ケニヤからのお便り(ナイロビにて)神言修道会司祭 佐藤 新神父
海外宣教者を支援する会の皆様いかがお過ごしでしょうか。 司祭叙階の後、ケニヤに派遣されてから早いもので二年が過ぎ、こちらの気候、生活習慣、そして何よりこちらの言葉に徐々に慣れつつある今日この頃です。 「きずな92号」を送ってくださり感謝しております。世界中で活躍されている先輩方の活動を知り、大変励まされます。 私はナイロビの市内のソウェトという、いわゆるスラム街にある小教区で働いています。小教区の仕事といえば典礼行事の企画からエイズ関連のセミナー、ありとあらゆる相談事など、次から次へと尽きることがありませんが、そんな合間を縫ってはソウェトの中を歩き、様々な理由から学校に行けない子供たち、両親のない子供たちの話を聞いて、どのようにして力になれるかを、これはやはりケースバイケースで模索しています。それぞれの子供の置かれた状況を詳しく知るというのは非常に根気と労力の要る作業ですし、やっとの思いでサポートを受けられる施設を見つけた矢先に、その当人がいなくなるといったこともあり、なかなか簡単ではありませんが、その分やりがいがあります。 何よりもソウェトの人たちの貧しいながらも喜びに満たされて生きるたくましい姿に力づけられ、毎日を過ごしています。皆様のためにもこちらからお祈りしています。 この待降節が皆様にとって恵み豊かな時となりますように。 2005年12月1日
チャドからのお便り(ギダリにて)ショファイユの幼きイエズス修道会 シスター 入江 多嘉子
海外宣教者を支援する会の皆様へ「光は暗闇の中で輝いている。(ヨハネ:1.5)」 お元気でいらっしゃいますか。ギダリから年に一度のごあいさつをお送りします。筆不精を棚にあげて申し訳ありません。 いつもお祈り、そして物質的援助に心から感謝致しております。 数年前からギダリでも衛星放送でニュースを見ることが出来るようになり、日本語放送はありませんが、世界の動きからとり残されないで済むようになりました。 今年、日本はまた台風の当たり年、福岡地方では地震と天災のニュースが続きましたし、総選挙での自民党の圧勝、それに皇族の結婚式の報道を見ることができました。 チャドは今年、修道会が最初の宣教者を送って25年が過ぎました。総長シスターのリタ・カナダ管区長、そして日本からは管区評議員のシスター平野がいらしてくださいました。 丁度その時、クーデター未遂がありました。現大統領イデレス・デビの同族内の抗争ですが、それに関係のない人まで巻き込まれていき、犠牲者が出てくるので困ったことです。幸い大きな抗争に発展しなかったので、ライでチャド宣教25周年を無事に迎えることができました。 世界の異常気象はここでも影響を及ぼし、穀物の出来高に期待できないようです。自然だけが問題ではありません。人間にも先進諸国の影響で物質主義がかなり入ってきていると思います。アフリカ家族と言われ、何世代にも遡って父母兄弟柿妹として結ばれてきた人々が離散し始め、以前は孤児はいないと言っていましたが、両親に世話してもらえない子がギダリにも増えてきました。悲しいことです。シスター三宅が、ここの人たちは貧しくても食物の分かち合いをすると言っていたことを思い出します。でも、時には貧しい人々の中にまだ乏しいものを分かち合うところを見ます。それは40歳代以上の人々の中に見ることができます。苦しい抗争時代を通って来た世代です。 幼な子イエズス様のうちにいつも光を見いだし、希望を失うことなく、チャドの人々にそれを伝えていきたいと願っています。皆様お一人お一人のうえに幼な子の光が豊かにに注がれ、必要な恵みが与えられますようお祈り致しております。 2006年がまた良い年でありますように。 祈りと感謝のうちに 2005年12月3日
チャドからのお便り(ライにて)ショファイユの幼きイエズス修道会 チャド・ミッション
「きずな」によって結ばれている兄弟姉妹の皆様主のご降誕を待ち望みながら皆様方のうちにお生まれになる主のご祝福をお祈り申し上げております。 こちら、ショフアイュの幼きイエズス会チャド・ミッションの13名(内日本人7名カナダ人6名)は皆様方からの霊的、物的援助に支えられて元気にクリスマスの準備にかかっています。今年は11月19日に本会のチャド・ミッション参加の25周年を祝う恵みをいただき、後援してくださっている皆様への感謝の思いを新たにしております。 1977年にチャドの教会からSOSの呼びかけを受けて、現地への3人の姉妹たちの派遣が実現したのは1980年の9月でした。1960年独立国家として歩み始めたチャド共和国は1972年クーデター後内戦のため荒廃し、教会や修道院もその難を免れず、信徒たちは牧者のない羊の群れの様相を呈していました。 カメルーン経由でチャドに入国した3人の一行は、町や村ごとにある検問所を通り、ライまでの旅程のなかで通過するミッションのシスターたちや神父様方の心からの喜びに迎えられ、見送られました。そして、ようやく2年間居住者を失っていたライの修道院に入ることができたのは10月1日でした。ローマでの派遣のミサ後の出発から24日間の旅でした。 この日からの25年間の修道院の記録によって振り返ってみると、求められ、待ちわびていた人々の中に入った喜びと、クーデターの後遺症的な時々起こる銃撃、少なくともライのミッションには侵入しなかったとはいえ、修道院の垣根の傍らに倒れた死者や負傷者を介抱し、逃げ込んできた住民をしずめることもあり、数週間の避難の生活を余儀なくされるなど、明暗の日々で織りなされています。最初の3人のミッショネールの一人は、日本管区を代表して日本でのミッション25年間の経験者シスター・アンネット・ベルベでした。病気のための帰国や交互に取る休暇のために独りだけになる共同体の強化のために1982年6月にシスター井手愛子が、10月にシスター三宅陽子がチャド入りしました。さらに2年後の1984年10月3日にシスター有薗順子が、カプチン会司祭の老練な旅行計画のお陰で、ライで一人だけになっていたシスター・アンネットのもとにたどり着き、神様の憐れみを賛美しあっています。 この年は反政府集団を掃討する作戦で、ライ市も全住民の招集があり、知らずに家に残っていたために撃たれるなど、人々は恐怖のために農耕作業もできず、飢饉に見舞われました。この時期一時帰国したシスター三宅は日本の善意の人々に救援を呼びかけ「きずな」の皆様をはじめ、日本赤十字社からなど多大な援助をいただき、ライ地区の人々の窮状が救われました。 1985年4月、当時政権をとったイッセンナブレ大統領がライ市を訪問し、各階級の代表者たちとのインタビューを要請した折、カトリック代表団は聖フランシスコの「平和の祈り」をシスター有薗の手から贈呈しました。これは慰めとなる記録でした。 カナダから、日本から主の呼びかけに応えて、交代しながらチャド・ミッションの活動に参加し、毎年誰かが帰国する折は「きずな」の日本カトリック海外宣教者を支援する会の事務所を訪ね、さまざまな援助をお願いし、いつも寛大に応えていただきました。 本当にありがとうございました。 現在、13名はライに地区本部を置き、約45km離れたチャド南部のギダリに2つの共同体、そして首都のンジャメナと、3つの共同体を持ち、ンジャメナ、ライの2教区で教会の各種司牧活動に協力しています。特に本会の使命、キリスト教的教育、病者、小さい人々への援助に力を注いでいます。 1988年1月シスター・アンネット、シスター永瀬小夜子によって引き受けられた首都ンジャメナの宿泊センターは、チャド教会全体にとって縁の下の力持ち的存在となり、チャド教会への出入りのミッショネールたち、各種の会合、研修のために首都に集まる教会関係者のオアシスの役目を果たしています。 ライ市では、カトリックのキジト女子小学校での教育に初めから関わりを持ち、早婚の女性たちの意識開発に力を入れました。特に教育施設に恵まれない村落の女生徒たちのために24人収容の寄宿舎、小6から中3までの生徒、更に召命の識別を望んでいる高校生など7名の寮の指導、小教区の各種団体の活動への参与など、司牧活動に広範囲にわたって関わっています。2005年1月に帰天したシスター三宅陽子が青空教室から始めて、20年目を迎えたレーヌアンチェ幼稚園は、幼児100人を受け入れ、3人のチャド人の先生と共にシスター大和、シスター松山が心を注いでいます。 1989年4月に、診療所を持っていたギダリーのミッションを引き継ぎ、シスター脇山、シスター内田、シスター大湾が派遣されました。診療所の計画的なワクチン接種についてのシスター大湾の努力、その後を引き継いだシスター入江の活動は高い評価を受け、「支援する会」の援助は大きな力です。また、日本の他の団体からの支援によって「富士図書館」が建設され、ギダリーの人々の知的向上のエネルギー源となっています。 25年間の私たちのミッション活動のすべてを取り上げることは不可能ですが、3人の本会のチャド・ミッショネールであったシスター・クロデイア、シスター永瀬、シスター三宅が、天国の主のみ傍から私たちを見守っておられるのを感じます。そしてこれらのすべての活動はフランス、日本、カナダ管区の修道会全会員の協力、また私たちの訴えに心の耳を傾けて聞いてくださった後援者皆々様と共に実現してきた活動であることを思い、チャド・ミッションの一同、心からの感謝をお捧げし、父なる神様の豊かな祝福をお祈り申し上げます。 現在のショフアイュの幼きイエズス修道会チャド・ミッションの日本人7名は次の通りです。 ライ支部:Sr.脇山 ミキコ、Sr.大和 ひろみ、Sr.平 静代、Sr.松山 浩子 ギダリー支部:Sr.入江 多嘉子、 ンジャメナ支部:Sr.有園 順子、Sr.日置 マリエ 2005年12月5日
パラグアイからのお便り(ピポラにて)聖霊奉侍布教修道女会 シスター 林 静子
†主の平安!海外宣教を支援する会の皆様へ クリスマスと新年おめでとうございます。日本はお寒いことと存じますが、皆様お元気でいらっしゃいますか? 私たちパラグアイでは宣教するシスターたちは、お陰様で元気です。 パラグアイでただ一人の日系人のために働いていらっしゃる神言会のクルッカ神父様もお元気です。もうこちらに来られて、40年にもなりますが、故郷がドイツのために日本にはほとんど旅行されておられません。普通、毎日のミサはスペイン語でおたてになり、月に2・3回日系移住地で日本人一世のために日本語でミサをたてて下さっています。漢字を普段使わないために、段々と忘れてしまい、読みにくくなったと言っておられます。 毎週日本から送って頂くカトリック新聞を拝見して、日本の教会の動きも興味深く感知しております。また、「きずな」によって世界各地で働いていらっしゃる宣教者の方たちとの連帯ができまして、心強く思っております。 12月18日待降節第4主日に、パラグアイの3ヶ所のコロニアで、日系信者さんたちの合同クリスマスを今年はラパスでお祝いすることになりました。イグアズとピラポの信者さんたちは貸し切りバスでラパスに旅行いたします。その時にラパスで大人2名と子供4人の洗礼式がある予定です。大人2人は私のかつての幼稚園児でしたが、洗礼前の勉強に代父母さんと一緒に通って来ています。「シスター、覚えていますか?僕は幼稚園の第1期生でしたよ」と申しました。やはり種蒔きをしておいて良かった、神様は適当な時期に発芽のお恵みをお与え下さるのだと痛感いたしました。 同封の写真は10月19日に初聖体を受けた中学生と一緒に写したものです。5名の内4名は日系3世、1名はドイツ人2世です。聖土曜日に受洗しておりましたが、その後勉強を続けて、10月に初聖体を受けました。来年はまた、堅信の勉強をする予定です。 2006年が皆様にとって神様のおめぐみに充ちた年となりますようにお祈り申し上げます。 初聖体の中学生と一緒に 2005年12月15日
タイからのお便り(バンコクにて)聖パウロ女子修道会 シスター 阿部 羊子
海外宣教を支援する会の皆様へ人々の心に救い主の誕生を!そうひたすら願いながら働かせて下さい。聖母マリアと聖ヨゼフの取りなしによって、アーメン。 Merry Christmas and Blessed 2006!お元気ですか。私も元気に、喜んでタイ国での奉仕に励んでおります。今年は、待ち望んでいた志願者第1号をさずかり、5人家族で祝うクリスマスです。とってもうれしいです。姉妹たちと初心に帰って、よき手本になるように努めながら、未来のパウロの娘を見守り、育てています。名前はアティタヤー(太陽)、20歳。中学の頃タイの女子パウロの本を読んで知り、パウロのシスターになりたいという志を燃やし始め、ずっとあたためていたのだそうです。誠実さ、謙虚さ、信仰深い両親に恵まれた、奉献生活の召しあります。 パウロ書院も2年3ヶ月。"星のように静かに、確かに・・・"奉仕を続けて、喜ばれています。世界一小さい書院、カトリック総合病院のミニマートの一角にあります。 今年は、次のような出版物を提供しました。 ☆ "Finding your way through grief" (英・タイ語ポケット版)5,000部 ☆ 福音書(タイ語) "感動のイエスの生涯"とでも訳したらいいのでしょうか。(文庫版 368頁) 5,000部 ☆ VCDアニメ 10戒(タイ語吹き替え) ☆ VCD 10戒(英語版) 現在、"Women and Men in the Bible"(聖書人物物語)劇画集全8巻の準備中です。 教会の福音を宣べる使命を強く感じ、仏教の国でどのように喜びと平和の福音を人々に届けたらよいのか、絶えず模索しています。貧富の差は大きく、都会のほんの一部が高度成長に走り、電気もない不便至極なところが限りなく続いているのが現実です。機会を作って、タイ国の隅々まで知りたいと思い、出掛けるようにしていますが・・・広大な国ですね。 これからもタイのお米をたくさんいただいて、イエス様への思い、人々への思いを深く、強く持って、燃えて、奉仕していきたいと思います。 新しい年、神さまの恵みと祝福を・・・心よりお祈りしています。 レターヘッドの写真 2005年12月16日
ウガンダからのお便り(コティドにて)横浜教区司祭 本柳 孝司
主のご降誕おめでとうございます。長い間、連絡をとらず申し訳ございません。いつも会報を送ってくださりありがとうございます。 日本では、年末の忙しい季節? あるいは新年を迎えていることと思いますが、如何お過ごしでしょうか。この冬は寒さが厳しいと聞いていますが。こちらロヨロ(ウガンダ)では、乾季の真っ最中です。枯れた草が小金色に大地を染めています。 ウガンダでは、大統領選、議会員選、地方議員選を来年に控え、政情が不安定な状況です。こちらコティド県でも8月の下旬から再び家畜の強奪戦が始まり、過去数年問で最も激しく、その混乱に乗じて、車両への銃撃、殺人などの犯罪が多発しております。ロヨロでもこの3ヶ月で5回ほど近隣のある部族が村を襲撃しています。私もコティドへ移動中に家畜の強奪を終えたその部族の戦士に銃口を向けられたことがあります。 人々は、いつ命を落すかわからない状況の中で生活しています。特に銃を持たない女性、老人、子供たちが、大きな重圧をうけています。ただこのような状況を作り出しているのは、彼ら自身の戦士たちであるということも忘れてはならないでしょう。彼らは、被害者でもあり、加害者でもあります。 そのような中で私は、常に命の危険を感じながら緊張した毎日を送っています。 どうぞ良きクリスマス、新年をお迎えください。 2005年12月20日
シエラレオネからのお便り(ルンサにて)御聖体の宣教クララ修道会 シスター根岸 美智子
海外宣教者を支援する会の皆様へ
今年もあっという間に一年が過ぎました。ふり返りますといろいろなことがありました。悲しい大きな事故、災害、恐ろしいテロ、世界のニュースを見ていますと、どうしてこれほどと嘆きたくなりますが、永遠の日の窓口から覗いてみるとどうなのでしょうか?こちらルンサもうれしいこと、悲しいこと、たくさんありました。 ここルンサにいますと私を囲む人たちは私より後から生まれましたが、多くの人が私より先に神様に召されてゆきます。つい最近まで元気一杯で働いていた青年、娘たちが、今は過去の人となってしまいました。そのような教え子が今年も数人おりました。シエラレオネの平均寿命は38歳です。この数字をどうして出したのか、私には解かりません。何故ならほとんどの人が自分の誕生日を知らないからです。 キリスト様のお誕生日に因んで、今日はこちらの人々のお誕生日について書きましょう。こちらの人にとってお誕生日を知っている人はほんの少しで、ほとんどの人が知りません。毎年のことですが、生徒の調査書で一番困るのがこの生年月日です。ほとんどの生徒が知りません。"何歳ですか?"、"18歳です"、"何年に生まれましたか?"、"1993年!"。"冗談でしょう、それでは12歳ではないの、貴女はもっと年を取っていますよ" 。"あそうか、知りません" 。"お誕生日は?"。"ハイ、月曜日です。""いつの月曜日なの?""知りません" 。これが通常の会話です。 先日保険会社から調査が来ました。自分の生年月日の解からない人は、質問の生年月日のところに母親の名前を書いて下さいとありました。通常保険は60歳までの方にあるので、私は必要ないのです。でも私のように現職の校長を続けていますと、この保険金を政府から自然に引かれているのです。どうせ外人の私にはお金などもどってきませんが。年齢を書くとまためんどうくさいからと、書きませんでした。そして私は、生年月日を聞かれているところに母親の名前を書いておきました。愉快で顔がにやにやしてしまいました。日本では考えられない愉快なことです。こちらで人々は私を10歳から15歳位若く見てくれています。いつまで続くでしょうか?神様におまかせしています。今年も暖かいご支援をありがとうございました。たった3人の修道家族から今年はなんと12人とふくれあがりました。このうち6人がナイジェリア人のシスターとアフリカ色の濃い修道家族になりました。未来のアフリカの建設にはやはりアフリカ人のシスターが一番良いのかもしれません。経済的にはまだ自立ができませんが、少しずつ歩んでいって欲しいと願っています。残念ながらシエラレオネ人のシスターがまだとても少ないです。この戦争でほとんどの娘たちが暴行されましたので、希望は今の小中学生ですから、まだ長い道のりがあります。でも平和が続きましたらきっとベアトリスやジョセフインに続くシスターも誕生することでしょう。お祈りくださいませ。今年も暖かいご支援ありがとうございました。心から感謝申し上げます。来るべき年2006年こそ、平和と愛の年になりますように、また恐ろしい地震などの災いから神様が皆様をお守りくださいますように毎日お祈りいたしております。来年もよろしくお願い申し上げます。主の豊かな祝福を祈りつつ。 2005年12月21日
タンザニアからのお便り(ケモンドにて)聖フランシスコ病院修道女会 シスター藤岡 正恵
海外宣教者を支援する会の皆様へダビドの星の光に乗って幼子イエズスの祝福と惠みが豊かに注がれますように! ここ、ケモンド村の夜空は星の輝きで満ちています。オリオン座の三つの星の間に星雲が横たわり、名の知れぬ数々の小さな☆☆☆がその存在を競って示しているかのようです。 お元気ですか?スワヒリ語のコースを終えてケモンド村に戻ってきました。こちらは今、雨季が終わり、畑の一角に植えている蓬科のアーテミシアを刈り入れ、日中の強い陽射しのもとでマラリアのための薬茶を作っています。3ヵ月半の留守の間に手入れ無しでも、結構育ち、落ちた種から次の世代が10センチほどに育っています。 クリスマスを目前に教会の3つのコーラス・グループが連日、ドラムが中心の聖歌の練習に励んでいます。例年であればしばしば激励の声を掛けに行くのですが、今年のクリスマスは、手術のために急遽帰国した姉妹の留守番をしており、一度降ると川になるマーケットまでの細道を次の雨季までにと溝堀が中心の道普請で、毎日が駆け足で過ぎていきます。おまけに、鉄製の頑丈なはず(?)の網戸が5年にして箍が外れたり、一日に約300人の喉を潤す簡易水道の蛇口がたて続けにこわれたり、水圧が落ちて鉄錆色の水に変わったりのアクシデントで、 "静けき...真夜中..."のメロデイが待ち遠しさを越えて、...の日々となりました。 せめて夜だけは、の願いもむなしく我が家の番犬のけたたましい吠声に...! されど怒る前に夜が明けて....納得!!!。30センチもの鼠が一撃で仕留められていました。さすが逞しい我が家のワンチャン、しっかりとガード役を果たしていたのです。 このような最近です。クリスマスのご挨拶を、心の中ではお一人お一人に思っていたのですが、申し訳ございません。新年には心改め、メールいたします。クリスマスのノベナの祈りを通して心合わせております。 クリスマスの喜びと新たな年の祝福が皆様とご家族の上に満ち満ちますように。 タンザニアの子供たちからクリスマスのご挨拶 2005年12月22日
ブラジルからのお便り(パラナ州にて)横浜教区司祭 石川 裕之神父
海外宣教者を支援する会の皆様へ愛する皆さま、 主のご降誕と2006年明けましておめでとうございます。 大変ご無沙汰しております。私は相変らず大地のエネルギーに抱かれて元気一杯です。 早いものでご降誕が近づいてきました。今だから言えることですが、昨年の今頃は、ほぼブラジル行きが決まりつつあったので、これが菊名教会の最後のクリスマスになるのかと一人感傷にふけって皆さまとお祝いをしたのをよく覚えております。 "紺碧の空と真っ赤な大地から(その2)"として、現況を下記の通りお伝えします。 私は今、パラナ州(南ブラジル)の佐々木師がおられるフマニタスのあるコルネリオ教区におります。12月2日からカテドラルでクリスマスまで実習しております。そして27日には佐々木師の司祭叙階50周年記念ミサとお祝いがフマニタスで行われます。この日には2002年のフマニタス25周年より大勢の人が集まるそうで、今から楽しみです。よって、年末年始はフマニタスにいる予定です。さらに来年早々次の実習地、日系人の多いマリンガ大教区へ行き、それぞれ1ヶ月ずつ滞在する予定です。実習中の住所はフマニタスにしておきます。それぞれ80キロ、100何キロと離れていますが、ここでは隣りと言う感覚なようです。 さて、ここコルネリオは涼しい日もありますが、最近少し暑く、透き通る空の下で私は心躍らせてお手伝いさせていただいております。当たり前ですが、ずっと半袖なのですが、考えたら厳寒の日本はオーバーが必要なのですね。12月に半袖というのを私は気に入っています。うーん、やはり世界は広いですね。ですからクリスマスという実感がわかないです。 おかげさまでブラジリアでの宣教師対象のポルトガル語研修は11月11日をもって無事卒業、終了することができました。立派に証書までいただき、3ヶ月の長さにしては貴重な出会いと内容のある語学研修、宣教師としての養成を受けることができました。そして何より、一生付き合って行かれるような仲間に恵まれたことは、何より今後の大きな財産です。 その後でサンパウロのPANIB(日伯司牧協会、 私をブラジルへ宣教師として受け入れてくださった団体)会長のレオナルド松尾神父(コンベンツアル・フランシスコ会)の聖マキシミリアノ・コルベ教会でご挨拶といろいろ用事を済ます意味で11週間滞在し、11月18日に3番目の目的地パラナのフマニタスの佐々木神父さんのところに来ました。ここは23年前の学生時代も、フマニタス25周年の2002年も来た所ですので、自分にとっては家庭みたいなところです。 また一緒に働かれている長崎純心聖母会のシスター方も今年ブラジル宣教25周年を迎え、10月に総長様を迎えてお祝いしたばかりのようでした。25年という時間の長さを思う時、喜びも悲しみもすべて主に仕えるものとして捧げてこられたシスター方に改めて敬意を表します。 "ポルトガル語を学んで" 日本でイエズス会のある宣教師が日本語は悪魔の言語みたいに難解だけれども、この言語を習得できるのだったら私は気が変になってもかまわない、と言い切った覚悟は見習うべきですね。ポルトガル語の3ヶ月の研修中気づいたのは、どれだけ動詞とその変化を覚え、身につけるかにかかるような気がします。もう大分慣れたでしょう、日本語よりポルトガル語の方が自由に話せるでしょうとか、多くの方に言われますが、簡単な会話はともかく説教やゆるしの秘跡や日常会話など、いろいろな言い回しを聞いたり、読んだりして、まだまだだとその道のりの長さを思う時、落ち込んでしまうこともしばしばです。さらに英語の単語とも似ているものも多く、すぐ覚えるのにはいいのですが、ただその分今度は英語のスペルをポルトガル語とはいくらか違うので間違えそうで困ります。何でもそれぞれをシステマティックに学んでいかないと駄目ですね。濱尾枢機卿さんに「何歳になっても語学はセンスさえあれば大丈夫だよ」とおっしゃっていた言葉が今、身に沁みます。 "日系人の多い2つの町 − Assai と Urai " 11月27日待降節第1主日に「Assai」と言う町にミサに行きましたが、ここはもともと「朝日」と言う名前だそうで、また12月19日には佐々木神父さん金祝50周年の祝いで、今度は「Urai」という町へ行きました。どちらも日系人の多いところです。もとはインディオの名にも由来しているようですが、朝日があるのでその裏ということで「Urai」という町名になったそうです。どちらでも日本語のミサを捧げ、それだけでは十分でないのでポルトガル語も加えると言った感じでした。 Assaiでは私が3ヶ月ぶりに日本語で司式させていただきました。そして終わると宴会と言うか寄り合いみたいのが始まるわけですが、皆さんどちらかと言うとポルトガル語の方が自由だと言う方がほとんどでした。ここが大きなポイントのように思います。つまり今までは少なくとも私が始めてブラジルへ行った23年前はまだ1世が多く、日本語はしっかりとしていたような感じでしたが、現在は亡くなった方も多く、主流はだんだん2世、3世に移りつつあります。2世と言ってもご高齢の方も多いし、1世と言っても3歳とか5歳のときに親と一緒にブラジルに来たと言う方が多いようです。よって、これから日系人と関わる時もポルトガル語もできなければコミュニケーションは難しいと言うことができます。両方できないと司牧には難しいようです。Uraiで日本語の説教を佐々木師の代わりにさせていただきましたが、コルネリオの日系の方々と帰りの車中「説教はわかりましたか?」と聞いたら「Nada(全然)」と返ってきて、あれれ?とガッカリしました。本当に時代が変わっていることを強く実感いたしました。 "小教区で" この頃は待降節なのでいくつかの教会でゆるしの秘跡を手伝いに行きます。待降節最初の月曜日はここカテドラルだったのですが、何と9人の司祭で2時間弱かかりましたから「すごい」と言ったら、「雨のせいで今日は少ない方だよ」と言われ、拍子抜けしました。 何から何まで日本とは違います。毎日なのでなかなか大変ですが、喜んでお手伝いさせていただいています。人々の神さまに対するひたむきな姿勢を垣間見て、感動しつつ待降節の意味をかみしめております。こちらもミサには必ず聖体奉仕者がおり、一つの配慮でしょうか、初聖体前の子どもには普通のパン(皆こっちの方がおいしそうと言ってます)が配られます。 また聖歌隊が組織されていますが、ロック調やサンバ調もあり、手拍子を取りながら聖歌を歌うことも多く、何から何まで日本と違いますね。とにかく賑やかです。ミサが生きていますね!また先日は10軒くらい病者の方々をを日系の聖体奉仕者と一緒に回り、祈りと主日のみ言葉を分かち合いました。やはりカトリック国だけあって、田舎町でも数も回数も人数もすべて日本とは違います。 "ブラジルに来て恥ずかしかったこと" (1) ブラジリアで親しくなった韓国の青年が「神父さん、これからマーケットに買い物に行きますが、何か欲しいものありますか?」と聞かれ、何も無いけどと答え、帰ったら「プレセントです」と手渡されました。開けたら何と「電球付きルーペ」でした。「神父さんはいつも夜一緒に勉強している時、辞書が見えない、見えないというのでこれは良いと思って買ってきました」。嬉しいやら悲しいやらちょっとショックで複雑な気持ちでした。 (2)研修が始まって3週間足らずで、ミサをあげるようになりましたが、冷や汗をたらしながらミサをするというのを叙階後初めて経験しました。ミサーレを日本語は読むというより、見るという方が正確かもしれません。慣れないポルトガル語の単語が多い中で、つっかえてしまうこともしばしばです。みんな聞きづらくて申し訳ないなーと思いつつ、進めるのですけど、終わると汗びっしょりです。今まで何度もミサそのものはあげていても、言語が違うとこんなにも変わるものなのかと、改めて日本で当たり前のように日本語を話している宣教師たちに頭が下がりました。それでも人々はほめたり、祝福してくれたり、何と暖かい、愛に満ちた人々だろうと思いっきり励まされています。 ブラジル事情などまだ分かち合いたいこともたくさんありますが、長くなりましたので今回はこのくらいにします。皆さま2006年も実り豊かな年でありますように祈ります。 10月12日アパレシーダのマリアさま(こちらでは大祝日)の時皆さんと撮った記念写真とパラナの夕焼けの写真を添付させていただきます。 アパレシーダのマリアの祝日の際の記念写真-右から3人目が石川司祭 パラナの夕焼けの大地 2005年12月23日
フィリピンからのお便り(ケソン・シティにて)聖心侍女修道会 シスター 千葉 桂子
海外宣教者を支援する会の皆様へクリスマス、そして新年おめでとうございます。皆様のクリスマスが神様の愛で満たされたものでありますように! ごぶさたしております。例年のように美しいカレンダーのカードをありがとうございます。また「きずな」も。いつも皆様のお祈りと協力に支えられて、私のフィリピンでの生活は25周年目に入りました。日本のように季節の変化がないため年月、季節が過ぎてゆくのが感じられません。しかし、もう5人の大統領を経験してきて、いつも誰がなっても変わりばえがしません。落ち着いた政治ではなく、何時も引き下ろそうとすることばかりです。特に、カトリック国でありながら、あまり清廉な社会ではないということです。何時もカトリック、キリスト教的、福音的な精神が浸透するように、祈っています。 私のapostolateは多岐にわたっているので、かなり忙しい毎日ですが、皆様のお祈りに支えられて、元気に過ごせていることを心から感謝しております。 どうぞ皆様もお元気でお過ごし下さいませ。神さまの豊かなお恵みをお祈りしつつ。 2005年12月28日
カンボジアからのお便り(プノンクラオムにて)ショファイユの幼きイエズス修道会 シスター 園田 国子
ご降誕と新年の喜びを申し上げます。カンボジアのシェムリアップ州にあるトンレサップ湖の近くの村プノンクラオムからお便りしています。丁度この地に来て、3年目が過ぎました。子供たちの衛生教育から始まった活動が、現在プレスクールに発展してきました。地域の家庭訪問をしているうちに、赤ちゃんの栄養不足、死亡率の高いことを知り、どうにかできないか知らと、考えました。そのころミルク配給の援助をお願いしたら、頂くことができてとても感謝しています。 この地域のお母さんは、母体そのものの栄養不足があるので、乳が十分出ません。この写真のお母さんも10日経っても乳が出ないといって来ました。赤ちゃんは唯一このミルクが命の源ですから、たくさんよく飲みました。生後3ヶ月頃からお母さんも母乳が少しずつ出るようになりました。でも、風邪などを引くと、また出なくなります。ミルクを補給しながら、もう7ヶ月目になりますが、大きくなってきました。 このような家庭が多く、現在10件ほどに援助しています。6ヶ月過ぎると、殆ど母親さんも母乳が出るようになりますので、1年間をメドに補給しているところです。赤ちゃんはお陰様で、健やかに育っています。時折、病気がちな、ひ弱な赤ちゃんに1年過ぎても、補給する時もあります。本当にこの子供たちの命が、このミルクのお陰で救われて、元気で生きています。ありがとうございます。 簡単ですが、お礼と報告まで。心から感謝申し上げます。また、支援してくださる皆様のため心を合わせて、お祈りいたしております。 生後10日目の赤ちゃん 7ヶ月後のその赤ちゃん 2005年12月某日
パキスタンからのお便り(フェイサラバードにて)マリアの宣教者フランシスコ修道会 シスター 岡野 真弓
海外宣教を支援する会の皆様へ主のご降誕、そして新年おめでとうございます。 昨年もたくさんの方にご援助いただき、また地震の折には励ましとご心配いただき、ありがとうございます。皆様からのご援助で続けている活動状況をご報告します。 (1)結核プロジェクト 結核患者さんの診察、検査(レントゲンと血液検査)をし、抗結核薬を差し上げています。2ヶ月前から治療を始めた腸結核の6歳位の女の子は、高熱も腹部症状も軽くなり、本当に元気になっています。また、3〜4ヶ月前から治療を始めた肺結核の8歳位の女の子は、発熱と痩せてくるのに学校の寮のシスターが気がつき、当院へ送られてきて、治療が始められました。父親が結核なのに治療をせず、何度薬を渡しても途中で止めてしまうとのことです。病気への理解の不足が、家族内感染、小さな子供の発病に繋がっています。この子の場合は寮で気がつかれ幸運でした。治療開始後1〜2ヶ月で、発熱も咳も改善し、今回、外来に来た時は、体重が増え、顔がふっくらしてきました。 (2)訪問診療プロジェクト 週1回の病院から車で20分位のところにある教会内の診療所での診察、検査(尿、血糖検査)、当座の薬の無料配付をし、当院へ紹介した場合は、外来での診察、検査の半額援助をしています。ここでの活動の主な日的は、訪れてく近隣の人々に必要な医療上のアドバイスをすることと女性への健康教育です。妊産婦健診の必要性、妊娠中の注意などを説明します。また、薬に頼るばかりでなく、食事や運動の大切さの説明もします。毎週、20〜30人くらいが訪れます。上記の腸結核の女の子はここで発見され、当院へ送られてきました。 (3)付属助産婦学校援助 援助により、教師の給料と学生の会費が賄われています。また日本から助産婦教育用モデルや医療掛図も購入出来ました。寮のベット25個も新しくなりました。近隣の村からの貧しい家庭の女性(主に18歳〜一22歳位)54人が学んでおり、食費、学費は無料です。来年から政府の方針により学生数が72人に増えるため、学生寮と教室の拡張を計画中です。 (4)当院入院患者の支援 手術等の高額治療が必要な貧しい人が、善意の方々からの基金で助けられています。健康保険制度が無いため、貧しい人が重大な病気になると大変です。当院で入院費や手術代は無料にしたとしても、薬はバザールから買ってこなければならないため、この基金で助けられています. (5)若い女性への教育援助 2004年帰省中に頂いた2つの教会からのご援助で、2人が高校過程(FA2年過程)を始め、5人がカテキスタコース(1年)を、3人が英語コース(1ヶ月)を学ぶことができました。この国で上級教育を受けるのに英語は必須です。 (6)地震被災者への援助 10月の地震で当院は直接の被害を受けませんでしたが、被災者へ毛布や食料、薬品を送りました。また当院の看護婦シスター1人と当院で活動中の日本の海外協力隊員2人がイスラマバ一ドで援助活動をしました。また11月にはアボタバードのカトリック教会へ必要な食料を送りました。これらも皆様からのご援助によっています。 今年も私たちがそれぞれの場で、望まれていることを喜んで果たしていくことができますように願います。 2005年12月
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