ザンビアからのお便り(ンドラにて)コンベンツアル聖フランシスコ修道会司祭 久保 芳一
私は60歳で孤児? 日本から世界中に宣教師として羽ばたいている皆さん、お元気ですか。今日は私の苦いザンビアでの体験談を分かち合いたいと思います。 私は、珍しくも2007年の2月19日、一時休暇で飛行機の乗り継ぎのため、やむを得ず修練長のアンセルモ神父の車に便乗して、しぶしぶ首都ルサカにやって来ました。 実は、その4日前に事務局のザンビア人神父から就労許可書が去年の10月21日に切れているので、更新の手続きをするよう注意をされていました。さらに、10年で期限切れとなる「パスポートを先に更新するように」と言われておりましたので、私は一人で最高裁判所の裏手にある日本大使館で降ろされ、パスポートの係官の事務所へ直行。幸い同郷(熊本)の親切な領事さんが対応してくれました。 しかし、案の定「気をつけた方がいいですよ。つい先頃も22年もザンビアに滞在していたデンマーク人が国外退去させられたばかりですから」と心細い話。もし自分がそうなったら、その時はその時で仕方がないと腹を決めながらも、「もしやの時は助けてください。お宅の電話番号は?」と紙切れにメモしました。 私はパスポートの申請用紙に記入し、サインをして、連絡待ちとなり、領事事務所を辞しました。迎えの車を待っている間、大使館のゲートのガードマン5〜6人と笑談。 さて、これからどうなる? 一抹の不安を感じながらも、後は神様に任せましょうと、ルサカの郊外にある聖ボナベンツラ・カレッジへ宿を求めて向かいました。そこはフランシスコ会、カプチン会コンベンツアル会の3派が100人ほど合同で哲学を学んでいる大神学校で、近隣のモザンビーク、タンザニア、ケニヤからも学生が来ている寄り合い所帯です。 その夕方、私はアンセルモ神父の紹介で移民局の検察官ピーター・サルマイという中年の男性に会いました。彼と夕食を共にし、食卓に着いたのですが、ピーターは二人のイタリア人神父と三人のザンビア人神父を向こうに回して、私を彼の左、奥さんの右の席に着けましたので、びっくり。そして「やあ、非常に懐かしい。久保神父は、私が小神学校の時日本からやって来て、19年前はとても若かった。彼は今どこにいるのかと聞いても、友人たちは誰も答えてくれなかった」と言って、握手し、私の手を放しません。私は小神学校が本部修道院のあるンドラにあったのは憶えていますが、誰がいたのかは全く記憶にありません。 実は、ピーター・サルマイは哲学の2年生まで聖ボナベンツラ大神学院にいて、退会し、その後移民局の就職試験を受けて合格したのです。今は結婚して、10歳の男の子と8歳の女の子父親なのです。 しばらくして、アンセルモ神父がピーターを呼び出して、私の件について説明してくれました。ピーターは「19年間もザンビアで働いているのに、どうして国外退去させられるか。久保神父のことだから絶対大丈夫。自分が責任を持ってやるから、明朝8時過ぎに書類を持って出頭するように」と言ってくれました。それで夕食も散会となりました。私はその夜、床についてからも「神に感謝」とロザリオを繰りながら、眠りました。 翌朝、オーガスティン・ムンガという、エルサレムで3年間聖書を勉強した若い神父が私を車で移民局まで送ってくれました。ムンガ神父は現在教区と我々の大神学校で教えながら、神学生の係をしていますので、とても忙しいのですが、日本大使館、移民局、カトリックの事務局など、何回も車を運転し、係官と掛け合ってくれました。そこで私は、彼の車のガソリンを満タンにし、60ドルを燃料代として寄付、移民局に手続き料として203ドル、日本大使館にパスポートの更新代として130ドルを支払いましたので、私のポケットの中は全く心細くなりました。 ところで、日本では「団塊の世代」とか言って、2007年に大量退職とか、NHKの放送で聞きました。昭和22年のべービー・ブームで生まれた私も、その中の一人です。私の両親は数年前に亡くなり、天国へ。持ち金はなくなり、労働許可書も切れて、国外退去の寸前、アフリカの空の下で全く心細くなり、私は60歳で貧しい孤児になったと思いました。 翌日の灰の水曜日に大神学生がフットボールの試合をするので、サッカーシューズを寄付してくれとムンガ神父が言うので「私はもう60歳の孤児で、金もなく自己破産状態。日本の友人たちに手紙を書いてみるが、どれだけ助けてくれるか分からない。今年は休暇の年に当たっているけれども、飛行機の切符を買う金もないので、日本に帰れない。いっそうのこと、ザンビア管区に移籍した方がよいのでは」と冗談を飛ばしました。ボロボロのシューズを履いているので、支援してやりたいのですが、新品のシューズは40ドルもします。気の毒ですが、今の私にはどうにもなりません。貧しい人を助けるどころか、今は自分が生きていくためのお金もなくなったのです。 実はその日の朝、ミサの福音(マタイ6の1〜6)を聞いて、「私は金や物を配るためにザンビアに来たのではない」と少々開き直っておりました。「では何のために来たの?」と自問自答。「ザンビアの人々に秘跡を授けるために?」などと考えたりしてみました。 翌々日の木曜日の午前中、日本大使館から電話あり、午後にポスポートを発給するので、出頭するようにとのこと。次の週になると言われていたので、やあ、神様の助けが始まったと、神に感謝。パスポートを受領した後、私は大使館の窓口で熊本出身の係官に一枚の写真をみせました。それは私がいつもお祈りの本の間に挟んでいる、半分シロアリに食われたような写真で、熊本の天草五橋を渡って、崎津にある19世紀末のフランス人宣教師ハルブ神父の墓をお参りした時のものです。写っているのは墓前に祈っている私とマリアの宣教者フランシスコ修道会のシスター高木とドクターのシスター板倉の3人です。この写真をきっかけに我が修道会の熊本や奄美における活動について少しばかりの宣伝をしました。 日本大使館を後にして、ムンガ神父はルサカの町の中心街で車を駐車し、20分ほど用事をしている間、私は車の番をしていまし。その時ミスター・ルングという男性が車に近寄ってきて、「私は移民局のシニア・オフィサーでピーター・サルマイの上司だ。娘が結核を病んでいて、薬代が35ドル必要、マイロ(ベンバ語で明日のこと)返すから貸してくれ」と言うのです。マイロというのは借金する時、よく使う危ない言葉です。すかさず、私は「50ドルしか私は持っていない。これで私はンドラまでバスで帰らなければならいない」と説明。それでも男は言い張るので、私は半信半疑で35ドルを渡したのですが、心は不安でいっぱいでした。騙されたらどうする? その後サルマイに電話したところ、ミスター・ルングは彼のシニア・オフィサーであることが確認されました。「あー良かった。本当だった。断っていたらどうなっていたか。新パスポートは入手したのでOK。ミスター・ルングに金は戻さなくてもよい」と言って、電話を切りました。またもや、神様が私を助けてくれた。宣教師の汗も思いがけないところで報われると神に感謝。 その日の夕方、宿舎のテーブルの上に置いてあった新聞の見出しを見ました。「日本円で70億円の債務を日本政府がザンビア政府に対して取り消した」とのこと。こんな記事を読んでいるから、ザンビア人は私のところに援助を頼みに来るんだと私は苦笑しました。ザンビアに一人しかいない日本人宣教師は大金持ちのはずということでしょう。 夕食の後、大神学院の庭を散策しながら、南十字星を見つめ、今回お世話になった方々のためにたくさん感謝のロザリオを唱えました。 2週間後に労働許可書が入国許可書に替わって発行されるという情報を得て、元神学生のピーター・サルマイの事務所を訪れ、深くお礼を言いました。そして、首都ルサカを後にして、1000km先の聖カレンバ・ミッションに向かいました。 2007年02月24日
ブラジルからのお便り(サンパウロ州にて)宮崎カリタス修道女会 シスター浜辺 春子
†主の平和日本カトリック海外宣教者を支援する会の皆様、いかがお過ごしでしょうか。 私たちは、おかげさまで元気に2007年をスタートすることができました。 今日、すてきなカレンダーが2冊届きました。一日一訓、格言入りのカレンダーをパラパラとめくりながら、一つ一つの言葉に感動と力がわいてきました。先日は、美しい日本のマリア様のカレンダーを一人一人に送ってくださいまして、ありがとうございました。ブラジルの人たちも日本のマリア様は美しいとほめてくださいました。 2月に入り、ラールサントアントニオ(福祉総合施設センター)では、3月に始まる新学期の準備に毎日追われています。4つのプロジェクト(児童の部、青年の部、児童労働保護の部、家庭的養護施設の部)のマトリクラを終え、今日から2週間をかけて家庭訪問をします。特に、児童の部では、新入学者を30人の定員で入学させることになっていますが、マトリクラは、130人と膨れあがっています。家庭訪問はそのために丁寧に行い、ない頭をひねって必要な児童を選び抜かなければなりません。聖霊の導きがありますように…。このプロジェクトを始めて3年目となりますが、貧しい子供たちが施設をよく利用し、学力的にも体力的にも力をつけ、一人一人が確実に素敵な笑顔と自信をつけています。家庭内でも多くの問題を一人一人が背負いながらも、子供なりに自分の道を見つけ始めたばかりですが、未来に希望をかけて今を共に頑張るだけです。 頂いたカレンダーをよく利用し、格言に毎日励まされながら、みんなで頑張って神の国のために働いていきます! 日本の子供たちの未来のため、そして皆様お一人お一人の上に神様の豊かな祝福がありますように遠いブラジルからお祈りさせて頂きます。 2007年02月21日
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