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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『アフリカ』

シエラレオネ カメルーン チャド ブルキナ・ファソ エジプト ザンビア





『ゲリラ地獄からの脱出』

−二週間の逃避記録〔U〕(完)−
〜シエラレオネ〜
御聖体の宣教クララ修道会 根岸美智子
お前達、全員を殺す!!”
 足音が近づき二人の反乱兵が現われ、懐中電燈で私たちを照らし「お前達全員を今殺す!!、このバッファを焼きつくす。覚悟しろ。ダイヤモンドは何処だ!!、ドルは何処だ!!」と私達に銃を向けました。神父は「私達は、ダイヤなど持っていない。ドルもない。少しのお金でしたら、そのバケツの中のどこかにあるでしょう。探しましょうか」と言うと、「うるさい!!、手を挙げろ!!」と銃を、ジャ二ー神父の腹部に突きつけ「お前を先に殺す。何という名前だ」と聞く。(名を)答えると「外人め!!」とふてくさり、銃を外し、今度は私に近づいて来ました。大切な飲料水の入っているコンテナを一つ一つ銃で撃って穴をあけ、水が流れ出る。銃と私の胸に突きつけ「今日、お前を殺し、皆焼く」と叫ぶ。私は必死になって、「今、助けてくれれば、後できっと貴方を助けてあげる。私は日本人だ」と言いました。
 「うるさい!!。手を挙げろ!!」麻薬をのんでいる目はランランとしている。私は「もう、これでお終いだ」と思いました。
 私の(持っていた)二つのリュックのうち一つは、もう一人の兵士が下げている。そして、残りのリュックを私の目の前で中味を全部引出しました。とっておきの、性能の一番良いラジオ、双眼鏡、パスポート等が落ちた。パスポートを私が拾おうとすると、私の手を踏みつけ、取り上げる。私のかけている眼鏡をむしり取り、腕時計をもぎとる。二月十五日−私はここで死ぬのかと空を見上げ祈りました。空は美しく、屋がまたたいていました。
 「聖母マリア様、私はまだ、こんな死に方をしたくありませんでした。でも、すべてをあなたにお任せします」と言いながら「めでたし」の祈りを声を上げて祈りはじめました。兵士は銃をエリサに向け、身体中を探しましたが、何もないので腕時計をもぎとりました。…もう一人の兵士が「外人だ。やめた方がよい」となだめている。「何をしているのだ」「祈っているのだ」…十秒…二十秒……私は祈りつづけた。いつ銃から発射されるか分からない。
 死刑囚のようでした。

沼は危険、村へ帰ろう
 暫くして、ジャニー神父が後ろを向き私に近づき、しつかりと抱き泣きました。そしてエリサも−。「さあ、逃げよう、早く!!」「シスターは私が背負います。さあ、行こう!!」、ジャニー神父は私を背負い、沼に入りましたが、力尽きてヨロヨロと倒れそうになる。「神父様、私は歩きます。肩だけ貸して下さい」、膝の上まで浸かって沼を一時間、あてどもなく歩き、また、深い森に入る。
 「シスター、ここに隠れていて。私は他の神父がまだ隠れていると思うので探してくる」シスター・エリサと神父様の二人が探しに出かけました。首まで沼に潜って隠れていた神学生のトーマスが現われました。グショグショにぬれて滴が垂れている。神父様が口笛を吹きましたが反応なし。仕方なく戻り、あてもない沼地をまた歩きはじめました。トーマスは村に戻るのは怖ろしてく嫌だと言う。
 しかし、私達は皆外人、夜、底なし沼もあるこの地帯をさまようのは危険極まる。シスター・エリサも私も、村に帰る方が賢明と思う。ジャニー神父は私の意見を聞きました。
 「神父様。私達の命を守って下さった神様は、これからもきっと守って下さるでしょう。村に帰りましょう。リスクかもしれませんが、そうかといって、あてどもなくこの沼をさまようのは、もっと危険と思います。戻りましょう」。トーマスは「嫌だ」と言います。そこでジャニー神父は「君はアフリカ人だから、たやすく逃れられるだろう。一人で好きなように逃げなさい。神様が守って下さるように祈ります。」−。私たちは沼を一時間歩き、もとのバッファに戻り、そこで十分休み、兵隊が残していった私達の空の袋に、衣類の残りを拾い、まだ、小さな入れ物に水が残っていたのでそれを持ち、幸い、お金の入っている神父様の袋は目立たなかったのでしょう、藁の下に残っていました。それを拾い、一キロ歩いて村に入りました。五時三十分頃でした。

二月十六日
 村はシーンとしていました。(村の)中程まで入って行くと五十歳位の男性が出て来て「どうしたのか?」と聞きます。
 神父様は「われわれはカンビアに行きたい。道案内してくれないか」と頼むと「カンビア(まで)は七十マイルもある。とんでもない。歩いて十日もかかる。その足では…」と言う。「それに反乱軍が沢山居るから、むしろ、ポート・ロコに逃げなさい。」と。
 私もポート・ロコ(行き)に賛成しました。
 神父様は「シスター歩けますか」と聞く。十一マイルもの徒歩は私には無理と感じたので「駄目です」と答える。そこで、ハンモックを買い、ポーターを頼む。
 朝六時半、ポート・ロコに向かって出発しました。…川を渡り、林を越え、普通の道は危ないからと、もっと奥まった薮の小道を選ぶ。まさに、アフリカの典型的な風景−ターザンが出て来そうな、うっそうとした蔦のからまる森、池、丸太橋。戦争がなければ、このような所をゆっくり歩いたら面白いでしょう。朝なので露と霜でしっとりと葉がぬれています。二十年以上もルンサに住んでいながら、このような奥地に来たことはありませんでした。ハンモックの旅も.それはど楽なものではありませんが、熱が下がっていたので、周りを眺める余裕もありました。神父様も、シスター・エリサも疲れた足を引摺るように黙々と歩いていました。四マイルほど歩きかなり大きな村に着きました。村人はびっくりし、同情の目で迎え、バナナやオレンジを持って来てくれました。
 「こんなハンモックでは苦しいだろう。これに替えなさい」と、やや広い布のハンモックを提供してくれました。今まで運んで来てくれたポーターにお礼を払い、新しいポーターにバトンタッチ。

僕のお母さん!!”
 ここのエルグーは親切で「ポート・ロコの神父は、ここによく来てくれる。もう心配は要りません。私達が案内しましょう。ここはもうエコモ<西アフリカ連合軍>の兵隊の近くですから…」と言い、私の両脇を担ぐようにして道案内をしてくれました。かなり歩き続けた後、自動車の音がしました。シスターも神父様も薮に隠れましたが、私のポーターは、ゆうゆうと「あれはコロマ神父の車です。きっと探しているのでしょう」と、ドンドン道を(歩き)続けました。その通り、チャールス神父の運転する車が近づき、先に辿り着いたピーターが泣きながら「僕のお母さん、お母さん、生きていてくれた」と泣きながら駆け下りて来ました。「お母さん、ああ、お母さん」と大声で泣きながら私を招き、自動車の運転台の横の席に乗せてくれました。村の人は、日本人のシスターである私をこのように呼ぶので、びっくりして見ていました。
 五年前にピーターは私の前にひざまづき「シスター、貧しい僕を食べさせ、育ててくれました。学校も出してくれました。お陰様で今日卒業出来ました。ありがとう。」と深い感謝を示しながら、「自分はこれからシスターのような修道者となって、一生病人に仕えたい。それで「神のヨハネ修道院に入会することを決めたこと。明日、修練のためセネガルに行くので祝福を下さい」とひざまづいた青年でした。それから修練を立派に終え、彼は今、ブラザーとしてマベセネ病院で働いているのでした。
 心ない少数の悪魔のような人が私達を苦しめました。ミッションを滅ぼしました。しかし、どれほど多くの人達が私達をひたすら隠し、守り、同じように苦しんだことでしょう。これが、アフリカのミッションなのです。
 チャールス神父の運転する車は、ポート・ロコにあっという間に着きました。疲れと安心と一緒で私はぐったりとなり、そこで初めてブラザーが買ってくれたマラリアの薬を飲みました。司祭館のマットレスに倒れるように横たわりました。
 ポート・ロコに辿り着いた時の私達は、まるで乞食同然でした。
 薮に服は引き裂かれ、沼で泥まみれ、すごいいでたちでした。
 神父様は自分の洋服を全部提供(して下さいました)私たちシスターもその日は男装、まさに愉快な恰好でした。長いズボンを引きずりながら、私もガーナ人の神父の洋服を借りました。その日私は四十度の発熱でした。
 この間、また、銃声が教会の近くで聞え緊張(しましたが)、若者が反乱兵士を捕まえ、エコモに引き渡しました。夜は近くの、ノートルダムのシスターの修道院で私たちは休むことになりました。昨年五月以降留守の修道院でした。久しぶりに清潔なべッド、そしてシャワーを浴び、休むことが出来ました。

二月十七日
 久しぶりにこの日は熱が下がり、もう大丈夫と思いました。ただ、力はすべて抜けていました。歩くのもまだフラフラしていましたが…教会のミサに与り、祈り、一日過しました。主任司祭は皆、逃れて来るルンサの人々に食事を準備し、宿まで考えて下さるのです。
教会も一杯になりました。シエラレオネは食事が足りません。
 それにもかかわらず、笑顔で寛大に与えつくすルイス・コロマ神父様…エコモの司令官に、早くヘリコプターで助けに来てくれるように頼みましたが、なかなか返事がなく、待ち呆うけで終りました。
また、反乱軍兵士が若者に捕らえられました。…夕方、沢山の元政府軍が武器を渡し、反乱軍と縁を切りたいと、エコモに身をゆだねる。もともと、彼ら兵士はクーデクーには責任がなく、沢山の武器も引渡したので皆ホッとし、ギニー兵が回収して、近辺は静かになりました。


『脱出のヘリ到着』
二月十八日
 ヘリコプターは朝の七時半に到着するから七時にミッションに集合とのこと。私は眠れぬまま早くから起きていました。教会の大きな木の下に座ってヘリコプターを待つ。八時…八時半…(ヘリは)一向に姿を現わさない。コロマ神父が「皆さん、僅かな朝食ですがどうぞ」と招いてくれる。パンを頂き、また外に出て (ヘリコプターを)待つ。司祭館の下は一般の市民でいっぱいです。この避難民の中には途中で妊婦が産気づき、子供を生めないまま死んでしまい、仕方なく薮の中に妊婦を葬り、やっと辿り着いた家族も居ました。
 警察長官がやって来て、教会の前の広場に、セキュリティの兵隊が銃を持って警戒し始めました。いよいよヘリコプターがやって来るようです。…と思う間に目の前に現われました。私達はリュックを背負ってその怪物に近づく。砂煙がものすごい。エンジンは停めず…五分で乗り込まなければならない。強いヘリコプターの風に吹き飛ばされるようで足が前に進まない。必死に、転がり込むように乗り込みました。ドアの所には銃を持ったアメリカの兵隊らしい人、窓を開いたまま安全ベルトを締め、大きな機関銃を外に向け武装体制。パイロットもアメリカ人、三人の兵隊が武装して外を睨んでいる。まるで映画で見たような光景です。ヘリコプクーはとても低く飛ぶのでハラハラ…低空飛行は敵に知られないためと、攻撃された時、防衛出来るためなのだそうです。…一時間してルンギ空港に到着。エコモの司令官に親切に迎えられました。空港にはVOAその他の報道陣が待っていて、インタビューなどされました。
 その後、私達は近くのサレジオ会の神父様の修道院に導かれました。この会の神父、アルベルト神父がヘリコプターの案内者として私達を助けに来てくれたのでした。彼の車でサレジオ会に着き昼食を頂きました。…ポーランド人、アメリカ人、イタリア人と国際色豊かなブラザー、神父様たちの親切なもてなしを受けた後、私達は、いつもお世話になるフリータウンのヨゼフ会の修道院にフェリーに乗って行きました。神父様は心配そうに、しかし、大喜びで私達を船着場まで迎えに来て下さいました。ここはもう、強いエコモの保護下です。安全地帯で心配ありません。私達は助かりました。
 しかし、この間、五人の人質になったブラザーたち、神父の行方も、三十五人に上るマケニに居る宣教師たちの安全も分かっていません。

二月二十日
 ヨゼフ会の修道院のベッドで、久しぶりに電気、シャワーのある一夜を過しました。疲れがどっと出て、皆、ポカーツとしています。ここからすぐファクスを出し、無事、逃げ出したことをローマ、日本、大使館などに知らせました。

二月二十一日
 翌日は真黒とボロボロになった服などを洗い、フリータウンの前で買って来た。あまり品物は良くないが、とにかく着られる下着を買って来て着替え、さっぱり(しました)。

すぐ、□−マに!!”
二月二十二日
 総長から、すぐローマに戻れとの命令。そう言われても簡単には動けない。まず、ローマからパスポートのコピーを送ってもらい、出国証明書を添えてもらう手続に一日はかかります。明日、船で、コナクリに出よとのこと。…ヨゼフ会の神父様方は、全員フリータウンに残ることになったので、私達はお別れです。また、直ぐ会いましょうと励まし合って別れました。

二月二十三日
 私たちは救援物資を運ぶ貨物船に乗ってコナクリに逃げのびるそうですが、船はまだ港に入っていませんでした。昼十二時にまた調べに来いという。お別れした修道院にまた逆戻り。十二時に調べに行くと船は到着していました。客室も何もありません。来る時には、食料と、座るための何か敷物を用意せよとのこと。しかし、荷物(薬)が、ま全部降りていないので、出港は明日の予定とのこと。世界長低の貨物船、鋳び果てた船休、これで大丈夫なのかと不安が増す。明日、二百キロを十時間で走るとのこと。今度は海の冒険です。まあ、いいでしょう。

二月二十四日
 ルンサから逃げて来た人の話だと、私達の修院はもちろん、学校も寄宿舎もベッドまで持ち去られ、空になり、建物も被害が大きく住めない状態だということです。ミッションを滅び尽した後、すべての民家を襲い、貧しい人々の少しの財産もすべて略奪し、さらに北の方に逃げ去っているとのこと。ルンサ、マケニは地獄のようで、まだ、エコモの援軍は届かず、悪魔の思うようになっているとのこと。その中に残されている三十五名の宣教師たちの生命が危ぶまれます。祈るばかりです。船もいつ出るのか分かりません。
…日本領事館から応援が来て、何が欲しいかとのこと。とりあえず船旅に必要な食料、ちり紙など頼みました。暫くして、靴、パン、タマゴ、水などの必需品を持って来て下さり、お金も五万レオ(約二千五百円くらい)を下さった。…今日も船は出なかった。明朝、八時半出港の予定です。

船、出港せず急遽、飛行機で脱出”
二月二十五日
 今日はキリスト教では灰の水曜日です。ミサに与り、皆に別れを告げて港に直行、しかし、まだ荷下ろしが終っていないので、出港はおそらく明日とのこと。逆戻り。…今度は、クリスチャン・ブラザーから電話があり、「ヘイストン仮飛行場に直ぐ行くように。そこから小型飛行機でコナクリに逃げるように」とのこと。…「一時までに飛行場に着けるように」とのこと。一刻の猶予なし。
 日本領事館からの支援物資は、フリータウンの神父様に全て差し上げ、私達はヘイストンに急いだ。二時…三時…飛行機は来ない。
 朝から何も頂いていない。炎天下なのでのどが乾く。たまらない。
 アクション・コントラ・ファムのカナダ人が、自分が飲んでいた水を下さった。それを頂く。四時半、やっと飛行機が見えた。
 アクション・コントラ・ファムの飛行機で、フランス政府の支援で、私たちの旅費は出るそうです。
 飛行機は出発すると間もなく、ルンギで降ろされた。出国にあたり、各自二十ドル払えとのこと。しかし、皆、そのようなお金など用意していない。エコモの兵隊のとりなしで、ここも無事通過。
 いよいよ、シエラレオネを去ることになった。
 飛行機は約二十人乗り。頭や胸にズーンと響く爆音を聞きながら、コナクリ飛行場に着きました。飛行場にはヴァチカン大使、イタリア領事が心配そうに待っていて下さいました。特別待遇で、直ぐ、ギニーに入れました。公使は「さあ、自由の国土に辿り着いた。お水をお飲みなさない」と冷たい水を一瓶ずつ私達に下さいました。
 まさに、砂漠にオアシス、朝から何も頂いていない私たちにとって、本当に美味しい水でした。「今晩はしっかり休みなさい。夕食はイタリアン・レストランで、領事がご馳走を招待して下さっています」とのこと。皆様、有難う。
 大司教館の秘書、フランス人のファビアンさんの家に着く。そこでみかんを頂き、シャワーを浴びる。また、公使館に行き、公使に連れられ、例のレストランへ。ホテルのレストランとは言え、アフリカ・ギニーのことです。粗末な木のテーブルに、柄のテーブルクロス、その上に紙のナプキンと食器が並んでいますが、数が足らず、やっと、自分のフォークを確保するという感じ。ここでピザ、スパゲッティ、そして、数カ月ぶりにアイスクリームまでご馳走。
 神に感謝。今日も生かされました。

午後六時四十分、ダッカへ出発”
二月二十六日
 領事から、パスポート、写真、書類手続をするように言われ、コナクリの町に出て、インスタント写真を振りました。その後、スペイン、フランス、イタリア各領事に会い、状況報告をしました。
 夕方、六時四十分、ダッカに向けて出発とのこと。昼食はコナクリのサレジオ会の神父様が招いて下さいました。このように一銭も持たない私たちですが、皆の親切によって生かされて来ました。
 コナクリ空港には、ヴァチカン公使、イタリア領事が飛行機が出るまで、一緒についていて下さいました。
 飛行機は遅れて、七時半に乗り込むことが出来ました。百二十人乗りの飛行機で、冷房が強く、私は座席にあった新聞紙を肌に巻いて寒さを防ぎました。今まで頑張っていたシスター・エリサが、前日から熱を出し、飛行機の中でも三十九度の熱、顔は土色をしています。…一時間後、ダッカに着きました。ダッカではすでにイタリア領事館から係一員が見えていました。時間が遅れ、もう領事館には行けないので、飲物とサンドウィッチを用意して待っていて下さいました。私は日本人で問題なかったのですが、他の三人のシスターはメキシコ人のためビザが下りないので、ダッカの外には出られませんでしたので、空港内で、領事が準備して下さった食事を頂きました。飛行機はアリタリア(航空)で、夜中の一時半出発とのこと、五時間の間、蚊の沢山いるダッカの飛行場で、親切なイタリア大使館員は飛行機が出るまで、私達と一緒に居て下さいました。イタリア人は誰も居ないというのに、本当に、クリスチャンの国の良さを感じました。

□−マ着。神様は私を生かしておいて下さった”
二月二十七日
 イタリア・ローマ・フミチノ空港に着くと、警備員が、すぐ私達を見付け、特別室へ−。領事の書類をコピーして、そのままシスターの待つ出口へ急ぐ。シスター達はオーバーを持って私達を待っていて下さいました。
涙の再会 −。「もう大丈夫、家に戻りましたよ」
 今までの緊張が解け、私は総長の胸で幼子のようにワンわン泣いてしまいました。「レティ、苦しかったでしょう。ご苦労様。もう一人では置かないから大丈夫よ。よく頑張りました。ミショネラ、ありがとう」。優しい総長の励ましと慰めの言葉に、私は、ただ、幼子のように泣くばかりでした。
 「神様は私を生かしておいて下さった。この命、聖旨の日まで、喜んで頑張ります」。皆に今までのいきさつを代る代る話し、疲れがどっと出て床に就く。けいれんが何度も襲いました。
 七人の人質が解放されたというニュースが入りました。
 神に感謝″。ビグシー司教の必死の働きかけが功を奏したようです。でも、まだ三十五人の宣教師が心配です−。

二月二十八日
 私は二十四時間、静かなローマの修道院で休ませて頂きました。
 いまだに、夢の中で私は逃げています。しかし、これも少しずつ消えていくでしょう。
 私が今、ここに生きていられるのは、深い神様の憐みと聖母マリアの御保護、そして私には、数知れない助けの天使が、必要な時、必ず現われ、私を隠し、守り、担いで、いろいろな方法で助けて下さいましたからです。この数は数え切れません。
 旅をスムーズに導いて下さったイタリア政府、フランス政府、そして日本の名誉領事の皆様はじめ、数知れないシエラレオネの人々に深く感謝いたします。
 主が無限の祝福を皆さまに下さいますように祈りつつ。
 私の「逃避記録」を終えたいと思います。

※ルンサの学校も、教会も修道院も、すべてを失いました。
 しかし、三十年にわたる私達のミッションは消えることはありません。恐しい反乱軍は、ルンサの人々の心まで略奪することは出来ませんでしたから。今までより一層、心を一つにして、神様の国、正義の国建設に頑張ることでしょう。終りではありません。
 頂いた命のある限り、これからも私達の兄弟、シエラレオネ人を助けて生きたいと思っています。皆様もどうぞ、ご支援よろしく、お願いいたします−。

 追伸‥その後、エコモの軍隊はマケニ市に到着、宣教師全員救い出されたそうです。現在、エコモ軍は、北カバラ地方にまで到達しております。反乱軍のリーダー達は、どこかに逃げ隠れ、まだ、一名も捕まっておりません。






『診療所、強盗団に襲われる』

〜カメルーン〜
援助マリア修道会 佐藤浩子
 …七月二四日、「会」からの援助金を頂きました。心よりお礼申し上げます。さて、一カ月前に、私どもの診療所は強盗団に襲われ、貧しい人のための薬を根こそぎ盗まれてしまいました。日本円で約一〇〇万円。日本から頂いた聴診器も何もかも盗まれてしまいました。二四時、真夜中に電話が入り「診療所が襲われ、今、ガードマンが殴りつけられています。!早く警察を!」だが、警察は「ガソリンがないので行けません」……ガードマンが殺されかけているかと思うと、夜も一睡も出来ませんでした。彼らの犯行は計画的でした。一年分の薬は全部奪われ、翌日、アスピリンを求めて薬局へ行かねばなりませんでした。しかし、薬以上に私の心が、ショックを受けたのは彼らの暴力です。貧しい人、弱い人を襲い、善意のために働く私たちさえも容赦なく襲っていくことです。
 暴力に「愛とゆるし」で応えた十字架のキリストを思い浮かべながら、「愛の証人」のなんと厳しいことかと思っています。
 何度「診療所の閉鎖」を考えたことでしょう。しかし、迫害の中で根を張って行くのは教会だけです。今こそ、「正義のために迫害される人は幸い」というみ言葉を生きなければならないでしょう。






『大学入学資格合格率は三〇%』

〜チャド〜
ショファイユの幼きイエズス修道会 永瀬小夜子
…今年は四月、五月異常気象で、日々の猛暑は一日中少くとも二〇時間は43℃〜48℃。若いポーランドの神父様は中食を共にし外出され、夕方疲れて帰り、夜中に頭痛を訴え、翌日、日射病で急死され…司教様も、外出、とくに午後からは要注意の回章を出されたくらい、病人病人でした。
 また、このところガソリン不足は痛切、ある日には15〜16時間・停電と断水、首都でさえこの調子ですからブルスからの車も足止め。多くを輸入に頼るこの国では果物、野菜類も、値段は3〜4倍に上ると言うより姿を消しています。
 このチャドもいろいろな点で進歩、向上しているものの気を許すと逆戻り。行き詰ってしまって方向転換せざるを得ないこともあり時に、若いシスター達は挫折一歩前のようにしよげて…それでも、なんとか方向を見出して一生懸命です。高校もやっと卒業近くなり大学人学資格受験手続きをする金がないので、何か仕事を下さいと多くの青年達が来ます。十八歳くらいの妻帯者もいます。
 入学したら卒業出来るのではなく、受験合格者は三〇%を越えることがなく…大学人学資格は狭き門です。
九八・六・一八






『新センター建設に、日本大使館が現地視察』

〜ブルキナ・ファソ〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 黒田小夜子
…さて、今のところ小さな仮センターでの活動ですが、昨年十二月にはアビジャン駐在の日本大使館から、新しい栄養失調児センターの建築費援助の目的で、視察に来て下さいました。
 ドクター・フランソアと私で、農場、仮センター、新センター建築用地を案内し、夕食は私の修院で、和やかな一時を過しました。
 現在、決定的な返事を待っているところです。
 ドクター・フランソワは日本滞在を心から感謝致しております。
 毎日、忙しい医療のかたわら、座禅をしています。ドクターの心臓機械購入のためのご援助ありがとうございました。ドクターも本当に嬉しそうでした。彼に代って御礼申し上げます。心臓内科医長の(彼は)良心的で有能なカトリック医師です。
 ご援助頂いた援助金で、農業に至急必要な中古車のバタンコを買いました。十年の中古車で、チョコチョコ修理が必要で、ガソリン代も嵩みますが農業のために大助かりです。
 梶川神父様とはただ一回だけの出会いとなってしまいましたが、大切な理解者として、心に残っています。






『激しい、貧富の格差』

〜エジプト〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 島村哲子
…エジプトは、一九七〇年代より、少しずつ外面的には発展し、現在は、金銭さえあれば、何でも手に入る状態です。しかし、同時に貧富の差が非常に激しくなり、現在では五段階に分けて、この差を表わすことが出来る程になってしまいました。
 つまり、大金持−金持−中流−貧函−極貧で、貧困、極貧の人々が多いということです。中流とは、日本からみれば貧困の中に入る状態です。
 さて、私の居りますアレキサンドリアの「コンフェランス・サン・ヴアンサン・ド・ポール」 (二十人柱の婦人の集り)は、二十年以上、極貧、貧困家庭を援助するために関わり合っています。
 極貧の状態とは、例えば、日本家屋三畳間に親子十人らが共住し、台所なし、手洗共同使用、または路上の子供、物乞いの増加、貧しい人は毎日、ごみ箱の中を漁り、食物を探しているような状態です…これらの貧しい子供達は、教育もないため、将来、過激派グループに加わるような可能性を十分に持っています。
 この「サン・ヴアンアン・ド・ポール」のグループは、ただ、金銭を与えるのではなく、その家庭の必要をみて、一人一人を教育し、自立できるよう、例えば、学校数青から就職、結婚までに関わり合っています。






『ワニの棲む川に安全地帯を』

〜ザンビア〜
コンベンツアル聖フランシスコ修道会 久保芳一神父
…三年間の近況報告を書くべく筆をとりました。
 この三年間私にとっていろいろなことがありました。
 二つの異なったミッションを回って、これまでと少し違った体験をし、沢山の善意の人々に会いました。中でも、一九九七年六月から九月にかけて、二本の田舎道を補修した時です。…一緒に働いたザンビアのカルルシ・ST・ジョゼフミッションの巡回教会の村の人々、この村の人々はカトリック、プロテスタント、未信者を問わず、熱心に(道路補修に)働きました。私も修道服のまま共に働きましたので、油や炭、ドロがそのまま修道服に渉みこんで、今でも洗濯をする人から、なかなか汚れが落ちないと文句が出る程です。
…一九九七年十一月二十八日から私が居るミッションは、STカレンバ(ウガンダの殉教者の一人)と言って、地名はソルウェジのカボンボという地域に属します。地理的にはザンビアの北西部、アンゴアラとザイールを国境にした所で、私達(の会)のアメリカ人メンバー、FRアロイシャス・ジャコブ(七五歳)が一九六四年に開いたミッションです。STカレンバミッションは首都のルサカから、九三二KM、ンドラの本部修道院から六三二KM、ソルウェジの司教館から三四二KMも離れています。ミッションの手前三百KMは舗装なしの砂利道路で、とくに雨期(十一月〜四月)までは泥と砂利でとても滑りやすく多くの交通事故を起す原因となります。(一九九六年にはシスターが、一九九七年にはザンビア人の婦人が事故死)。
 STカレンバに沿う道路は、公共のバスが一週間に一度、しかも不定期に通るだけですから、人々は個人の車をつかまえて一〇〇〇〇クワチヤ(約九ドル)を払って町に出るしかありません。
 こちらの人々にとっては大金ですが、いずれにしても日本の国土の二倍近くあるザンビアで、車の便を探すのは容易ではありません。ですから私も、車は最も大切な用事に的を絞って使うことにしています。
 STカレンバのカボンポ川の美しい風景を見下ろす地に、私達の修院があります。
 この川(幅九〇〜一〇〇m)に雨期に雨水をどっぷり貯え、最大限に増水します。水汲み、食器洗い、水浴びにやって来る婦人たちによると、水が茶色に濁っているので、ワニの活動が活発になり、すぐ近くに寄って来るから気を付けるようにということでした。
 昨年も水浴びをしていた婦人と、水に漬けていたキャッサバを撮り出しに来た女の子がワニに襲われたそうです。人々の話では木の柵をして、キャッサバを水につけていたということですが、ワニはその下を通って女の子を襲ったようです。私は川に沿って小犬と共にカボンポ川を上流に向って何キロも散歩したことがあるのですが、ワニのことをいつも気にしてビクビクしていました。ワニが沢山居るせいか、不思議なことに小さな魚だけで現地の人々も大きな魚は殆ど釣っていません。数日前、人々が操っているカヌーと櫂に、ワニが噛みついていたようです。
 STカレンバには、ドイツ人技師の建てたパラボラアンテナがあって二十四時間放送のテレビが見られるということです。普通、ザンビアの町では、テレビは一つのチャンネルだけ、新聞は二種類だけですが、STカレンバのようなブッシュ(山奥)の中で、外国のテレビニュースが見られるのは、一体どうしたものかと、私も首を傾げているところです。しかし、外国のニュースは見られても、国内ニュースはゼロ。ルサカでクーデターが起った時(一九九七年)にも私達の巡回教会の人々は、七時間後に町から来た人から聞いて知ったそうです。新聞も届きませんので、ブッシュの人々の頼りはラジオだけです。
一九九八年一月十五日から二カ月間、私は毎日、カボンポ川に沿って、木立を切り、草を刈りました。おかげで、数百メートルにったって、美しい川がさらに雄大な姿を見せるようになりました。
 多くの子供、ご婦人連は、ワニの危険から、いくらか救われるし、魚を釣る時も、ヘビやマラリヤ蚊の害を避けることが出来るようになりました。女性でさえ、食べるための小魚を毎日釣っていますので、安全な場所を確保することは大切なことなのです。しかも、人々が今までに一度も見たことがない、カボンポ川の雄大な姿を、広く楽しめることが出来るのは何よりです。切り倒した木立で、一年分の薪を修院ために準備しました。薪にならない木を使って人々のために、安全な水汲み場を作ろうと考えています。


九月十三日(日)は、『国際協力の日』です。お祈り、ご協力、献金をお願いします。






『南米』

ブラジル パラグアイ ボリビア





『ベタニアだより』

〜ブラジル〜
ベタニア修道女会
  • …頂いた数々の心暖まる思い出は、ベタニア修道女会私にとって、とても大切なものです。感謝!!
    (シスター原ワカ)
  • …いつも、心にかけて小包をお送り頂き、心から感謝申し上げております。子供達と共に、感謝をこめてお祈り申し上げます。
    (シスター松本重代)
  • このブラジルの地を踏んでから、二十一年になります。何も分からなかった私達に、梶川神父様とともに、沢山のアドバイスを下さった日々は、忘れることが出来ません。梶川神父様もお亡くなりになり、今は天国で見守っていて下さることでしょう。
    (シスター大場喜代子)
  • 今月も荷物が届きました。本当に、日本からの協力は大きな力です。
    (シスター間野玲子)
  • ベタニアのお仕事へのお心遣い、有難うございます。いつも懐かしく思い出します。日本のこと、いろいろなことを……。
    (シスター木村依子)






『深夜放送で”救急車を!!“の叫びが…』

〜パラグアイ〜
聖霊奉侍布教修道女会 山田雲江
…一九九〇年から聖霊奉侍布教修道女会パラグアイ管区センターで管区の仕事に携わる傍ら、本格的に、首都アスンシオンで、現地の貧しい人達で、年代の差別なく、とくに幼い子供と年老いた人たちのお世話をしています。この活動の動機は、一九九四年三月、母の最後を看とり、パラグアイに帰った折、眠らなかった夜、深夜放送に耳を傾け、病気の子を抱え、助けを求め、また、自殺未遂で苦しんでいる母親を病院に運んで欲しい。「救急車を!」と泣き叫んでいる声を聞き、…係のアナウンサーと連絡をとり、病院を訪ねたことがきっかけになりました。…(病院では)日本では有り得ないような実態を見、知ることが出来ました。例えば、病院の中に薬局がないこと、点滴、輸血なども、輸液セットを患者側で手に入れなければならないこと、…手術の場合も、手術に使用されるガーゼ、脱脂綿なども医師の指示によって患者側で準備する。準備が整わなければ予定された手術日も変更になることなどが毎日のように繰り返されています。
…病院だけでなく、家庭においての必要な治療も充分に受けられない状態です。このような貧しい人達に対する援助や叫びかけも、教会、ボランティア・グループ、または、ラジオやテレビを通じて行われていますが、貧富の差が激しく、このような呼びかけに協力する人も限られています。でも、このような限りのある中で、この叫びに応えてくれる人は、やはり同じような苦しみ、困難に耐えながら生活している人達です。
 私は…深夜放送のアナウンサー、家族の方々と共に「ある一つの存在」として、沢山の現地の人達と知り合い、触れ合っております。今では、その方々が、連絡の取り次ぎなどの協力もして下さるようになりました。この活動と同時に、アスンシオン大司教区の補佐司教の要望で"Serncio Sacerdotal de Urgencia”といって、死に直面している人、自殺未遂の人、また、自殺したい、その心配がある人、エイズ患者、家庭間題で苦しんでいる人、一人暮しの老人の訪問と世話、そして、教会を離れている人達を、命の電話のような形で、この司牧にも参加しています。






『物、金による他宗派の布教攻勢』

〜ボリビア〜
宮崎カリタス修道女会 樫山ミユキ
…いつも海外で働く私達へのお心配りを感謝しながら過しております。今、ボリビアは時折、寒い日が訪れる冬の季節を迎えております。第二コロニアオキナワ移住地での宣教は、相変らずの悪路で「宣教もままならぬ」と言いたい日もありますが、頑張って出かけ、移住地内のお年寄りの方々を訪問したり、移住地を中心に、十カ所に及ぶボリビア人部落にも、宗教教育を施しています。
 ボリビアはカトリック国と言われながら、家庭内での信仰教育はされていません。こういう中に、他宗派では物資やお金でカトリックの洗礼を受けている人々にも誘いかけをしています。一つの部落はこの誘いかけに殆どの人が応じ、カトリックの教会が厳しくなりました。これも、たまにしか足を運ばない私達の責任でもあったのです。反省しながら、一匹の羊をも大切にされたイエズス様に倣って、頻繁に足を運ぶ計画をたてているのですが、一つの部落までの距離が十五キロから二十キロもあり、その上、ガソリン代が値上りし、私達の生活費も充分にない状態で…いろいろに経費を削って、宣教に当てていますが、それでも不足しています。
…現地からの報告もお送りし、皆様からのご支援あって宣教活動できることを分ち合いたいと思います。
一九九八・五・三一






『立派になったサンフアン教会』

礼拝会 川俣泰子
 聖母月を迎えて、ここサンフアンではやっと冬の気候になって来て、朝晩は寒さを感じる程です。
…さて、昨年、当サンフアンの信徒会長足立さんが訪日された際に当教会建築のために多額のご支援を頂き、心から感謝しております。
…思いがけないプレゼントに一同、有頂天になって喜びました。
 お蔭様で、床の仕事とベンチ購入の支払いは無事に済みました。
 サンフアン教会はとても立派になりました。一年前のあのドロドロの土埃だらけの教会の面影はもうありません。そのせいか、信徒たちの祈りの態度も、とても落ち着いて来ました。聖週間には、連日満員で、約七百人のベンチが埋まり、聖土曜日は超満員で沢山の人が立っていました。昨年度、日本人信徒から集めた寄附金がまだありますので、聖堂内部の配電工事、証明、音響装置の取り付けを第一にやり、その後、教会の外回り、とくに正面玄関前を整える計画を立てております。できれば、聖堂内部の壁がまだ下塗りの状態なのでペンキ塗りもしなければなりません。あと、内陣の丸屋根もまだ未完成です。屋根に張ったスレート波板が安物で薄かったので、もう雨漏りが始まっています。というわけで、やることはまだまだ一杯ありますが、少しずつ皆の力でやっていきます。
一九九八・五・一九

善意の方々の力で完成した、サンファン教会の新聖堂
善意の方々の力で完成した、サンファン教会の新聖堂






『アジア』







『重傷の婦人・奇跡的回復』

〜インドネシア〜
聖母カテキスタ会 浜谷真佐美
…今、一年前に起きた出来事を、身の毛のよだつ思いで想い出しています。
…一九九七年七月一七日夜七時頃、レヂオ・マリエの会員二人の婦人は、家庭ミサの後、ベチャ(自転車)に乗って家に帰る途中、後ろから来た二人乗りのオートバイが、突然、行手を遮り、一人(の賊)が長さ二〇センチのナイフを二人の首に突きつけ「金を出せ、持物を全部出せ。しぶると殺すぞ」と迫り、二人からビニール袋を奪った。袋の中身に金目のものがないと知って、二人のべチャを深さ二メートルもあるドブにつき落とし逃げてしまった。
 二人は助けを求めて叫んだが人通りもなく、叫んでも助ける人もない。六四歳の婦人は、ベチャのハンドルが腹部に刺さって声も出ない。そのうちに(やっと)数人が通りがかり、エリザベス病院に入院、手術…二日間も意識が戻らなかった。内臓破裂、右腕骨折、意識が回復しても自主呼吸が出来ない。ICUで六十時間付添っている間にロザリオの祈りと「ティニーさん、神様を信じているでしょう」「神様は、まだまだあなたをこの世でお使いになりたいから、神様の愛を信じて頑張りましょう」と彼女の耳許に吹きこんでいた印ことか、実の妹さんも「お姉さん、元気になったら、ルルドに、三人で行きましょうね」と、この言葉は確かに彼女に大きな希望を持たせた。入院後、手術後に腸重積、腹膜炎、重症肺炎(を併発)、そのうちレントゲン室で体位を変えたところ腸重横から解放された奇跡としか思われない現実だった。(そして)シンガポールの国立病院に入院し手術、十日間で殆ど回復の目途がついたので、メダンの家に帰った。
そして、一年後の一九九八年五月十九日、私たちは出発し、ルルドの人となりました。






『各援助プロジェクトの準備進む』

〜フィリピン〜
善きサマリア人修道会 影山ひろ バコロド共同体
…ご存じのようにフィリピンでは、五月一一日に、大統領はじめ全国統一選挙が実施されました。「農村開発による貧困者の救済」という独自の政策で、大衆の希望としてエストラダ氏が次期大統領に当選しました。…新政府が勇敢に、忍耐強く、貧しい人々の立場を顧み、貧富の差を少しでも締めてくれることを願うばかりです。
この四月に二〇名の奨学生が良い成績で高校を卒業しました。
 今年から海岸沿いのスクォーター(不法居住地)周辺の子供たち一〇名も奨学生となりました。また、新たに、二名だけですが、大学生への援助も誕生しました。給食プログラムは、昨年度は漁村のプンタ・サロンで行われました。…この五月からは砂糖黍農園(ハシュンダ)コマバトで給食プログラムの準備が始まりました。
 山岳地域援助プログラムは、昨年に引き続きドン・サルバドール・ベネディクトの養成センターを援助しています。…険しい山間の僻地に七つの巡回教会を持つ小教区の人々や司祭にとって宿泊セミナー施設は大きな助けとなっています。