(聖書、教会の公式文書、体験からの一部)
宣教の体験から「・・・私が日本社社会に伝えるべきは、と問われて、まだ、明確に私の中に確立していませんが・・・特に弱い立場にある人の声を聞き、その痛みを分かち合う事こそは大切な事ではないでしょうか。「あなたの神である主を愛せよ、また隣人をあなた自身のように愛せよ。(ルカ10:27)・・・・―痛みを分かち合うこと―それは善意だけでは出来ないでしょう。笑顔でも苦しい顔でも相手の痛みの中に入る事は難しいと思います。大切な事は『分かち合うこと』。私はあまり奉仕や犠牲という言葉は使いたくありません。分かち合うためには、まず分かち合おうとする側が、自身の痛みを知る必要があると思います。そして、相手の痛みを自らの痛みと重ね合わす事も大切だと思います。また、時には私の『幸せ』が相手の『痛み』を生んでいる事もあることを忘れてはならないでしょう。」政本純著(カトリック信徒宣教者会)海外宣教に関わる信徒として≠ゥら。「声」1996年3月号 宣教の意義の一考察「・・・他の人々との対抗意識を持つ時、人間は民族、国家、企業、学校、出身地への帰属意識を強烈に燃やすようである。内部一致を強めるには、外敵を持つとよいとも言われる。しかし、それは時には自己のエゴイズムやグループのエゴイズムにも導きかねない危険性を含んでいないだろうか。現実の世界で、民族意識や国家意識は必要であっても、これを絶対化してはならないと思う。・・・・海外の宣教者は、異なる民族、国家の現存の中で、民族、国家意識を越えた世界的視野の下に自分と人々とを見る事が出来る人ではないかと思う。他の国や民族の人々と共に生きると言うことは、自分が持っている国民性や民族性の豊かさや、時には貧しさを見つめて、これを絶対化することなく、むしろ相対的なものであることを知り、人間であることの価値を第一に見つめることに挑戦することではないかと思う。 ・・・・日本の教会が海外に宣教者を派遣しているのは、決して自国の教会の力を強め、それを発揮することではなく、むしろ、教会が持っている国や民族を越えた真の人間の絆と愛に目覚めて生きることの重要さを表しているものだと思う。」梶川宏著、日本カトリック移住協議会 専務理事、会報海外宣教者と世界性≠ゥら。○○年代 「宣教、それは」宣教、それは 旅たち宣教、それは 狭い道をあゆむこと 宣教、それは 種を蒔き、命を与えること 宣教、それは 神に向かい、歩むこと 宣教、それは 共同体を生むこと 宣教、それは 世界の心に受肉すること 宣教、それは よい便りを伝えること 宣教、それは 人の幸せに参加すること 宣教、それは 一人一人を通り過ぎるキリストを願うこと 宣教、それは すべての人の喜びと苦しみを分かち合うこと 宣教、それは 人々との関わりを望んで、言葉を習うこと (作者不明)
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