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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『アフリカ』

ブルキナ・ファソ チャド alt="コンゴ民主共和国" href="66_2.html#突然の戦場に。修院は難民センター">




『センターは今年末に完成へ』

〜ブルキナ・ファソ〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 黒田 小夜子
…シスター野間順子(マリアの御心会)が急性腎不全で昏睡状態で、パリに救急で送られ、日々案じておりましたが、2週間後、奇跡的に快方に向かわれているとの情報を受けました。ビールスが原因だったそうです。今日では、日常生活に戻れる状態だそうです。‥感謝。センター建築は、援助許可のお蔭で1999年末には、立派に完成いたします。
 その後、いろいろな心配は尽きませんが、望んではじめたことであり、神様のみ旨にあっているとの判断で進んでおりますので、かえって苦労は必要ないことです。
           1998年12月10日








『チャド人によるチャド教会へ』

〜チャド〜
ショファイユの幼きイエズス修道会 脇山 ミキコ
…チャドの教会も毎年数人のチャド人司祭が誕生して、チャド人によるチャド教会の育成がなされる方向に進んでいると言えます。
 その反比例で、外国人ミッショネールは減っているのかもしれません。
 私達のライ教会も、今享でカプチン会のブラザーやペール達がおられましたが、ブラザーの死去、神父様も他の教会に移られ、チャド人だけの3人の司祭と私たちのコミニノテ4人のシスター、1人の協力者という構成になりました。
 先日、中央アフリカの方での集会に行っておられた「小さきイエズスの聖テレジア会」の2人のシスターが交通事故で亡くなられ、2人の方が負傷してフランスの病院に入院されるという悲しい出来事があって、私たちはミッショネールとして、片手を失くしたような思いになりました。40年間チャドで婦人連の向上に献身して来られた方々でした。
 私たちも、その日、その日を精一杯生きなければと話し合っています。
1998年12月5日






『国内難民や放置される病人へ援助』

ショファイユの幼きイエズス修道会 永瀬 小夜子
…今(チャドで)、問題として取り上げられているのは、国内難民と云うのか、南部地方(キリスト教の多い地方)に、政府軍がある期間、ある地域に駐留するので、その村挙げての一切の世話を余儀なくされ、自分達の食べ物さえ不足する村々ですから、滞在期間が終った頃には、その村は空(から)となり…また、ある村では、それを恐れ、避けるために食料を売り払ったり、無計画に食べ尽す等々。その後は、働き手は逃げ、また、職を求め、残された老人、子供たちは……今までのザイール、コンゴその他の難民に加えてこれらの人々も多く出ています。
 また、チャドでは多くの病人に出会います。医者は45,000人に1人と云われるこの国です。中央病院は完全に麻痺状態で、救急の窓口でさえ、2時間、3時間待っのが当り前…一般の病人、貧しく、金もない人々は、猛暑の中、一日中待っようなこともあり、やっと診療を受けても、一枚の処方箋を受け取ることとなり、薬を買うお金を捜さねばならず、結果的には、そのまま放置される病人達です。病気に必要な薬は与えられないこともありますが、せめて、食べ物、水を与えることで援助しています。






『突然の戦場に。修院は難民センター』

〜コンゴ民主共和国〜
聖心会 嶋本 操
 …こちら(1998年)8月2日に突如、戦争が始まり、驚いている暇もなく、バコンゴ地区も戦火。大砲、銃弾の飛び交う戦場となり、バンサボマのシスター達も大急ぎ避難しました。
 キパコの聖心には、300人の避難者が集まり、1〜2週間の間、難民センターとなりました。この間、シスター達で、避難者の食事の給食を始めたのですが、命がけで探しに出ては持ち帰る食料が、この間、不思議にも皆を養って続いたということを通して、神の国を体験させて頂いたのでした。日本で皆様が祈っていて下さったことを個人的に私は感じておりました。それは、また、もう一つの神の国の体験でした。その後キンシャサ付近は何とか平和です。
 バコンゴは反乱軍が潜んでいるため、聖心は寄宿を一時閉鎖しています。複雑なこの戦争が、いつ、どう解決されるのでしょうか。皆で祈り、分かち合いながら、平和に到る道を探しています。おかげ様で私は無事、健康ですので、どうかご安心下さいませ。
 雨の間を縫って広がる抜けるような紺碧の大空に想いを託して、平和と恵みに満ちる、良き1999年を感謝をこめて、お祈り申し上げます。






『中南米』

ブラジル ボリビア ペルー パラグアイ





『就学前児童保育を市から受託』

〜ブラジル〜
大阪聖ヨゼフ宣教修道女会 馬場 美保
 こちらは今は乾期で雨が降らず、汗とはこりにまみれた毎日です。それでも人々は愚痴ることなく、この厳しい環境を受け入れ、黙々と生きています。
 ここアマゾン地方は、まだ水が枯れることはありませんが、東北地方は、恒久的な水不足で作物は育たず、家畜は死に、貧しさは悲惨です。教会ではカリタス・ブラジルが援助を呼びかけ大きな働きをしていますが、根本的な対策がないので、解決に向いません。…悲しいニュースに事欠かない毎日に心が傷みます。
 今年は教育の場で一つの変化がありました。小学校の就学率を高めるため、公立の学校で今まであったアルファベットクラス(1年生に入る前の1年間)を外し、その場を小学生受入れに回し、アルファベットクラスは市の社会福祉の管轄の下に置かれ、対策を市にゆだねられました。市はそれに対する一方法として、私立の幼稚園や保育所に市との協力でのアルファベットクラスの開設を依頼して来ました。3年目の小さな私達の保育所も市の出す条件に十分叶っているということで要請がありました。…職員、協力者、経験者、修道会とも話し合った結果、98年度は4歳、5歳、6歳各30人計90人の子供を受入れて始まりました。…教育方針、運営など全て今までどおりで変りませんが市から職員(先生3人、給食係1人)が派遣され、1日1食分の給食材料と教育材料が支給されます。
 1年を顧みると、経費が少なくてすみ、日本からの援助で、不足分の机、椅子、食器等が整いました。また、園舎の一部の軒を1m出して樋をつけ、登退国の時、雨の日も濡れなくてすむようになりました。手洗いや歯みがきのための水道の蛇口も取り付けられ、最初の頃、歯磨きを全部食べてしまっていた子供達も、上手に磨けるようになりました。ただ心配なのは、市の援助が何時まで続くか?ということです。
 子供達の1年を振り返ってみますと、一番嬉しいことは、子供達が成長していく姿を見ることです。いろいろな面(食べもの、愛情、知識等)で飢えていることの多い子供達ですから、その飢えを満たす手伝いをするため、工夫したりし、懸命になると、素直にそれに答えてくれて、成長に反映させてくれることが多いのです。
…残念だったことは、親の無理解(教育の必要性に対する)と怠けなどで、欠席が多く、ついに登園しなくなった子供が3人居ることと、7月の1カ月の休みを終えて登園して来た子供の80%が体重減っていて、やせたお腹だけが、大きい子供、皮膚病、しらみ、遊び時間になってもボンヤリと座って見ている子供が増えていたことです。でも今は、大方、取り戻しました。

就学前の子供たちの保育も市から委託された。”写真とるヨー”と声をかけたら大好きなボールを置いて、たちまち集まり、ポーズをとる子供達(アマゾン)
就学前の子供たちの保育も市から委託された。”写真とるヨー”と声をかけたら大好きなボールを置いて、たちまち集まり、ポーズをとる子供達(アマゾン)

一ヶ月間の休暇を終えて帰ってきた子供達の80%が体重を減らしてお腹だけが大きく元気がなく、悲しそうー(アマゾン)(Sr馬場美保)
一ヶ月間の休暇を終えて帰ってきた子供達の80%が体重を減らしてお腹だけが大きく元気がなく、悲しそうー(アマゾン)(Sr馬場美保)






『あいさつが習慣づいた子供達』

長崎純心聖母会 堂園 みつ子
…いつもアモレイラのためにありがとうございます。98年後期の報告としては、まず、セントロ・コムニターリオの理事長が、マルゴット神父様からアモレイラの主任ヴァニイニ神父様と交代しました。また、政府の援助が町役場経由になり、役場の社会福祉課との緊密な協力が必要となりました。報告書が一回でも欠けると、援助がストップされます。…現在、セントロには生徒3カ月から14歳の子供達が180名と60歳以上のお年寄りが50名です。職員は27名。コンピュータに14歳のボランティアが1名、シスターは3名。27名の職員のうち、14名が役場で、13名がセントロです。毎月6,000ドル必要で半分が政府の援助。残りの半分をバザーや寄付に頼っています。今年、援助が12カ月から10カ月に削られたので、来年はもっと厳しくなると覚悟しています。
…お年寄りには予算が下りたので、テレビ、ビデオ、血圧計、フリーザーを買って、集会室を準備しました。
 子供たちは(12月)20日に卒園式、2月まで休みに入ります。皆セントロが大好きです。
 朝の「おはよう」が習慣づき、薬をつけた時何かしてもらった時「ありがとう」が自然と言えるようになりました。
 私もアモレイラに4年目、自分に出来ることと出来ないことが少しずつ見えて来ました。
 出来ることをやるしかないのです。心をこめて−。






『“子供の村”を若手に任せ』

淳心会 マルゴット神父
 (今年は)私のために、最も大切な年になります。75歳になりますし、25年間、このアモレイラが頑張っていますので“子供の村”を、もっと若手に渡す時が来たと思います。
 そこで、愛徳修道士会と相談して、ブラザー達に任せるよう決めました。この会は教育が専門で、日本の鳥取市に施設を持っています。
 日本の他にベルギー、カナダ、パキスタン、パプア、コンゴ、ペルーなどで子供たちの教育のために働いています。
 “子供の村”は彼らの、ブラジルでの最初のミッションになります。ただ今、私達の“子供の村”で、アフリカ生れのベルギー人ブラザーエリクと若いカナダ人のブラザーアンドレが、すでに勤めています。
 ブラザーたちが自由に遠慮なくここで働けるために邪魔にならないよう私はここを離れた方がよいと思います。苦しい決心でしたが、子供達の将来は、私の気持より大切ですから、喜んでこの犠牲をします。
 …私は25年前に日本人と日系人のためにこの国へ来て(以来)「日伯司牧協会」のメンバーとしてアモレイラと旭をはじめ東北ブラジルなどの奥地の移住所を回りました。
今、アモレイラを出ると、日伯司牧協会のために全時間働けるようになります。
 このごろ日本に出稼ぎに行く日系人が多いので、彼らの役に立つのではないかと思い、しばらく日本に帰りたいと思い(相談したところ)ブラジルの淳心会の管区長と日伯司牧協会の会長が大阪の大司教様と相談して、大司教様が、(新たな仕事を)任命して下さいました。
 2月はじめに日本に帰り、東大阪市の枚岡教会で御復活祭まで日系人の山本神父様と共に働いて、引継ぎのいろいろな相談と準備をして、神父様がブラジルへ帰ってから、大阪大司教区の日伯司牧を受け持つことになっています。
 一年間の計画ですが、必要ならそれを延ばすことも出来ます。
1998年10月26日






『ボリビア人との交わりも深く』

〜ボリビア〜
礼拝会 川俣 恭子
…私は、ここサンファンで相変らず暑さと戦いながらも、お蔭様で元気に教会と日本人信徒のために御奉仕させて頂いております。
 建築中の聖堂は、内部の電気工事と外部の囲いと整備がやっと終ろうとしております。
 3年前、私が最初に見た、あのサンファン教会から見れば、素晴らしい変化です。この素晴らしい建物の中で集う「教会」が、さらに深い信仰に生きる神の民となりますように願いながら、私も微力ながらお手伝いさせて頂いております。
 現在、私どもほ4人だけの共同休で、しかもスペイン人、ボリビア人、日本人が混っているので、時々難しいこともありますが、今のところ楽しくやっています。ボリビア人信徒たちとの交わりもだんだんと深めていっております。
 皆さん、貧しいけれど素朴な方たちです。






『繁栄の蔭で貧困がエスカレート』

扶助者聖母会 漢那 和子 小浜 静子
 旧年中は、私達のボリビア宣教に心をとめて下さいまして、ありがとうございました。
目下、日系人は、移住100周年を祝う準備にとりかかっています。
 私達も、今年は日系人(サンフアン、オキナワ、サンタクルス市)、老人、病人その他の司牧に加え、現地モンテーロのフロレスタ教会の信者さんの病人、老人等への家庭訪問を毎週始めました。本当にボリビアの貧しさを体験させてもらっています。
 サンタクルス州は、日毎、発展の道を辿っていますが、貧しさはエスカレートしているようです。






『診療所、経済危機でピンチ』

〜ペルー〜
フランシスコ会 加藤マヌエル神父
…1998年は個人的には厳しい年でした。
 2月に日本で白内障の手術を受け、7月には思いもかけず、心臓の手術を受けました。このような手術を受けたので残念ながら、エンマヌエルホームを訪れる機会があまりありませんでしたが最近は車を運転して一人で訪問出来るようになりました。
 皆様の暖かいご支援、ご協力で54人の子供達は元気に育っています。うち5人は中学を卒業し、午前中は診療所に勤めながら、午後は「それぞれの分野で勉強しています。一人は歯科医を、もう一人はコンピュータを修理する技師を、そして2人の姉妹は看護婦と弁護士を志しています。…ホームの自活の道として作った若者たちのための「黙想の家」が順調に運営されています。この調子でいくとホームの運営資金の半分は賄ってくれるのではないかと大いに期待しています。それとは裏腹に、大いに期待をかけていた診療所は、現在のペルー経済の悪化によって、危機に立たされています。8年前に比べると、ペルーの経済状態は一部はかなり潤っているようですが、ホームの周りに住む、地方から来た、貧しさを強いられていた人々には深刻な問題になっています。仕事もなく、あるいは、賃金が安いので、その日の食べ物を手にするだけで精一杯の有様です。
 その人々が病気になると、さらに問題は深刻です。営利を目的としていないこの診境所には毎日100人程の患者が来ますが、そのうちの、2割は無料で診察しています。
 すでに15年間も、この貧しい地区で教育、社会事業、宗教教育などを無料で与えておりますので、このホームの存在を知らない人は居りません。とくに区役所は私達の事業の拡大のため10,000uの土地を贈呈してくれました。
 ここには10歳以上の男児の施設、技術学校、それに日系人のための老人ホームを建設する予定です。
1998年12月3日






『21年間の歴史、日語幼稚園の閉園』

〜パラグアイ〜
聖霊奉侍布教修道女会 林 静子
…私共、パラグアイで働くシスターたちはお蔭様で元気で過ごして居ります。クルッカ神父様もお元気で、'98年2月からマリア・アクシリアドゥラという町に転任なさいました。私達のコロニアから自動車で2時間半かかりますが毎月1回は日本語ミサのためにいらっしゃって下さり、感謝いたしております。'98年9月に神言会パラグアイ管区の選挙があり、クルッカ神父様は副管区長に選ばれました。品田豊神父様は、2期管区長でしたが、今度はアーロン神父、若いパラグアイ人の神父様が管区長に選ばれました。パラグアイも教育改革で、幼稚園の就学前1年間は義務教育になりました。そして、言葉もスペイン語とグアラテ語を教えます。ピラポコロニアで21年間続いた日本語主休の幼稚園は'98年11月22日の卒園式をもって閉園となり、,99年からは、スペイン語小学校附属幼稚園として再出発することになりました。
…日本人子弟は産児制限や出稼ぎで若い人がコロニアを出て行きますので毎年減る一方で、日本人子弟だけの幼稚園では経営が成り立たなくなりました。これは日本語小学校も同じで、ラパスの場合は11年前に統合(2つの)小学校となり、ピラポも'99年春から2つの学校が統合して、1つの日語学校となります。
 日本語の ”郷に入れば、郷に従え”の諺も日本語中心の文化をそのまま受け継ぐことは難しく、適応していかなければなりません。
一世のおじいさん、おばあさんは、孫たちが上手に日本語を話せば嬉しいのでしょうが、子供達は、やはり、パラグアイ人として生活していかなければなりません。






『40年の伝統ある日語学校』

コングレガシオン・ド・ノートルダム 渡辺 素子
…南米のパラグアイは、人口約500万人に満たない開発途上国に属する小国ですが、ドイツ、韓国、日本からの移住者が非常に多く、このうち日本人の場合は、60年の歴史を持つコロニアもあります。
 私が居住しているビラポ移住地は、38年前に現在の一世が、未踏の密林を開拓し、現在は、二世、三世が広大な大地に根を下ろし、主要な農産物の大豆、小麦の生産で、パラグアイの輸出産業に多大な貢献をしております。
 当移住地の日本人、日系人家庭は約200戸、殆どが農業によって生計を立てております(各戸の農地面積は、50〜200町歩見当)。
 各日系人家庭の子供達は、現地のスペイン語学校で義務教育(7年制)を受け、最近は高校、大学に進学するケースが増えて来ております。入植後、約40年を経過していますが、これらの子弟たちの家庭における日常語は日本語を用いている関係上、当然、日本語の習得が必要になります。子供の数も増え…教育の重要さと、母国語の継承を熱望した一世の方々が日本語学校を発足させたということです。
 現在、ピラポ日本語学校の生徒数は約200名(新年度1999年2月より)。小学校6年、中学校3年とも、日本国内の小、中学校で使用している教科書をそのまま使用しています。
 日系人の子弟は学力、能力が非常に優れ、将来、指導的立場につく可能性を多分に有していると、私は確信させられています。
 校舎は、ピラポ日本人会の絶大なご協力とご支援により完成しましたが、校舎は出来上ったものの、教育に必要な教具、校具、什器、備品を揃えるまでには至っていないのが実情です。21世紀に向けて、教育面においても、コンピュータ導入化が進んでいる現在、パラグアイにおいても、まだまだそれには程遠く、最低必要とされている幾つもの教具のうち、日本語教育の「話す」「聞く」能力の指導を充実させ、彼らが将来、国際人として、パラグアイの進歩、発展に貢献できることを期待、希望しております。






『被差別インディオへの支援を』

聖霊奉侍布教修道女会 上杉 もと
…私は相変わらず、ピラポの診療所の一部屋をお借りして診療所の職員としてではなく、貧しい人々や教会関係の方々にも、自由に医療奉仕出来ることを感謝しております。
 ここピラポの聖霊修道院には現在5名のシスターが居ります。ピラポの私立聖霊小学校校長のシスターマルシラは、以前から使命感をもって、行政の及ばないインディオの人々のお世話を、ことに、インディオの子供達に教育をと励んでおります。
 廃材を運び2教室だけの小さな学校も建てました。1996年6月12日に、ピラポの教会の、主任司祭の祈りを頂いて落成式が行われました。子供が10人ぐらいの小さな学校です。
勉強のない日の空教室は、他のシスターによって、裁縫、家事などの教室となり、また私共の出張無料診察のよい場所となっております。
 インディオの人々は市民権がないそうで差別され、最低の生活をしており、教育、医療、衛生、生活面で、まだまだ援助が必要です。インディオの集落は、人里離れたジャングルの奥に、ひっそりと、屋根と柱だけの小屋で生きています。そこまでの通が非常に悪く、私共の乗用車では無理な場合が多く、その都度、親切な方を探して、お願いして(連れて行ってもらうことを)来ました。
 今後、私でもの普通乗用車を軽トラックに取り替えて、もっと容易に、病人や物資の運搬を奉仕できるようにと考えています。






『台風で、農作物に大被害』

〜ハイチ〜
無原罪聖母宣教女会 本郷 幸子
 滞日中は,多くの方々のご厚情に支えられながら、弟の残された生命を、天の御父のみ許に召される日まで、共に過させたことを感謝いたしております。私は4月より看病のため帰国しておりましたが、11月10日にハイチに戻りました。…約6カ月の不在中に、ハイチは台風ジョージに見舞われ、農作物、とくに米作が被害を受け、野菜類も激減しています。低地に住む生徒達の家は、高地からの濁流で浸水し、一時避難を余儀なくされたようです。家屋の破損被害は、貧しい彼らの手では修復でさないのです。
 物価は上り、生活苦が顔に現われています。若者は何か仕事が欲しいと右往左往しているのが目につきます。
 デリア・テトロ識字教室の生徒たちは、10月(1998)から新学年を迎え、128名が4クラスに分かれ昼の給食後4時まで勉強している。12月8日は教区の保護者「無原罪の聖母」の祝日です。教区を挙げてお祝いの前の9日間カテドラルで準備の祈り。各教会の司祭が順番に講話を担当。子供、大人700〜800人が毎晩集まって、救い主の母、汚れなきマリアを讃えます。私は今回、一人の大学生のお嬢さんとハイチに戻りました。彼女はハイチでの生活から、自分がしなくてはならないことが見えたのでしょうか…日本で沢山しなくてはならないことがあると気付き、予定より早く、日本に戻ることになりました。






『アジア』







『“マニラ共同体だより”から』

〜フィリピン〜
聖母訪問会 梅本玲子 芝崎富美子 山下正子 小島なか Evelyn
Castaneda  日本の経済状態がアジア全体に響いているようです。フィリピンは新大統領を迎え歩んでいますが状況は簡単には変りません。
 私達のコミュノテも新しいメンバーが加わりました。まずは言葉の修得に励んでいます。
現地人の若い協力者が頂けたらと思い、ここ2、3年は、召命養成に力を入れています。
 皆様からの奨学金は、イサベラ地区、マニラ、ミンダナオ地区の大学生22名、高校生61名のために使われ、強力な支えとなっています。
 ギバン村のソーイング・グループ自立して6カ月が過ぎました。とくにマニラ地区を市場として注文を受けています。