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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『アジア』






『困難の中、村人へ仕事を』

〜フィリピン・イサベラ〜
聖母訪問会 諏訪清子
 いつもギバンソグループのためご協力を心から感謝しております。私どものメンバーも四十五名を越すようになり、一週間で今までの倍の量をこなすようになってきました。と同時に日本に向けても続いて出荷するようになり、受入れ方に負担をおかけしていることも気付いております。…とくに最近、輸送についても、非常に困難になって参りました。…いつ発送されるやも期日の予定がたちません。…まことに確実性の乏しいやり方でございますが、お許し下さい。そうしてでも売って頂かないと、こちらでストップする事は、人々をその日から再び生活に大きな影響を与えてしまいます。…今、新しく考え直さねばならないと思っています。
 一つの解決法として、今この村から四人の娘をマニラに派遣して、編物のトレーニングに参加させています。三カ月の訓練を卒業しましたら、外国向けの編物の下請をとることが出来るようになるかもしれません。…でも…果して予定通り三カ月の訓練をやり通せるかどうかも未知数です。でも、何とか村の婦人達にレギュラーの収入の道を自分達でマネージできる仕事にまで発展出来るよう手伝っていきたいと願っております。






『スラムで栄養失調児に給食を』

〜マニラ〜
援助修道会 勝谷久子
 …レベリザのスラムは約三千世帯の家族が住んでいます。農村の土地を追われ出て来た人々、また、生活に困って都会で仕事を探すために出て来た人々が、家といっても、二〜三畳ぐらいの小屋を建て、住んでいる状態です。一つの建物に何家族かが一緒に住んでいますが、彼らが自分のよじのと云わず分かち合って生きている姿に感動します。このスラムには善き牧者会のシスター方5人が近くに質素な生活をしながら、彼らのために働いておられます。最初は家庭訪問から始まり、今は、15の共同体が出来ています。それぞれの共同体は週1回聖書を読み、お互いに感じた事を話し合いながら、今、現実にキリストが何を語っておられるかを聞き、何をすべきかを深めています。また、共同体で生活を助け合うため、緊急の時に貸出しの出来るお金を作り、それを利用して急に病気になった時、薬を買うためによじ助かっています。市価より少し安くお米を売るプロジェクト、栄養失調の子ども達のためにも、週3回の給食が二カ所で始まりました。…またスラムではタオルを編んで生活費を稼いでいます。全部、お母さん達がタオルや糸、ボタンなどを買って来て手分けして縮んでおります。彼らにとっても、タオルを編むことは生活費を得るため大切です。また、共同体意識も育てています。






『小学生も卒業証書を買う、高い学資』

〜インドネシア〜
聖母カテキスタ会 浜谷責任美
 …二十二名のうち三名が、可哀そうに入試失格のため、家庭で農業を手伝う結果になってしまいました。…インドネシアでは卒業証書を貰うのに…とくにミッションスクールの場合、多額の金で買う必要があるのです。私は、この事を十分に調べていませんでした。
 小学生の卒業証書を獲得するために一万ルピア(1ルピア=0・38円(一九八二年・編集部註)、中学生二万ルピア、高校生七十万ルピア〜百万ルピア、入学金はミッションスクールは…高く、七七五〇ルピアを支払って、その他に、家族の負担はメダンまでの交通費、宿泊費、入試費、衣類、その他、いやはや、両親の目からは、赤い血の涙がこぼれます…それでも卒業後、就職があれば良い方です。…日本の明治の終り頃のように卒業しても職がなく、青年達はごろごろしています。…ですから、シスター、神学生の希望者が多いのです。…現在、手持ちの金を…なんとかつなぐために…ブタを25頭飼って…神学生の父親が全面的に協力することになりました。
願わくば、目的が得られますよう祈っております。






『南米』






『独り‥だが素晴らしい兄弟愛を』

〜ペルー・リマ〜
三位一体聖体宣教修道会 斎藤万里子
 ペルーのような…国で一番賛沢に使っていると思われるのは時間です。…私のブラジル行きにも、本当にいろいろご配慮を頂きました。…谷村神父様の所に一週間お世話になり巡回地にもお伴させて頂き…ブラジル日系の方々の訪問…日伯司牧センターの祝別式や、サンパウロの信徒大会にも出席することが出来ました。…何もないペルーに比べると、ブラジルは…物は豊富にありますし…肥沃な、…緑の土地…美しく整備された道路…また、ブラジルの司牧活動はよく企画されていて…「兄弟愛運動」など、地域…での集会が盛んで羨しい限りでした。…ブラジルの宣教に比べますと、ペルーの方が十年も前に移民の入った国ですのに、宣教は何十年も連れている感じで「頑張らなくては…」と張り切って、再びペルーに戻って参りました。…今まで淋しかったペルー勢も、シュルツ神父様、高橋神父様を迎えて仲間が増えて来ました。…でも、ペルーの司牧は、まだまだ軌道に乗っているとは言えません。…交通の便も悪く、コミュニティの集りで…まだ集る段階にも達しておらず話し合う機会もない有様です。…目に見える物質的な慰めは少いものの、神様だけをみつめて生きることの素晴らしさを味わい、祈りのうちに働けることは感謝の他はありません。…、宣教師を援ける会の会員の皆さまにも、くれぐれもよろしくお伝え下さいませ。皆さまのお祈りと、それに度々のお心づくしに励まされ、勇気づけられているか…国を離れて、独りで働いている者のみが味わうことのできる素晴らしいこの「兄弟愛」を、皆さんにも味わって頂きたいと思います。






『園児の父母の思いやり』

〜パラグアイ〜
聖霊奉侍布教修道女会 山田雲江
 …教会の仕事の方も、主任司祭が交代となり、新しい意味で共同体における一致と協力の必要性を意識しながら歩みはじめました。
 …パラグアイ人の初聖体の準備に入る子供たちの父母に対しての、公教要理は、グァラニー語を交えて、三人の方たちが指導して下さっています。子供たちの要理の方も、若い青年男女、ママさんカテキスタと10人の人達が手伝ってくれるようになり、各週のテキストの準備は…少し大変ですが、とても助かっています。…ご復活に二人の若いお父さん(日系人)が洗礼を受けました。
 小さい時にこちらに来て、もうスペイン語の方がいいと云う人たちです。また、今、二人、若い青年の受洗準備がはじまっています。
 幼稚園のバザーの方も無事に終りました。今年は大豆の豊作ということもあってか、それ以上に父母の一致した協力が豊かに実り、すばらしい成果を上げました。…皆さん、私が経済的なことで余分な神経を使って、また病気になったりしたら、子供たちが困るから…と仰言って下さり、そんな言葉の端々にも、皆さんの思いやりをつよく感じます。
 6月21日、品田神学生の終生誓願のお祝いに行って来ました。
 品田さんが居られる神学校は、まだ、特定の聖堂はなく、食堂の机を出して聖堂として用い、パラグアイ神言会管区長様、クルツカ神父様の他に6名の神父様の共同ミサが捧げられました。神学生たちの手で、簡単に飾られた祭壇がとても印象的でした。
 ごミサの後、新たに神学生たちの手で食卓が整えられ、ヤキトリも、アルゼンチンから来ている神学生の手で味付けされて焼かれ、すべて、心のこもった喜びに盗れた、ささやかなお祝いでした。






『アフリカ』






『共に生きることをめざして』

〜ジンバブエ〜
ナミュール・ノートルダム修道女会 伊東千秋(講演)
 …一九八一年の夏に、急にアフリカへ行ってみませんかという話がありました。…ジンバブエと言われたが…どこにあるかも分らず早速、地図で調べた。…その年の12月に出かけました。
 本部レベルで一つのプロジェクトを始める―ジンバブエの第二の首都プラワヨから一四〇キロほど離れた、アフリカでプッシュと言われている…所で、病院の看護婦の学校を作る(司教様の要請で)ことになりました。…ノートルダム会から一人(私)、イギリスのレイミッショナリーから(一人)、二人でジンバブエに行きました。…セントルカスというミッションに行きましたが、すごいショックでした。なにしろ一緒に行った人は生物の先生で…看護婦ではなかったので、二人の資格では看護学校は始められない。(そこで)そこから三百キロ離れたところにあるフランシスコ会のシスターの病院で実習してほしいと言われ…そこに行くことになりました。
 …三カ月ほどたってから予防接種、赤ちゃんの予防接種をブタシュの中に入ってするようにということで、何が何だか分らないうちに、そこではじめました。…一年経ったとき、相手の方はやめて出ていかれた。…二番目にアメリカから来たミッションはドイツ人の女医、看護婦、イギリス人事務長、ポーランド人神父、ドイツ人医者、看護婦、修道女は私とアフリカ人のシスター…が一つの共同体を作っていた、…その中で生活してよく思いましたが、34年もレイ・ミッショナリーとして(ドイツ人女医たち。病院をはじめて34年)働いている人と、修道女として働いている私とどこが違うかをずい分考えさせられました。彼女達の生活は朝早く起き、お祈りをしてごミサに行って、24時間病院で…アフリカ人のために一生を捧げるわけで、自分の生活よりずっと大変です…彼女たちはもう、ドイツを去ってから34年…プッシーの中に住んでいて…二年に一回町に行く、七十歳に近く、修道院的な生活を送っている方たちと生活している中で、彼女たちは苦しみ喜びを分かち合って生きて行く、それが私にとって支えとなったし、沢山のものを学ばせて頂きました。…昨年の五月、七年間休暇をとっていない病院の事務長が休暇をとるということで…他に人が居ないとのことなので、その仕事を数カ月引受けました……(事務長の仕事は)毎週一回町に行き、買物、…私の所で治療出来ない患者を町の病院に運ぶ運転手の給料の支払、政府との交渉(と思っていました)。…ブタや牛の面倒をみなければならない…ということは知りませんでした。…ある日、一人のアフリカ人が来て、ブタが死んだと言う。ブタが死んでどうするのというと、病気で死んだから埋めてしまう。いつ、どういう病気で死んだか、ノートに書いておかなければならない(のです。)…牛が生れた。名前をどうしましょうか、メス牛だったら私の名前をつけても良いかということで…(私の名前の)「チアキ」という名の牛がいます。…見よう見真似で機械も直しました。
 …ある人が「シスターだから、教会…学校で宗教を教える方が意味があるのではないか」と云われましたが、ある方が「一日に一人でも喜ばせることが出来たら、それで良いではないか」と言われた時、本当に、小さなことを喜んで出来る人になりたいと思いました。
 …ジンバブエには苦しんでいる人たち、貧しい人、物質、精神的にも飢えている人、その苦しい状態の中で共に生きている人と求めている人が沢山居ます。その中で、私たちは何も出来ない無力感があ汲閧ワす。ある時、バスの中で、一人の兵隊にライフルを突きつけられた時の無力感、生命のもろさ…を感じました。…それを感じても、そこに行かねばならない、行きたい、それが私の中にあります。
 …何も出来ないが…下から上を見る時に、宣教者として伝えるべき、また、そこから、私たちから汲みとってほしいものを伝えることができるのではないでしょうか…共に生きること、それが、今、アフリカで私たちに課せられている、一つの課題ではないかと思います。
 これからも、ジンバブエに帰って、一番虐げられている人達の中で、共に働き、生きていきたいと思う。大変な国だが、皆さんのお祈りに支えられて、アフリカはアフリカの平和、アフリカの人達によって作られていく平和な国に、一日も早くなるように!お祈り下さい。




『(文責・編集部)』







『上から下でなく下から上を』

〜アンゴラ〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 林節子(講演)
 …私の体験は…ノビシアの中で過すことが多かったので……私のアンゴラ、アンゴラの人々との体験は…ノビスを通して…ということをお話しておきたいと思います。アンゴラの教会はまだ養成の期間だと言われています。…何と言っても言葉になれるまでが大変でした。上智でポルトガル語を勉強し…何とか分っているつもりだったのですが…一つだけ耳に入ってくる言葉がありました。「コイタディータ、コイタディ一夕」。これは「まあ、お気の毒に…」の意味でした。…(アンゴラに来て)一年目に入った時、ポルトガル語も何とか出来るようになり、「働こう」と思った途端、体力の限界を感じ始めました。…ありとあらゆる病気にかかりました。いちばんひどかったのはマラリアにかかったことでした。つらい体験でした。
 高熱にうなされ、もうろうとして…精神的にも身体的にも参ってしまい、もう、ぼろぼろの状態になってしまいました。…でも、皆が本当によく面倒をみて下さいました。…食物も薬もないのに走り回って、点滴のお薬を探して下さいました。こんなに面倒な患者で申訳ない。その時、はじめて心から「ありがとうございました」と言えました。その時初めて「下から上へ」ものを見るようになりました。…最初の一年間は「上から下へ……」見ていました。
 何か持っている…能力がある…人の役に立つ…上から下を見ていたのです。これではアンゴラ人の頭しか見えません。こうして自分がダメになった時、はじめて下から上を見るようになりました。
 皆の一番下にいる自分を発見しました。そういう時限に落されたということは「これからアンゴラでの生活が始まるんだな」という出発点となりました。…下から上を見ると、上は限りなく高い。神様まで見えてくるようになる。上から下を見ていると私の背中を、神様に向けているので全然見えていなかった…自分が何かをして、助けて、神様の場に立ち代ろうという気持があったんじゃないか…善意の中にこんな気持があったのではないかということが分りました。…病気がよくなって、はじめて頂いた仕事がノビシアの家を準備することでした。…家を一軒買い、その掃除をする仕事でした。S管区長様やアスピラント達とお掃除をしながら「あゝ、これだ。
一緒にやっていくこと、望まれてしていくことが私のミッションなのだ、私が望んですることでなく、会が望むこと、アンゴラの教会が望むことに私が答えていけばよいのだ」ということを、床を掃きながら感じました。…「ノビシアの中で働いて下さい」と云われ、修練長様を助ける仕事をはじめました。修練長はアフリカ人でモザンビークの人でした。そのシスターと二人三脚をすることで、アフリカ人のメンタリティを分らせて頂いたような気がします。…彼女達が通って来た歴史、アフリカ人の歴史…を見せて頂きました。
 それは私がアンゴラに適合するために役に立ったと思います。
 彼女とチームワークをとって働いていくためには、自分がしたいこと、自分が前に出てはいけない、道具、その人が望むような道具になること…それは、私の中では神様の道具になるということに、繋がっていったわけです。…人の言いなりになっていくということ、私のように「我」の強い人間にとっては難しいことなのですが…そこの中で、キリストがどういう生き方をされたか…を毎日黙想することで、その一日が支えられたと思います。
…一緒に働いていた修練長様がモザンビークの管区長になられて、モザンビークに帰られました。…そのうち、ローマから私に「その仕事をして下さい」と云って来た時には…どうやってそれを受けていいか分りませんでした。…管区長様が私にローマからの任命を伝えて下さった時「あなたの立場をローマに話してもよいけれども、これは任命だから…もう動かされないのですよ」(私はアンゴラの教会、信徒の中に直接入っていきたい…夢がありました)と云われ、「次のアフリカ人の修練長様が出るまで、穴埋めとしてやらせて頂こう」…という気持で始めたわけです。…私はアンゴラに遭わされた″という使命感がすごくありました。アンゴラの人々の中、あそこの場所でしか、宣教女としてやっていかれない…という考えがあったのです。そうじゃない、私の遣わされた場は、ここの、修練院だ、ノビシアだ…そこに移って行くまでには、非常に時間がかかりました。…私はよく「修練長は…五年以上しない」と言いました。
 …ノビス達は敏感ですから「シスター林は、ここに居ることを喜んでいない。毎日、日数を数えている」と云い、ノビス達に、悪い影響を与えていることに気づきました。…喜んでいないということが伝わっていくことは福音宣教じゃないと思いました。
 …一人々々のシスターがほんとうに修道生活を喜んで生きていて下さるか…もし生きていかれない外部的障害があるならば…一緒に解決していけるのではないか…そういう役割を喜んで引受けていますということになるのではないかと思います。
 …神に遣わされた者ということを前提として、貧しい者として貧しい人々の中に神様の豊かなみ言葉を、恵みを持って行く。それが、宣教者の態度ではないかと思います。私自身、それを生きているかというと、とても恥しくて…これから一生懸命に生きていきます。
 (5月29日・東京・赤坂女子パウロ会での講演から。文責・編集部。()内は編集部注)