来てくれてありがとう。」と言われました。私は、この姉妹たちが心の中の葛藤を正直に話してくれたことを有難く感じました。多くの韓国の人たちの心にある痛みを神様が見せてくださったように思われました。
昨年の 12 月には、移住民センターの赤ちゃんたちがコロナにかかり、私も濃厚接触者であったために感染してしまいました。救急車で2時間以上もかかる生活治療施設に隔離されたものの、38 度以上の高熱が続いたため入院することになりました。修道院から遠く離れて隔離しなければならないことに戸惑いましたが、ここで新たな出会いをいただくことになりました。
同世代の患者さんは退院前日「職場から隔離が解除になっても出勤してくるなと電話で言われたの。私の存在が嫌なんだわ……。」と泣いておられました。また、80 代の患者さんは「持病もあるし、退院しても一人暮らしだから不安だよ……。」と寂し気に話しておられました。病室で一緒になった患者さんたちとは、隔離されている者同士の絆が芽生えました。一人、また一人と退院されるたびに、別れを惜しみつつも皆で喜びあいました。今でも、祈りのたびに思い出します。また、入院中の私のもとには、韓国のシスターたちからメッセージがたくさん届きました。その中には、釜山の知的障がい者の施設で一緒に働いていたシスターからのメッセージもありました。「子供たちが、『シスター知香に会いたい。シスターはいつ釜山に帰って来るの?』と毎日尋ねてきますよ。元気になってまた会えるのを皆で待っていますね。」と書かれてありました。メッセージを読みながら、子供たちと過ごした楽しい時間が心に浮かびました。
神様はこのように宣教者として人々と喜びや悲しみを共にする道をくださっています。