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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『北米』






『エンドレスなホームレス問題』

〜アメリカ(ニューヨーク・グレイモアー)〜
アトンメントのフランシスコ会 寺沢正幸



 いつも『きずな』を送っていただいてありがとうございます。毎回楽しく読ませていただいています。私はアトンメント会に入会して50年、ニューヨークに来てから、15年になります。こちらではホームレスの収容施設で働いています。
 今日はこの施設「セント クリストファーイン」のことを少し紹介いたします。これはアトンメント会が90年前に始めたホームレスの収容施設です。現在、140人のアルコール依存者、ドラグ常用者、年齢は17から75歳に及ぶ人々を収容しています。そしてそのリハビリを行う事業も併設していますので、ここで働いている人たちは、医師、看護婦、カウンセラー、給食係、メンテナンス係など50名の職員と司祭・修道士8名です。
 私は、140人分の夕食のデザートと夜食のためのベーカリー、希望者の個人面接、壊れた聖像の修復(これは今する人がいないため)、30名の給食係用白衣の修復などを担当しています。また、高齢者の黙想会のスタッフとしても働いています。
 今日、米国の教会、修道会は歴史的転換期に直面しています。教会の歴史の中で、暗黒時代や危機は何度も経験してきました。過去50年の間で司祭、修道者の数は、50%減っています。そのうち高齢者が70%近くを占めています。しかし、ある修道会は会員が増加しているところもあります。
 このグレイモア一地区には、日本人は私一人しかいません。ニューヨーク市内には日本人のグループがありますが、私はご無沙汰しています。ニューヨークの一般的印象は、華やかなものばかりですが、私の働いている所については具体的に書けないのです。個人の名誉に関わることだからです。アルコールと麻薬で路上生活者になっていても、彼らは個人としての人格、神の似姿を持っています。そして、何人かの人は回復して、元の生活に立ち直っています。
 私たちの仕事が700万(?)を超えるアルコール依存者の問題解決になっていないことは分かっています。1,000万人を超える麻薬依存者の存在は、手のつけようがないのです。しかし、私たちはこの仕事をあきらめません。
 ニューヨーク市のホームレスの実数は把握されていません。昨年のニューヨーク市警の調査では路上生活者1,000人(単身者)、ホームレス家族9,000世帯ということになっていますが、明日ホームレスになる可能性のある人数が同じくらいといわれています。エイズのキャリアーも実数は分かりませんが、数十万と推定されています。近代文明の先端を誇る高層ビルの陰に、−15℃の路上で、段ボールの中で夜を過ごしている人々がいるのです。アルコール依存症の人の実数も分かりません。それで「?」記号を添えて書くほかはありません。
 どうかアトンメント会のために祈ってください。そして、6月25日に金祝を迎える6名の会員のためにも祈りください。






『南米』






『ルハンの聖マリアの祝日』

〜アルゼンチン(ミシオネス)〜
神言会 北島 泰治

 先ごろより何回も雑誌を送ってくださり、ミシオネス在住の日本人一同、心より感謝しております。遠く離れた地にいても聖霊の働きによって、信仰を一つにした兄弟姉妹の愛をかいま見ることができます。
 聖霊降臨を前にして、私たちの移住地コロニアル・ルハンの教会では、守護の聖人であるルハンの聖マリアの祝日を祝いました。まずまずの人が集まって、行列とミサの後共に食事をして、午後はサッカーをして一日を楽しく過ごすことができました。写真ができましたので送ります。皆様の上にいつも神の祝福がありますように。








『夜明けの十字架の道行き』

〜ブラジル(アモレイラ)〜
長崎純心聖母会 堂園 みつ子

 6月に入り、子供たちもお年寄りも、だんだんと寒さを感じて冬を待っています。日本からたくさん送ってくださった冬物は、あっという問に売れて只今、プチクレッシイのバザーは閉店中です。
 1月に雨が降り過ぎ、その後3か月間乾燥が続いて、畑の収穫が落ちました。5月に最低サラリーが少し上がりましたが、物価はそれ以上に上がっていますから、生活はますます厳しくなりました。
 2005年は、新学期が始まっても子供の収容人数や教師が何人来るのか分からない状態が続いて、2か月ほど非常に不安な新学期でしたが、6月になってやっと落ち着きました。このセントロには、現在110名の子供と32名のお年寄りがいます。
 アモレイラに初めて日系人の町長が誕生して、期待は大きいのですが、反対派のいじめがひどくて、なかなか力を発揮できずにいるようです。
 今年の四旬節中毎金曜日に、夜明けの十字架の道行きとミサがありました。それぞれの地区に分かれて決められた場所に集合し、朝5時から十字架の道行きが始まり、教会に着いたらミサが続きます。信心深いブラジル人は、教会がいっぱいになるくらい(300〜400人)集まりました。ただ教会近くに住んでいる信者でない人々には、朝早くからスピーカでお祈りするので、気の毒でした。そして、聖金曜日の夜は、「パッション」の映画を教会で見ました。500人以上が参加してくれました。
 5月の「母の日」には、日系人の信者の方々が炊きこみご飯をつくってくださり、教会の青年グループが、生バンドで盛り上げてくれました。「御聖体の祝日」には、小、中、高学に協力してもらい、教会の回りの道に絵のジュウタンを飾り、信徒が持ちよった料理で分かち合いの祝日になりました。
 6月4日の「聖母の汚れなきみ心」には、子供たちが聖歌を準備し、コルネリオ教区の保護者でもあるマリア様へ、二重の感謝のミサになりました。カトリックでない家族もたくさん参加してくれました。
 最近アモレイラにラジオ局が誕生し、第一木曜日にはシスターテレサと一緒に10分間担当しています。
 また、今年の四旬節のテーマ「平和」についての運動も宗教を超えて、町役場、学校関係、医療、警察などなどとの連帯のうちに少しずつですが、プロジェクトを組んでみんなの協力、意識化を呼び起こしています。
 「刈り入れは多いが、働く人が少ない。だから、刈り入れのために働く人を送ってくださるように、刈り入れ主に祈りなさい」マタイ(9:38)。私たちの働きが、刈り入れ主のプロジェクトにそったものであるように、祈りのうちに導きを求め、祝福のうちにみんなと共に働いていけるよう、特に謙遜をお願いしています。






『反政府運動で大続領辞職』

〜ボリビア(サンタクルス)〜
礼拝会 斉藤 クニ子

 日本は暑い毎日のことと思います。お送りいただいた本、カトリック新聞はありがたく、繰り返し読んでおります。
 日本にもニュースが入ったと思いますが、こちらボリビアでは、左翼のリーダーが政府に反対して農民を動かし、バリケードがサンタクルス周辺を囲みました。すべてがストップし、学校も休校、加えてマイクロバスの運転手のストで、仕事に行くこともできない状態で、市民は大変な迷惑を蒙りました。ラパスでも同じような動きがあったようです。
 市街戦が今にも始まりそうになりましたが、大統領その他の辞職によって、一時的に平和になりました。貧しい人がまた増えて大変な騒ぎでした。当方にも大きな影響が押し寄せています。
 今年度の援助のお願いをしました。母子家庭の子供たちの教材費、幼児の養育費などの申請をしましたのでよろしくお願いいたします。母親たちはわずかな給料で、食べることだけで精一杯の生活です。少しでも貯金できるような生活指導をしておりますが、時間のかかる問題です。(注:この申請については一部を除いてすでに援助が決定)

5月:ロザリオのお祈りに集まった母子寮の親子
5月:ロザリオのお祈りに集まった母子寮の親子

ビヤ・エミリアの子供たち
ビヤ・エミリアの子供たち






『アジア』







『助産婦学校から14人の卒業生』

〜パキスタン(ファイサラバード)〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 岡野 真弓

 以前、結核プロジェクトのためと訪問者治療のためにいただいたご援助は、今も大切に使わせていただいています。病院にやって来るすべての結核患者に抗結核薬を渡すことができ、そしてまた、訪問は週1回のペースで行なっています。先週も60名以上が診療を希望しました。彼らには当座の必要な薬を渡し、また、妊婦の貧血、血糖、尿検査も簡易法でその場で行なえます。すべていただいた基金によって支えられています。
 さて、聖ラフアエル病院付属助産婦学校では2月に14名が卒業して行きました。18名で始まったクラスでしたが、途中でやめてしまう学生が毎回います。貧しい農家や日雇い労働者の家庭 から助産婦学校に入学できただけで、家の出世 頭のように扱われ、将来の地位と収入への家族 の期待は大きいのですが、しかし学生として学ぶ毎日には辛いことがたくさんあります。
 まず、全寮制です。大部屋に住み、異なる地域から来た人たちと共同生活をしなければなりません。帰省は半年毎で、家族との面会は月1回と決められ、単独での外出は出来ません。緊急の用事でも家族が迎えに来た場合にのみ外出が許可されます。大変厳しいようですが、これも、全く違った地域から来ている大人数の学生の共同生活をスムーズにするためであり、個々の生徒の安全を守るためです。
 加えて、授業は英語と土地の言葉と両方で行われますが、教科書は英語、国家試験も英語で行われます。教科書が理解できず、穴が開くほど眺めて全文を暗記していても、暗記している中身をよく理解できていない子もいます。ですから、中には家族の期待と、過程を成就するための困難との緊張に耐えられなくなり、途中で退学を申し出る生徒が出ます。今までは、大家族の中で兄弟柿妹に囲まれて育ってきたのですから、ホームシックにかかり易いのも仕方がないと思えます。
 今回卒業したグループは入学試験の時から知っています。成績がいつもよかったサダフ(仮名)は勉強では何の苦労もしなかったのですが、授業や病院での実習では心ここにあらずでした。
 訊ねてみれば、看護には興味がないとのことです。家族を呼んで、その旨を告げて進路変更を勧めると、彼女を無理やり説得して何とか学校に置いてくれ、と逆に懇願されます。実習でも失敗が続き、国家試験が終わった段階で(普通は、試験合格後、半年、当院で研修して実地訓練を積むのですが、)家族に引き取ってもらいました。もちろん、試験には受かったのですが、就職する気はないとのこと。小さいころから、父親不在の貧しい家庭に育ち、親戚の援助で教育を受け、それゆえ親戚の勧めに逆らえない、心は満たされていない、そんな子でした。今も彼女が仕事にも就かず、家にいると聞くと心が痛みます。
 サイマ(仮名)は、入学試験の面接の時から印象的でした。学業上の知識もあり、その上しっかり我々を見つめて、「父は病気で、無職であり。母が日雇い労働をして家計を支えている」と語り、また看護婦になることへの強い意志をも見せました。この子には受かって欲しいと願っていましたが、私が押す必要もなく、試験官みなの賛成で入学が決まりました。しかし彼女は病気がちで、2年間の在学中、何度も当院に入院しました。特にひどかったのは、喘息発作でした。それは家族が、彼女の卒業を待たずに結婚させようと望んだことから始まりました。結婚は親戚間でアレンジされることが多く、貧しい彼女の家族にしたら、今、彼女を望む親戚からのアプローチに応えたかったのだろうと想像できます。何度も発作が起きました。
 ある日、母親が一晩付き添い、「嫌ならいい。私が何とかする」と言ったとのことです。もともとの利発さからか、または看護婦になるという固い意志によるのか、病気にも関わらず、彼女の国家試験の結果は、パンジャープ州(パキスタンは4州に分かれている)で最高の成績でした。
 生まれ育つ環境を含めて、私たちの生きる環境は選ぶことが出来ないこともあります。しかし、サイマのひたむきな生き方や彼女の母の深い決断を見るとき、環境に屈せず、自分の意志で将来を選んで生きることが出来るのだ、と教えられます。






『思い出すままに』

〜インドネシア(メダン)〜
聖母カテキスタ会 浜谷 莫佐美

 今年4月、インドネシア共和国北スマトラ島メダン教区での26年間の宣教活動に終止符を打ちました。遠く日本から「支援する会」の皆様はじめ多くの方々から、尊い祈りや励まし、ご支援をいただき、心から感謝いたしております。こうしていても頭の中と心は未だインドネシアです。
 想い起こせば、何もかもつかの間のように感じます。26年前、メダンの大司教様に呼ばれ、私たち三姉妹はゲマインダ神父様から出発の祝福をいただき、日本を離れインドネシアに向かいました。私を待ちかまえていたのはオランダ人宣教師のラ・センス様で、私たちはアチェのラウエデスキーで、ハンセン病や種々の病気の予防と治療すること、つまり医療宣教活動をすることから始まりました。当時現地の人々は男も女も頭に布を巻き、スカートのような長い布を腰に巻いていて、初めは男女の区別がわかりません。大きな目が二つきらきら輝いていましたが、笑うと口の中は歯も真っ赤でした。私は恐れました、結核を。でも、大司教様も神父様もお元気でした。何もわかりませんでしたが、神父様について行こうと決めました。8つの巡回教会のお世話をしましたが、ある神父様と教会学校の子供たちが手伝ってブタを飼い、教会建設に励みました。
 それから8年の月日が流れ、インドネシア語の通じない人々との生活で、少しずつバタック語を身につけることができました。神父様は、生れたばかりの赤ちゃんのような私を鍛えるために、いろいろな機会を与えてくださいました。
ある日、黙想をしていたとき、自分が神様の光の中に生きていることを感じ、神様は私を道具としてお使いくださっていることに気づかせていただきました。
 最後に呼ばれたのが財団法人「特別学園 愛の園」でした。そこはメダン郊外の海にも近い広大な原野のど真ん中に建設中の、障害のある子供たちの学園でした。1階には教室、集会室、作業室があり、手織りを学んだり、ローソクを作る部屋もありました。2階は子供たちの共同の部屋、男女別のトイレなどあります。中庭はがらんとして遊具もなく、小さな他も何もいませんでした。2階建てであるがゆえに東西南北から吹く風や雨をもろに受けなくてはならない状態でした。
 また、食事についても大変でした。お米は団体からの寄付ですが、その他の食料はすべて買い出しに行きます。バスもなく、バイクもなく、週3回3キロの道のりを、早朝に往復します。購入したものは夜も見回りをしても、しばしばドロボーが入り、米、卵、肉、魚、子供たちの衣類やスープ皿、食器まで持って行ってしまいます。
 ある日の夕方、燃料を買いに行く途中、6人の男に出会いました。しばらくして胸騒ぎがしたので早く戻ったら、幼い女の子の手を2人の男が両方から引っ張り連れて行くところでした。子供たちはワーワー、ギャーギャーわめき続けていました。このあとガードマンを雇うようになったのですが、その後もまた、コソドロには油断はできませんでした。
 電話もない、医者もいない。病気になった子供を背負って夜道を懐中電灯を持って、田んぼのあぜ道を必死の思いで走り続けたこともあったが、今は、外国からの援助で4つの宿舎が建ち、環境もすばらしくなりました。スクールバスもあり、電話、園内電話、地下水を汲み上げた水道もあります。そして子供たちは保母さんたち、新しいシスターと楽しく遊んでいます。
 未だ第二のふるさと、インドネシアへの想いが頭から離れない日々です。インドネシアに感謝!!






『アフリカ』






『シスター三宅が帰天されました』

〜チャド(ライ)〜
ショファイユの幼きイエズス修道会 大和 ひろみ

 チャドで21年の宣教生活を送ったシスター三宅陽子は、今年の1月帰天しました。一昨年に日本に帰り、間もなく膵臓癌に躍っていることが分かり、その治療を続けておりました。しかし「愛と命、このめぐみを今日もまた・・・」と歌い続けながら、最後までチャドの人々に心をはせていました。
 休暇帰国中のシスター脇山が、シスター三宅の遺志をっいで、少し遺骨を携えてチャドに帰りました。早速、3年前にチャドの土となったシスター永瀬のお墓に、ご一緒させていただきました。以上、ご報告まで。
 日本は暑さが厳しいことでしょう。くれぐれもご無理をなさいませぬように。お祈りのうちに。






『竹箒の作り方を教えて』

〜チャド(ペレ)〜
クリスト・ロア宣教修道女会 大畑 八重子

 日本の新緑の美しいころは、こちらチャド国は雨季に入り、砂填も少なく、大地の所々にうっすら緑の絨毯が敷かれたように、小さな草花が芽を出してきました。小鳥のさえずりも聞かれ、主の慈しみを深く感じている今日この頃です。いつも私たち宣教者のためにお心遣いをありがとうございます。
 ところで、どなたか「竹箒の作り方」をご存じでしょうか。もし知っておられましたら、お手数でも作り方を書いたお手紙をいただけませんでしょうか。と申しますのも、こちらの修院の庭にかなりの孟宗竹が伸びほうだい、枯れほうだいになっているため、この竹を利用して箒が作れないものかと思い、試してみましたが、自己流のためうまく行きませんでした。竹を束ねるのにコツがあるのではないかと思われましたので、お教えいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。(事務局へ送ってくださればSr.大畑にとりつぎます)






『オセアニア』







『ある1週間のできごと』

〜ソロモン(テテレ)〜
サレジオ会 飯田 徹

 常夏の国ソロモンで暑い暑いと文句を言いながらも、元気に過ごしております。1998年の民族紛争以後放置されて、荒れ果てていた油椰子のプランテーションや金鉱山の再建が決まり、徐々にではありますが、確実に再建作業が進められています。ソロモン経済再建の二本柱となるものなので、早期の再建を期待しています。
 ここテテレ教会は電気、水道、電話が無く、原則として月曜日にヘンダーソン(首都ホニアラから東へ10km、さらに東へ20kmの所にテテレがある)へ出て用をたします。
 6月20日の月曜日の午前中にメールをチェックに行き、午後はスワギ地区で事故で亡くなった方の葬儀ミサ。常夏の国であるので、亡くなったら待った無しで埋葬しないと、ラザロの姉妹マルタの発言となります。
 6月21日:午前中はパリッシュ・ショップのための仕入れで、ホニアラのチャイナタウンへ行き、午後は結婚式のための調査でカップルの原籍教会へ。日本ならば電話一本ですんでしまうことですが、ソロモンではいちいち出向かねばなりません。
 6月22日:午前中は結婚式の調査の継続、午後はグローブ地区で結婚式ミサ。この結婚式は、若い時になんとなく一緒になってしまって、式を挙げていなかったカップルのためでした。歳を取って奥さんが死の病に倒れたので、生きている内に結婚式を、というわけです。庭にしつらえたテーブルでミサを捧げ、祭壇の前で新郎(?)は横たわっている新婦の手を握り、結婚の誓いを立てました。婚礼衣裳も指輪の交換もありませんでしたが、とても感動的でした。一応、教会法上の調査をしなければならず、洗礼証明その他の証明書を確認するため原籍教会へ行っても、台帳の保管が不備なうえ、当人たちの記憶も不確かなので探し出すのが大変でした。そして式が終了した後、すぐに車でホニアラ中央病院まで新婦を送り届けました。
 6月23日:午前中は別の結婚式の調査。午後は碑文谷教会のロロビアナ神父様と教会委員長の関根さんが視察にお見えになったので、ヘンダーソン空港までお迎え。
 6月24日:毎週金曜日は朝7:00に、テテレの刑務所で収容者ためのミサ。帰って来て朝食をかき込んで、その後タラウラ集落に行き、洗礼式を伴うミサ。ところが告解希望者が多く、聴罪に2時間、ミサも洗礼者ヨハネの誕生の荘厳ミサで時間がかかり、へトへトに。
 6月25日土曜日はサリー地区で結婚式と献堂記念を伴うミサで、これまたペトロ・パウロの荘厳ミサでした。ソロモンの成人の5割程度が文盲であることを忘れていましたので、この若いカップルは、結婚の誓いの文(事前にピジンに翻訳して置いた)が読めず、大慌てでカテキスタに助けを頼む始末でした。若いカップルの結婚式は婚礼衣装に身を包み、指輪の交換もあり、披露宴といってもソロモン式ですが、ケーキカットもあり、なかなか盛大な結婚式でした。
 6月26日日曜日は9:00のミサの後、ロロビアナ神父様と関根さんの、パリッシュを挙げての歓迎パーティーでした。金曜、土曜、日曜のミサの主司式はロロビアナ神父様にお願いして、私は福音朗読(ピジンで)と説教(英語で、協力者のフランシス・トキがピジンに翻訳して読み上げる)を行い、共同司式兼式長で祭壇の周りをうろちょろしていました。ソロモンでは普段TV、ラジオ、新聞雑誌のような娯楽が無いため、結婚式の披露宴や、葬儀の埋葬後の個人を偲ぶ会、歓迎会のような催しが娯楽の機会になってしまいます。
 とざっと一週間を書いて来ますと、私が一人で奮闘しているように見えますが、実際は田中修道士との二人三脚で、漸くこなしているのが実情で、私の影に常に田中修道士がいて私を支えてくれています。
 鈴木修道士はヘンダーソンでDBTIの音楽教員をしています。こちらでは日本のような音楽教育はなされておらず、鈴木修道士は苦労しています。というのは、音感はすばらしいのですが、音符というものをまったく知らないからです。例えば教会で聖歌集を使っていますが、歌詞のみで音符もギターコードもありません。しかし彼らは歌詞を見てメロディーを思い出して歌い、或いはギターを奏でます。それで日本の教会でも馴染みのメロディーの聖歌もたくさんありますが、ところどころ音階がずれているのです。