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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES

宣教者の声

パラグアイからのお便り(ピラポ移住地にて)

聖霊奉侍布教修道女会 シスター林 静子
海外宣教者を支援する会の皆様
クリスマスとお正月おめでとうございます。
 日本は冬でお寒いと思いますが、こちらは暑いクリスマスを迎えるところで、スイカやマンゴを頂いております。
 何時も「きずな」をお送り下さいまして、有り難うございます。お元気でいらっしゃいますか。先月のカトリック新聞で浜尾司教様がカルデイナルになられた記事が載っておりまして、大変嬉しく拝見いたしました。
 パラグアイ日系人の年中行事の一つとなりました3つのコロニア合同クリスマスは、今年イグアズ・コロニアで行われることになりました。ピラポとラパス・コロニアの信者さんたちは貸し切りバスで12月14日に旅行することになっています。
 年末は兎角行事がつまっておりまして、何時も早いクリスマスをお祝いし、クリスマス当日は、それぞれのコロニアの中央教会で別々にお祝いいたします。1年1回のこの出会いは、皆さんとても楽しみにしております。シスター・ホセフィナ山田もアスンシオンの聖霊会本部からイグアズに出張される予定です。
 私は2003年2月からピラポ移住地に転任になりましたが、月に2・3回はバスで通って、ニパス・コロニアの布教に行っております。結局、ラパスの支部を閉鎖しましたので、そのために日系人の布教者がいなくなったためでございます。エホバの証人とかルーテル教会の伝道師さんたちは熱心にコロニアで布教されております。パラスには牧師さんの住宅も建築されております。
 この度ピラポ移住地からシスター宮入 キワ子さんがアスンシオンのサンローレンツにある黙想の家の方に転任されることになりました。12月末日にサンローレンツに引っ越して行かれます。その新しい住所を下に書いておきます。
Hna Alma Teresita Miyairi
Casa de Retiro Espiritu Santo
Casilla Posal B-2010, San Lorenzo
Paraguay
 なお、私の住所は従来通りエンカルナシオン市宛にして下さいませ。1ヶ月に2・3回はエンカルナシオンに出張し、郵便局、税関などに行っております。本年初めにお問い合わせを頂きましたが、カトリックの雑誌、家庭の友、聖母の騎士、あけぼのなど月遅れのものがございましたら、布教のため送って下さいませ。船便ですと4〜6ヶ月かかりますが、エンカルナシオンには無事届いております。ここの国のお金の価値が低いので、日本の本は新しいもので、それに送料も入れると相当高くつきます。それで求めにくいのです。
 パラグアイでは8月15日に新しい大統領ニカノール氏が就任して、一生懸命国の家以前のために働いておられます。今までの政治が適切でなく、政府の高官が国の財産も外国に持ち逃げしてしまい、貧しい国庫でとてもやりにくい状態です。
 先生たちのストライキが2週間もありました。その補いのために学校の授業も延期になりまして、何時もは12月の初めに終わる卒業式も延びまして、私たちの学校もやっと12月16日に終了式をいたします。
日本の皆様の上に神様の祝福を祈りつつ、ペンを置きます。
2003年12月2日




コンゴーからのお便り(ブラザヴィルにて)

マリアの宣教者フランシスコ修道会 シスター高木 良子
海外宣教者を支援する会の皆様

 救い主イエス・キリストのご降誕のお喜びと新年のご挨拶を申し上げます。
 皆様の暖かいご支援をいつも心より感謝いたしております。「きずな」そして「宣教者名簿」を有り難うございました。
 国を離れておりますと郵便を受け取ることの喜びは、それは大きいのです。
 この度月遅れでもカトリック雑紙の希望者を募って下さり、有り難うございます。どうぞ「あけぼの」または「世紀」を送って下されば、有り難いです。
 ところで、9月29日から10月1日の3日間でしたが、曾野 綾子氏を団長に日本財団の方々がコンゴー・ブラザヴィルを訪問して下さいました。日本人がこの国を訪れるのは珍しく、私にとって大きな喜びでした。
 この国も内戦後、復興が目覚ましく、外国人が多くなりました。しかし、まだまだ安定した状態とは言い難いです。
 今は雨季、毎日雨に見舞われる近頃です。
 アフリカでもクリスマスの喜びはいっぱいです。ご支援有り難うございます。
コンゴー・ブラザビルのクリスマス・カードの図柄
コンゴー・ブラザビルのクリスマス・カードの図柄
2003年12月5日付




チャドからのお便り(ギダリにて)

ショファイュの幼きイエズス修道会 シスター入江 多嘉子
 主のご降誕と新年のお喜びを申し上げます。
 救い主の到来を喜びつつ、皆様お一人お一人のうえに、神様の祝福が注がれ、新年もまた幸多き年でありますようにお祈りしております。
 皆様のお祈りとご支援にいつも感謝いたしております。
 「きずな85号」に紹介されたクリスト・ロア宣教修道女会のシスター大畑は同じ教区にある“ベレ”という共同体に派遣されます。ベレにいるカナダ人の2人のシスターとライの共同体のメンバーとギダリのメンバーで元旦にお祝い会をしました。その時に写真を見せました。みんな心からシスター大畑の到着を喜びのうちに待っています。
 ベレとライはロゴン河をはさんでいますが、18kmと距離的にはお隣です。ライ教区にまた日本人が増えて、豊になることと思います。
 乱筆、乱文お詫びいたします。祈りと感謝のうちに。(12月10日付け 但し、フランスからの投函が遅れて、1月になったことをお詫びします。)
チャドからの版画のカード
チャドからの版画のカード
2003年12月10日付け




タイからのお便り(スリンにて)

ヌベール愛徳修道会 シスター村上 モニカ・森 清子・水元 文子
いと高きところには 神に栄光
地には 善意の人に
平和が ありますように
  平和の君 主イエス・キリストの御降誕 おめでとうございます。

 国際的、政治的、経済的、人道的に不安定な日々が続く中で、すべての人々が、真の平和、幸福を願い求め、互いにそれぞれの立場で働き、努力し、生きています。それでも、日々各地で起こる悲しい出来事の報道がくり返されている渦中にあって、犠牲になっている多くの人々に思いを馳せながら“この世を照らし 希望の光を与え、平和をもたらす”ために訪れてくださった 主キリストの平和の実現を切に待ち望みながら、クリスマスと新年のご挨拶を申し上げます。
 いつも皆様がご支援くださっている生徒たちが、クリスマスと新年にあたり、感謝の心を込めて、皆さまに自作のカード(ソーコーソー「幸せを送る」と言う意味)をお送りします。皆様のご支援により今年も今日を迎えることができました。ありがとうございます。
 今年の活動の状況をお知らせします。
1 奨学金制度関係
 a.卒業生との関わり
この奨学金制度を始めまして12年を数えます。この間、多くの生徒たちが巣立っていきました。当初、奨学生として受け入れた生徒が今は母親になっていて、その子供をまた奨学生として受け入れるようになりました。
 月に一度の奨学生のキッチャカン(活動)の日に、今は社会人になっている卒業生が、奨学生としての関わりを通して得た体験や学んだこと、感じたことなどを話し、今の自分の近況などを分かち合ってくれることもあります。奨学生たちは身近なこととして興味深く先輩の話に耳を傾け、感銘を受けているようです。
 今年中学校を卒業した生徒たちに、月に1回行われるキッチャカンのサブリーダーとして参加することを呼びかけました。これは彼らの経験を生かして、小学校一年生から中学校三年生までの生徒たちの活動に、計画の段階からスタッフを助けて自発的に参加していくものです。今は男子2名、女子6名が定着して参加しています。彼らは普通高校や技術学校に通っています。中にはすでに結婚している女子もいます。学校は5時までですので、ミーティングは5時半から始まります。でも卒業生たちは自分のためにもなるといって喜んで参加し、活躍してくれています。
 こうした奨学生との長い関わりの中で、共に歩んで行けるのは本当に力強く嬉しいことです。

 b.奨学生
 今までは、小学校3年生からを対象に奨学生としていましたが、種々の状況を考え、必要性に応じて例外的に小学校1年生、2年生も受け入れるようにしています。
 タイでは小学校から、学年の試験に合格しなければ進級できません。従って、10才で小学校3年生というケースもあります。

 c.学 費
 タイでは義務教育(小学校から中学校)に必要な授業料と教科書は基本的に国が補償することになっていますが、学校によっては国定教科書を使わないこともあり、その場合は生徒負担になります。また、教育内容の質が向上するに従って、副教材が高くつき、結局は今までと同様か、学校によってはテサバン3(市立第3小学校)のように、それ以上に学費がかかるところもあります。
 経済的に苦しい家庭の子供は、ますます学校に行きにくくなっています。

 d.家庭訪問
 少なくとも月1回の家庭訪問によって、家庭の状況、家族の問題などを見、聞きしながら子供たちのためにどうすればいいか、家族と共に考えながら歩んでいます。
 相変わらず仕事のない父親、両親が出稼ぎ、または離婚、死去などで祖父母、親戚に預けられている子供たちはあとを絶ちません。
 そういう中で最近ある奨学生の親から、経済的に自立できるようになったからと、奨学金を辞退するという嬉しい申し出も受けました。しかしこういうことは滅多にありません。
 家庭訪問をしていて最近よく目につくことは、学校から帰ってきた子供たちが、軒下(窓も電気もない家がまだたくさんあります)の台や床机で勉強している姿です。
 学ぶことの喜びを少しづつ実感しているようです。

 e.洋裁教室
 奨学生の中で希望する生徒を対象に、土曜日洋裁教室を開いています。
 平均して4、5名の生徒が参加しています。長く続けている生徒は、家族のためにもその腕を活かせるようになっています。また、シスターを補助して後輩に教えてくれるようにもなっています。これからは保護者にも呼びかけようと思っています。

2.移動図書
 a.移動図書は1989年頃から、村に住んでいたシスター・ホーマンによって始められました。当初は、子供たちが読む本のない村の11校に、本を回し読みするという極小規模な活動から始まりました。この活動を始めてから、皆様の理解あるご支援をいただき、現在でほ30校を対象とし、いろいろなカテゴリーの本120冊入りのBOX 15箱を、1ヶ月ごとに各校に移動しながら一人でも多くの子供が良書に接し、学んで行けるようにと努めています。
 学校の先生方も書籍の選定に協力するために自分たちで組織を作り、バンコクでのブック・フェアーにも同行し、移動図書の充実に協力してくださっています。

 b.読書指導
 移動図書の活動の一つとしてアジア・子供・教育センターの司書と共催して、読書指導を行なっています。一つの学校に1年に4回指導に行きます。子供たちはその日をとても楽しみに待っています。
 多くの方々の援助を受け、タイ国の教育活動が向上してきたのに伴い良書が少しずつ子供たちの目に入るようになってきたことは本当に喜ばしいことです。感謝いたします。

3. 歩行障害の少年との関わり
 私たちが貧困地域の家庭訪問をしている時、この地域の一角に、祖母、母親(知的障害者)と住んでいるこの少年の存在に気づきました。この少年は11才で生まれつき両膝の関節障害で立つことができません。右手にも障善があります。移動には手と膝を使っています。初めに声をかけたときには恥ずかしそうに、けれども明るい笑い顔で応えてくれました。「今一番望んでいることは?」 目を輝かせて即座に「読み書きができること」とはっきりと答えました。とても聡明な印象を受けました。少年は障害のため学校に受け入れてもらえないのです。その後スタッフの一人が彼の家に週3回午前中勉強を教えに行っています。乾いた砂地が水を吸うようにすごい早さで読み書きができるようになっています。
 度々祖母や本人と話合いを重ね、市の福祉課とも相談して、間もなく彼はコンケン市にあるリハビリと勉強のできる養護施設に試験的に行くためにスリンを離れます。彼は希望にあふれてその日を待っています。うまくいけば正式に入所することができるでしょう。これからも彼を応援していきます。
 スタッフは、これからは私たちの目に届かなかった彼のような子供を注意深く歩きながら見つけ出していくことの大切さを話し合いました。
 今年も大阪の聖母女学院の生徒有志30名が、6名の先生方と一緒に来泰する日が近づきました。生徒たちは、ウボンのミッション・スクールで交歓会を持ち、またスリンでは村の学校や聾唖学校で一緒に活動し、互いの親交を深めます。この交流は聖母女学院創立70周年の年に始められ、今年で13回目を迎えます。この交流を通して、聖母の生徒たちもタイの児童、生徒たちも互いに心に消すことのない、かけがえのない何ものかを受けるすばらしい出会いのときです。この日泰交流のためにご支援くださる保護者、先生方に心から感謝いたします。
 タイを訪問した女学院の卒業生の中には、ヴォランティアとして再びスリンに来てくださる方も増えてきました。こうした草の根の心と心のつながりが、地球世界の平和を促進していくことを信じています。
 最後に、クリスマスと新年にあたり、真の平和を祈り求めながら
 心からの感謝を込めて  

2003年12月15日




カンボジアからのお便り(シェムリアツプにて)

ショファイュの幼きイエズス修道会 シスター黒岩 あつ子・樫野 寿美子・園田 国子
支援者の皆様

クリスマスと新年のお喜びを申し上げます。
 いつも私どものためにお祈りと種々のご支援をいただき有難うございます。私たちは皆様のお祈りに支えられ、カンボジアで二度目のクリスマスを迎えることが出来ました。感謝のうちに過ごしています。
 14日には、プノンクラオムのセンターでクリスマスのお祝いをしました。青年たちに馬小屋を描いてもらって貼りました。その写真をメールで紹介したかったのですが、うまく送信できませんでした。こちらには羊はいないようで、描くと犬になってしまいます。そして、幼きイエズス様の足元に水がめを描き、コップが置いてありました。きっと暑いからでしょうか。それがとても新鮮に感じました。
 シスタールイズの英語クラスの子供たちが合唱をして、合間にクメールの踊りが披露されました。センターで練習が始まって3ヶ月ほどですが、上手に踊っていました。子供たちは目をキラキラさせて、真剣に見ていました。
 センターは人でいっぱいになり、後ろから「座ってください」と声がかかりますが、それも束の間、皆どうにかして見ようと必死です。そのあと、カレーとフランスパンの食事でしたが、500本用意したパンは足りず、すぐに買いに走りました。600人ぐらいの人数です。どこから来るのか分からないのですが、こんなにたくさんの子供の中にイエズス様の名前が知らされたことは大変なお恵みだと思いました。
 現在は小さい子供が多く、まめらない口で「ポンチュライ」と読んでくれます。私よりも上手でとても可愛いものですよ。私たちもこの声に勇気付けられ頑張っています。

■シエムリアップ教会では、木曜日の夕方回心式がありました。結構たくさんの人が集まっていましたが、殆どがベトナムの方でした。その間、ご聖体の顕示がありました。今まで見たこともない人たちが来ておられ、ベトナム人の信仰深さを目にした日でした。また、クリスマスには初聖体があり、8人が受けられるそうです。カンボジア人はそのうちの1人だけのようです。
 最近は涼しい日が続き、扇風機の要らないよい季節です。朝晩は靴下、長袖の服を着ています。昼間はこの格好では暑くてやっていけませんが。
 こちらのお正月は、復活祭の頃ですので、元旦は静かなものです。外国人だけが祝っているという感じです。

 新しい年も、皆様方お一人おひとりの上に、神様の祝福を祈ります。私たちのためにも引き続きお祈りくださいませ。
2003年12月20日




ペルーからのお便り(リマにて)

宮崎カリタス修道女会 シスター恵 英代
海外宣教者を支援する会の皆様へ
幼子イエズスと共に!
 2004年も皆様方の上に神さまの豊かな祝福とお導きをペルーのスラム・パンプローナから感謝をこめて祈ります。
 美しい日本のこよみと「きずな」を拝見し、毎日の宣教の励み、力、心の憩いとさせて頂いております。有り難うございます。
 さて、ひとつ気になることは、2000年に皆様方からいただいた寄付金 1,952.00ソーレスの残金を報告しないでそのままにしたことです。 この残金を建築費に使い、2004年に中学校の建設を開始し、どうにか図書室から少しずつ始めさせて頂きます。ここに遅まきながらお詫びとお知らせをさせて頂きます。
 図書室用の机・椅子を小学校建築費とし、用途を変更したことを申し訳なく思っています。4月、5月頃になると思いますが、図書室が出来上がりましたら、お知らせしたいと思います。悪しからず、お知らせまでにて失礼します。
12月に完成
1階は1991年にドイツのグループの支援で建設開始。2階は2000年日本の皆様、海外宣教者を支援する会、並びに曾野 綾子様とそのグループの方々の支援で。3階は2003年地元の父兄、職員と共に行ったバザーの収益金、その他の人々の協力で12月に完成。

建設途上のシウダーデディオスのサンマルティンシート学園
建設途上のシウダーデディオスのサンマルティンシート学園。2000年に小学校の建設を開始し、毎年少しずつ建て増し、2004年に中学校に当てる3階部分の増築を開始する予定。

教会の日曜学校の風景
教会の日曜学校の風景。現在この部分は信徒のバザー収益金できれいな教室になりました。2003年12月20日に祝別されました。全ては主への栄光のみを目指して。毎年スラムも少しずつ進歩し、きれいになりました。
2003年12月23日




ブラジルからのお便り(タピライにて)

タピライのカテキスタ会 シスター箕浦 マサ
クリスマスおめでとうございます。
福音センター建設のため色々とご尽力頂き、ありがとうございました。おかげさまで屋根が上がりました。よきお年をおいのり申し上げます。

(福音センター建設委員の方々からも次のような挨拶と写真が送られています。)

海外宣教者を支援する会の皆様!
ブラジル・サンパウロ州の僻地に建てられる福音センター建設資金のためご協力頂きました。主に於いて結ばれた皆様方のご友情に心から感謝をおささげしつつ、クリスマスと新年のおよろこびを申し上げます。
福音センターの建設現場の写真をご報告代わりに同封させて頂きます。ありがとうございました。よきお年をお祈り申し上げます。

福音センター建設作業
タピライ地区福音センター建設作業の光景−サロンの屋根を組み立て中

建設に従事する人たち
サンタ・カタリーナ教会の敷地内で少しずつ、でも確実に進められる建設に従事する人たち

出来上がったセンタ
出来上がったセンターの屋根と日本語学校の生徒(2003年11月)

カテシズムの勉強をする子供たち
カテシズムの勉強をする子供たち。センターが完成すれば、この子供たちが第一番にそのサロンの使用の恩恵に浴することができます。

カテケーゼの教室
カテケーゼの教室で女医の青木ルシア先生から衛生指導を受ける子供たちとその母親。
(以上の説明はサンタ・カタリーナ教会の主任司祭ジルセフ神父様によるものでした。)

Sr.箕浦と日系共同体の夫人たち
Sr.箕浦と日系共同体の夫人たち

2003年ナターレ




ペルーからのお便り(リマにて)

フランシスコ会 加藤 マヌエル神父
 新年のお慶びを申し上げます。

 この度は八幡さんを通じて海外宣教者を支援する会から60万円を喜びをもって受け取りました。 この援助を受けられる方々に代わって心からお礼申し上げます。
 ペルーの経済事情は、政治家のエゴと欲で国民は貧しさを強いられています。また長引く不況で今まで比較的に豊かな生活を送っておりました日系人もこの煽りを受けて、やはり因っております。若者はここ10年間日本に出稼ぎに来て、送金しながら各家庭を助けております。それだけでなく或る者はペルーに見切りをつけて家族まで日本に連れてきて、永住するつもりのようです。
 しかし、お年寄り、特に50年も60年も亜熱帯地で生活をしている一世の方々は、もう日本には戻りたくありません。
 この方々のために日本の色々な団体や、知っている方々の援助を仰いで、ペルーの政府から頂きました3千坪の土地の内、2千坪の敷地に日系人専用の老人ホームを建てて今、ここに15人のお年寄りが喜びと感謝の内に余生を送っております。
 この老人ホ−ムには個室のパビリオンと三人部屋のパビリオンがありそこには44人が入居できます。営利が目的ではありませんが、この事業を維持するためによく計算して見ましたら、必要経費が1人につき1月に3百ドルの計算がでました。しかし、その殆どの方がその半分の150ドルしか払えません。また払えない人も、あるいは150ドルの半分しか払えない人もいます。日本から仕送りしている方々も家族を連れて来ているために150ドル以上は払えないのが現状です。
 これを補うための一つの方法として日本で色々な方々の協力援助を願っております。またペルーでは日系人と特に入居している親戚が色々なものを持ってきております。このようにして目下、この事業の運営にあたっております。
 翌日のことは心配しないで、やるべきことを一生懸命やりながら、全てをご摂理にお任せしているのがこの事業の運営です。
 このような中での皆様の寛大な援助は感謝の内に受け取っております。改めて心から感謝を申し上げます。
 神様の豊かな祝福が皆様と御家族の上に有りますようにお祈り申し上げます。
2003年12月27日




フランスからのお便り(ジョンシィにて)

幼きイエズス修道会 シスター堀内 操
 いつも「きずな」をお送りくださいまして有難うございます。外国生活も長くなりました。いつの間にか日本が遠い国に感じる子の頃です。
 皆さんがとても苦しい中で一生懸命、神と人とのため働かれているのに勇気付けられます。人間のすることはいつもどこか不公平で強い者が弱い者を勝手に自由に使い、貧しい者はますます貧しくなります。神様はすべてご存知で、貧しく小さくされた人に御ひとり子をつかわされ、お救いくださると信じ、この2003年のクリスマスも大きな希望と信頼を持って、祝いました。貧しさは物だけでなく、心も貧しく、分け合う心を失いつつある文明国に対して、神様の「サバキ」を信じています。
 こうして私共は平和なクリスマスを祝えましたことを心から感謝しつつ、今なお戦火のもとに生命の不安、内戦で同国人が殺し合う、この矛盾に私の小さな心はいつも痛み、何もできない自分に対して神様にゆるしを願っています。祈り、それは強い強い信仰、それだけが私にできることを祈っています。平和のために、苦しんでいる人のために。
 幼きイエズス様がどんなに心を痛めておいででしょうか。こうしている間にもテロによる犠牲者が出ています。人間のエゴイズムのために。早く、早く平和になりますよう心から祈りつつ。
2003年12月29日




フィリピンからのお便り(ケゾンにて)

援助マリア修道会 シスター佐藤 満子
「会」の皆様
 いろいろなかたちで私たちを支え、励まし、お祈り下さっている日本カトリック海外宣教者を支援する会の皆様に心から感謝しながら、クリスマスと新年のお喜びを申し上げます。
 「きずな」と宣教者名簿をお送り下さり、有り難うございます。世界のさまざまなところで宣教活動をなさっている宣教者の皆様のニュースをとても興味深く読ませていただいています。励みと大きな力をいただいています。苦しむこの世界にエンマニュエルのまことの希望と信頼の恵がいただけるように、感謝と祈りをこめて。

 同上 シスター池田 多喜江
 大国のエゴイズムにより世界がだんだんおかしくなっていく今こそ、本当の平和が欲しいですね。しかし、多くの宣教者の草の根の愛と平和をもたらすため奉仕しているニュースを読めば、“力”が湧いてきます。海外にいる私たちのために、祈りと支援をして下さる皆様に心を馳せ、フィリッピンより祈りと感謝をお送りします。
クリスマスの飾り付け
クリスマスの飾り付け
2003年12月29日付




中国からのお便り(香港にて)

天使の聖母宣教修道女会 シスター蓬田 トシ子
海外宣教者を支援する会の皆様

 クリスマスのご挨拶、新年のおよろこびを申し上げます。新しい年もイエズスさまの愛と希望にみたされ、それを周りの方々に伝えて行くことができますようお祈りしいたします。
 よい降誕祭を祝されたことと思います。私は例年にないあわただしい日々で、自分のことは後回しになり、とうとうクリスマスカードも差し上げられず、すみませんでした。
 けし粒のような日本人カトリック会では2人の女の子(小2、幼)と家族4人の受洗と6人の初聖体がありました。手続きの書類や洗礼に必要な品々の手縫い仕事で、2日間夜なべをしました。うちのガタガタ老体ミシンは急ぎの時に限ってストを起こします。
 SARSでは様々の計画中止で、解除後は倍の忙しい思いをし、基本法23条反対の50万人デモでその威力を目の当たりにしました。何とかくぐり抜けたようにも思われますが、油断は禁物。
 すてきな話しを一つ。ひとりの信者さんに3人の娘さんがおります。長女が2年前のイースターに受洗しましたが、信者でない父親はその理由が言えないのでNoでした。イースターの1週間前に3度目のお願い“お父さん、神様は手が2本しかないのに、沢山の人たちのために働かなければならないの。だから私、神さまの子どもになって手伝いたいの・・・” パパは直ちにOK。今度は2番目の娘、“お父さん、神さまの子どもになっていい・・・”と頼んだ時、傍で長女、“お父さん、私洗礼受けてとても幸せだから、許してあげて・・・”と掩護射撃。パパは直ぐOK。そして三女の受洗もOKでした。私は三人の愛娘の言葉、“お父さん、私たち神さまの子どもになってとても幸せだから、お父さんも神さまの子どもになって・・・”。 そしてお父さんもOKと言ってくれる日を期待し、祈っているところです。
 私は体重変化なし、身長は自動的減価償却で2cm減、外見は若く見えるそうですが、お脳や中味は外見に比例していない感じです。しかし、皆さんに支えられ、働かせていただいています。神に感謝。
2003年12月30日




パキスタンからのお便り(ファイザラバードにて)

マリアの聖フランシスコ修道会 シスター岡野 真弓
 クリスマスいかがお過ごしでしょうか?
 今回は病院で産まれた子供達についてお知らせします。
 以前お話したシキラは肺結核で衰弱し、命が危ぶまれていましたが、9ヶ月の療養後、すっかり元気になり、その1年後、トマスが産まれました。そのトマスも、もう1歳半になり、先日、シスターたちが訪問にした時には、もてなすためお皿を抱えて歩いていたとのこと。活発な子だそうです。そのトマスにも4ヶ月前に、妹が産まれました。
 昨年のニュースでお知らせした、レハナの双子も1歳4ヶ月となりました。数ヶ月早く生まれてしまったためか、1歳の誕生日には、まだ歩くことが出来ませんでしたが、今は二人とも歩けます。この二人が、1キロ半弱で退院したときは、育たないのだろう、と内心、心配していましたし、昨年の12月には発熱と咳で二人とも入院してしまいました。皆様のご援助によって、薬を買い、暖かい衣服を差し上げることが出来ました。レハナ自身が病弱で母乳が出ないため、大学の同窓で長野で開業されている渡辺先生がミルクを送ってくださいました。
 近隣の村の訪問医療で出会ったオリバー(写真)も本院で産まれました。2度の死産の後の元気な男の子、母親そっくりの丸々した顔で、私たちが診療している机や椅子の下を探検しています。オリバーの母のシキラは今、妊娠4ヶ月です。
 訪問診療の一つの利点は、病院から離れた村の人々が私たちの病院へ来やすくなったことです。つい先日も、オリバーの母の、シキラの友人のファルザナが流産で大出血した時、私たちの病院へ直ぐ連れて来てくれました。家で様子を見ていて、手遅れになることもあるのです。ファルザナは2日で退院出来ました。
 訪問時には、咳、発熱、下痢、皮膚感染症の子供がたくさん来ます。結核に気がつかず、発熱と全身衰弱に悩まされている子供もいます。多くは、両親や家族の中に結核患者がいます。1人、結核の人を見つけたら、他の家族や、兄弟、子供たちはどうなのか聞き、診察に連れて来るように勧めます。
「海外宣教者を支援する会」からご援助いただいた、結核患者さんのための基金と、訪問診療のための基金で必要な薬が買えますので、安心して活動が続けられるのは本当にありがたいことです。
オリバー
シキラの産んだ男の子オリバーは診療所の机や椅子の下で探検しています。
2003年12月




チャック諸島からのお便り(トラックにて)

援助マリア修道会 シスター赤岩 恵子
 明けましておめでとうございます。
 9月からトラック出身のシスター2人と共に新しく修道院を創立し、トラック島にいます。信徒宣教者の山手さんも12月から英語研修のため、こちらに来ておられます。私はまた、新しくトラック語を勉強中です。
 到着して以来の共同生活についてお知らせします。

 トラックの創立が決まり、家探しは大変でしたが、以前、メルセス会が住んでいた古い修道院に住むことが出来るようになりました。 2003年9月9日に修道院に着いたときには、家の中には何も無く、修理が始まったばかりでした。その日は灯油ストーブ、灯油ランプ、ヤカンをそれぞれ1個ずつ買い、食堂にポンペイから持ってきたゴザを2枚敷いて、3人で寄り添って寝ました。 廊下にたらいをおいての洗濯、床の上での食事、そして、夜な夜な現れる鼠から食べ物を守るための工夫などキャンプのような生活です。 メルセス会のシスターが、床の上で食事をしている私たちを見て、古いテーブルをくださいました。 エネリーナとソフィーが勤めるセシリア小学校の校長先生が椅子を、アグルバート神父様(エネリーナのお兄さんでトラックの教会の司教代理)が、ローカル・マットを下さり、家のなかも少しづっ整ってきました。家の修理は10月末に終り、個室は勿論のこと、洗濯場、客室なども出来ました。

 SM.エネリーナとS.ソフィアMはセシリア小学校で宗教を教えています。 学校は、修道院の階下にあり、通勤時間30秒です。私、SM恵子はトラック語の勉強中。初めのころトラック語を聞いても音にしか聞こえませんでしたが、今では、意味はわからなくても、単語として聞き取れるようになりました。生活が厳しい時には、互いの協力は案外スムースにゆきましたが、生活が落ち着くとそれぞれのやり方、意見の違いから、互いに緊張を感じる機会が増えました。難しさを感じながらも、共同生活を宣教として生きたいという思いは、3人に共通していますし、互いに、喜び、痛みを受け取りながら成長しています。どうか祈りをもって私たちを支えてください。

PARVoSS について

シスター エレリーナ・ウムウェック
 この集まりは Priest and Religious Vocation Support System(司祭、修道者の召しだしを支える機構)という目的です。PARVoSSは、一人の男性信徒が始めた信徒の使徒職で、今では、トラックの教会としても、この会を支えています。PARVoSSの委員会は、神学校や養成の家にいる、若い人を支えるために寄付を集めていました。現地の人が、自分たちの手で、自分たちの神学生、修練者、志願者を支えようと思い立ち始めたものです。このことに私は、とても心を打たれました。地方教会の責任を認識し、現地の人々が自分たちでイニシアチィブを取っています。外部からの援助に頼ることなく、自分たちの使命として行っています。
 私は、この運動に心を打たれると同時に、この運動が続けられ、人々が地方教会における信徒の責任と役割をより良く意識することを望んでいます。
 愛をこめて!

新しい宣教への呼び掛け

シスター ソフィー・ロバート
 私の新しい宣教について初めて聞いたとき、嬉しさと同時に不安になりました。 
 「永い間、故郷を離れ、初めて自分の所で宣教を始めますが、何をしたらいいのでしょう」と、いっも祈っていました。神様に、自分の故郷の人々の必要に応えることが出来ますようにと祈っていました。絶えず、新しい宣教に対する不安があっても、故郷と人々に対する愛がいつも心にありました。
 今、新しい宣教、セシリア小学校の生徒を十分に助けていないという思いの中でもがきながらトラックにいます。学校は、教材さえも十分に備えていません。必要なものがなく、どうやって教えたらよいのかという疑問がわいてきます。時々、ポンペイのカトリック小学校とセシリア小学校を比べますが、二つの小学校は、随分違います。心配から解放されるため、二人の姉妹、エネリーナと恵子さんに感じてることを分かち合うことがあります。二人が、良く聞いてくれ、どうしたらよいかアドバイスしてくれることに、とても感謝しています。 祈りを通しても、もし私が不満ばかり抱いていたら、自分に出来ることを通して、学校を助けることが出来ないと感じます。信仰をもって宣教を生きることは、学校全体を助けるばかりではなく、私自身の養成ともなっています。 自分自身、とても良い先生とは思えませんが、学校に対する愛を持って奉仕することが大切なことと思います。
 どうか、トラックでの新しい宣教にある私たちを思い出してください。
 クリスマスおめでとうございます。愛と祈りをこめて!
2003年12月




シエラ・レオーネからのお便り(フリータウンにて)

御聖体の宣教クララ修道会 シスター 根岸 美智子
はるか日本の皆様
主のご降誕の喜びをつつしんで申し上げます。
 しかして御言葉は人となり給えり、我らのうちに住み給えり、この短いニュースがどれほど大きな、すばらしい知らせであるか、私はすぐ考え、感謝することなしに、この季節を迎えてしまうのですが、今日こそ、大きな喜びと感謝をもって皆様に主の御降誕の喜びを申し上げます。今年のクリスマスは、いかがお迎えでいらっしゃいますか?
 今年こちらルンサを振り返りますと、いろいろなことがありました。昨年8月、そして9月にもどりました頃はまさに荒れ果て、どこから立ち上げていいのか分からず、ボーっとしていましたが、皆様の心強い励ましと支えによって、ルンサも少しづつ元のルンサにもどってきました。
 内乱後のこの1年間、いろいろ変わったこともありました。まず1977年以来、私はここにいますが、日本からのお客様と言えば、手を貸す運動の佐藤先生、この国の支援のため井戸掘りに来られた方々、大使館関係、一度来られたヤングキャンプ神父様、コロンバン会の神父様方お2人、そして一度来られた関根神父様だけでした。しかし、内乱後の昨年9月からは次々と日本からのお客様を迎えました。9月には曾野 綾子さんを団長とする日本財団の方々が一日だけ、ここルンサにもみえました。その時は私たちの修道院には窓ガラスも枠もなく、ねずみ君はいつでも入って来る状態でした。ベッド一つありませんし、屋根は穴だらけでした。
 来客の半数は神父様の方の家をお借りし、後の方は床に皆さんご持参のスリーピングマットを敷き、カヤをつって、お休みになりました。ねずみの安眠妨害などあり、大変でしたが、これもアフリカの良い体験と言われていました。曾野さんは財団でなく、個人的になさっておられるNGOから、すばらしいトヨタの車を寄付していただきました。お陰様でこの車は私たちの唯一の足となって、今でも大活躍してくれています。
 今年の2月には日本大使がお見えになりました。私たちのこわれた校舎などをご覧になられ、何とかお手伝いしましょうと言ってくださいました。そして、5月には菅野美穂さんとフジテレビの方々が来られました。5日間ルンサに滞在されました。私たちのところは相変わらずこわれたままでしたので、修築中だったヨゼフ会イタリア人神父の修道院の部屋をお借りして、泊まっていただきました。菅野さんはかわいいお嬢さんで、お台所で皿洗いなどを喜んでお手伝いされ、お付きの人からこの方はね、大女優さんで、日本では近づきがたい人ですよ言われましたが、ここルンサでは全くの一人の娘さんとして楽しく過ごされていたようです。いろいろな所で撮影されたようですが、本番ではほとんどカットされたようです。それでも戦争のむごさ、平和への願いが日本の人々に伝わりましたら、うれしいことですね。
 そして、7月には今度は黒柳 徹子さんがユニセフ大使としてルンサにもおいでになりました。もう夏休みに入っていましたので、生徒もほとんどいませんでしたが、近所の生徒を集め、お迎えしました。黒柳さんは、私たちの所には政府から何も支援が届いていないことに同情され、大統領に会ったら、お話ししましょうと言われました。この間、日本からは個人的に4月に手を貸す運動の佐藤先生と一人の大学生、そして8月には北イタリアから12名の若者が夏休みを利用して奉仕活動に来られました。10月には関西の国際エンゼルの方2人が来られましたが、この時から私たちの修道院は修築がほぼ完成し、お客様を泊めることができるようになりました。
 生徒が机も椅子もなく、床に座って勉強している様子をご覧になり、120個の机と椅子を寄付してくださり、本当に私たちのエンゼルになってくださいました。事務用戸棚も1台ずつ幼稚園、小学校、中学校、センターにいただきました。そして12月には国境なき医師団の山本医師がNHKの方と一緒に、北シエラレオネのマプラカの病院を中心に撮影するため、シエラレオネに来られ、ここルンサにも寄られました。NHKでは1月29日に放送を予定されています。私たちの学校はその放送の予定には入っていませんでしたが、ここでの取材は、NHKスペシャル、地球データーマップ 673億人の地図というシリーズの一部として出るのだそうです。ルンサの小学校も撮られ、私もインタビューされましたので、少し出るかも知れません。お時間がありましたら、ご覧下さい。
 このように2003年は日本からのお客様が多い年でした。
 現実には、まだ小学校もセカンダリーも修復の手が加えられておりません。私たちもあちらこちらのNGOを回って歩いていますが、ここルンサは最後まで反乱軍の基地であり、かなりの元反乱兵がいますので、支援も後回しにされています。幸い私の働く職業センターは建物だけDEFIという英国の組織によって修復されました。これには日本政府の基金が回されているそうで、日本人の校長であるからと優先されました。日本政府に感謝です。建物は2学期から使用することになっています。青空教室さよならで、とてもうれしいです。
 でも750人のセカンダリーそして1、800名の小学校はまだです。どうぞ来年こそはせめて屋根、窓、机、椅子だけでも揃いますようにお祈りくださいませ。 幸い皆様のご支援で、手を貸す運動を通して4千人の生徒たちが毎日給食を頂いています。これはまさに現代の愛の奇跡と言えますでしょう。ありがとうございます。
 この内乱でほとんどの生徒は、反乱兵士や連合軍の兵士の慰安婦とされました。生徒の手記を見ていますと、涙なしには読めません。残酷なひどい体験を皆が持っていますので、心の傷跡も深いです。この生徒たちを少しずつ励まし、希望を与え、生活の手段を考えてあげるのが私たちの役目です。
 戦争は自己主義からきます。シエラレオネの内乱も不正の政治、腐敗した支配者、それを利用し、戦争に駆り立てる自己主義の指導者。その犠牲は小さい子供たち、罪のない一般市民、特に女性たちです。 平和の主キリスト様のご降誕を機会に、私たちは心から愛と真理がこの世を支配しますよう祈り、叫び実行していかなければなりませんね。
 神父様は今日の説教で、ところで貴女はどうですか?と言われました。 これは一人一人の課題ですね。どうぞいたらぬ私のためlこもお祈りくださいませ。皆様もう一度心からクリスマスおめでとうございます。今年も大変お世話lこなりました。来る年2004年もよろしくお願いいたします。皆様お−人お一人の上に神様の祝福を祈りつつ。感謝のうちに!
(12月某日日付け)
ルンサの教会のミサ
ルンサの教会のミサ

《シエラレオネの犠牲者たちの戦争体験記》

(以下の手記は私たちの職業センターにやってくる生徒たちが書いたものです。ほとんどの生徒は月謝が払えません。中には兵士に犯された際、悪い病気を移されたため、その治療費も負担してあげています。このような生徒には年間1万円は掛かります。でもこのような生徒こそ支援が必要と思い、皆様にお願いしています。ご協力していただける方がおられたら、嬉しいです。―シスター根岸の翻訳によるもの―)

1. マリア・コンテ

 10年間の内乱における私の苦い体験を書かせて頂きます。
 最初にルンサの町が攻撃されましたのは1995年の1月元旦でした。その時、反乱軍は朝やって来ましたが、町を占領することはできませんでした。そして二度目にまた攻撃して来ました。私は反乱兵士に捕まりました。私は彼らの行く所、どこにでも無理矢理に連れていかれました。彼らはどこでも、私たちを部屋に入れて閉めてしまいました。そうすれば私たちが逃げられないからです。
 どこでも攻撃が成功しますと、私たちを部屋から出して、略奪したものを私たちの頭にかつがせました。そして決まっていない、知らない目的地へと運ばされました。村から村へと裸足で移動しました。この間、良い食べ物も飲む水もありませんでした。時々ものすごく食料が不足しましたが、そんな時は、私たちに犬を殺して料理するよう命じました。
 誰であろうとそれを拒否すれば、殺されました。私たち捕らわれた者はほとんど、眠ることも出来ませんでした。夜、昼とジェットが飛び交い、いつ攻撃されるか分かりませんでした。
 私は反乱兵と共に6ケ月いました。その間、私は両親がもうてっきり死んだと思っていました。
 反乱兵から逃げるのに、幸運がやってきました。私たちは水汲みに行くよう命じられました。そこで私は出来るだけ早く、仲間より先に歩き、途中でやぶに隠れました。彼らは私の隠れている所を通り過ぎました。誰もいなくなったのを見とどけてから、私は一目散に逃げ出しました。一日歩いて、やっと私の知っている人々に会うことが出来ました。皆が私に再び会えて大喜びしました。
 しかし、私の到着は、悲しい知らせも待っていました。父は飢餓と寒さで死んでいました。何故なら毎日、外で寝なければならなかったからです、と聞かされました。それに私は、妊娠3ヶ月でたどり着いたのでした。それで男の赤ちゃんが生まれました。赤ちゃんはお腹が空いて、毎日泣きました。何もないので私と母は夢中でした。
 幸い私はまたセンターに来ることを許され、せめて手に職を学ぶことができるでしょう。どうぞよろしくお願いいたします。

2.テレサコンテ

 私にとって、最もひどい事が2001年3月8日朝の5時に起きました。ジュンタと呼ばれる反乱兵が近くのむらを襲った時、私はまだ寝ていました。その時、家族もまだ皆、寝ていました。
 5時半に私たちはものすごい大きな爆弾の炸裂した音を聞くました。その後、数限りない銃声が続きました。私も家族も皆跳び起きました。そしてその音はこちらに近づいているのでした。突然私たちは軍服を着ている、武装した兵士たちでした。彼らは私たちの敷地に入ってきました。そして家族の皆、父、母、妹が捕まってしまいました。彼らは私について来るように命じました。最初私は拒みました、すると私の足元にむけて銃をうちました。そこでいやいやついて行かなければなりませんでした。彼らは私にたくさんの荷物を与え、それを頭にかついで行くよう命じました。そして二日の間に20マイルも歩かされました。彼らはジャングルの中で私を残酷にとり扱いました。このような日が10日も続きました。
 ついに国連の反撃があり、反乱兵が逃げ散った時、私はやっと解放され、家にもどされました。しかし、私が家にもどりますと、父も母はいませんでした。そして家は荒らされ、焼け落ちていました。
 私は40日の間家族を尋ねね回りました。そして、ついにひどい状態の家族に会うことが出来ました。飢餓はひどい状態でした。食べ物を何も探し出すことが出来ませんでした。ついにカトリック・ミッションのマリオ神父が、私たちを命がけで助けに来てくれました。
 戦争の間、人々がこの神父様によって命を助けられました。私は反乱兵士によってレイプされ、妊娠し、一人の娘が生まれました。私は教育を続けて受けたかったのですが、この戦争はすべてを難しくしてしまいました。しかし、シスターを通して頂く皆様の御親切によってこのセンターでのコースを修了したいと強く願っています。よろしくお願いいたします。ありがとうございます。

3.マグダレナ・モッシマ

 1996年1月22日、私にとっては忘れないことが起こりました。反乱軍がルンサに侵入してきました。町のそこら中で恐怖の緊張がみられました。反乱兵士は複雑な武器をもっていますので、皆パニックになり安全地帯を見つけて逃げまどっていました。家族から皆逃げ出すように言われ、荷物を持って逃げました。
 私は家からまだ40メートルも行かないところで兵士に銃を突き付けられました。私は本当に驚き、何をしてよいか分りませんでした。私はエコモと反乱兵の位置を言えと強要されました。しかし私にはさっぱり覚えがないので知りませんと答えました。そこで私はひどく罰されました。(訳注:むちで打たれるのです)
 その後、彼らに付いてくるよう命じられました。私には選ぶことは許されません。ただ付いて行かなければなりませんでした。ルンサを出る時、人々は手足を切られました。そして後の者は彼らと一緒の所へと連れて行かれました。
 私はマイルという村についた時、すきを見て逃げ出しました。そして家にもどりました。家に着いてみると、父は殺されていました。残りの家族はどこかに連れ去られていました。私は悲しみと驚きで困乱しましたが、とりあえず父を埋葬しました。
 その後ちょっと静かになりましたので、私は自分の命を守るため、フリータウンに逃れました。そこで2000年までいました。そして、やっとこちらにもどってきました。私は今戦争で生まされた娘と今二人で住んでいます。働く場所もありません。せめて手に職をと、ここに来ました。どうか助けて下さい。

4.アミナタカビア

 1996年3月31日、6時半頃、私は自分の村で大きな銃声を聞きました。反乱兵が村にやってきて、私は跳び起きて父の部屋に逃げ込みました。同時に父も目覚め、父は家全体を見回ろうとしましたが、10分で家は多くの反乱兵に囲まれてしまいました。そしてすぐに彼らは父を探しはじめました。父は逃れようとしましたが、彼らの中一人が「奴はどこに行ったんだ!」と叫びました。父は、震えながらもゆっくりと答えました、「私はここにいる。」
 私は生きた心地がしませんでした。父は彼らに向かって行こうとしましたが、彼らは完全に武装していて、それは不可能なことでした。その中の一人が父を撃ち、父は死にました。と同時に彼らは次の村へと去って行きました。
 次の日、母と妹と私は助けを求めて、隣の村へ向かいました。そこまでは4日かかったのですが、5日目に私たちは、また叛乱兵に攻撃されてしまいました。私たちは逃げようとしましたが、母が足を撃たれてしまい、歩けなくなってしまいました。「神様、私たちは一体どうすれば良いのですか?」
 母は太っていたので半マイルさえも歩くことができませんでした。2日後、母は痛みのため立てなくなり、そして亡くなりました。しかし、私たちは母のためにお葬式さえしてあげられず、その村を離れ、次の村を目指しました。
 その村までは10マイルもあり、そこにもまた多くの反乱兵がいました。私たちがその村を歩いていると、一人の叛乱兵が恐ろしい声で話しかけてきました。私は逃げようとしましたが、逃げられずに捕まってしまい、彼らのキャンプに連れていかれました。私はそこで、妹と1ヶ月以上過ごしました。
 1996年5月14日、私は一人の反乱兵にレイプされ、同時に妊娠しました。2ヶ月後、妹がコレラになってしまいました。私は彼女を治そうと必死に努力しましたが、悲しいことに私は彼女さえも失ってしまいました。私はとても悲しく、また混乱してしまいました。
 「神様、私たちが再び出会う日まで、彼女たちに休息をお与え下さい。」9ケ月後、私は男の子を出産しましたが、3ヶ月後、その子もまた亡くなってしまいました。私は逃げようと心に決め、家にたどり着きましたが、悲しいことに私の家は焼き払われていました。そこで、私は生きるために街へと向かいました。 ある日、寝ようとして床に横lになっていたとき、学校に戻ろうと決心しました。より良い将来のために何かを学びたいと思いました。どうか手を貸して下さい。静一杯努力しますので、私の過去を考慮して頂いて、助けて頂きたいと思います。どうかどうか、よろしくお願いいたします。
2003年12月