キリストの肩とは(2021/9/1)

私の所属する修道会(Augustinian Sisters of Our Lady of Consolation)は 1883 年フィリピンで始まり、フィリピン各地で二十数校、学校を運営しています。そのうちの一つ、ネグロス島南部バイス市にある学校 La Consolacion College, Bais で 9 年生(日本の中学 3 年生にあたる)に宗教を教えていた時のことです。
授業のテーマは教会についてで、一コリント 12 章にあるパウロの教会論、教会とはキリストの体であり、体のそれぞれの部分に役割があるように、教会の一人一人が、教会を支えるためにそれぞれ大事な役割、使命を持っていることを皆で話し合いました。生徒達に「あなたは今、教会でどのような役目を担っているだろうか。あなたはキリストの体のどの部分ですか。」と問いかけ、白地の紙に、それぞれ自由に絵を描いて表現してもらいました。それから分かち合いの時です。ある女子生徒は、「私はキリストの手になって、困っている人、特にお年寄りや病気の人を助けます。」と、紙に大きく手を描いていました。ある男子生徒は「僕はキリストの足です。倒れることなく自分の足で信仰の道を歩みたいし、大変な時も自分の足で踏ん張りたい。」と力強く話し、また他の男子生徒は「僕はキリストの目です。何が真実で正しいことなのか、見極めることはとても大事だから。」と言っていました。個性あふれる豊かな分かち合いのひとときとなりました。
期末試験の時に、同じような問いかけを出し、教会における自分の役割や使命について、文章で答えてもらいました。ある女子生徒の回答が印象的だったので、ご紹介します。「キリストの体である教会において、まず神父様達が、その頭になります。神父様達が神様のみことばを伝えて、教会を導くからです。次にシスター達は、キリストの体における肩となり、頭である神父様達を支えます。私たち信徒は、キリストの手となり、足となって、助けが必要なところに赴き、援助の手を差し伸べます。」
「シスター達はキリストの肩であり、頭である神父様達を支える」という記述に、私は目を見張りました。授業では、神父や修道者の教会における役割についてまで、話し合ってはいませんでした。肩は指とか手とか足に比べるとかなり地味な存在ですが、頭や体が疲れてくると、肩もなぜか凝ってきます。地味で目立たないが確かに体の様々な部分の働きを支えている、そんな機能を持つのが肩でしょうか。カトリック学校を運営する使徒職において、直接、神父様達を支える活動は限られていますが、授業や様々な宗教行事を通して、信仰に根差した人間形成に生徒達を導く私達の活動は、間接的に、司牧者としての神父様方の務めの一部を支え、担っていると言えましょう。
私達は聖アウグスチノ(354‐430)の教える会則に従って修道生活を営んでいますが、その会則で、「自分の財産を修道院に寄贈して入会しても、それで傲慢になり、他のきょうだい達を見下すなら、その寄贈するという善き行いが台無しになる。」と、あらゆる善業において、傲慢にならないよう厳しく注意しています。注目されるため、または評価されるために仕えるのではなく、肩が体の様々な部分の働きを支えるように、教会の皆さんの支えとして自分を活かしていくことができるように、努めていきたいと思います。このコロナ下でフィリピンに再入国するためのビザの申請ができず、2020 年 12 月より、葛西教会(東京都江戸川区)でお手伝いさせて頂いております。難しい状況にある外国籍の方々との交わりを通して、できることは限られていますが、文化や言語の違いを超えて、「共に歩む」教会としての役割を微力ながら担っていきたいと思います。