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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『アジア』






『ご支援に心から感謝!』

〜パキスタン(ファイザラバード)〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 岡野真弓

 いつもご援助とお祈りによるお助けをありがとうございます。支援する会の皆様のおかげで2000年から結核患者さんへ薬の全援助と、栄養補給のためのミルク、豆、油を毎月1kgずつ差し上げることが継続できています、また、近隣の村の訪問も週2回、続けられています。昨年お知らせした肺結核の8歳の女の子は、9か月間きちんと薬を飲んですっかりよくなりました。彼女は自分の家から交通が不便で通えないので、病院から2時間ほど離れた当修道会の学校の寮に入っています。幼くして家を離れ、寮での共同生活は厳しいのでしょうが、このように教育を受ける機会を得られたことは本当にラッキーです、お父さんも結核ですが、途中で治療をやめてしまい、彼女にうつってしまったのでしょう。そのまま家にいたら気づかず放置されていたかもしれません。彼女は二重にラッキーでした。
 また、近隣の村の訪問で発見され、病院へ紹介されて来た6〜7歳くらいの女の子も、9か月後すっかりよくなりました。この訪問は2001年から私とペルー人の助産婦のシスターが、病院のスタッフ、学生を伴って始めたものです。昨年からはパキスタン人の看護婦であるシスターにリーダー役をバトンタッチしました。
 この活動の主な目的は診療して薬を渡すことだけでなく、地域の人々と親しくなって気安く病院に来てもらうこと、保健教育によって健康への意識を高めてもらうことにあります。病院は貧しい人々にとって敷居が高いようで、家で様子をみたり、土地の伝統的な医療や祈祷師にかかっているうちに、手遅れになることが多いようです。私たちの訪問地域から、流産で出血が止まらない人が大急ぎで連れてこられたときには、このようなっながりができていて本当によかったと思いました。もちろん彼女も数日後には退院できました。
 また、外国人がずっとリーダーではなく、土地のシスターやスタッフがこのような活動に意義を見出し、喜んで続けてくれるのもうれしいことです。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。








『水上の公立小学校』

〜カンボジア(コンポンルアン)〜
日本力トリック信徒宣教者会(JLMM) 高橋真也

 首都プノンペンから北に120キロ、トンレサップ湖(琵琶湖の4倍以上)にあるコンポンルアン水上村に、舟に浮かぶカトリック教会があります。JLMMは、2001年度より、カトリック教会と協力しつつ、この村に住む人々に基本的な保健サービスや識字教育活動などを行ってきました。水上村の7割以上は漁業で生活を営むベトナム人です。彼らはカンボジア語を話すことが出来ず、そのためにカンボジアの公共機関へのアクセスが出来ず、病院に行けない、子どもを学校に入学させることができないなどの問題を抱えています。その問題への取り組みとして教会は、ベトナム人の子どもたちヘカンボジア語を教えてきました。公立小学校に入学することを目標に、子どもたちは週に6日、毎日2時間、外国語であるカンボジア語の勉強を頑張っています。カンボジアの社会で生きていける可能性のある将来を夢見て…。
 9月に新年度を迎えましたが、わが識字教室の子どもたちも、今年は20名が公立小学校に入学することができました。その中の約半分は12歳以上。彼らも新一年生として小学校に入学するのです。はるか年下の子どもたちと一緒に勉強する12歳以上の子どもたちの気持ちを思うと、胸が一杯になります。
 公立小学校に入学できたからと言って、手放しで喜ぶことはできません。一昨年は24名の子どもたちが入学しましたが、半年の間に全員がやめてしまいました。理由は、カンボジア語についていけない、親が仕事の働き手である子どもを学校に行かせない、カンボジア人からいじめられるなど、さまざま考えられますが、一つには、通学するための舟がないということがありました、普通の家庭には1家族に1つの舟しかありません。そのため子どもが学校に通うために舟を使うことは困難なのです。
 その問題を解決するために、昨年子ども達のための通学船を購入しました。「支援する会」の暖かいご支援によって、この通学船を買うことができ、運転手もやとうことができました。そして今現在、昨年入学した16名の子どものうち、11名が学校に通い続け、新学期を迎えることができました。通学船のおかげで、着実に退学する子どもたちが減ってきています、本当に感謝しております。
 でも、まだまだ安心は出来ません。新しく入学した子どもたちを含め、これからも定期的なミーティングを行いつつ、子どもたちが学校に通い続けることができる道を、さまざまなアプローチから探っていかなければなりません。教育は子どもたちにとって何よりも大切なものであることを、日々の活動から感じています。子どもたちの勉強する意欲、あふれる笑顔に毎日触れることができている、自分の今の派遣を神様に感謝しています。そして、この派遣を支えてくださっている、日本の兄弟姉妹のご支援と祈りに感謝しています。








『南米』






『新政府になってちょっぴり不安も』

〜ボリビア(サンタクルス)〜
礼拝会 斉藤クニ子

 先日はカトリックの雑誌をありがとうございました。ちょうど一通り、二通り読み終わったところでしたので、また新しい知識や情報を得ることができて幸いです。
 日本は秋のすばらしい色取りの風景に包まれていることでしょう。こちらは蒸し暑い日が続いております。学校は10月で終わり、1l月は卒業式があちこちで行われます。12、1、2月は夏休みで、2月に新学期が始まる予定です、保育園は援助物資がないので4月ころまで始まるのは無理なようです。でも、親は子連れでは働けないので何とかしなければならず、保育園の経営母体は出費に苦労しています。
 こちらでは新政府になってから、ベネズエラやキューバの政権にならった政情となり、人々が教会から離れていくのではないかという心配が広がっているようです。各方面で国営化を主張しているので、カトリック学校も今後どうなるのか心配の種です。
 ボリビアから皆様のご健康をお祈りしております。






『参加者数も半端でない教区の青年合宿〜紺碧の空と真っ赤な大地〜』

〜ブラジル(アマゾン・パラ州)〜
横浜教区 司祭 石川裕之

 昨年8月12日にブラジルに到着して1年が経ちました。この広いブラジルで地理的にも政治的にも中心のブラジリア、南伯のパラナ州、そして現在の北伯、アマゾン・パラ州のカスタニャールそれぞれ研修、実習と回りましたが、5か所目にて任地がやっと落ち着きました。今回はこの夏に行われたカスタニャール教区の膏年信徒
の合宿についてお知らせしましょう。
 第1回青年徒歩合宿は7月26〜30日に開催されました。誕生して2年目の新生教区でのモットーは「青年」と「家庭」です。その一つに主眼を置き、徹夜で目的地まで36キロを歩き、さらに3泊4日の日程が取り組まれていました。パラ州東部のカトリック新聞(週刊、16〜20ページにもなる立派なもの)や地方新聞でも大きく取り上げられていましたので、かなり有名なニュースになり、参加者も3、000人を超えていました。テーマもブラジルならではの硬さもあって、「EM CRISTO, LIVRES DO PECADO. (キリストにおける、罪からの解放)」でした。実行
委員長はなんとカルロス司教です。そして教区中の司祭、修道者、全神学生も手伝いなどに駆り出され、また各教会からも婦人会が食事の世話などで、大勢泊り込んで手伝ってくれ、皆さんの意気込みを感じずにいられませんでした。私も食事の下ごしらえを手伝いましたが、なんとニンジンだけでダンボール4箱、おかげで手はまっ黄色になってしまいました。
 私とガブリエル師は木曜の仕事を終えるとすぐに現地に飛んだのですが、到着が夜中になり、辺りを見回したら皆ほとんど野宿で、ヘイジ(ハンモック)で死んだように眠っていました。海辺ですから風がとても涼しく、朝方には少し寒いくらいです、なかなかテントなどが間に合わず、何人か帰ってしまったようですが、無理もない環境でした。トイレもシャワー室も全て手作りで、黒いビニールで囲んだだけの質素なもの。3,000人ともなりますと合宿地はちょっとした村のようで、多くの青年が気軽に声をかけてくるのでした。
 翌朝、司祭たちも集まり、メインホールではサンバやロックの音楽が流れる中、踊っている青年もいれば、おとなしく祈っている青年もいます。その周辺に点在するココナッツツリーの日陰の下で、「ゆるしの秘跡」が始まりました。音楽以外にも聖書などの講演もありました。海辺の波の音、最大のボリュームで流すサンバ、何ともいえない雰囲気の中で多くの青年たちは、今回のテーマに沿って神妙な顔でゆるしの秘跡を受けるのでした。
 日本であればとてもこのような合宿は難しかったでしょう。司教が自ら進行役に努めることも、また夜中の徒歩でも危険や事故を想定するでしょうし、生活面でも食中毒や男女の交際など、いくらでも理由をあげて反対されそうな気がします。責任や保険など考えるだけでも、こういう合宿の発想は出てこないだろうし、出てきても実行する前につぶされるのが落ちだろうと、目をきらきら輝かせて楽しく参加している青年たちを見て、大きな相違を思いました。






『北米』






『ある農村の古い言い伝え』

〜カナダ(モントリオール)〜
師イエズス修道女会 原田昌子

 いつも私たちのために物心両面から支えてくださる皆様に心より感謝いたしております。私は毎日ドタバタしながらも元気に過ごしております。『きずな』や宣教者名簿、カトリックの月刊誌10冊と、次々に届く分厚い郵便物に胸をドキドキさせながら封を切りました。月刊誌は9月の月例集会に持っていって皆と喜びを分かち合いました。
 さて、このたび私は、モントリオールの共同体に移りましたの今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
 この絵葉書は、リガーというオタワとモントリオールの中間にある町の屋外聖堂です。あるとき一人の農夫が、隣人の忠告を無視して毎日曜日働いていました。ある日、その農央が突然姿を消し、畑のジャガイモがすべて丸い石に変わったという言い伝えがある所です。今も畑一帯が石ころばかりの所です。








『アフリカ』






『障害のある生徒を3人迎えて』

〜シエラレオネ(ルンサ)〜
御聖体の宣教クララ修道会 根岸美智子

 こちらシエラレオネは平和になりましたが、残念ながら貧富の差はますます激しくなり、富は首都に集まり、地方の人々はその日の糧にも事欠くというのが現実です。特に教育費など支払うお金がなく、生徒が学校に行かれなくなってきました。高等学校や職業センターなど義務教育ではないので、生徒数が減少しています。そんなわけで、私たちのセンターも100%奨学生に切り替えなければなりませんでした。月謝が払えないのです。センターの場合、年間170.000レオン(7,300円)、制服や文具、その他の経費を入れて2万円近くかかります。高等学校は1万3千円かかります。ルンサの人々には日々生きていくだけでいっぱいですから、教育まで考えられません。ですからセンターも本当に四苦八苦しております。
 今年はなんと聾唖の盗徒を3人迎えました。日本ですと聾学校があり、小さいときからある程度コミュニケーションが可能ですが、こちらは障害のある子供たちへの教育は考えられていません、当初そのうちの2人は小学校にも行っていなかったので、奇妙な声をはり上げるばかりでしたが、基礎科(貧しくて教育を受けられなかった女子のクラス)に迎えたところ、すごい集中力で学ぼうとしています。1人は美容を、2人は洋裁を翌っています。
 私たちは100%の赤字で職業教育をしていますので、ただただ神に信頼してその年、その年を過ごしておりますが、不思議に全世界の善意の方々のご支援があって無事、今日に至っております。
 最近、中近東のイスラム教がかなり入ってきたのを感じます。ここシエラレオネではこれまでキリスト教徒もイスラム教徒は仲良く共存していましたが、新しく入ってきたイスラム教徒は挑戦的なようでちょっと心配になっています。土地の良識ある人々も憂慮しています。かなりたくさんの中近東の宣教師も入ってきて、たくさんの女性たちがイスラムの女性のように、ベールをかぶって歩いているのが目立っようになりました。今はラマダンの季節で、女性たちは夜中に起きて食事つくりに忙しいようです。これからもキリスト教、イスラム教が仲良く暮らしていけますよう心から願っております。

「60歳過ぎた婆さんがヘルメットをかぶり、ホンダに乗っています。時にはすっかり年を忘れ、まさにケニアかどこかのラリーの選手になった気分でいます」とシスターのコメント。
「60歳過ぎた婆さんがヘルメットをかぶり、ホンダに乗っています。時にはすっかり年を忘れ、まさにケニアかどこかのラリーの選手になった気分でいます」とシスターのコメント。






『牛の小屋の拡張工事終了』

〜ケニア(ナイロビ)〜
マりアの御心修道会 野間順子

 このたびは早々と援助金をいただきありがとうございました。銀行から1502ユーロをうけとり、その日のレートで換算し135939ksh(ケニアの通貨)を受け取りました。10月2日から牛小屋の拡張工事が始まり、無事に完了しました。来年1月に子牛が誕生しますので、ミルクが出るようになれば、近所の貧しい家庭の子どもたちにミルクを毎日提供できると思います。本当にありがとうございました。








『宣教者のお話を聞く会』






『マリアミカエラの家』

〜ペルー(リマ)〜
礼拝会 Sr.川俣恭子

 私の所属する礼拝会は、1856年にマリアミカエラというスペイン人の貴族の女性が、男にだまされて売春、病気になって施療病院に入院していた貧しい少女との出会いがきっかけとなって創設した修道会。日本には戦前から3人のスペイン人シスターが来田して活動開始。戦後はアメリカ兵相手の女性たちを保護。その後は活動の聞口を広げ、地方から出てきた若い女性にための女子寮など、若い女性を支援している。
 今から11年ほど前ちょうど50歳になったとき、もっと苦しんでいる人のために働きたいと祈り、南米行きが決まった。当初ボリビアのサンファンの移住地の巡回教会を手伝い、新鮮で、かつ充実した7年を過ごした。
 2002年「創立者の精神に戻る」ということが打ち出され、売春をしなければならない人々への活動へ戻った。この分野の活動はどこの修道会もやっていない。当初、リマ市の北にあるカジャオという港町で、政府の建物を使用して12歳から18歳までの子どもの保護をした。そして4年前、18歳以上の人のためにリマ市内に修道会が家を買った。パン焼きの男性を1人雇い、パンとお菓子を食べながらコーヒーを飲んでもらう店を作った。一方、1階に3つの教室を作り、売春をしている少女や若い女性(未婚の母)たちのために、コンピューターのクラス、美容師の技術習得のクラス、工業用ミシンで縫製をするクラスを立ち上げた。月から金曜の午後2時から6時まで50人の女性が通ってくる。授業が終わってからまた街角に立つ子も、子どもが2,3人いる子もいるが気立てはみなよい。私は講師ではないが、クラスに行って、皆に声をかけおしゃべりをする。4時におやつタイムでお祈りと小さなお説教をボリビァ人のシスターにお願いする。技術を教えるだけでなく、心のケアをするのが大切なこと。入ってきたときはみな硬い表情だが、1年たつと穏やかないい顔になる。彼女たちはリマ市郊外の丘陵地(砂漠
化した)の電気、水道のない苛酷な環境の中で、3m四方の掘っ立て小屋のようなところで暮らし、1〜2時間かけてやってくる。
 ここで技術を身につけた優秀な女性がコンピューターの先生となって教えているのはうれしいことである。また、昨年12月に洗礼、初聖体を子ども2人と受けた女性がでたことは大きな恵みであった。さらに未婚の母が多いので子どもの保有室がほしいと司教様にお願いし、実現したことにも皆、喜んだ。
 "最後に、「支援する会」の皆さんからの援助で、彼女たちが通ってこられ、おやつの時間に心身ともに満たされること、本当に感謝しています。彼女たちからも「ありがとうと、たくさん言ってほしい」と頼まれて来ました。これからもどうぞよろしくお願いいたします"。

Sr.川俣(左)とSr.小森当会の会長Fr.ローシャイタ
Sr.川俣(左)とSr.小森当会の会長Fr.ローシャイタ






『病気の貧しい人々と共に』

〜ドミニカ共和国〜
ショファイユの幼きイエズス修道会 Sr.小森雅子

 ドミニカ共和国はカリブ海に浮かぶ島国で首都はサントドミンゴ、隣国はハイチ。人口は800万人、そのほかに100万人がニューヨーク、マイアミに多く住み、家族が海外にいるという家が多い。産業は観光が主なもの。観光客は11月から3月にかけて長期滞在する。自然は豊かで植えれば育つ土地だが、やはり貧しい人は多い。主食は米と芋類。
 この国では男性が強く、優位である。貧しい国の傾向だが、女性は虐待されている。しかし、最近は多くの女性が大学に進み勉強しているが、就職口はないのが現実。教育は8年間の初等中等教有、4年間の高等教育のあと大学へ。公立の学校の授業料は無料、本や制服は自分でそろえる。二部授業が行われている。子どもの数が多いのに、校舎が足りない。さらに正規の資格を持たない先生もいる。本当に義務教育なの?と思うくらい、学校にいけない子や自分から放棄している子が多い。早朝から始まり、朝礼で毎朝、国旗掲揚と国歌斉唱。近所でそれに出くわした人も同じように国家を歌う。誰もが国を愛している。
 私は4年前から、私立の皮膚科専門病院のハンセン病科にいる。院長が「ドミニカからハンセン病を撲滅」のために作った病院で、症状はまず皮膚に出るので皮膚科を作った。政府も認めて、国内のハンセン病患者はこの病院から薬を出してもらうことになっている。この病院の下に4つの支部があり、私は広範囲を受け持つ支部にいる。この支部だけで昨年は17名、全国で120名くらいの新患者が出た。早期発見、早期治療すればいい薬があるので半年から2年の服薬で完全に治る。特別に訓練を受けた補助者が私の支部には9名いて、週に1度各地域に出向いて診療して早期発見に努めたり、薬を届けたりしている。私は後遺症のある患者の治療に当たっている。貧しい人々やその地区に発症することがわかってきたが、本来なら入院して治療すればいいのだが難しい。治療薬はWHOからきているが、ほかにビタミン剤、解熱剤、抗生物質などは軟膏は病院持ち。また、湿気がよくないので、家の改造も援助して行う。
 はじめは人々の生活がわからなかったが、結核患者と両方診てわかってきた。特に私のところに来るのは女性が多いが、4人5人と子どもを抱えて夫がいない人ばかり。仕事も家族の助けもなく、子どもの父親もわからないとか、いても会いに来ないし、養育費もなし。結核の治療の話よりも、子どもの養育費の講求について話さなければならないのが現状。それに加え、エイズの問題も絡んできて、複雑な思いをして治療に当たる日々である。
 "一昨年皆様からのご援助で、オートバイ1台購入できましたことに感謝いたしております。各地を回る補助者にはなくてはならない移動手段です。これからも私どもの活動をご理解くださり、ご支援いただけますことを願っております"。