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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES

宣教者の声

東ティモールからのお便り(ディリにて)

聖心侍女修道会 シスター中村 葉子
海外宣教者を支援する会の様へ
 クリスマスと新年のお喜びを申し上げます。今年も美しいカレンダーをクリスマスにお届け下さり、本当にありがとうございます。たくさんのカードの準備、封筒書きなどのお仕事のことを想像するだけでどんなに心を込めてお送り下さったことか、と深い感謝の気持ちで一杯になります。それと、海外の過疎の地では、一枚のカレンダーの入手もほとんど不可能です。貴重な貴重な贈り物です。
 お陰様で東ティモールでの生活も2年半になり、現地を知れば知るほど、長い植民地・占領地であったことの深い傷に触れ、立ち直りの難しさを経験しています。どうか相応しい奉仕ができますよう、お祈り下さいませ。
 皆様の日頃の寛大なご協力に心から感謝しつつ。
2004年12月25日



ソロモンからのお便り

サレジオ修道会 飯田 徹神父
 天のいと高き処には神に栄光、地には善意の人に平和あれ!
 海外宣教者を支援する会の皆様方
 2004年のクリスマスのお祝いを遅ればせながら、南の島国ソロモンからご挨拶申し上げます。
 先週はクリスマスの説教の準備に追われて、クリスマスメールどころではありませんでした。というのはクリスマスの3つのミサのために3つの説教を準備し、おまけに翌日は聖家族の祝日で、さらに新年は神の母聖マリア、2日はご公現を視野に入れて4つの説教を準備したからです。日本語で考えて、それを下手糞な英語に置き換え、それをさらにピジンに翻訳して貰うわけで、3倍もの手間がかかります。祭日の説教となれば、それなりに普段のものとは異なったものをと考え、資料をあたり、それを反映させようという訳ですが、決まり文句は別にして、如何に表現すれば良いか解らない表現を英語辞書にあたるというわけです。
 また話は変わりますが、先日送り出したコンテナーが、12月の3日にはホニアラに入港しているのですが、時期的なせいか税関職員がなかなか書類を通してくれず、何時コンテナーを受け取れるか気が気ではなかったのです。結局はクリスマス前には受け取れず、新年になってしまいそうです。後進国の非能率なお役所と言ってしまえばそれまでですが、ソロモンがこれから国際社会の一員として発展していく為には是正されなければならない点の一つで、ケマケザ首相も大変です。
 24日は朝6時半に教会で、7時半にはテテレプリズンで、ごミサをお奉げしました。プリゾナーたちにはクリスマスケーキ、あるいはパネトーネという訳にも行かず、ホニアラの街で市販されているビスケットをささやかなクリスマスプレゼントとして差し上げました。それでも普段そういう機会に恵まれない彼らはとても喜んでくれました。
 そして夕方の6時には私は教会で、カペッリ神父様はタラウラ部落で、アンブローズ神父様はサリー部落で宵のミサをお奉げし、9時半には教会で3人で深夜のミサをお奉げする予定でしたが、カッペッリ神父様は時間までに戻って来ることが出来ず、私の主司式でアンブローズ神父様と深夜のミサをお奉げしました。
 深夜のミサが終わる頃になって漸くカペッリ神父様は戻ってきました、おそらく聴罪希望者が多くてなかなかごミサを始められなかったのだと思います。私が普段タラウラ部落を巡回する時は、最低でも1時間、平均1時間半くらいは聴罪に時間をかけています、おそらくクリスマスということで、2時間以上かかったのだと思います。
 深夜ミサの後、RTC(Rural Training Center:テテレ教会の西側の国有地に建設中で、9割方完成している)のサレジアン・レジデンスの食堂で、夜半の11時からイタリア人ボランティア、現地人協力者を交えて、ささやかなクリスマスパーティーが開かれました。
 調布神学院だったら、ターキー(調布カルメルからのプレゼント)の丸焼きとパネトーネが出るところですが、イタリア人ボランティアの婦人アルバが準備したジャガイモ料理とヘンダーソンで育てた鶏の料理、それと魚料理でした。コーラ、ビール等の飲み物で乾杯し、料理に舌鼓を打ち、食事が終わる頃になるとエスプレッソでした。勿論、エスプレッソの香り付けはグラッパで、飲兵衛の私はエスプレッソにグラッパを垂らすのでなく、グラッパにエスプレッソを垂らして頂きました。そしてカペッリ神父様からのクリスマスプレゼントが配られ、零時半頃解散、私はテテレの司祭館に戻り、バタン・グーの状態でした。
 25日、9時から教会でクリスマスのごミサをお奉げしました。流石にクリスマスとあって、お聖堂に入りきれない程の会衆が集りました。しかしお聖堂は熱帯地方のお聖堂に共通の風通しを良くした構造で、窓が大きく、ガラスが嵌っていませんから、お聖堂の横の庭でミサに与っていても、殆ど違和感がありません。司式は私一人でしたので、ご聖体を配るのにかなりの時間を要しました。普段の日曜のごミサですと1時間弱ですが、このごミサは2時間近くかかり、大汗をかきながらでした。
 御ミサの後、サンデースクールの子供たちに、イタリア人ボランティアたちが持参したサンダル、石鹸、手拭、小振りの丼、スナック菓子の詰め合わせをクリスマスプレゼントとして贈りました。スナック菓子は兎も角、サンダル、石鹸、手拭、丼という内容は、以前にソロモンに来てソロモンの実情を知っていなければ選べない内容で、感心させられました。
 翌26日は9時から日曜の御ミサ兼聖家族のミサで、終わったとたんに緊張が解けたせいか、疲れが出て、午後は休養という状態でした。
2004年12月27日



ペルーからのお便り(リマにて)

礼拝会 シスター 川俣 恭子
海外宣教者を支援する会の様へ

 皆様お元気ですか? 「きずな」とカトリック手帳どうもありがとうございました。手帳はとっても欲しかったので、私の気持が届いたのかしら?とびっくりしました。
 今日26日から1日まで、黙想会に出かけます。帰ったら、時間があるので、またご連絡します。良いお年をお迎えください。
ご降誕祭
 今年も、36人の街の娘たちと共に楽しい和やかなご降誕祭を祝いました。
 12月17日は終了式でした。トマシ司教様による感謝のミサをもって、今年も無事に終わることができました。今年2月から、私たちの訓練所を訪れて下さった、貧しさのゆえに街で売春していた若い娘さんたちは全部で135人、そのうち最後まで頑張って修了免状を手にしたのは20人でした。大半は、残念ながら、数日または数ヶ月で姿を消しました。でも、私たちは信じています。彼女たちの心に愛の種が蒔かれたことを・・・。私たちは何もしてあげられなかったけれど、少なくとも、彼女たちを暖かく抱擁してあげました。
 修了生の感謝の言葉『シスターたちは、私たちを暖かく迎えてくれました。私たちを軽蔑しないで、お母さんの心で接してくれました。ありがとう、私たちのママ!』に目頭が熱くなりました。神様に感謝の祈りをささげました。
2004年12月27日




カンボジアからのお便り(プノンクラオムにて)

ショファイュの幼きイエズス修道会 シスター樫野 寿美子、シスター園田 国子
 クリスマス、おめでとうございます。 早々に、クリスマスカード、ありがとうございました。
 今年は、カンボジアのプノンクラオムで2回目のクリスマスのお祝いをします。
 家庭訪問に行くと、村人はイエズス様の学校とか、イエズス様の病院とかいいますので、コペイのセンターと訂正しています。
 このことをいいことにして、村人はカトリックと知っている訳ですし、また、クリスマスは世界中でお祝いされていますから、すこしクリスマスの話をして、キャンドルサービスでもできたらよいと思っています。
 イエズスさまの誕生の話をした後、イエズス様はどこに生まれたのかとたずねますと、正解をちゃんと応えてくれました。その中でもうれしかったのは、イエズス様は自分たちの村、プノンクラオムに生まれたというのですね。言った理由を説明できないけど、そのように考えられる子供の感性はすごいなあと思います。後でスタッフに話すると、なるほどプノンクラオムではイエズスさまがいつも生まれていますねと答えが返ってきました。お寺を中心に広がっている村ですから、ちょっと宗教的なことに敏感ですので、注意しながらの一歩一歩です。
 海外宣教者会の皆様のお祈りと援助に支えられて、カンボジアでいきています。どうぞ、いろいろな国で働く宣教者のため続けてよろしくおねがいいたします。
2004年12月12日




コンゴー(キンシャサ)からのお便り(キンシャサ・ゴンベにて)

マリアの宣教者フランシスコ修道会 シスター中村寛子
海外宣教者を支援する会の皆様

 クリスマスと新年おめでとうございます。
 2004年も残すところわずかとなり、この一年間の私たちの上に注がれた神の愛に感謝しつつ、救い主、平和の君イエスキリストが希望と喜びを皆様ひとりひとりにもたらして下さいますようにお祈りいたします。いつもご無沙汰いたしまして申し訳ありませんが、今年のコンゴー民主共和国のわたしたちの関わった範囲の様子をお知らせいたします。
 2004年11月15日に私たちの会マリアの宣教者フランシスコ修道会の創立者福者マリー・ド・ラ・パッションの帰天100年祭を全世界の会員7,600シスターズが祝いました。それに先がけての一年間各管区(私たちは77ヶ国に存在しています)は、会長からの指示に従って難民のために奉仕することを各国の状況に応じて探し、貢献しました。
 私たちのコンゴー・キンシャサ管区は、2つのプロジェクトを選び一年間の関わりと経験を通して、これからもこれらの奉仕を続け、発展させて行くことにしました。それは次の通りです。
 1) 難民キャンプ ンガンダ・ムソロ(ンガンダとは広い場所の意)に診療所を開設
 2) 孤児院の設立
 これらの2つのプロジェクトの対象になる人々は、戦争によって全てを捨て、逃げねばならなかったり、追い出されたり、強制的に移住させられたり、あるいは捨てられたり、安心できる自分の居場所を持たない人たちばかりです。
 初めのンガンダ・ソロム(土地の名)はキンシャサ市内から65km、車で1時間ばかりの郊外の何もない広い場所に300世帯、約1,500人の難民が数年前からいます。1998年以来の東部地方の戦争から逃げてきた人々です。一口に逃げると言っても、簡単ではありません。北の国境を越えて中央アフリカ国へ逃げ、さらにコンゴー共和国(首都ブラザヴィル)を通過して、コンゴー河を渡り、自分たちの国コンゴー民主共和国首都のキンシャサに避難して来たという、気の遠くなるような移動をしてきたわけです。ほとんどの難民が家族を目の前で殺され、家を焼かれ、危険に駆られて逃げ出した辛い経験をしているので、誰も元居た村には帰りたくないと言っています。
 中には一家で逃げているうちに、母親、兄弟を次々に亡くし、おばあさんが赤ん坊のその孫娘と残され、ブラザヴィルにたどり着いて時、赤ん坊は髄膜炎に罹り、一命はとりとめたものの、後遺症で現在5歳ですが、歩けない、話せないで、車椅子に座らされたままです。他人の言うことは何でも解っているようですが、両手は勝手気ままに動き、何でも手当たり次第に壊し、電線を引きちぎって、自分の小指をなくしてしまいました。おばあさんは何時も悲鳴を上げていますが、この孫娘それが生き甲斐のように、いつも何かをしでかしています。
 難民キャンプの家は青一色です。家の形はしていますが、屋根も壁もHCRの白文字の入った青いビニールムンバ・シートで覆われています。あちおち破れてきて、現在雨季で、雨漏りがひどく大変です。しかし、一昔前にコンゴーで働いていた同じ会のスペイン人シスターが今もコンゴー人が好きで、忘れられなく、いつも助けてくれますが、この度も奔走して、テント・シート300世帯分をスペインから送ってくれています。1ヶ月以内に着く予定で、もう少しの辛抱です。
 ところで、マリアの宣教者フランシスコ修道会(その頭文字をとってFMM:エフ・エム・エムという名で知られています)のそこでの仕事は特に、医療面の奉仕です。その他、何でも頼まれますが、ケンカの仲裁に遠いところから修道院まで頼み込んできます。キャンプの診療所で手当てできない重症患者については市内の病院に入院、手術など必要な処置を頼み、診療費は支払って上げます。
 沢山の人々が自発的に寄付をして下さっています。うれしいのは、市内に4つあるFMM経営の学校の生徒たちがおやつやバス代から寄付してくれたり、先生たちも乏しい給料から、また同窓生たちが率先して協力してくれることです。イエズス会がすでに小学校を造り、300人位の児童が勉強しています。FMMがそこで働くようになって、イエズス会管区長が寄付をして下さいました。
 難民の中には2・3年済んでいる間にお金を儲けて、村の土地を買い(わずかなお金です)、家を建て、定住を決めて、難民でなくなった人々がいます。それらの家はもちろんビニール・シートは使ってなく、村人のような家ですが、一つだけ変わっているものがありました。それは外壁に張ってある一見何か分からない材料を使ってあり、全部同じ大きさの板状のものをきれいにきちんと張ってあります。近寄って、つくづく眺めると、配給されたミルクの空き缶を切り開いて、平らにし、几帳面にモザイク風に張ってあって、そのさび加減が何ともしぶい、良い感じを出していました。そんな家がもう4・5軒あって、物は使いようと感心しました。
 知恵を働かせて、新しい人生を切り開いて行くだろうと将来への希望を抱かせられ、明るい気持ちになりました。何時か他の人々も同じように落ち着いた安心した生活を持てるようにと祈っています。
 さて、第2のプロジェクトは孤児院の設立です。
 1999年にテレビ東京がキンシャサのドキュメンタリーを作製し、日本で放映したことを覚えておられる方があるかと思いますが、その頃ちょうど戦死したり、行方不明になった兵士たちの奥さんたちが子供共々、軍のキャンプから追い出され、未亡人キャンプとして市内の自動車修理工場跡をあてがわれました。
 一人のFMMシスターが軍属の看護婦として働いているので、シスターだから面倒を見るように命令されて、他のシスターたちも彼女を助けて、その人々と関わるようになりました。テレビにも写されていましたが、未亡人の中にはエイズに罹っている人たちがいて、亡くなった後、次々と孤児が出てきて、結局、そのシスター・コタムムが子供たちを引き受ける羽目になりました。
 彼女はその子供たちを知り合いや、家族に預けたりしましたが、どこも追い出されて、修道院の空いた部屋に仮住まいをしていました。その数は14人です。
 我々の創立者 福者マリー・ド・ラ・パッションが望んだからでしょうか、修道院内の空いた敷地に孤児院を建て、正式に管区の事業とする許可が本部から下り、これが全修道会で呼んでいる“プロジェクト・エレーヌ・ド・シャポテン”(マリー・ド・ラ・パッションの本名)の子供の家です。基礎工事を始めるくらいの費用の援助がありました。建築を始めているうちに、お金も集まることでしょう。何しろ“プロジェクト・エレーヌ・ド・シャポテン”ですから、創立者もこの可哀想な子供たちのため天国から奔走していることと信頼しています。
 この機会に心からお礼を申し上げたいのです。偶然に5年前に私についてのドキュメンタリーをテレビで観たある夫人はそれ以来毎月欠かさず、不幸な子供たちのために寄付を送り続けて下さっています。FMMの日本のシスターを通じて寄付して下さる方、バザーをして収益金を送って下さった幾つかの教会の神父様、信者の皆様、本当に有り難うございます。お陰様で、上記の子供たちだけではなく、エイズで両親を亡くした孤児の学費、栄養失調児の治療のために使っています。お陰でこれらの孤児たちはストリート・チルドレンにもならず、安心して学校に通えています。
 これ以外に摂理的に私たちの子供が増えました。エイズ孤児たちは両親が亡くなると、近親家族が家をとり、家を追い出され、行き着くところ路上生活をせざるを得ないということです。そういう子供たちの一グループが夜は教会の片隅に寝ているうちに、大人たちに女の子が暴行されたこともあって、その教会の主任神父様に頼まれ、借家にしていた修道院の持ち家に寝泊まりさせていました。それが、ほんの一週間前、隣家の子供の火遊びから火事になり、両側の4軒が続けて焼けてしまう被害にあいました。幸い日中だったので、けが人はなく、うちの子供たちも、他の被害者同様、衣類、学用品など全部焼けて、着の身着のままになりました。火元の隣の家族は逃げ失せてしまいました。保険制度など何もないので、補償は全然ありません。焼けたのは2階の寝室だったので、急遽修繕中です。
 責任者である神父様も不在中で、あるNGOに依頼して子供たちの生活の面倒を見てもらうことになったようですが、うまく行かないようなので、その9人の子供たちも孤児院に入るようになるでしょう。以前から学費などは援助していたこともあって、この子供たちは福者マリー・ド・ラ・パッションの贈り物のようです。
 この子供たちの中の一人は、魔法使いと言われ、焼き殺されるところを、FMMのコンゴー人シスターが助け出したのですが、この Sorcier (ソルシエ)−魔法使い、あるいは悪魔付き−という社会現象が最近非常に増えてきて、キンシャサの数知れないストリート・チルドレンの中で、4万人はこのソルシエと言われて、実の親からさえ家から追い出されているのです。老人であったり、子供であったり、無力な者が、最近特に子供たちが、このソルシエにされて、不幸の原因と名指しされ、家から追い出されるのです。
 新興宗教がはびこり、そこで子供たちは暴力で、子供自身何も分からないまま、“私は魔法使い”と自供させられ、家族から見放されて、街をうろつき、食べ物を探し、乞食、盗み、売春をして、路上生活をしているのです。生活が苦しくなって、食い口を減らすために性格の難しい子や、勉強のできない子、両親が亡くなって引き取られた厄介者の甥や姪、孫たちがそうゆうレッテルを貼られて、追い出されるのです。10年前にはこういうことはなかったのですが・・・。
 私たちが関われるのは、キンシャサ人口7百万人−毎日の生活費が1人あたり1ドル以下といわれる−のほんの一部の人々です。この8年間、戦争のために地方から逃げてきた、あるいは生活困窮のため都会に移住してきた人々は2百万人にも上り、この爆発的な人口増加も子供たちを苦しい環境に落とし込む要因になっているのかも知れません。
 来年2005年6月に行われる予定のコンゴーで初めての国民による大統領選挙にこぎつけ、新しい大統領のもとに国が正常な歩みをできるようになることを望むばかりです。
 こういう訳で、2005年はコンゴー民主共和国にとって非常に重要な年になるので、どうぞ皆様の力強いお祈りをお願いいたします。
 新しい年が皆様ひとりひとりにとって神の祝福、恵にみちたものとなりますよう祈りつつ。
こどもたち

食事をする幼児
2004年12月20日




韓国からのお便り(江原道横城郡にて)

聖ドミニコ宣教修道女会 シスター 徐 元子
明けましておめでとうございます。

 聖父の救いの歴史の中で、聖霊に導かれ、困難の中にも皆様方が力強く使命を果たして行かれますよう、期待と感謝をもって祈っています。
 2005年のとびらが開かれました。何か竹で言えば《ふし》のような感じです。宣教者たちが宣教地に行き、また帰国し、また宣教地の土となり、歴史は流れていきます。その中でひとしずく、私も韓国に来て20年、70歳になりました。身体は衰えを感じる今日この頃ですが、心は今からこそ宣教者の使命を新しく真剣に生きる時だと感じます。皆様方の暖かいご支援に励まされて、聖霊の力に信頼して歩き続けていきたいと心をひきしめる今日この頃です。
 皆様方の奉仕が世界中の各地で宣教する人たちの大きな支え、力になっていること思い、心から感謝をお伝えすると共に、今年も祈りと愛の「きずな」でより一層拡げ、固め、強めていただきたいと期待しています。
 ここ韓国でも今もって何十年前戦争から受けた傷跡がハッキリと残っています。これが癒されるためには、真実な私たちの生き方と時間が必要です。キリストの霊による毎日の改心が問われています。
2004年12月23日




イタリアからのお便り(アシジにて)

コンベンツアル聖フランシスコ修道会 司祭 瀧 憲志
ご降誕祭と新年のお祝詞を申し上げます。

 今年も降誕祭を迎える頃になりました。世界情勢はますます悪化してゆくようです。戦禍に苦しんでいる人々、国外に脱出もできない人々、難民と認定されずに拘束されている人々、また、日本では地震、台風、洪水などの災難にみまわれた人々・・・、回りを見回すと心痛む光景ばかりです。
 「21世紀は平和な世紀に.‥」と、皆が期待したと思いますが、現実は逆の方向に展開して行くようですね。
 ところで、アシジの聖フランシスコ大聖堂にはへロデ王の魔手からイエスさまを守るためエジプトへ避難する聖家族の絵も描かれています。同封の絵はがきをご覧ください。
 絵の説明ですが、2位の天使が措かれています。1位の天使は前方を向いています。ガイドブックには、前方を見ている天使は前方の安全を確認し、後方を向いている天使はへロデ王の追手を警戒していると説明されています。
 聖書には、「聖家族」の道連れには触れていないけど、ジオットは二人の道連れを描いています。 その道連れについての私なりの説明は以下のようです。
 「聖家族」は、今のわたしたちの言葉で表現すれば、「難民・亡命者」ごす。わたしたちの想像を絶するような、難儀・苦労を体験なされたお方たちです。
 人は誰でも、悲惨な目にあうとき「何故自分だけ・・・」、との思いを抱いたり、口に出したりもします。でも、このような時にも、「世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいるのである(マタイ28-20)」とのイエスさまの約束があります。
 ジオットの絵はそのイエスさまのみことばを想起しながら見ることをお勧めします。
 「聖家族」はわたしたちが、困難に遭遇しているとき、いっも「道連れになって下さっているのです。
 ジオットの絵には、「聖家族」が先に描かれています。お伴の二人は後からついて行きます。お伴の二人が先導しているのではなくて、「聖家族」が先導しています。
 「聖家族」が天使(神)の御保護のもとに先へ進んで行きます。これは、意味深長な構成です。イエスさまのご降誕が新約時代の幕開けです。時間的な視点からしても、「聖家族」のお三方は、わたしたちより先にいらした方達です。わたしたちより先に、後から来るわたしたちが体験するであろう、難儀・苦労を先に体験なさった方々です。そのお三方がわたしたちの人生の道案内をしてくださっているのですね。
 「足跡」という作者不詳の詩がありますね。砂浜に二人の足跡がくっきりしるされていました。 しかし、途中で一人だけの足跡になっていました。 ひとりが、「自分が難儀・苦労していたとき、君はわたしを見放した・・・」とぼやいたら、「砂浜の一人だけの足跡はわたしの足跡なのだ。君が難儀・苦労していたとき、実は、わたしが君を背負っていたのだ・・・。」という内容でしたね。
 ジオットの「聖家族のエジプトへの避難」のご絵をこの詩を連想しながら見ることも、絵の意味を理解する助けになると思います。
 戦争・テロの犠牲者、また、地震、台風、洪水の被災者たちが、多くの善意の人々の物心両面からの支援で困難を乗り越えて、明るい希望のうちに生活の建て直しが出来るように・・・。「・・・恐れることはない、わたしは、すべての民に及ぶ大きな喜びのおとずれをあなたがに告げる。 きょう、ダビデの町に、あなたがたのために、救い主がお生れになった・・・。」(ルカ2-11) この大きな喜びを、戦争の犠牲者、災害の被災者たちと分かち合いながら、主のご降誕を祝い、新しい年を迎えましょう!!!アシジより祈りを込めて。
こどもたち
2004年12月25日




チャドからのお便り(ベレにて)

クリスト・ロワ宣教修道女会 シスター 大畑 八重子
 主のご降誕と新年おめでとうございます。

 チャドのベレからクリスマス便りを送ります。
 南部サバンナ地帯の中にある村は、中心部のミッション・カトリック地区の周囲に小さな村が102もあり、広範囲に跨る地域と言えるでしょう。クリスマスの夜半のミサに参加された人々は、ほとんど中心部の人々で、半数以上が未信徒の方々です。近くに、プロテスタントの教会とイスラムのモスクもありますが、主の降誕の鐘が鳴りわたる夕刻、着飾った人々が三々五々と教会に集まりました。およそ3,000人くらいでしょうか。半数は子供たちですが、素足に布を身につけているだけかと思われる貧しい子供の姿が沢山目に止まり、せめて綿シャツ1枚だけでもクリスマス・プレゼントできたら、と胸の痛む思いでした。
 でも、その子たちの目は喜びに輝いていました。主の平和のあいさつの時、遠くの席にいる私のところまで握手を求めて次々と差し伸べられる小さな手に、どうぞ主の恵がありますようにと祈りながら、握り返しました。
 祭壇上に子供たちの手作りの馬小屋が飾られ、24日、日没後の午後6時、ゆるしの秘跡から始まり、お告げの祈り、ミサへと進められました。
 今年はコンポニァ会(スペイン)の主任司祭とベレ出身の神学校付き司祭のお2人の司式に、部族語の通訳(終身助祭的役割を担う男性)と真っ白い従者服に身を包んだ中高生、彼らの身のこなしはとても美しく、ミサに荘厳さが加わりました。先駆者であるカプチン会の神父様の並々ならぬご努力が偲ばれる思いでした。
 ミサは、フランス語、ナンチェリ語、ガンパイ語の3言語で進められ、典礼音楽はアフリカ特有のタムタムとダンス、かん高いあいの手が混ざり合った、非常にリズミカルなもので、幼い子供たちが一緒に手を打ち、踊る姿は、ほほえましいものでした。
 延々2時間余り続いたミサ終了後、教会広場で歌と踊りが繰り広げがれ、真夜中まで主の降誕祭を楽しんでいました。満天の月光ときらめく星空が色を添え、アフリカならではのクリスマスでした。
 私たちはミサ後神父様方と修院で、ささやかな夕食会を催しましたが、生憎、自家発電のバッテリーが上がってしまい、ローソクとランプの光での晩餐となり、これまた優雅な主の降誕祭にふさわしい一時となりました。
2004年12月25日




パラグアイからのお便り(ピラポにて)

聖霊奉侍布教修道女会 シスター林 静子
 海外宣教者を支援する会の皆様
 クリスマスと新年おめでとうございます。
 先日はマリア様とイエズス様の御絵のついたカレンダーをお送り下さり、また会員のお書きになったクリスマス・カードを嬉しく拝見いたしました。
 さて、こちらで日系人の司牧のために働くシスターたちは皆元気でおります。
 ホワキン・クルッカ神父様が12月22日(水)にピラポ教会にお越し下さいまして、3つのコロニア(イグアズ、ラパス、ピラポ)合同のクリスマス会をいたしました。
 イグアズからは貸し切りバスで25名参加し、ラパスからはそれぞれの自家用車に乗り合わせて、35名の信者さんがいらっしゃって下さいました。ピラポは会場とご馳走作りのお当番でした。
 午前10時からミサの前の幼児洗礼があり、4名(男児2名、女子2名)の子供たちが両親、代父母の見守る中で無事に洗礼のお恵みを頂き、その後におミサがございました。
 ミサ後、用意してあった地区のサロンに集い、昼食。それぞれのコロニアの信者さんたちが準備してきたコーラスの合唱がございました。3年前にはアルゼンチンのミシオネスからも北島神父様が20名くらい信者さんたちと参加して下さいましたが、ただ今は遠くに転任されてしまい、おいでになれませんでした。
 エンカルナシオンからは80kmの道をバスに乗って、シスター金永が一人の信者さんと一緒に参加されました。イグアズのコロニアから3人のノートルダム会のシスターが信者さんたちと一緒に来てくださいました。
 このようにして、毎年1回日系人の信者さんたちが集まることが出来るのは、とても意義があります。コロニアも40〜50年経ちますと、二世、三世の時代になりましたので、おミサの中のクリスマス聖歌も日本語とスペイン語を交互に唱いました。メロディーは同じですから、1節は日本語、2節はスペイン語という具合です。オルガン伴奏は三世の中学生にお願いしました。
 結婚縁組みによって、この3つのコロニアの日系人はお互いに親戚関係になっている人々も多数ありますので、この1年1回の合同クリスマス会は出会いの喜びにもなります。
 クルッカ神父様も来年満70歳、私たちシスターも歳をとって来ましたので、日本から若年の宣教者が来てくださることを希望しております。移住地の中で召命があればよいのですが、日系人は少子化のために自分たちの子弟の中から聖職者を望む人は少なく、またあっても残念ながら途中で挫折してしまうのです。
 何時も「きずな」をお送り下さってありがとうございます。2005年が日本の教会にとってお恵みの年となりますよう、祈りつつペンを置きます。
2004年12月25日




カメルーンからのお便り(ドゥアラにて)

マリア援助修道会 シスター佐藤 浩子
 主のご降誕と新年のお喜びを申し上げます。

 2004年、私どもの宣教活動のためにご支援を頂けましたこと、心よりお礼申し上げます。
 乾期も最も厳しくなりました。診療所周辺の人々は水道の断水もあって、ますます私どもの井戸水を汲みにやって来ます。長い列が毎日できています。今のところ毎日2時間の給水を行っています。人々は大変感謝しています。
 2005年、皆様のご活躍をお祈り申し上げます。

クリスマスイラスト

2004年12月末



ハイチからのお便り(ポートプランスにて)

無原罪聖母宣教女会 シスター 本郷 幸子
海外宣教者を支援する会の皆様

 カトリック生活、あけぼのを3回にわたりお送り下さいました。小包確かにとどいております。音沙汰のない受取人で、大変失礼しております。皆様方のご厚意に改めてお礼申し上げます。
 大統領の追放、警察の弱体化、解体された旧軍人の不満、アリステイド元大統領を支持する人々との抗争で国は荒れています。今、首都に来ていますが、足止めに会い、外出ができませんでした。
 学校の子供たちは新学期が例年より1ヶ月遅れで始まりました。給食も当然遅れてですが、初日は給食の席に着くなり、一斉に食事に取り付き、どんなにか空腹であったかを物語っておりました。
 3年間の識字教室ですが、子供たちは勉強ができるのを喜んで、通学して来ます。子供たちの収容人数が決まっていて、新しく入学できずにいる子が友人にさそわれて、入学させて欲しいと子供同志で頼みに来ます。
 私が仕事をしている教室は午後の空教室を使わせてもらっているので、希望が全部かなえて上げられずに、断るつらさを味わっています。
 今後とも皆様方のボランティアのため祈らせて頂き、共に支えられつつ教会のため働ける喜びを伝えたいと存じます。先ずはお礼と近況まで。 祈りのうちに。
2004年12月某日




ブラジルからのお便り(アモレイラにて)

長崎純心聖母会 Ir.Vincentia学園シスター一同
 皆様お元気ですか。おかげさまで2004年を無事に終わることができそうです。
 今年は25周年という節目の年でした。多くの方々に助けていただき感謝しています。個人的にもー年中いろんなことがありました。精神的に少し深くなったのではないかと?神様を近くに感じることもありました。神様への信頼と謙遜な態度を学んでいます。
 さて、9月の第二回春祭りは大風と停電でメチャクチャになってしまいましたが、利益は去年を上回り驚いています。お年寄りの家の天井張りが目的でした。10%を教会の屋根の修理に寄付して材木を買いました。
 理事の方たちと材木を買うために何回も出かけました。何時問もかけてあちこちの町を回り、ここはというところで安くしてくれるように頼みます。私は−緒に立っているだけです。理事の方たちから「シスターは何も言わないように」と念を押されています。こちらが恥ずかしくなるくらい理事さんたちは粘りますから。理事長の神父様は教会の屋根の修理を手伝って腰を痛め12月に入っても回復されていません。神父様は2ヶ月ほど休養され、私たちのセントロも教会のミサも主任神父不在でした。
 12月には去年と同じように、クリチバの純心学園のお母さん方が子供達一人一人にクリスマス・プレゼントを準備して下さいました。おもちゃ、洋服、靴、お菓子が大きな袋に入っています。新しい靴と洋服はクリスマスとお正月、そしてフェスタ用です。
 子供達もまた、お年寄りのために時々寄付をもらいに歩きます。初めはとても恥ずかしくてたまりませんでしたが、今では割り切ってやっています。大切な仕事と思っています。それは町の人々を知る機会になるし、いろんなところでいろんな人にお世話になるからです。また、「お願いします」と謙遜の修業にもなります。宣教は今も昔も変わらないのではないかと感じます。人と人の関わりによって神様は伝えられて行くのだと思います。
 2005年は私たち純心聖母会がブラシルに来て25周年になります。早いものですね。
 アモレイラで初めて日系人の町長が誕生します。セントロのためにたくさんのプロジェクトがあるようです。楽しみです。
 今年一年間私たちは「生命である水」について祈り考えてきました。具体的に実行出来たのはわずかですが、神様が望まれている世界に少しでも近付いていきたいと努力しています。救い主イエス様が私たちの世界にご託身されるためにマリア様、ヨゼフ様の体験された苦しみ、喜びを多くの人々と思い巡らすことができるようにお祈りしつつ。
 ありがとうございました。どうぞ良いお年をお迎え下さい。
こどもたち1

こどもたち2
2004年12月某日




タイからのお便り(バンコクにて)

聖パウロ女史修道会 シスター阿部 羊子
クリスマスロゴ

私の右となりは入会を希望しているアティッタヤー
私の右となりは入会を希望しているアティッタヤー

天には神に栄光
地には人々に平和
メリー・クリスマス!

救い主のご降誕の恵みとお喜びが皆様と共に!

 クリスマスおめでとうございます。いつもニュースレターをありがとうございます。日本から宣教の輪が広がって行く様子をたいへん嬉しく思っています。
 今年は、4人の姉妹と共にタイに来て10年目のクリスマスを迎えます。手探りで迷いながらの日々も、主の恵みと導き、多くの人の好意と祈りに支えられて歩んできた道を振り返り、感謝の思いでいっぱいです。
 世界一小さいパウロ書院も生誕1周年、ささやかながらも人々への宣教の場となり、まだまだよちよち歩きですが、前進しています。FSPタイの出版物も店頭に並べられるほどに揃い、“星のように動かず、確かに・・・” 福音の宣教に活動しています。
 自社発行は*単行本…27冊 *CD…11枚 *VCD…2枚 *Video…1本 それに*洋書 -主にフィリツピンより- 小さな書院にぎっしり詰まって賑っています。
 待ちに待った版権使用の許可をいただき、現在28冊目、タイ語の福音書と使徒言行録(文庫版)の出版を準備しているところです。初のカトリック訳で、旧約聖書はまだ翻訳中。もうすぐ校了で、タイトル、装丁も準備中。仏教の国で関心はないのですが、教会外の人々に歓迎されるように、そして、福音がタイの隅々まで届けられるように、ただただその願いを込めて励んでいます。
 これからの大目標はタイ人の志願者を本気で探し、志願者の受け入れの準備をすることです。先日管区長訪問があり詳しく話し合ったところです。やはりフルタイムで募集活動にあたることが先決。タイ語の勉強を終えた4人目の姉妹が直接の担当になり、私が、今まで歩き回ったところでと連絡をとって、道ならし橋渡しをして手伝います。早速1月上旬から地方に出張、入会を希望している人の訪問開始です。
 現在、教会の広報室で勤務、ヴィデオカメラマンとして取材などで活躍しているマスコミ学科卒のケイさんが入会準備をしています。休みの日に修道院に泊り共に過ごしています。先日はおいしいパパイヤ・サラダを作ってくれました。
 現在、1人の姉妹は書院担当、もう1人は広報室常勤です。私は編集出版が主な担当で、展示即売、売店、委託、その他すべてはみんなで手分けしてやっています。新しい年も、姉妹たちと願い思いをひとつに、タイの女子パウロの会員を希望しながらがんばります。
 なすべき事々、大きな期待をいただいていることを考えると、微力さを感じます。神様に私どもの貧しさと、大いなる希望を捧げながら励んでいく決意です。
新しい年、スタッフのみなさまの上に、神様の豊かな祝福とお恵み、主の霊のお導きをお祈りしています。
 よいお年をお迎えくださいませ。
2004年12月某日




シエラレオネからのお便り(ルンサにて)

御聖体の宣教クララ修道会 シスター根岸 美智子
はるか日本の皆様

 ちょっと早いですが、主の御降誕の喜びを申し上げます。 幼きイエズス様の喜びと平和が世界中の人々の心に満たされますように!
 皆様いかがお過ごしでいらっしやいますか?かけ足の日本への旅はあっという間に終わってしまいました。52日間の今回の帰国は身体検査を目的にしていたものですが、日本に到着しますとやはり、あれやこれやでかなり忙しく、ゆっくり検査も出来ませんでしたが、さしあたり、一番気になる血糖値の検査と胃、目、肺、心臓の検査だけは受けました。
 年齢のため、少しずつ欠陥は出ていますが、血糖値を除いてはすべて大丈夫の青信号を頂きました。血糖値はやはり、高く、最後のチャレンジです。どうしても注射をしたくないのでこれからより厳しい食事制限をしなければなりません。アフリカでは野菜がないので大変ですが、日本のように食事が豊かでないから大丈夫でしょう。お祈りくださいませ。
 日本滞在中は大変お世話様になりました。皆様から暖かい歓迎を受け、励まされ、本当に私は支えられているとつくづく感じました。皆様にお目にかかりたいのはやまやまでしたが、限られた日程、たくさんの方にお目にかかれませんでした。どうぞ皆様お許しくださいませ。 
 今日は帰りの旅について書かせて頂きます。
 11月27日、10時25分発の飛行機で成田を出発いたしました。世田谷の修道院を早朝5時20分に出発しました。瀬田にお住まいの手を貸す運動の後援者のお一人、濱様ご夫妻が朝早くから私を見送りくださいました。アフリカではまさに見られない、美しい橋やビルのネオンサインに見とれているうちに成田に7時に着きました。
 空港にも早くから駆けつけてくださる後援者の方がいらっしやいました。皆様のやさしいお心、家族のような暖かさ、私は本当に恵まれているという幸せを深く感じました。日本中の皆様がシスターがんばってください、健康に気をつけて、祈っていますよと声援してくださっているのが私の心に深く響いてきました。ありがとうございます。皆様に支えられ、神様の聖旨の時まで喜んでお勤めを果たしたいと顔っています。
 機上から見る富士山は本当に見事でした。近く甲山々の上にくっきりと高くそびえ、まさに絵のようでした。美しい日本、さよなら!私の心はやはりここでちょっぴり寂しく、悲しくなりました。でもその−方、神様がご覧、私は本当、にうれしい、数え切れない日本中のたくさんの人々が自分の事を忘れ、かわいそうなアフリカの人々を助けようと支援され、かつシスターがんばれ、身体に気をつけて、いつまでも元気で、また帰ってきてくださいよ!と、宗教はそれぞれ違っても、アフリカ人のことを思い、こころから応援して下さる、この皆様の励まし、願いは自分を忘れ、隣人の愛に生きるすばらしい愛の祈りの花束なのです。
 宗教の区別もない、すばらしい私に向けられた愛の祈りなのだよ。この愛の祈りを聞くことは私にとってもうれしいことなのだよ、と私の心に語りかけているように感じました。私も新しい勇気でいっぱいになりました。ありがとう神様、ありがとう私の人々(皆さん)!
 飛行機の中はガラガラで私の周りには一人も人がいないので、疲れると横になることさえ出来ました。13時間の飛行の後、無事ローマに到着しました。
 私たちのローマの修道院は巡礼などの宿を経営していますが、11月はほとんどお客様がないそうで私が行った時も、誰もいませんでした。イタリアはテロの心配でお客様も少なく、大きな打撃をこうむっています。イタリアのためにもお祈りくださいませ。
 アフリカ行きの飛行機はいっぱいでした。飛行機はテンジン故障で2時間遅れて出発しましたので、シエラレオネに到着したのはすでに夜の8時半でした。そこから川底のような道を走り、ルンサには11時につきました。発電機も消えていましたので、ローソクの生活が待っていました。明るいのに慣れてしまった私の目には大変でした。
 修道院はつい最近、大きな雷が2度も落ちて、かなりの被害を受けていました。雷が落ちた時、発電機は消えていたそうですが、それにもかかわらず、無線ラジオや電気製品、配線が焼かれてしまいました。電気の専門家がいないので、そのままになっています。あまりの強さに人は立っていられなかったそうです。ここルンサは雨季の終わりには本当にすごい雷が何度もきます。どうしたら良いのか、日本でしたら避雷針をたてるのに、それが出来ないのは残念です。
 また、電話もテレビもインターネットもないルンサの生活に入りました。来週は学校祭が行われます。平和であることがどれほどすばらしいか、今年はまた、牛を1匹殺して、おいしいジェロフ・ライスを作ります。4つの学校の生徒が大喜びするでしょう。
 皆様ありがとうございました。今年は1年間、平和のうちに終わることが出来ました。来年こそは世界中が平和になりますように。これからもよろしくお願い申し上げます。
 感謝のうちに。
2004年12月某日