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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES







『きずな』

〜ハイチ〜
クリスト・ロア宣教修道女会 須藤昭子
 「きずな」−私はこの「ことば」が大好きである。心の温まる「ことば」、信頼、勇気を与えてくれる「ことば」である。
 26年前、ハイチ共和国に派遣された時には、まだ「海外宣教者を支援する会」は生まれていなかった。でも私達3人はよく「私達は実家(おさと)が良いから幸せね」と言い合ったものだった。実家とは勿論、日本のことである。
 私達がハイチに居ることから、日本の教会や日本政府からの援助が始まった。
 「おさと」−しみじみと私達は自分の国を、そう感じていた。
 私が派通されていた所は、ハイチ共和国国立結核療養所だった。当初は、国立とは名ばかりの貧しい250人の結核患者を単に隔離するだけの施設で、医薬品は勿論、医療機器、ベッドや水、電気さえ無かった。仕事に着手した私は次第に失望のどん底に落とされた。善意だけで宣教地に来ても何一つ出来ないことを知らされた。その失望から立ち上がらせてくれたものは、見ず知らずの一人のカナダ人司祭から送られて来た最初の援助だった。この方は私達の派遣ミサに参列して私の話を聞いておられた。私の知らない中に神は一人の司祭を動かされ、(その年の)待降節中の献金を信徒と共にハイチまで持って来られ、レンタカーを借りて必需品を買い集めて下さった。ここに「きずな」が生まれた。
 カナダの教会との固い「きずな」が−。
 もう一つ大切な「きずな」について触れておきたい。
 ハイチで建国以来、初の民主的選挙で大統領になったアリスチド氏が、軍事クーデターで、アメリカに亡命した後、私達は日本大使館から「出国」を勧告された。その時に、患者数人が私に「ハイチを去りますか?」と尋ねた。「いいえ」とはっきり答えると、彼らは喜んで「良かった!僕達が守りますから!」と目を輝かせて言った。この予期しない言葉に驚き、「どのようにして守ってくれるの?」と聞き返すと、彼等は「僕達兵士達に痰を吐きかけてやるんだ。彼等は恐がって逃げて行くよ」と言った。それは、私がいつも口を酸っぱくして、「貴方達の痰を戸外に吐いてはいけない。痰の中には多くの病菌が居て、他人に感染させるから」と言っていたからである。
 この時、始めて、彼等が私の言葉を理解していることを知った。そればかりか、彼等は身の危険を冒してまでも私を守ってくれるつもりなのだ。そこには切っても切れない「きずな」があった。
 宣教地での気が遠くなるような必要性と、それに比べての自分の無力さ、そこで、いつも「おさと」から、そして多くの方々の祈りと、援助と心の「きずな」によって勇気づけられている。だから私はいつもそこへ戻って行きたい。私達の真の「おさと」の天国で固い「きずな」に結ばれた多くの方々と再会の日を心から願いながら。
 限りない感謝とともに






『第6回運営委員会議事録』

 「会」の第6回運営委員会が2002年9月10日(火)午後6時から東京・四谷のSJハウス会議室で開かれ、以下のことを審議、決定した。議事に先立ち、8月31日急逝された、「会」の顧問司教島本要大司教のために黙祷を捧げた。
(1)「きずな」80号は「創立20周年記念号」として、祝辞、20年の歩み等を掲載、20ページで発行した。
(2)刷り上がってから大司教急逝の報が入り、急遽、中央協議会広報部長のSr長谷川からの資料により大司教の訃報記事と略歴をB6の用紙の表裏に作成し、「きずな」に挟み込んで発送した。
「きずな」81号について
(1)巻頭言は宣教者にお願いする。
(2)故島本大司教様への追悼の言葉をローシャイタ会長にお願いする。
(3)原稿締切りは11月10日、発行は12月1日、発送作業は12月4日(水)の予定。
「その他」
(1)9月28日に行われる現地報告会についての準備状況や周知のためカトリック新開、朝日新聞マリオンに広報したことが報告された。
(2)「会」のHPの立ち上げについて村井神学生の協力で2回会議を開催。多摩教会信徒から、パソコンの寄贈があったことが報告された。
(3)会長11月11日〜12月12日ブラジル訪問のため不在。
 次回会議は12月17日、SJハウスで。


  『援助決定』 (2002.9.10分)
1.ブラジル 申請者:Sr白沢康子(宮崎カリタス修道女会)援助内容:サン・マテウスの小・中・高校のスポーツコート設備甲ため(設置が義務づけられている) 援助額:1,200,000円 承認。
2.ペルー 申請者:川俣恭子(礼拝会) 援助内容:「カサ・デ・ラ・ムヘル(女性の家=売春少女更生職業訓練所)」の付属施設「聖マリア・ミカエラのパン屋」の設備品購入資金として 援助額:500,000円 承認。
3.シエラレオネ 申請者:根岸美智子(御聖体の宣教クララ修道会)援助内容:ルンサの 0.L.G幼・小・中・高校。マリア・イネス職業センター再開甲ための発電機、リコピー購入費。援助額:1,000,000円 承認。
4.アルゼンチン 申請者:北島泰治(神言会) 援助内容:ミシオネス州日系人司牧のための車の維持費として。援助額:360,000 円(3,000$) 承認。
援助総額 2,260,000円






『島本大司教様を偲んで』

会長 ∨・ローシャイタ
 私達の「日本カトリック海外宣教者を支援する会」が、日本司教団の公認団体として独立した時(2001年2月1日付)、「会」の顧問司教として島本大司教にご依頼することに運営委員の意見が一致していました。
 皆の意見を大司教様に伝え、顧問司教へ就任をお願いすると、大司教様はニコニコしながら、「私に海外宣教者を支援する会の顧問司教になって欲しいのですか?」とお尋ねになり「はいそうです」と答えると、握手しながら「有り難う。喜んでお引受けします。何が出来るか分かりませんが心から協力します。
 私は前から海外宣教者のファンです。「会」のニュース・レター「きずな」の愛読者です」と仰言いました。
 短い間でしたが、大司教様の海外宣教者とそれに携わる人達への深い愛を忘れることが出来ません。
 今、天国から「支援する会」そして海外宣教者の皆さんのファンとして、守っていて下さると信じています。
 「大司教様、どうぞ、私達「支援する会」の、メンバーが、熱心に努力して海外宣教者の皆さんに精神的、霊的、経済的な協力が出来るように、その力をイエズス様と聖母マリアにお願いして下さい」。






『チャド情勢報告会』

〜チャド〜 
「アフリカ・チャドの宣教情勢」と現地で「砂漠化防止」に活躍している団体「緑のサヘル」の活動報告会が、「会」の主催で9月28日午後1時半から、東京・四谷のニコラ・バレ(ショファイユの幼きイエズス修道会)9階講堂に約70人が参加して行われた。講師は10年間チャドで宣教に従事し、この程帰国したシスター天野洋子(援助修道会)と「緑のサヘル」の山口真人さん。

(講演要旨)




『チャドの人々との10年間』

援助修道会 天野 洋子
 私は1990年9月にチャドに入りました。
 チャドは丁度アフリカ大陸の真ん中辺りに位置しています。人々にはあまり知られていませんでしたが、今年7月「チャドで700万年前の猿人の化石発見!。人類の起源100万年潮る!」と報じられてから知られるようになりました。
 私はチャドの首都・ンジャメナに2年、首都から隣国のスーダンに行く途中のモンゴ県モンゴの町に8年居ました。ンジャメナではガールスカウトのリーダー養成の仕事をしていました。何も知らず第一歩から始めたが、彼女達は貧しく、制服も無く、旗やシャツ等も皆手作りでしたが、今年6月、フィリピンのマニラで開かれた世界大会で、念願の国際連盟に加入することが出来ました。
 この10年間にチャドの国内外ではいろいろな大きな事件がありました。
 国外では湾岸戦争、開発された石油がパイプラインを通じて国外に流れるという噂を巡って賛否論争。国内ではクーデターによる政変、国境周辺での内乱、内戟が起こった。
 さらに飢饉で人々は飢餓、飲み水さえなくなる大災害に襲われました。
 また、とくにチャドでは砂漠化が大きな問題となっている。この大地の「砂漠化」を防ぐため、NGO(非政府組織)の「緑のサヘル」という団体がチャドで活躍しています。
 チャドの中央部辺り「サヘル地帯」と呼ばれる地域があるが、「緑のサヘル」はその地域の砂漠化防止活動に、熱心に取り組んでいます。
 「緑のサヘル」の人達は、“砂漠に緑を!”という大きな夢を持って、1992年にチャドに入った。そして、現地の「緑の木を植える運動のグループ」が16の村々に学校を建てました。
 この学校で、子供達に苗を作り木を育てることを教えました。モンゴのマンゴーの森の傍で埴林の準備をして、2000本位の苗木が育うているのに感動しました。
 現地の人達の中にも「このままでは、蝶も鳥も魚も居なくなるし、生きて行けない」ということに気が付いていた人が居ました。
 この人達が「砂漠化にどうしたら良いかと考えていた時にシスターに出会った。これから是非一緒に働きたい」と協力を申し出て来ました。そして、「砂漠化」の問題、「この土地にはどんな木を植えたら良いか」等をテーマにした研修会を開いてくれました。この研修会では、日本からの援助で手押し車、鍬、バケツ等も支給して貰いました。
 ある年の雨期に、滝のような大雨で子供達が蒔いた花の種が流されてしまったことがありました。その時に、何枚かの波板を利用して樋を作り、雨水をドラム缶に貯めるようにしたのもこの研修会で得た知識で、樋をつくってくれたのもこの人達でした。まさに、砂漠の中でとても大切な水をどうしたらよいかの工夫でした。
 私はモンゴの町の小学校に自転車で通っていました。この学校は「友愛モンゴ女子小学校」で1989年10月に設立されました。
 とても修道服など着ていられません。時には自転車が砂に埋まったり、砂竜巻に巻き込まれそうになったこともありました。
 ある時、村の婦人連への「識字教室」を見学に行ったことがありました。その時、村長さんらしい人が怒ってやって来ました。何で怒っているのか最初分かりませんでした。教室の周りを、獣除けのためにサボエアの木で囲んでありました。サボニアというのは、砂漠で生きていくためには貴重な木で、何も食べる物がなくなった時、芽や葉を食べるのだという。もし、みだりにこの木を切ったり使うと、罰金または、投獄だという。罰金を払って謝りました。
 この小学校で「創作教室」を1992年に始めてみました。最初は教室がなくて、子供達も来たり、来なかったりでしたが、2年程前から全員来るようになりました。教室も初めは土造りで雨が降ると溶けて来るので、壊してコンクリート製に建て替えました。パン焼きかまども作り、パンやお菓子を焼いて売り、その金を積み立てて自分達の学用品等を買う費用にしていました。
 結婚が早く、学校を卒業すると、直ぐ、結婚する子供も居ます。
 そして、大家族なので子供をおばあさん、お母さん、おねえさん等に預けてまた学校に来る子供もいました。
 ところで、チャドの国旗は三原色で、青はチャドの空の色、黄は大地、赤はチャドの国家のために殉じた人々の血の色を象徴しています。
 この「三原色の国に行きたい」と希望して、松本きみ子先生という方がチャドに来られました。この先生の絵は「メソッド・キミコ」という独特の手法の絵で、どんなに絵が画けない人でも、目が見えない人でも画けるという独特なものです。
 しかし、私の居る所は首都から500キロも離れた奥地なので、途中、何が起こるか分からないので、私が首都・ンジャメナに出て教えてもらいました。集まった先生や子供達にとっても、今まで一度も絵筆など握ったこともないので一所懸命に習い、大喜びでした。
 何カ月に1回、首都ンジャメナに出た時は、沢山買い物をして、スズキの小型車に詰め込んで帰っていました。そこで「どうしてこんな小さな車でクーラーもつけないで走るのか? 40度の灼熱の中を!」などと言われましたが、これには理由があるのです。チャドでは内乱、内戦が何時起こるか分からない。そんな時立派な車だと輸送車や負傷者搬送用に全部持っていかれてしまう。ですからわざとこんな小さな車を選んでいたという訳です。
(「イスラム教国でカトリックに対する圧力等無いか?」と尋ねられることがあるが)首都のンジャメナは政治の中心だから、或いはそういうことがあるかもしれないが、私の住んでいる所では、そういうことはない。
 時々、アルカイダがやって来て一晩中宣伝していることがあるが、現地の人々は全く受入れなかった。学校でも70%がイスラム教徒だがお互いに心を開いてイスラムの人も神父も一緒になって働いています。
 私はチャドと日本を結ぶ「絆(きずな)」になりたいと思っていました。
 「会」の支援でそれが実現しましたが、これからも多くの方々のご支援を期待しています。

 註:「緑のサヘル」(NGO)
 「サヘル」=アラブ語で「岸辺」の意。
 昔、駱駝に乗ったキャラバンがサハラ砂漠を渡って来て、緑が見えはじめてきた地域を、辿り着いた「岸辺」に見立ててその辺りを「サヘル」と呼んだ。現在、サヘル地帯は砂漠化の最前線の地域になっている。
 「緑のサヘル」はその地域の砂漠化防止活動を行っている。






『チャドと「緑のサヘル」』

講演者 山口真人(緑のサヘル)
 私が居るのはチャドの首都・ンジャメナから北へ100キロほどのツルバという村で、此処にチャド湖がある。(この辺りは)チャドでは一番砂漠化が進んでいる“サヘル地域”と呼ばれている。チャド湖は、昔はもっと大きかったが乾燥化が進み小さくなったと言われている。
 昔のチャド湖に沿って捜して猿人の化石が見付かったということだ。
 我々が活動しているのはツルバだが、もう一つンジャメナの南側にバイリという村があるが此処では南に行くに従って緑が増えて行き、熱帯の木が繁っている。

「困難な砂漠での植生の回復」
 「砂漠化防止」と「砂漠緑化」とは違う。「緑化」というのは砂漠に緑を植えていくことだ。我々の活動は砂漠でなく、砂漠化しそうな所に木を植えて行く活動だ。砂漠での植生の回復というのは、本当に砂漠化してしまうと回復は非常に難しい。大変な労力と金が必要になる。例えば、北の方にカヤという大きな町がある。道が砂の中にあるような町だが、この町だけは緑が繁っている。其処は水が豊富で大きなオアシスだ。基本的に水が無いと植栽は育たない。サハラ砂漠のような本当に砂しかない所では植生の回復は難しい。「緑のサヘル」が活動している現地は、砂漠とは違い木は残っているが、土地は荒廃して作物は育たず、育っても収穫量が低く、住民は苦しい生活をしている。

「砂漠化防止・三本柱」
 「砂漠化防止」には@大きく緑を増やす活動A緑を減らさない活動B住民の生活改善という三本柱の活動がある。
 「緑を増やす活動」では、マンゴーの木の育苗をしている。とくに果物、実の生るものに人気がある。他にはアカシア類を生産している。
 村にある小学校〜と言っても、穀物を刈り取ったあとの茎で屋根を葺き、ワラで編んだゴザを周りに巻いただけの学校だが〜で、植林活動の一環として、子供達が自分で苗を植え水やりや管理をして貰っている。木を植える時には、木と一緒にペットボトルも埋める。ボトルの底に穴を開け、細い口を下にして水を入れたボトルを逆さまにして埋める。すると根の方に水が行き易くなる。ただ単に周りに水をやるだけでは、陽射しが強いのですぐ蒸発してしまう。ペットボトルは手に入れ易く、水を飲んだ後のペットボトルが市場で売られていたりする。「緑を減らさない活動」では、「植生保護区」を作り、保護区では「家畜を捕らない」「薪を採ってはいけない」等が決められている。
 村毎にこのような保護区を設けている。此処は良く管理され、緑もよく繁っているが、保護区を外れると大きな木は見られなくなる。
 今年は雨不足で陽射しも強く熱風が吹き木が枯れてしまった。気温も50度近くに上がり、その中を女性達は薪を拾ったり、頭に水を載せて運んだりしていた。現地には電気、ガス、水道等無く、料理の時は火を使わなければならないので、どうしても、薪が必要だ。

「新型ドラム缶かまどの効果」
 料理法は、石を3つぐらい並べてその間に薪を差し込んで火をっけ料理をしている。これを、「三つ石かまど」と呼んでいる。しかし、これだと熱が逃げて熱効率が悪いので、我々は「新かまど」の普及を行ってい。この「かまど」は捨ててあるドラム缶で作るが、これを利用すると料理時間が短縮され、一家族一カ月1トン位使う薪の消費量が半分に抑えられる。

「白アリは、重要な蛋白源」
 「住民支援」だが、今年、村に新しいコンクリート造りの倉庫を建てた。今までの倉庫は、士道りでワラ葺き。虫が付き易く、白アリ、鼠等がすぐ入り袋を破り穀物を食べてしまう。
 白アリが通った跡を手でこすると白アリが出て乗る。村の人達はこの白アリを食物として食べる。雨期に雨が上がるとランプを外に置いておく。するとその周りに羽を付けた白アリが群がって来る。それを現地の子供達は母親に油で炒め料理して貰って食べている。それが重要な蛋白源になっている。

「農民組合」−講習会は食事付き−
 我々は「農民組合」を支援している。組合の組織を強化するための集会も開いている。
 バイリ村だけでも、13組合ぐらいある。
 各組合長、副組合長、書記の3役、3名ずつが集まって、学習のため、講師を招んでの講習会も定期的に開いているが、これも現地の生活を支えている活動の一環である。
 村で講習会を開く時には、筆記具を1人ずつに用意する。食事、料理も準備する。そうしないと集まってくれない。現地ではこれが当たり前とされているようだ。
 昨年、バイリ村で洪水が起こり橋が落ちた。洪水の前は飢饉だった。橋が落ちると対岸に物資が送れない。そこで、舟で物資を対岸におくり、“おかゆ”を子供たちに配給する等の活動をした。

「求められる活動の持続性」
 「緑のサヘル」の活動は持続性が求められている。それが無いと「砂漠化防止」は何十年かかっても、出来るかどうか分からないものとなる。








『日本から見たコンゴ民主共和国』

特別リポート−3年ぶりの印象−
〜コンゴ〜
淳心会 ムケンゲシャイ・マタタ
 去る8月に3年ぶりコンゴ民主共和国(以下コンゴ)に一時帰国しました。今回生まれ育ったコンゴに行って、浦島太郎のように日常生活の変化に直ぐには溶け込むことが出来ませんでした。1991年から新しい政治体制を作ろうとするコンゴは、現在、激しい内乱と国際的な政治の争いによって脅かされています。

1.都市部への人口の流入
 新しい政権に変わって多くの人々が安全を求めて都会に集まって来ている状態です。夥しい人々が何十キロもキンシャサの中心部に向かって歩いているのに大変驚かされました。
 以前に比べると、走っているタクシーやバスは皆古く、道路は壊され、電気設備も放置されていて機能していません。
 この内乱がもたらした被害について考えてみると、国が発展するより、後戻りして行くような気がします。独裁政権やコンゴを植民地化して来た国々が、この国の資源をコンゴ人でなく外部の人々が消費する状況を作ったことが、一番国を脅かすものとなっています。
 コンゴの人達は複雑な気持ちで、戦争なき明るいコンゴをいつも待ち望んでいます。

2.日本人シスターとの再会
 帰国の度毎に、コンゴで働いている二人のフランシスコ会のシスター中村、シスター高木がいつも食事に招いてくれます。コンゴの習慣に従えば、コンゴ人である私がシスター方を招かなければならないのに、あえて先にシスターに招かれるのは、彼女らが私を外国からのお客として扱ってくれるからです。すっかり現地に溶け込んでいるなあと感心します。
 食事だけでなく、コンゴの民族衣装もすっかり着こなしています。やっぱり本当の宣教師です。

3.教会典礼と日常活動
 コンゴに行くと大体最初の一週間は、修道院のミサよりも小教区共同体のミサに参加しています。行く度に歌もミサ全体の流れも、参加の信者の姿からも、積極的に皆がミサを捧げるという感じを強く受けます。とくに奉納行列、対話的な説教のやり方、いつも新しく作られる感動的な歌の数々、それらは人々に生きる勇気を与えます。教会自体が日常生活から切り離すことが出来ないものとなっています。
 しかし、残念ながら、信仰生活と政情不安定の状況を見て、教会がもっとしっかり福音と生活を結び付け、福音の価値観に基づいて国を豊かにしていくために、正義、平和、人権の保障、教育等において実践していく力が問われています。