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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『アジア』






『憲法投票と革命一周年記念』

〜フィリピン・イサベラ〜
聖母訪問会 山添厚子
 …今回は、私がこの目で見た出来事の中から、憲法の一般投票と、革命の一周年記念について一筆させて頂きます。
 一般投票の日は国祭日となり、ここマニラの町はとてものどかな雰囲気が漂っていました。懸念されていた暴動もなく、人々ははじめて自分の書いた通りの結果が、数字に表わされることへの期待、あるいは、誰が敵で、誰が味方なのか分らない状態の中で、自分と同じ側に立つものが、どのくらい居るのか垣間みることが出来ることへの期待というものを、持っているかのように見受けられました。
 ただ、この投票は、憲法に対してYESかNOかを問うもので、憲法が草案されてから投票まで、わずか三カ月あまりしかなく、十分に読みこなし、人々を教育する時間がなかったことは、一つの大きな問題と云われています。私が聞いた人々の話から判断すると、…判断基準がかなり多く…と言わざるを得ないでしょう。
 理想もいろいろあります。…外国とはすっかり手を切って、この豊かな地フィリピンで、革も外国製品もー切使わず、古き良き時代にそうであったように、シンプルに生きよう′というものから、武力によって今の体制をすっかり破壊しなければ、改良など出来ないというものまで…とにかく、さまざまな発想を耳にする、ここマニラです。しかし、革命一周年の日には、EDSAのあの広い通りが…何キロにもわたって人々で埋め尽されました、その人混みの中の一人となりながら「ここで戦車はとまった」とか「ヘリコプターが上から爆撃しようとしたけれど、この埋めつくす兄弟には、どうすることも出来なかったのだ」と、熱っぽく語る人々の姿に人の心”の示す底力のようなものを感じた私です。深く祈るアキノ大統領の姿、感謝を共に歌う大群衆の姿に、今日までの十字架と、また、それを通して、そこに働かれる神の姿が語られていたように思います。
 停戦条約が切れてから、日々の新聞には、また、殺し合いばかりが報じられます。誰かが叫びました昔の方がまだ良かった。敵はアメリカ兵であり、日本兵だった。だけど、今は一体、誰が敵なのか見分けがつかない”と。それは、とても淋しく私の心に響いています。それでも、ここマニラでは、人々はあわてるわけでもなく、緊迫した雰囲気がみなぎるわけでもなく、いつものように日々が過ぎていきます。事前に備えをしない国民なのかもしれません。
 そして、そういう所にこそ、人間を越えた者の大きな力が働かれるのかもしれません。






『コミュノテでのフィリピン体験者増える』

〜フィリピン・イサベラ〜
聖母訪問会 山下正子
 私達がイサベラ州の小さなギバン村に住みはじめて以来、年々、多くの日本の方が、この私達のコミュノテを通して、広くフィリピンを体験して下さるようになりました。学校のスケジュールに組み込まれて、毎年夏休みを利用して来られる高校生のグループ、大学生、昨年、CBHPレファラルセンターが完成して、医師、看護婦、医学生の方も訪れて下さるようになりました。直接、日本から来られた方ばかりでなく、私達と同じようにこちらで奉仕していらっしゃる海外青年協力隊の方々とも知り合い、お互いの奉仕活動について、語り合う時を持つようにもなりました。
 フィリピンと日本の小さな懸け橋ともなれれば、また、日本と全く異なる状況の体験を通して、訪れて下さる方々(若者)の将来への何らかの生き方へのヒントを与えるものとして、また、アジアの人々との連帯を生きる懸け橋としてなど、お迎えする私達もコミユノテ内に、共通の価値を見出して、心からお迎えしたいと努めております。
 最近では、横浜教区から数名の神学生をお迎えしました。イラガン教区のプルガナン司教様の受け入れがあり、各々の神学生はこちらの小教区にお世話になり、小教区の司祭館に宿泊し、小さな村をめぐって、いろいろと新鮮な体験が出来たようです。イサベラを去られる前晩には、私達の修院で、プルガナン司教様を交えてのわかち合い(評価)の集いを持ち、その後、他の州にも滞在されて実りある体験をなさったように伺っています。…日程を終え、ギバン村を去られる時、できる限り、小さな祈りや、わかち合いの集いをもつように努めていますが、ほとんどの訪問者が、その人なりに実りある体験をして帰る喜びと感謝を表わして下さいます。私どもの小さな小さな手伝いを通して、愛するフィリピンの地で、訪れる人々が、良き実りを携えて日本に帰られる、その事が、お受けする私どもにとって、力の源になっています…。






『高校生24名、大学生17名が卒業』

〜フィリピン・バギオ〜
ルンン日比友好協会 寺岡マリヱ
 …バギオも十二月末から、ずっと寒い日が続いています。フィリピンでも、バギオ市は山の上の町ですので、朝夕はずっと冷えこみますが、日本ほどではありません。
 シスター海野は、お年にもかかわらず、元気に、毎日を忙しくお過しでございます。手の指が痛んで、手紙を書くのが不自由になられました。去年の暮には、日本からのお荷物は税関の方に沢山たまって、なかなか手に入りませんでした。一月に入ってから、少しずつ受け取れるようになり、ホッとしているところです。
 日本の皆様方のご協力、ご援助のおかげで……大変に助かっています。あまり、寒い思いもしなくなりました。赤ちゃんから年寄まで、シスター海野は気をつかって、それぞれに分けて下さっています。
 三月末には高校生が24名、大学生が17名卒業する予定です。
 これもみんな皆様方のおかげで…感謝の気持でいっぱいです。
 87・2・5






『教会学校生から神学生、シスターが…みのり″の喜び』

〜インドネシア〜
聖母カテキスタ会 浜谷真佐美
 …「きずな」は早や19号…もう五年の歳月が過ぎたのですね……私は本当のことを申し上げまして、皆様方のお仕事の内容も…ご苦労もよくは存じておりませんでした。幸いにこの度の19号で…ご苦労を少し知ることが出来ました。本当に心から深く感謝を申し上げます。
 ラウンデスキーで足かけ6年働いて、健康が許さないので…今はメ潟_ンに転勤になりました。(ラウンデスキーでは)日中は毎日、ほとんど雑多な種類の病人、平均六十人を越える患者が訪れました。
 一般感染症から農薬による中毒症、結核、消化器疾患、マラリア、狂犬病、チフス…など。患者は生れたばかりの赤ちゃんから、老人…朝から晩まで、次から次へと、診療所に駆けつけて来ました。…今日は、良いお知らせを申し上げます。以前、私の持っていた六つの巡回教会の教会学校の子供たちのうち数人が、神学校に、ある者はシスターにと志願者が見えて来ました。
 具体的には、シスター二人(別々の修道会)、志願者一人(日本からの援助者)、高校神学生(シャンタルにある)五人(うち三人が援助者)、教区立神学校卒業者一人(イエズス会に入会)、コンヴェンツアール会立高校神学生三人、誓願更新二回目一人(以前の援助者)、終生誓願者一人、カブチン全音願更新三年目、一人、計十五人です。これが本当に全部稔るならば、神様はどんなにお喜びになるでしょう。

家族に送られ、神学校へ入学した2人
家族に送られ、神学校へ入学した2人






『南米』






『セベリーノ(苦しみの人)の死』

〜ブラジル〜
聖心侍女修道会 日高和子
 …私はきょう(7月18日)、外出先から泣いて帰りました。何も外でケンカして、いじめられたわけではありません、私がよく訪問していた老人の病人が亡くなったのです……彼との出会いはほんの数カ月のことでした。…小さな、今にも崩れそうな家に、彼は居ました。
 おなかも両足もむくみ、のども痛むので何も食べることが出来ず、水だけで生きている状態で、ベッドから起きることが出来ず、たえ間ない痛みを、枕を両腕でかかえこんで耐えていました。
 …何か言って励ましてあげたいと思っても、この人の苦しみの前には、訴える力も持てないように思えてしまいます。
 …以前、よく教会に行っていたそうなので、そのうち神父様をつれて来ることを約束していましたが、結局、今日、私と神父様が着く15分前に亡くなって、間に合いませんでした。
 …このおじいさんは、ヨゼフという名前でしたが、人々は彼のことをセベリーノ”と呼んでいました。こちらで、この名は「苦しみの人」という意味があるそうです。実際、その名のとおり、このおじいさんはとても苦しみましたし、私に苦しみの意味も教えてくれました。苦しみの中にあっても、神への信頼を失なわなかった深い信仰の持主だったおじいさんも、今は神様のもとで、永遠の喜びに満ちておられることでしうう。






『八十歳で初聖体を』

〜ペルー〜
聖マリアの汚れなき御心のフランシスコ姉妹会 久場千代
 …一世連の中には、これまで洗礼を受ける暇がなかった、これからでも…と準備している人が、今、三人居ます。数日前は、八十歳近い方が二人、初聖体を受けました。もちろん、その方々は足が不自由で教会へおいでになれませんので、加藤神父様が御聖体のお伴をして下さいました。こちらにはSr斉藤、Sr平尾が再び戻られて、サンフランシスコ・コミティも賑やかになりました。Sr井上も元気にしています。……皆さんは達しく頑張っておいでですので、お会いするだけでも元気が出ます。茂木さんも砂漠の養護施設で、子供たちと共に…元気にしています。砂漠の山の○○センチぐらいに太陽が傾いたら、子供と共に外で土運びの作業をするとか、また、子供たちに、日常心地よく暮せる生活の習慣をと云って、ゴミ箱を施設内に増やして、周囲を清潔にとか、……また、借りた物は返す習慣をつけるために、自分の持参したボールペン、ケシゴム、のりetcを貸し出したり、返させたり、日立たないことですが実行しています。
 他の目からはあまり評価されない、このような事にもエネルギーを注ぐ彼の謙虚さに感心しています。子供たちに空手や歌など日本の文化も……伝えています。
 ……今日、リマでは…数日前から警官のストライキ、デモなどあって中心街では不安な数日です。警官のストの情報が入ったら、あっちこっちで店のシャッターを下ろしたり、鉄格子の中から商売をしたりしています。…警官のストに対応して、市街には軍隊が動員され、警備に当っています。この状況が悪化すれは、警官と軍隊の撃ち合いになりますから、市民は巻き添えをくわぬよう、その辺りには行かないわけです。ペルーが政治的、経済的に安定するのは、まだまだ先のようです。このように、きびしい状況の中にありながら、ペルーの人たちは心暖かく、やさしいです。本当に良い国になって欲しいと思います…'87・5・19







『ありがとう、海外宣教者への支援』

 一九八二年(昭和57年)開始以来、海外宣教者(地)への援助額はこの五年間で(一九八七年・昭和62年は七月末までです)総額二二、二八一、四八〇円十一、〇〇〇ドルとなりました。
 また援助対象国は25カ国、援助対象地域(件数)は一〇〇地域です。皆さまのご支援が、大きな稔りとなっております。
 心から御礼申し上げます。






『海外宣教者を支援する会5年のあしどり』

 20÷4=5…奇を街うつもりではないが、「きずな」が20号に至るまでの年月を数えると、年四回発行しているので、こういう数式となる。「もう五年経ったのか」…実感である。そして、なんと多くの方々が、支援して下さっているか、心から感謝を捧げながら、この五年の小史を播いてみたい。

一九八二(昭和57年)年
1月 日本カトリック移住協議会「海外派遣日本人宣教者を支援する会」の発足を、一九八二年度事業計画に盛り込む。
5月 日本カトリック移住協議会理事長、石神忠真郎司教、「海外日本人宣教者を支援する会」の結成を呼びかけ
5・31〜6・5 全国司教会議「海外日本人宣教者を支援する会」の設立を承認。
7月 超修道会的連帯により「海外宣教を考える会」発足。
9・1 「海外日本人宣教者を支援する会」発起人会。「会」の発足を確認。会長(服部比左治氏)はか、役員の業務担務を決める。
9・21 「海外宣教者の話を聞く会」、イグナチオ教会・かつらぎ会館ホールで。講師3人、参加者約30人。
10・18 「海外宣教者を支援する会」第2回会議。広報誌「きずな」(B5版)の発行を決める。
11・29 「きずな」創刊号発刊

一九八三(昭和58年)年
1・31 第1回ホームバザ一開く
2・8 役員会。はじめて海外援助を開始(約54万円)
3・10 「きずな」2号発行
5・26 役員会
6・30 「きずな」3号発行
8・11 役員会
9・30 「きずな」4号発行
10・18 役員会
11・13 講演会・四谷・双葉同窓会館・約80人参加
12・1 「きずな」5号発行

一九八四(昭和59年)年
3・13 役員会
4・10 特別講演会・イーヴオ・ローシャイタ司教(ブラジル)・上智大学特別会議室(ブラジル・センター主催)
4・11 同右講演とレセプション(国際協力委主催)・双葉同窓会館インドネシア青少年奨学金募金呼びかけ
4・22 「きずな」6号発行
7・25 「きずな」7号発行
8・2 役員会・中谷功神父(フランシスコ会)理事会へ参加
9・25 「きずな」8号発行
10・23 役員会
11・16 「アフリカは今」講演会(チャペルセンター)講師2名、一五〇人参加
12・3 「きずな」9号発行
12・20 役員会
12・24 世田谷池ノ上小学校の児童たちの献金で、車イス贈られる

一九八五(昭和60年)年
4・1 「きずな」10号発行
4・30 役員会
7・1 「きずな」11号発行
7・25 役員会
10・1 「きずな」12号発行
12・1 「きずな」13号発行
12・16 役員会


一九八六(昭和る1年)年
3・1 「きずな」14号発行
3・25 役員会
6・1 「きずな」15号発行
7・22 梶川宏師、事務局長辞任。後任にローシャイタ師
9・1 「きずな」16号発行、「今、アフリカに生きる」刊行
10・14 帰国中の宣教者、修道女の帰国報告(中央協議会会議室(移住協、海外宣教を考える会、海外宣教者を支援する会の合同主催は、はじめて)
12・1 「きずな」17号発行


(87・7・31現在)個人、賛助、法人も合せて、ただいま会員数は一四〇〇名です。






『編集後記』

 海外宣教者を支援しようという熱意と、会員相互の連帯の「絆(きずな)」に励まされ、一所懸命に原稿用紙のマス目を埋めていっているうちに「きずな」は別号になった…編集者としての実感です。
 一九八二年(昭和57年)9月1日「会」の発起人に集まった人は、13人、一九八七年7月末現在、一、四〇〇人。百倍強に増えた会員です。人の流れの中に、五年の歳月の流れを感じます…というようなセンチメンタルな感慨にふけっているわけには参りますまい。
 世界は、日本から海外へ派遣される宣教者たちを待っている≠サして「きずな」による支援、連帯も待たれている=u会」設立の原点に立って、いま、さらに「海外宣教に派遣される宣教者」たちへの支援活動が一だんと燃え上っており、期待されています。海外宣教地の実情をより一層理解できるよう、レポートをお送り下さる際、写真がありましたら、ぜひ、添付して下さい。
その折は「写真説明」を必らず、つけて下さるようお敵いします。
(山鳥)