『私たちにできること』東京・多摩教会信徒 新谷 ときわ
数年前、同じ教会の方で、この「支援する会」の運営委員として活動を続けておられるご夫妻との縁で入会させていただきました。それからも私共の教会内に、この会のご趣旨に賛同する万が一人、二人と増えていくのはうれしいことです。私などは月々わずかな献金をお送りするだけで何もしておりませんが、時折行なわれる派遣先から帰国された宣教者の方々の報告会はとても楽しみにしており、はとんど毎回伺っています。 報告会は交通至便な四谷の上智大学構内のSJハウスの一室で行なわれることが多く、ローシャイタ神父様はじめスタッフの皆様がいつも暖かく迎えてくださいます。聴衆であふれるという会ではありませんが、間近に一時帰国なさっている宣教者の方々とお会いできて、じかに耳に響く言葉を伺うのは魅力です。はらはらしたり、びっくりしたりの連続で、時間があっという間に経ってしまうことは珍しくありません。そしていつも感じることですが、どなたも実に淡々と現地の様子や体験を語られるので、その内容の重さや深刻さと、語る方の表情の何気なさや気負いの全くない明るさとが、なかなか結びつかないのです。あんまり普通にお話しなさるので、この方々はご自身の健康のことなど念頭にないのではと思います。 一緒に参加する私の仲間のほとんどは70歳を越していて、大正末期生まれも二人、どこへ行ってもいたわっていただける歳になっています。ふだんは余り苦労もせず平和な日本で暮らしていますので、このような報告会に出席させていただきますと、やはり、これで私たちはいいのかなと反省いたします。 帰路は聖堂に寄ってお祈りをしてから駅へ向かいますが、黙ってこのまま帰りたくない、今聞いたことについて心に残っていることを聞いてはしいという思いがあって、「お茶でも…」ということになります。そんなとき大変大きな力をいただいたという気分になります。 私たちに代わって遠く日本を離れて、困窮する人々のために献身的な活動を続けてくださっている宣教者の皆様、本当にありがとうございます。どうかご健康と安全に留意なさって、お元気にお働きください。「きずな」の端っこにいる私たちも、自分のことのみを思い煩わないよう気をつけて、日々新しい気持ちで皆様のためにお祈りいたしております。 『第19回運営委員会議事録』日時:2005年12月13日(金)18:00〜19:00 場所:四谷SJハウス会議室 議事: I.きずな93号について 1)6月に行なった「アフリカをもっと知ろう」の2人のシスターのお話の要旨を掲載し、16ページとなった。最後のページに例年通りこの会からのクリスマスメッセージを載せた、と担当者から報告があった。 2)写真やカットがほどよく入り、読みやすかったとの感想があった。 II.きずな94号について 1)東京・多摩教会では長らく多くの方がこの会を支援してくださっているので、その中のおひとりに執筆していただくことになり、運営委員の井上さんを通じてお願いすることになった。 2)原稿締切りは2月10日、発行は3月1日、発送作業は3月1日(水)の予定。 3)例年通り世界各地からのお便りやクリスマスメッセージなどが多く寄せられ、また11月の3人のシスターのお話を聞く会の要旨を載せると、20ページに納まらないかもしれないという報告があった。 III.援助審議 1)マカオのSr.金崎ハル(聖パウロ女子修道会)から、誤まって犯した殺人の罪で服役している日本人男性(日本の家族とは連絡がとれない)を支援するため、差し入れや必需品調達のための費用として15万円(今後の3年間)が申請され、これを承認した。 2)シエラレオネのSr.根岸美智子(御聖体の宣教クララ会)から、発電機用のガスオイル1年分の費用として30万円の申請があり、承認した。この発電機は当会で支援したものである。 3)ボリビアの倉橋輝信神父(サレジオ修道会)から、@アルゼンチンの邦人共同体への司牧奉仕のための旅費として470ドル Aサンフアン移住地、オキナワ移住地への司牧奉仕のためのガソリン代、運転手日当(倉橋神父は目を悪くされ,運転をとめられている)として400ドル Bサンタ・クルス教会が老朽化し3年後50周年を迎えるため新築工事(総工費50万ドル)を計画しているが、工費の一部1万ドルを3年間で援助して欲しいと申請があった。@、A、およびBの1年分として4000ドルの支援を決定した。 4)カンボジアで活動している「日本カトリック信徒宣教者会」の平西紀さんから、トンレサップ湖のコンポンルアン水上村(船上生活で漁業中心の貧しい生活)の子供たちが公立小学校に通うための通学船購入費(18万円)、そのガソリン代、船のメンテナンス費、運転手給与それぞれ1年分ずつとして合計331,800円の申請があり、承認した。 IV.その他 1)1月13日(金)に例年のように寄贈を受けたカレンダーを海外へ発送する作業をする。 2)次回の運営委員会3月9日(木)に四谷SJハウスで行う予定。 『現地のお話を聴く会』昨年11月23日、四谷の上智大学キャンパス内のSJハウスで、一時帰国している3名の宣教者のお話を聴く会を開きました。宣教地は異なっても、貧しい人々、弱い立場の人々と共に生活し、尽力している方々の現地からの報告に誰もが心を打たれ、いっそうの祈りと支援が必要であることを痛感しました。その要旨をまとめました。 『ペルー、ニカラグアそしてグアテマラ』べリス・メルセス宣教修道女会 真神 シゲ
これまでペルー、ニカラグアなど司牧活動に従事しながら、中南米で女性の自立のための環境作り、子供のための乳児園や病院などの運営に取り組んできた。その間「海外宣教者を支援する会」をはじめたくさんの方々からご支援いただいていることに心から感謝している。 大聖年の2000年に、最箕国の対外債務を取り消してもらうという運動に教皇様をはじめ各国のカトリック教会が取り組み、当時ペルーにいた私は、この運動のためにペルーの貧しい人々の署名を貰う活動に参加した。1980年代から極貧の人たちがセロの山の麓に穴蔵を掘って住み着き、3万人くらいの集落が出来ていた。そこはセイテ・ドクトンプリエ=10月村と呼ばれる場所で、昼間でも一人で出かけられないような集落だった。まともな道路も水道も電気もない、衛生状態の悪い環境だったが、メルセス会はそこに乳児園を開き、働くために子育てのできない母親たちを支援。地元の教会の青年たちや乳児園のスタッフと一緒に、貧しい人々にこの債務帳消しの運動の趣旨を説明しサインをもらうのだが、何故こんな運動が必要なのか、理解してもらうことが先ず大変で、容易なことではなかった。 そんな活動の中で、ある朝5歳くらいの男の子が熱湯をかぶって亡くなるという事故に出逢った。町に下りて病院に連れて行ったときはもう手遅れだった。水はコーラの瓶で保存しているが、もし、冷たい水が十分家にあって火傷を直ぐ冷やせば、助かったかも知れない。「アジア、アフリカ、南米には貧しくて、飢えている民がたくさんいる。この民の苦しみの前に教会は愛で応えなければならない」と話された教皇さまの平和のメッセージ(1967年)を思い出し、何とかしなければと思った。 日本に帰って、北海道の母校の「めぐみ会」で、この貧しい人たちを援助してほしいと呼びかけたところ、そのメンバーの皆さんが「ヒラソル(ひまわり)の会」を立ち上げて、私の運動を助けてくれた。 そして「10月村」の衛生状態を改善し、女性の自立を図る事業を立ち上げた。それまで、年1回コーヒー園で栽培の作業を手伝う以外、まとまった仕事は無かったが、まず手芸作品を作り、これを日本で売って収入を得ることを考えた。初めてその作品が売れたときの喜びは大変なものだった。どうしたら売れる品物が作れるか、皆で日本の人々の趣味から文化まで勉強した。 子供たちも貧しいため、なかなか教育が受けられない状態。学校は小学校が一つあるだけで、中等、高等教育を受けるためには、町へ下りなくてはならない。教育にかかる費用を作るために、子供たちにも押し葉を使った絵葉書を作ることを覚えてもらった。どんな大きさの葉書が日本で売れるのか、どんな図柄が喜ばれるのか、皆で考えた。 青年たちは日本の援助で養魚の技術指導を受けて、テラビアの養殖を習得。育った魚を市場に持っていくと、よく売れる。そこで、魚の勉強に熱が入り、インターネットも使って、魚の養殖の情報を集めた。10年間は何とか援助するが、その後は自立しなければならないことを理解してもらい、自立体制を確立するために皆が頑張った。 次のニカラグアでの活動では、先輩のSr.弘田と共に司牧活動に従事し、社会や家族から見捨てられた障害児の救済事業に取り組んだ。日本の教会の援助で「カーサ・デ・エスペランサ(希望の家)」を建て、不幸な子供たちを引き取った。施設は援助で出来たが、その維持の費用はこちらで何とかしなければない。それで、子供たちの教育を兼ねて、絵葉書作りに挑戦。障害児たちに根気よく教えて、木の葉の色を使って絵葉書を作ったが、初めは売れない物も多々あった。子供たちも努力して、ようやく売れるデザインの葉書が作れるように。オリジナリティを失わないようにして、しかも、日本で買ってもらえるものを作ることへの挑戦である。子供たちは朝10時頃カーサに来て、作業をしたり休憩時間に遊んだりして1時頃に昼食、3時境から勉強の時間となる。子供たちが一番輝いている時は、もちろん休憩で遊んでいるとき。勉強の時間は30人くらいの子供たちに6〜7人のシスターが先生となる。手話を習ったり、スペイン語の動詞の活用から基礎を学ぶ。刺繍の実習もするが、できる子できない子といろいろである。ここで私は3か月働き、とてもよい経験だった思っている。 グアテマラでは、子供の教育に携わる。10年間は財政的支援があるが、その後は自立しなければならないことを説明し、収入が得られる事業としてパン工場を作った。土地を確保できて、工場を建て、パンを焼く窯を造り、子供たちは朝4時から始まる作業の時間割を作り、それに従って作業を分担。朝7、8時頃にパンが焼き上がり、それをお店に運んでお金を稼ぎ、教育費に当てられる。皆様からの援助がこのような面でも役立っていることに感謝している。 世界中にはまだまだ、すさまじい貧困が存在することはマスコミでも報道されているが、「貧困をなくすために人口を減らせ」というのが世界的趨勢でもあようだ。しかし、私は少しでもこの貧困な人々と生活に関わりを持つという気持ちを大切にしたいと思う。スペイン人の90歳のシスターが「私が今できることは人形をつくることです」と言われたその言葉が忘れられない。自分が関わっているということが一番大切だと思う。疲れ果てたときでも、初心に帰り、また勇気が出てくるように努力している。 『助産院では1か月に100人くらい赤ちゃんが誕生』マリアの宣教者フランシスコ修道会 牧野 幸江
マダガスカルで病院の看護活動をしていますが、いつも「海外宣教を支援する会」からの支援に感謝している。いつも送っていただくカレンダーは、私たちのコミュノーテ(共同体)にとって待ち遠しい贈り物であり、『きずな』は私たちの励みとなっている。疲れて嫌な気持ちのとき、他の人々の働きを知り、皆様のお便りを読み、勇気づけられている。 マダガスカルにはSr.遠藤、平間と私の3人が活動していますが、Sr.遠藤は私のいるアンティスラベから南へ600kmのところ、Sr.平間は北東360kmの町で働いている。私のところは標高1500mの高地で、旧植民者のフランス人たちが避暑地としていた町で、気候が温暖で、にんじん、じゃがいも、柿、りんごなど野菜や果物がたくさん採れて住みやすい場所。農業は手仕事で、年1回の田植えは男が耕し、女が苗を植える。日本の能率的な農業とは比べものにならない。道路は悪く、交通が難しく、農産品の売り先も限られ、なんで人々はこんなに貧しいかと頭を抱えることもある。 私は診療所と助産院で助産師の役をしている。昔流に言えば「とりあげばあさん」である。助産院では1か月に100人くらいの赤ちゃんが誕生。夜勤は2〜3人いるが、夜中にべルで起こされる。日本と違って、出産は実に簡単でだが、中には難しいケースもあり、手術が必要な場合もある。問題は皆が病院に行きたがらないこと、それはお金がないからだが、お金がないことは直ぐ死につながることである。病院もお金がないと分かると、キチンと対応してくれないのが現状である。危険な場合、「シスター助けてくれ」と言われると、お金を上げるしかない。そっとポケットにお金を入れてやり、病院に行かせる。 今は一時帰国で、黄金の日々を送っている。帰る日のために、知り合いに電話して余った医薬品をもらっている。薬品でも注射器など医療器具でも期限切れのものでもかまわない。もちろん、器具などは再消毒し、抗生物質は1、2年内なら大丈夫。ただし、日本語の説明しかないものは、私が扱わなくてはならない。 マダガスカルにはカトリック教徒が人口の約半分、ほかにプロテスタントの信徒もいるのでキリスト教の影響が強く、人工流産すると罰せられる。一家族8〜9人の子供がいて大切にされている。子供が多くても父親がしっかり働けば、米も穫れ、飲む水もあるのでなんとかなる。でも、三男、四男などからは自分で耕す畑がないため、仕方なく人に雇われるか、出稼ぎに首都のタタナリヴへ行かなくてはならない。奥さんと子供を置いて行くので、赤ちゃんを育てるのはお祖母ちゃんである。 しかし貧しさはひどく、食事は一日一食。赤ちゃんにも着せるものがないときは、日本から送られてきたものを着せて帰す。診療所にも子供を裸で連れてくる。5〜6月は相当寒く、霜が下りることもあるが、ボロを着ての生活にはなれている。 診療所と産院では、人手と経費の問題があるので給食はしていない。食事は持ち込みか、病院内で炊事するかのどちらか。貧しいながらも分かち合いの風習はとてもよいもの。食べるものがない人にはお金のある人が分けてあげ、ときには「シスター食べていかない?」と声がかかる。お産の後飲ませる砂糖湯の砂糖も自分で用意するが、貧しい中で生きるために、皆で分け合うことを本当に大切にしている。離乳食はなかなかうまくいかないので、授乳を1〜3年ほど続けている。6か月もすると栄養不足で母乳が出なくなり、その時はミルクをやるしかない。病気の子には朝夕診療所でミルクを飲ませると、元気になり、傷の治りも早くなる。双児などは母乳が不足するので、ミルクを飲ませるとどんどん太ってくる。痩せている乳児の母親に乳を飲ませているかと聞くと、ミルクなど高くて買えないとのこと。現地には牛はたくさんいて、診療所にも2頭いるが、乳のでる牛は少ない。 また、捨て子が多いので、マザーテレサの施設で世話をしている。一時はその子たちを里子に出していたが、それを商売にしている人がいることが分かり、新しい大統領は、聖公会の信者でもあり、国外に里子を出すことを禁止。国内での里子引き取りは問題はないが、受け入れ先探すのが大変である。 新しい大統領は国作りのための第一歩として、教育の重要さを強調し、貧富の差なくどんな地区にも小学校を建てることをその政策として打ち出した。年齢に関係なく皆が教育を受けることを推奨、5、6歳の子と23歳くらいの青年が一緒にアルファベットや算数を勉強している。 毎週1回、給食の日が設けられており、その日は生徒がワッと押し寄せ、中には小さい子を連れてくる生徒もいる。 貧しいことで、最も可哀想なのはお金がないと病院に行けないことで、それは直接死にもつながる。私たちはたとえ使用期限切れの薬品あってもそれを使って、できるだけたくさんの子供たちを助けたいと思っている。これからも皆様のご支援をよろしくお願いします。 『10年かけて作る障害のある人々の家』福岡教区湯川教会所属信徒 野原 昭子
これまで私の活動に何度かご支援いただき改めて感謝している。告白めいた話になるが、私は24年間の修道院生活のなかで、ペルーに6年間、ボリビアに3年間派遣された。その間、お年寄りや病気の人、障害ある人を見ると、その世話をせずにはいられなくなり、修道院生活のスケジュールに自分を合わすことができなくなった。そして、このような状況を突き詰めて考えなければならなくなり、祈りの中でもう一度自分を見つめ直し、なぜ障害のある人を見捨てておくことができず、世話をするのか思い巡らした。そこで自分の心の奥にわだかまっていたものに気づいた。それは、私には障害をもった妹がいて5歳で亡くなったが、泣くことしかできない妹の死に、やさしく面倒を見ることもなかった自分が「ごめんなさい」と泣いている姿を思い起こした。そこに原因があるならば、これ以上修道院に迷惑をかけることはできないと考え、障害者をお世話する場を求めて、修道院を出る許可を特別にいただいた。 いざ修道院を出てみると、自分がいかに世間知らずであったかが分かった。それまで24年間お腹が減る経験もなく、貧しいのは怠け者だからよ、と卑下することもあった。でも月5千円程度で生活することになり、会費は日に150円、一日一食で、あとは水を飲み、仕事も最低なことをするという生活を1年間続けることになった。バス代も惜しいので、1時間以上も歩いて仕事に行く。それは、苦しんでいる人々の中に入らなければダメ,と思ったから。障害者の傷を消毒するのも、ガーゼなどあるはずもなく、古着を切って素手で蜂蜜を流しておしまい。このやり方も患者さんから教わったものだ。 最初は施設を作ることは絶対にしないと、心に決めていた。それは事業を運営する大変さを知っていたので、一人でできる仕事――自分で障害者のところを回り、治療の世話をすること――と思っていた。しかし、障害をもった人たちがどんどん私のところに押しかけてきた。けれどもそのような人々と共に一緒にいる場所がなかった。そんなとき、ある人が10部屋もある大きな家をただで使いなさいと、貸してくれた。そこから嫌だと思っていた施設作りが始まった。 そうなれば、まとまった資金も必要となり、1年間日本に出稼ぎに行かざるを得なくなった。といっても突然帰って、よい仕事があるはずがない。ある日、紹介されて働きに行った先の社長さんが、仕事はしなくていいから帰りなさいと、100万円を黙って寄付してくれた。 そのおかげで皆のための家を開くことができ、6年が経って現在25人の障害者のお世話ができるようになっている。最近は障害児を捨て子にするケースが増えて、私たちの家にいる障害児の3分の1は孤児である。この子たちの面倒を見てあげるしかないのが現状。また、障害のある人たちは、仕事をしたくてもする仕事がなく、物乞いをするほかない。だから、この人たちにできる仕事を教えなければと、絵を描くこと、カードを作ること、編み物をすることを覚えてもらい、自分たちで収入を得る道を考えた。 今、コチャバンパの町はずれにある「奇跡のイエズス像」を前に、人々は祈っている。そのイエズスは口から血を流していて、その前に貧しい人々は病人を連れて行き、そこで皆と一緒にロザリオを唱え、奇跡を願っている。豊かな社会の下で踏み台になっている人々、人間扱いされていない人々、苦しみだけのために生きている人々と一緒に苦しんでいるキリストがいることを、私は実感することができる。これはボリビアだけでなく、アフリカでも、インドでも貧しい人々が同じように苦しんでいる。その苦しみのためにイエズスは泣いて、口から血を流しているのだと思う。 その私たちの家の持ち主から、来年退去するようにとの話があった。いずれそうなることでもあり、ここで25人の人たちの住む家を自分で建てるしかない。障害者を移動させる革も、井戸も必要、そうなればおよそ2千万円の資金が必要となる。すでに1千万円程度は集まり、土地は借金して確保できた。果物の木を植え、鶏を飼い、野菜を栽培して自給自足体制を目指して計画している。これから10年かけて、土壁の家を完成させたいと思っている。間もなく現地に戻りますが、これからも引き続きどうぞご支援ください。 |