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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES

宣教者の声

ソロモンからのお便り(ガダルカナルにて)

サレジオ会 飯田 徹神父
+ 主の平和と善

 5月も下旬に差し掛かり、日本では夏を思わせる日々も多くなった事と思います、此方ソロモンは5月に入り天候も漸く安定し、暑い日々が続いています。暑い日々と言っても、湿度が下がってきたため、風通しの良い日陰にいる分にはそれ程汗をかきません。時折思い出した様に雷雨があって其の後晴れると、物凄い蒸し暑さになり、逃げ場が無くなります。しかしソロモンには熱帯夜が無く、日没とともに気温は30度を割り、明け方には25度近くになり、寝入りばなは少し蒸し暑く感じますが、夜半には涼しくなり、暑さで眠れないと言う事は有りません。
 次の日曜日はいよいよ聖霊降臨祭、神である御父の霊が、神である御子の霊が、そして神である聖霊がこの地上に隈なく降り、平和を実現していく力と成ります様に。ソロモンにも聖霊が豊かに注がれます様、皆様方のお祈りをお願いいたします。
 今回もまた「ソロモンにも目を向けてください」をお送りいたしますので、宜しくお願いいたします。

「ソロモンにも目を向けてください」
 今回はソロモンの医療事情についてお知らせしたいと思います、と言っても私が知り得た極狭い範囲でしかもガダルカナル島内だけですが。
 ソロモンでは社会保険制度が発達しておらず、健康保険と言ったものは有りません。ホニアラの中央病院は中華民国(台湾)の援助で建てられ、国営と言えど僻地診療所(Rural Clinic)は地元負担で建てられ、国から医師・看護士或は看護婦が派遣されています。中央病院や僻地診療所に勤務する医師・看護士、看護婦等は国家公務員で、国家から給与が支払われているのですが、国家予算自体が貧弱な為支払いが滞り、ストライキを行う事も有ります、国家公務員がストライキをするなど日本では有り得ない事ですが。医療機器・医薬品等は諸外国からの援助で賄われていますが、供給が滞る事も有り、中央病院は兎も角、僻地診療所は開店休業と言う事も有ります。しかし、中央病院や各僻地診療所は無料であり、私達のような外国人でも同じです。以前私がサンフライ(蚊でも蝿でもない毒をもつ害虫?)に刺された後を化膿させてしまい、痛みに耐えかねてテテレ教会の隣の国営診療所で受診した時、患部を消毒し、抗生物質の注射を打って貰いましたが、無料でした。また日本から来たヴォランティアーの一人が目を傷めた時、ホニアラの中央病院へ連れて行った時も受診量は無料で、日本の医療機関に向けた診断書発行手数料でなく、診断書用の紙代だけ請求されました。この様にソロモンでは基本的に医療費は無料です、「基本的に」と言うのは、ホニアラ市内には私設診療所が少数有り、これは有料ですが、それぞれの診療科目の権威の医師が開設しているので、其の面において信頼されており、経営が成り立っているようです。しかし私設診療所を利用できるのは、極一部の金持ちだけで、一般のソロモン人は経済的に貧しくて、中央病院か僻地診療所に頼るしか有りません。以前お知らせした様に国営診療所と言っても医師が常駐している訳でなく、経験を積んだ看護士や看護婦が診察・投薬・注射等の医療行為を行っていて、彼らの手に負えない患者は無線で中央病院の医師の指示を仰ぐか、ホニアラの中央病院へ送り込みます。テテレの診療所は比較的中央病院に近く(28km)、幹線道路沿いに在るので、患者の輸送も容易に行えますが、他の多くの診療所は正真正銘の僻地に有り容易では有りません。特に山岳地帯や南海岸の場合自動車の通れる道が無く、徒歩かカヌーに頼るしか有りません。言い換えると僻地の診療所に見放されたら諦める他は無いのです。それでも診療所が近くに在れば良い方で、近くに診療所が無い場所では(また小さな人口の少ない孤島にも有りません)諦めるしか有りません。しかしそう簡単に諦める訳には行かず、前回お知らせした様なカスタムドクターの薬草に関する知識が必要に成るわけです。しかしテテレビーチのカスタムドクターは例外的に高等教育を受けており、医療に関する知識も有りますが、全部が全部そうとは限らず、中には迷信・呪いだけのカスタムドクターも居ます。
 蛇足になりますが、ホニアラの中央病院には電気も有り、停電に備えて自家発電設備も有りますが、僻地診療所には電気は無く、電気を使う医療機器は使えず、水も井戸水や雨水で衛生的に問題の有る所も有ります。
2004年05月24日




チャドからのお便り(ギダリにて)

ショファイユの幼きイエズス修道会 シスター 入江 多嘉子
「きずな」のスタッフの皆様

 先日、フランスにある総本部から私の申請書が受理され援助金が送金されてきたと連絡してきました。 心から感謝申し上げます。 ありがとうございました。おかげさまでこれで安心して送った2人の学生の将来を見守っていけます。
 3月14日から20日まで、カメルーンの首都ヤウンデに行ってきました。 ギタリ診療所から送った2人の青年(1人は男性、もう1人は女性)の様子を見るためです。 2人は昨年9月にチャドから旅立ちました。ところが、奨学金の送金先で連絡がうまくいかず、学生の手元にすぐに届かず、難儀に会っていました。 診療所からは2人のために予定額より2倍の金額を送りました。 それなのに2人からはいつも金額不足を言ってきますので、思い切ってヤウンデに出発しました。
 私にとってもアフリカはチャドしか知らないので、他のアフリカの国を知るよい機会になりました。しかし、ヤウンデでは初日からタクシーのストに出会い足をなくしました。ヤウンデは長崎市のように坂道が多く、共通の交通手段はタクシーしかありませんでした。
 チャドは平面ですからバイクのタクシーもありますし、自転車が増えてきているくらいですから、これには驚きました。幸いに出会った宣教師の方々の善意でカトリック看護学校に行けました。
 校長のシスターにお目にかかって問題はすぐに解決しました。2人の学生にも会ってきました。2人共いろいろな困難に会ったようですが元気でした。奨学金を受け入れた時に、困難も受け入れるように助言していましたので、不満の爆発には会いませんでした。
 カトリック学校ということもあったでしょうが、忍耐強くこの2人を預かっていてくれました。すでに最初の3ヶ月で試験の成績を満たさなかった10人の学生が放校になっていました。2人の手紙でそれは知っていました。10人全部がチャド人だったので、偏見のようなものを感じていたようです。私はチャドの教育水準が低いと聞いていましたし、他の国へ留学しても、勉学についていけない状況を知っていましたので、驚きはしませんでした。
 しかし、2人にとっては民族の違いが恐かったようです。何年か前にチャドの首都ンジャメナでカメルーン人の学生の排斥運動がありました。アフリカの大きな奥の深い問題です。
 正直にいえば、奨学金を与えることには今まで躊藷していました。信頼できなかったからです。何人かの奨学生が戻ってこなかったのを聞いていました。むずかしいとしか考えていませんでしたから。私にとっても勇気のいる決定でした。しかし、スタッフの平均年令があがり、世代交代は優先課題となりました。チャド国内にも看護学校はありますが、国家免状の看護師になるには7年かかります。7年前から挑戦してきましたが、いつも失敗に終わりました。成績の問題もあったのですが、国内の情報網に困難があって、連絡不十分の面もありました。
 スタッフのメンバーはもちろん申請書の受諾を聞いてよろこびましたが、診療所の運営管理委員会のメンバーも、1月に開いた総集会に出席した地域住民もこのニュースを聞けば喜ぶことでしょう。
 昨年、2003年度の決算は赤字でした。先にも述べましたが、予定額の2倍の送金をしたことがひとつの原因でした。今年からは診療所の資金には関わってきませんから安心です。送金額が2倍になったのは、送金先がすぐに看護学校に転送してくれなかったことが原因でした。送金された金額は、学年度未まで十分に足りることが分かりました。診療所の会計は赤字でしたが、この決算報告は総集会で受理承認されています。この看護学校への派遣は2003年の1月の総集会で承認されていますので、地域住民の理解が得られ易かったと思います。
 地元だけではこのような奨学金を賄って学生を送り出すことはできません。将来を考えての計画です。順調に事が進んでくれること願っています。2人の奨学生はカトリックです。このことを通じて人間的にも信仰面においても成長するように祈っています。チャドの教会はリーダーシップをもった人材を待っています。
 最後にもう一度お礼を申し上げます。有り難うございました。
 今年、私は7月下旬に帰国を予定しております。日程が合えば、事務所までお伺いしたいと思っております。
 「会」の皆様の上に神様の豊かな祝福が注がれ、お一人お一人に必要な恵が与えられますようにお祈りいたしております。
2004年05月09日




ハイチからのお便り(ポート・プランスにて)

クリスト・ロア宣教修道女会 シスター 須藤 昭子
 日本は5月のマリア様の一番美しい月、沢山の花が咲き、暖かさも丁度と言うところですね。お陰様で検査室の機材を購入して、仕事を始めました。
 写真に写っているのは2人の検査技士です。元気で働いておりますの、他事ながらご安心下さいませ。
 サナトリワムの愚者さんの惨めさはエイズ患者の増加にともなってますます大変になっています。エイズと分かると家族が見放してしまうケースがあります。お葬式に費用を出したくないからです、多分出すお金がないからでしょう。私たちはお棺をつくって、敷地内に埋葬しています。カナダ人のボランテアの人がそのための寄付をガスペで集めて送ってくださいました。
 また先日「海外宣教者を支援する会」から検査室の設備となる機材の購入のための援助金を頂いて、準備中です。この手紙の着く頃はきっと検査室が活動しているでしょう。そして今20年前に建てて頂いた診療棟と重症者病棟がすごく傷んでいるので日本大使館に「草の根援助」の申請を準備中です。これが通るとこんどは建築監督もしなければなりません。
 日本と違って物の管理をしないと、消え失せてしまいますので、こんなわけで77歳になってもまだ休むわけにはいきません。どうぞ無事にプランが進みますようにお祈りくださいませ。
 そして木酢のプロジェクトについては、日本にハイチ人を研修生として派遣するというプランは、今のところ日本側から言葉の関係で今年は受け入れられないとの返事が来た段階です。一方こちらで研修会が開けたら、もっと大勢の人が研修を受けられるので、ハイチで研修会を開いてほしいとの希望があり、今そのことで思案中です。
 私がもってきた木酢のデモストレーションは成功で、沢山の人が興味を示しています。次の木酢がハイチに届いていませんので、今は一時休みです。もう暑いので丁度いいです。気温が30度、外は40度、湿気が60%、雨の後は100%の湿気です。夜は涼しくて眠れるのでさいわいです。相変わらず寝る子は育つです。
 ではこの辺でさよならをします。発電機がそろそろ切れるでしょうから。
検査機材を前に
1. 検査機材を前にしたシスター須藤

シグノ・サナトリウムにて
2. 検査技士と共にシグノ・サナトリウムにて

検査室の機材
3. 戸棚の中にキチンと収めた検査室の機材

2004年05月15日




シエラレオネからのお便り(ルンサにて)

御聖体の宣教クララ修道会 シスター 根岸 美智子
 シエニラレオネを御支援くださる全国、教会の皆様  遅くなりましたが御復活の喜びを謹んで申し上げます。コンテナ或いは支援会を通して霊的、物的にいつも暖かい御支援をありがとうございます。皆様お元気ですか?私は風邪を引いてしまい高熱が数日続きましたので学校を休んでいます、この時を利用しないと、と思い皆様にお便りしています。65歳を越しますと記憶力も劣り、物忘れも多くなりますし、動作もにぶくなるのでしょうか? さがしものなどに数時間とってしまったり、昔のようには行きません。残念ながら時間にふりまわされてしまっています。でもあせらず、忍耐しなければと自分に云い聞かせているこの頃です。
 さてこちらの最近のニュースをお知らせいたします。
 実は私の心は今悲しみに沈んでいます。それは聖なる私たちの心から尊敬するピータ・カルサ神父が今朝方亡くなりました。87歳でした。 彼はザベリオ会の神父として、最初にこのシエラレオネに宣教にきました4人の一人でした。1950年、当時まだルンサには道路もひかれていませんでした。4人のパイオニア神父の物語は私たちのすばらしい励ましと手本になっています。すでに3人は亡くなり、カルサ神父が唯一人残っていました。
 彼は歩く宣教師で一日何キロも歩いて人々を訪問し、困った人を助け、カルサ神父といえば皆ああ!と感謝と愛が皆の心からほとばしる神父でした。暑い太陽のもとで、ゆでだこのように真っ赤になってもくもくと歩く神父、87歳になってもあいかわらず帽子をかぶり、かなり遅いあゆみになりましたが、こつこつ宣教に歩み続けていました。
 彼の心はまさに坊やような純粋さを保っていました。謙遜でいつもすべてにおいて感謝していました。彼にまつわる笑い話はたくさんあります。彼は病院を毎日訪問するのが常でした。ある時、病棟をまわっていますと家族が意識不明の病状をみて、神父様、死にましたと報告。カルサ神父はてっきり亡くなったと信じてしまい、死者の祈りを家族と共に唱え始めました。祈っている時、病人が動き出し、あれ復活だ!後で大笑い。カルサ神父だからこの様な珍事件もおきるね、と笑ったものでした。
 彼の記憶力は抜群で、若い時イギリスで学んだシエクスピアのセリフを今でもすべて覚えていて、よく私たちに聞かせてくれましたし、スペイン語の霊的な言葉などもすべて暗捕していて、それを私たちに聞かせてくれました。
 彼は若い時はすばらしい説教師で、教会に来る信者の心を聖霊でゆさぶるようでした。彼について書いていましたら一冊の本になってしまいますからこれで止めますが、私たちはこの歴史的な人物、しかも聖なる偉大な宣教師を今日天国に送りました。どうぞお祈りくださいませ。
 彼は死ぬ前に自分が死んだら人々と同じように、棺はいらないから、白い布でただ包み、埋めてください、と言い残していかれたのでしたが、兄弟の神父たちの愛は、そうすることをしのぎなく思い、さっそく男子職業センターの校長のマリオ神父がピータ神父の棺を作りました。
 誰からも愛されたこの神父の葬儀には回教徒の学校からも生徒全員が参列し、別れを惜しんでいました。皆涙をながしながら、神父に拍手を送りました。ありがとうピータ神父、私たちすべての宣教師のすばらしい鏡でした。心から人々を愛し、一生を神様と人に仕えたこの宣教師において神様は賛美されますように。
 今度は明るいニュースも書かせて頂きます。5月8日はアフリカン・シノドスが行われてから10周年を迎えました。その記念行事としてヴァチカンからヨゼフ・トンコ枢機卿様が教皇代理としてシエラレオネを訪問されました。
 こちら北部マケニ司教区では4人の司祭と2人の助祭の叙階式、また洗礼式、堅信、結婚、さらに病人の秘蹟などすべての秘蹟がこの日に行われました。
 シエラレオネは毎年着実に司祭が誕生しています。戦争であれほどめちゃめちゃになりました教会ですが、神様の業はすばらしいですね。たしかに着実にシエラレオネの教会は発展しています。この式に参加した司祭は外人司祭が24人、そして現地人司祭は40人でした。
 25年前を思い出します。その頃はほとんどが外人宣教師で、現地人はまだ2人位でした。今、外人宣教師は歳をとり、或いは多くの宣教師が亡くなっています。召し出しの少ないヨーロッパやアメリカの宣教師はもう余りのぞめないでしょう。これらの年老いた宣教師の後継ぎとして現地人の若い神父たちが誕生しています。
 ここ北部で働く外入宣教師の国籍は様々で、イタリアが最大、そしてアイルランド、アメリカ、オーストラリア、フィリッピン、インド、メキシコ、ポーランド、インドネシア、ナイジェリア、そして私たち日本という顔ぶれです。神父、修道者合わせて外人は、おそらく80人位でしょう。現地人の神父が増えるのはうれしいことですが、経済的には貧しいアフリカ人には自立する力がまだありませんので、土地の神父たちはイタリア人司祭に助けられ、がんばっています。どうぞ一日も早くアフリカの経済が安定しますようにお祈りくださいませ。
 戦争の傷跡は深く、なかなか立ち上がれないのが現状です。私の働く職業センターを一例にとりますと、ここに来る生徒は日本で言えばドロップアウトの生徒たちなのです。
 基礎科の生徒は貧しさのために小学校も卒業出来なかったか、行ったこともない生徒たちです。センターで簡単な読み書きをならい、染色、洋裁、手芸、料理などの技術を身につけます。
 ここに来る生徒は全く月謝一つ支払えない者ばかりです。100%のチャリティワークです。洋裁科と家庭科は中学卒業程度の学力の生徒です。商学部は高等学校2・3年程度の生徒たちです。
 これらの生徒の多くは戦争の時、中学生或いは高校生でした。しかし反乱兵士に捕まり、暴行され、彼らの性の奴隷として仕えなければならなかったのです。それで現在、夫はいないが子供がいるという生徒がかなり多いのです。両親は殺され、自分は子持ちで働くこともできない彼女たちも、ほとんどスカラーシップで助けています。
 このようにアフリカでの学校経営は100%の赤字です。幸い先生のお給料は政府が出してくれますので助かりますが、そうでなければこのようなセンターを続けることは不可能でしょう。私たちの学校の授業料は昨年までは50ドルでしたが、物価の値上げとドルレートが変らないことで、今年は80ドルかかるでしょう。日本円で年間1万円と云うことです。日本ではそれほど大金ではないかも知れませんが、こちらでは大変なのです。ちなみに私のお給料は約1万3千円位です。こちらのお金で30万レオン頂いています。
 シスター白幡がこの度シエラレオネにもどってきます。最初のルンサ攻撃の後、私たちは散り散り、バラバラになりました。この間彼女は米国の保育園で働いていました。きっと大喜びでもどってくるでしょう。私も日本人が二人になるのでうれしいです。二人とも60代、決して若くはありませんが、やれるところまでがんばりたいと願っています。
 今年は修道院のメンバーが4人から12人に増加する予定です。少しずつ元にもどってきました。皆様のお祈りのおかげです。以前はラテンアメリカの会員が多いでしたが、今回は新しくやってくる8人のうち5人はナイジェリア人のシスターです。私たちの修道院もアフリカ色が強くなってきました。国が違っても、肌の色が違っても、同じ聖父を持つ私たち、心を一つに神様のためにやるだけですね。働かせて頂けることは大きな恵みとつくづく思うこの頃です。
 神に感謝。それでは皆様又日頃の御恩に深く感謝しつつ。
2004年05月某日