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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『南米』

ペルー パラグアイ ブラジル アルゼンチン





『老人ホーム一期工事へ』

〜ペルー〜
フランシスコ会 加藤マヌエル神父
 本当は日本の習慣に従って皆様に暑中の御挨拶から始めたいところですが、正直に申し上げますと、南半球は日本の反対で寒いのです。また、現在私達は二重の寒さを感じているのです。まず第一に気候の面ですが、既に寒さが訪れ、気象庁では7月と8月は例年に比べると一段と酷くなりそうだと発表しています。また、精神面でもそれを感じさせる事が起こって居ます。それは4月9日と5月28日の2回の選挙です。選挙史上もっとも大変なものでした。透明性と民主性に欠けた欠陥だらけの選挙だったと思います。
 私の方はそれにも関わらず、神様の御加護とお友達の医師達の助けで元気に聖務に、また難しい情勢の中で、神父であってもやらねばならない社会事業に頑張っています。
 国をリードしなければならない政治家の利己主義のお陰で一般国民は勿論のことですが、特に弱い立場に立たされている子供たちと年寄りがそのしわ寄せを肌で受けています。経済事情は良くならないばかりか、このような政治情勢のために国内は勿論の事ですが、国外の投資も模様眺めといった状態です。そのために多くの会社の収入が減少し、その対策として人員削減が甚だしいと聞きます。
 今まで比較的裕福に暮らしていた日系の方々も、この煽りを受けて倒産が相次いでいます。それは購買力が国民にありませんので物が有っても売れないからです。
 毎年十万人以上の若者が卒業していますが、この人達のための仕事が国内にないため、優秀な頭脳は海外に流出しています。出られれば恐らく全員が出て行くでしょう。特に日系人は両親の国である日本に出稼ぎに行っています。一時、幾らか稼いだお金で事業を始めたが、先程申し上げました購買力が無いために破産し、また日本に、今度は家族全員を連れて、出戻っている者が多くなっています。しかし、年を取って何も出来なくなったお年寄りが残されているので、これが、日系人社会では目下大きな問題になり話題となっています。このために、エンマヌエル協会の会員達は去年から、政府から頂きました10000平方メータの土地のうち6000uを其れに当てて老人ホームの計画を立てているだけでなく、既に、日系二世の建築技師に設計図を頼み、手元にある国外から頂いた援助金で、7月には遅くても一期工事に乗りだし、今年中には完成して最初のお年寄りをお迎えしたいと考えています。
 異国で若い時代を子供たちのために奮闘したお年寄りが晩年は少なくとも穏やかに暮らせるようにさせたいのです。
 暗いニュースの中で明るい一つは、リマ市の日系人、スペイン、カナダと特に日本の皆様の援助で建てたエンマヌエルホームです。ここには今、85人の子供たちが明るく元気に育っています。この子供たちの実地教育とまた自活の道のために、飼育所、カフェテリアーレストラン、美容院、靴の修理、若者たちのための黙想の家がありましたが、それに加え近々パン屋を作る計画です。この17年のうちに、家庭の事情が解決したり経済も良くなって我が家に戻って行った子供たちも比較的に多かった事も付け加え皆様にご報告いたします。
7月17日

エンマヌエルホームの子供たち
エンマヌエルホームの子供たち






『まがみのペルーだより』

ベリス・メルセス宣教修道女会 真神 シゲ
 秋、四月に入ってからペルーでは、大統領選挙のことで持ち切りで、教会の集まりでも何処でも、この国の未来についての話が活発にされていました。シスター達も各地区の選挙責任者に指名されました。…四月九日、リマは二つに割れました。フジモリとトレノ、二人の戦いになりました。…四月十二日、もう一度、決定選挙をする事が決まりました。ペルーの未来のために本当に祈っています。
 …教会も2000年度の新しい歩みを始めました。7つの地区の信徒代表者の集まりでは、それぞれの地区の現実に見合った目的、手段が出されました。この会議でメルセス会から、アフリカ・コンゴの現実が話され、平和を求める祈りをすることになりました。特に若者の代表者の熱意が皆を動かし、3月31日の金曜日夜10時から4月1日朝5時まで、パルディビエソの教会で、100名程の人々が集まって聖書を読み、コンゴの人々のビデオ、20年間コンゴで働いていた二人のフランシスコ会のシスター(ペルー人)の話を聞いて分かち合い、祈りました。徹夜で祈った人の半数は教会からそのまま仕事に出掛けて行きました。この人達も夜10時まで働いているのです。それでも、コンゴ、アフリカの人達のために平和を祈る、何故なら、アフリカの人たちは自分たちの兄弟姉妹だから。この連帯の姿勢に感動し、今もこの夜のことを思うと温もりを感じます。






『小学校校舎の増築完成間近』

宮崎カリタス修道女会 田中 三子
 今年の一月に、皆様方の愛の献金で、机、椅子、教卓、教材収納棚等を購入させて頂き、スラムの子供達も思いがけない素晴らしいプレゼントに、目を輝かせて勉強に励んでおります。JOMASからの援助金で、小学校校舎の増設も計画どおり進み、完成間近になりました。
 砂漠のスラム地帯は掘っても掘っても砂ばかりで、鉄骨、石、セメントの経費は予定の二倍以上もかかりましたが、今年必要な小学4年生までの教室は完成し、新しい教室、机、椅子に囲まれ、喜びに包まれています。
 感謝をこめて、生徒、職員一同に代わって、厚く御礼申し上げます。






『今年、開拓・移住から40年』

〜パラグアイ〜
聖霊奉侍布教修道女会 宮入 キワ子
…日本滞在中は、いろいろお世話になり、ありがとうございました。
 5月1日にパラグアイに帰国し、10月には、新しい任地のピラポ移住地に来ました。
 30年前に、最初の宣教地として8年位働いた所なので、第2のふるさとに帰って来たような気持です。あの頃の幼稚園の園児たちは、今は立派な大人になって、子供たちのお父さん、お母さんとして、移住地で、それぞれの立場で働いています。移住地の人口は、日本人は少し減ったにもかかわらず、パラグアイ人が多数移住して来て増えています。
 今年は、最初の日本人がここに来て、原始林を開拓してから40年が経ち、今は、大きなサイロを持つ農協があり、日本人会館の大きなサロン、運動場、市の中学校、その他幾つかの小学校などを持つ町になりました。
 市長は日本人で町のために、いろいろ骨折っています。近いうちに市の中央を通る道が舗装される予定で、雨の日も出ることが出来るようになります。今までは10キロも出ないと舗装道路にならないので、外出不可能でした。
 パラグアイの治安は不安定です。政治家はそれぞれ、お互いに分裂して、自分たちの立場を良くしようとし、一般の国民は、ますます貧しく、苦しい生活に追いやられています。
 教会は、そういう人々の支え、力、励ましになろうと努力しています。
 私は、エンカルナシオン教区の司牧委員会の地区委員をしています。また、移住地の教会では、日本人信者の世話、子供や大人のカテケシス(信仰教育)をしており、パラグアイ人と、日本人のかけ橋になりたいと努めています。
 こちらパラグアイは今、冬に入り、ここピラポはもう2回位霜が降りました。
 雨の中を北島神父様が、アルゼンチンから、日本語ミサに来て下さり、30人ぐらいの日本人信者が集まり、ミサの後、神父様と共に、持ち寄ったお弁当を分け合い、私の歓迎もして下さり、20年ぶりに会う、懐かしい移住地の人々と楽しい一時を過ごしました。





『走り回って役所へ』

聖霊奉侍布教修道女会 山田 雲江
…一人減った管区事務員の後釜(?)で、外交の仕事で役所などへの書類に関することを与り、動き、歩き、小走り、しながら(役所の)窓口時間に間に合うようにしながら、必要な書類の仕末をしております(が)やはり、65歳という年代に入り、いろんな意味で体に響いてくるようです。…自分の体よりも幅広い大きなカバンを肩に掛け、ガタガタバスに乗って荒い運転でフラフラしているのを見兼ねてか、いつも“どうぞ”と席を譲って下さる方があって、このような善意にホロッとしたり…心暖まるのを感じます。
…現在のパラグアイでは、年少者が街路で物売りをして生活の糧を得るために学校にも行けず中には、親に強制されて物売りに歩き、売上げがないと親に叩かれたりすることから、家に帰らないで、他のグループに入って悪の道に誘われたりすることが、非常に多くなりました。
 市役所や幼児保護の団体で、年少者の飲酒や麻薬から救い出すための活動がはじまっています。病人、一人暮しの老人、ノイローゼ、家庭問題で落ち込んでいる人、植物状態になって、家族に看病されている病人、ガン末期の人達を訪問する奉仕も、仕事の合間を縫って続けさせて頂いております。(それを通して)気付くのは、死に向う病気の方々だけでなく、この病人を看護する家族、とくに、病人の死後、残された方々の心を支え、人生の心の道づれになることの大切さを感じさせられます。…このような家族の方々とのつながりを大切にし、時には家族の一員として共に考え、話し合い、祈りながら分かち合っております。

65歳の誕生日を祝って(左から2人目がSr山田)
65歳の誕生日を祝って(左から2人目がSr山田)






『複雑な荷物の発送手続き』

〜ブラジル〜
フランシスコ会 小川 満神父
…厳しかった夏の暑さも和らぎ、初秋の爽やかな空気が朝夕窓から流れ込み、長かった真夏の灼熱地獄に苦しんだ私を慰めてくれます。
 こんな便りを書きはじめたとたん、6月19日朝、気温10度まで下がり、ここドゥラードス近辺ではストープらしき物はなく、それに代わるものはお天道さまだけなので、ふるえながら、この手紙を書いています。
 いつも、衣類をお送り下さり、感謝しております。一昨年、昨年と、こちらの都合(州衛生局や連邦税務署などからの書類の請求)で、大変なご心配とご迷惑をおかけしました。
 おかげ様で大体の荷物は着いていると思います。でも、昨年半ば頃から、さらに、輸出入管理局から、荷物の中身と数量を、両国語で明記した書類に、荷物発注国にあるブラジル領事館の認定許可を受けたものを提示するようにとの請求がありましたが…その後送られた小荷物は、全部、今までの書類で手許に届いています。






『各移住地の日系一世を訪問』

〜アルゼンチン〜
神言会 北島泰治神父
 先日、川向うのパラグアイのピラポ移住地のシスター宮入の着任の感謝ミサに行って来ました。シスター上杉が急に帰国されて以来、心配になっていましたが、これで一安心です。
 こちら、アルゼンチンのミシオネス州の方は相変わらず、プエルトリコ、オペラ、ハルディン・アメリカ、アリストポロ、ポサダス各移住地の日系移住者一世の方々の家庭訪問及び現地の人と日系人のために、ミサを捧げています。
 先日、佐高さんという日系移住者の方の葬儀のために、ポサダスまで行って来ました。
 当日は、故人の小教区の主任司祭が不在のため、私が、葬儀と埋葬を司式しました。
 海外で生活している日本人には、こうした、お世話も一つの心の支えになっているようです。
 亡くなった佐高さんの友人達は、一様に、「神父様が来てくれてよかった」と自分のことのように安堵したようです。

新設の巡回教会で
新設の巡回教会で








『アジア』






『大強盗団に襲われる』

〜インドネシア〜
聖母カテキスタ会 浜谷真佐美
 私は63歳の終わりから64歳にして、再びYAYASAN ABDIKASHI(重度精神障害児施設)で働くことになりました。
 途端に(施設が)大強盗団に襲われ、翌朝の朝食用の米、食器、スプーン、草刈り機、豆腐製造機、テレビ、歯磨きのチューブに至る数多くの物を数時間の中に持って行かれてしまいました。身の毛のよだつ思い、あまりにも残酷な有り様でした。
 幸い、子供たちは全員元気で、何も知らない幼子は、安らかに主の愛の御手の中で眠っておりました。対策を考えずにはおれませんが、警察は全然役に立たず、自衛を考えなければなりません。神様の御保護を願ってただ祈るばかりです。
 私たちのYAYASANはカトリック系ではありませんから、まだ、ましな方です。
 カトリックでしたら「潰してしまえ」となるかもしれません。
 「この子はこの世に役に立たず、むしろ、生まれなかったら…」と思う親達に、神様は、私達に母親に代わって、「最愛を尽くして、この最も小さな者のために尽くす人は幸いだ。この小さな者は、主、私だから」(と言われます)。私は64歳にして、この御言葉に生かされて働いております。






『馬に乗って病人訪問』

御聖体の宣教クララ修道会 中野 かほる
 インドネシア・スラバヤから大きな船で三泊四日でフローレンス島へ、其処から私達のミッションの地ウドウ活火山の麓へ。私達宣教クララ会はこのウドウの村で1974年から診療所、産室(無医村)、幼児教育、女性のための料理指導…などをしております。
 フローレンス島の人々の宗教は90%がカトリックです。主食はトウモロコシ、少しの米、ウビ(いも)などです。私達がウドウの山村で働き始めた時には、電気も無く、1998年に、やっと一部だけ電気が来ましたが、一日に三時間だけ、今でも一般の家には電気はありません。1991年、ジャカルタにある日本クラブの福祉部から石油、冷蔵庫(赤ちゃんのための薬、ワクチンをしまっておくため)とバイクー台(手紙を出したり、25kmの所に取りに行くため)を頂きました。全ての交通やスラバヤへ電話したいと思う時には、トラックのようなバス(動物も一緒)に乗って2時間半、このバスも一日一回、又は二回しか通りません。
 島人の主な病気は結核、マラリア、貧血、ハンセン病、精神障害などですが、病人が診療所へ支払うのは、お金でなくて自分たちの家で穫れた物、豆、いも、コーヒー豆、トウモロコシ、薪などでお金を払う人達は居ません。
 病人訪問のためにも二頭の馬を使って居ました。

奥地のお年寄訪問 〜フローレンス島〜
奥地のお年寄訪問 〜フローレンス島〜






『アフリカ』

アルジェリア





『講演『アルジェリアに生きて』』

〜アルジェリア〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 篠田 文江

 2000年7月16日(日)午後2時から、東京・四谷のニコラ・バレ会議室で、アルジェリアから一時帰国のマリアの宣教者フランシスコ修道会のシスター篠田文江さんの現地報告講演会が開かれた。その講演の概要を紹介する。
”ないないづくし”
 私がアルジェリアに入ったのは1976年で今年で24年になります。アルジェリアは大きな国で、北と西が農耕地帯で、オレンジ、小麦を作っており、砂漠では石油が出ます。
 私が居るテベッサ(首都アルジェ南東800kmのチュニジア国境近くの市。標高1200mの高地)の病院では、水がなく、家でも水は、1日1時間くらいしか出ず、水道の蛇口から葉っぱやミミズの死んだのが出て来たりで辛かった。医者の国籍も、最初はロシアの医者、インド、ポーランド等々と次々に変わって患者とのコンタクトも出来ず、病院も汚く非衛生的だった。注射器、点滴用パック、チューブなどの医療器具も全然無く、1日に1人の患者に1セットを使えなくて、1セットを1週間に分けて使う有様で死亡率も高かった。
”真の看護婦は、おばあさん”
 (この病院で)6〜7年働いている間にお母さんと子供のカウンセラーをしましたが、お母さんの妊娠回数が13回、14回、15回というように多いんです。
 その中、何人生きているかというと三分の一位で、子供の数は、5人、6人、7人、(でも)お母さんにも、何人目が生きていて、何番目が病気だと、はっきり答えることが出来ない。
 私は看護婦の資格も持っているし、聖母病院で働いていたし、(看護婦なのだ)等と考えていたのですが、向こうでは、医者に聞こうとしても、医者は判らない、フランス語、ロシア語、アラビア語も分からない、必要な時に先生は居ない、医療器械は無し、患者はあちこちで待ち、死にそうだというのに「一体、看護婦とは何?」
という疑問にぶつかっていました。
 そんなある寒い冬、(一人の)おばあさんが孫を連れてBCG注射のためにやって来た。
 見ると、赤ん坊はまっ青。向こうでは、赤ん坊が生まれたら、(薬として)土や草を練ったものを体に塗り付ける、そのため、皮膚呼吸が出来なくなった赤ん坊は青かったのです。
 困った私を見て、おばあさんは服に付けていた安全ピンを取って、赤ちゃんの耳の辺りを刺した。赤ん坊はその刺激で、泣き叫んだ。
 「やれやれ良かった。」泣けば呼吸が出来、酸素を吸入出来る。赤ちゃんは生き返った。
 それを見て、「おばあさんの方が看護婦だ」ということを感じました。………
 この後アルジェに移りました。アルジェは首都だから、大病院もあるし、土地の医者も沢山居ました。看護婦もよく養成されていて、入院患者の世話も行き届いていました。アルジェでは最初のうちは良かったのですが、10年程前から社会経済生活が貧しくなり、貧しい人はさらに貧しく、人口は増え、若者たちは仕事がなく、これ以上耐えられない状態になって来た。教育、医療費などは、以前は全て政府が支払い無料だから皆が行ける筈なのが、無料故に却って金持、権力ある人、地位のある人たちが無料を利用してしまって、本当に貧しい人は病院に行っても結局、診てもらえない。
 10年程前から国内情勢が悪化し、争いの中で、司祭、修道士、修道女達にも沢山犠牲者が出ました。こういう事態になって、私達も、「教会のため、尚、この地に残るべきか、他の地でミッションすべきか」選択を迫られました。
 その時、私は「何処かで、誰かが私のために祈って下さる」ということをすごく感じました。危険スレスレのところで決断を迫られました。アルジェリアには四つの司教区があり4人の司教様達が相談して「アルジェリアの教会は続けることに決めました」と言われ、「それでも皆さんは自由ですよ」と仰言ったのですが、アルジェリアでの生活が私の中に刻まれていると、そう簡単に「では、さようなら」という訳にはいきません。
 危険なので、病院にも通えず、家の中に寵もっているわけにもいかないので、テベッサに移りました。テベッサは私が最初に居た所で15〜20年経っていましたが、町も大きくなり、病院では水道の水は出る、交通機関も良くなり、以前はテベッサから10キロ、20キロ離れた近くの村に行くにしても、全然、交通機関がなかったのに、今では、小さなバスがあちこち走っています。……このバスは、昔は国営でしたが、個人あるいはグループで買って走らせ、料金もそう高くなく、市民に喜ばれています。
 電話などの通信も良くなっています。
 人々が変わったのは、新聞を読むようになったことです。私が最初に行った頃は、新聞は一つぐらいだったのが、今はフランス語、アラビア語の新聞がかなりあり、朝10時から11時頃町を通れば、かなりの男の人が新聞を手に持って歩いています。それだけ進んだと言えましょう。
”地元の人々に支えられ”
 私達は今、土地の人々に支えられて生活しています。何人かの家族、友人達はいろいろと(情報を)教えて下さる。そして、四六時中私達を見守って下さいます。これらの人々のお蔭で私達は居させて頂いています。
 どちらが愛し、愛されているのか、お互い様という感じです。彼らもイスラム教徒として、本当に良い信者ですから、忠実に祈りはするし、お金があれば、メッカへの巡礼もする、年に1カ月の断食もする、子供達への教育も善意を持ってやっています。女性達の生活を見ても、何か苦しいことがあれば、「それは神様から来たものだから、祈りながら、耐えなければ」というし、喜びがあれば、本当に喜んでいる。忠実に、夫と子供に骨身を惜しまず捧げている毎日、女性として、本当美しいものを見せてくれます。
 こういう状態ですが、カトリックは居ます。「聖アウグスチヌス友の会」(アルジェリアは聖アウグスチヌスの生まれ故郷)というのがあって、このメンバーは土地のカトリック信者なのです。そういう人達はかなり居ます。そして復活祭やクリスマスなどには一つの集まりを持っています。また、プロテスタントもかなりの数居ます。
 (そして)土地の人にとっても、一つの疑問があるようです。(こういう情勢の中で)今まで信じていたイスラム教とは、こんなものだったのかという疑問です。こういう考えは20代後半から30代、40代の人達が持っており、そんな疑問を抱いても、持って行き場がない。お互い同士で話すか、隠れるようにして私達、外国人の所に釆て、いろいろ質問する人が多くなりました。イスラム教の国だから、公教要理をしたから“洗礼”というのではなく、6年、7年、8年反省して、それでもというのなら、洗礼を受けるということになります。
 アルジェリアはフランスの領土だったことが長かったので、“外国人即ちフランス人即ち、クリスチャン”という発想がある。そして、フランス人を嫌うが故に外国人を嫌い辛く当たるという雰囲気があった。例えば、湾岸戦争時にはフランス人にはすごく厳しく、フランス人は外に出てもふるえていた。
 今、私たちのコミュニティにはフランス人二人、スペイン人、日本人(わたし)がいます。それが却って土地の人から見ると「キリスト教というのはフランス人ばかりではないんだな」と思うらしく、(また、東洋人の私の)こんな顔を見ると、「キリスト教がアジアの方にも」という感じで、人々の間に、その印象が拡がり、抵抗も少なくなるようです。土地の人々にとって私は、「フランス人ではない。もっと、(自分達に)近い人」のようだ。
 私達は、今、難しい時にあります。とても、不安定です。何時、何が起こるか分かりませんが、その中に居続けることが出来るのは、やはり、土地の人のお蔭です。
 イスラム教徒の日常は「祈り」です。
 宗教は違っても、同じように「神に祈る人」として私たちは、彼らに受け入れられたようです。






『ヨーロッパ』







『ロシアで初の聖体行列(大会)』

〜ロシア〜
御聖体の宣教クララ修道会 根岸 美智子
 私は無事サラトフに到着しました。サラトフも日本と変りなく夏がやって来ました。予想に反して、こちらの夏も結構暑いです。私達の修道院はボルガ河の流域にあります。12階のアパートから見ますと、とても美しいです。歩いて5分で川辺に着きます。
…ロシアは長い間、聖書を持つことが許されていませんでしたが、嬉しいことに、今は鉄のカーテンが開いて始めて聖体大会が行われることになったのです。ちょうどこの素晴らしい行事に参加する恵みを頂きました。
 28日の日は、ロシア晴れ…真青な空に太陽は美しく輝き、まるで、この日の聖体行列を祝しているようです。
 全ロシアは4つの地域に分かれています。
 ヨーロッパ南区、ヨーロッパ北区、アジア南区、アジア北区、日本の45倍の国で、たった4人の司教様。…この大会(に参加した)信徒は、1000人位でした。しかし、4人の司教様そして52人の司祭が金色の祭服を着て、典型的な真っ白なドレスの花蒔きの少女達が並び、ロシアのコスチュームをまとった子供達、青年達、行列は荘厳でした。あのモスクワの町を大きな声で祈り、歌い、聖体を讃美出来るとは、なんと大きなお恵みでしょう。感無量でした。ヴァチカンのテレパチェ(ヴァチカンのテレビ局)も来ておりましたし。行列は4回止まり、聖書朗読と礼拝が行われました。革命後の最初の聖体大会でした。
 モスクワの地下鉄は荒く、エスカレーターはとても長く、ものすごい速さです。まるい電灯がニョキニョキ立っています。そこを急降下して行く人々の群を見る時、地獄を想像したほどです。でも建物は芸術的で立派です。
 夜8時、私は他のシスターと合流し、モスクワ駅からサラトフに向いました。800キロの旅ですが、なんと、16時間かかりました。
 列車の一部屋は4人乗り、4人のシスター、若い2人が上のベッド、私は下のベッドで、汽車はゴットン、ガッタン、ゆっくり止まり、まさに時速50キロ、後ろから降りて押したいくらいです。翌日の12時にやっとサラトフに到着しました。まさに昭和20年代の(日本の)田舎の停車場の感があります。途中の景色はずっと平地で白樺の林が気が遠くなるほど続いていますが、今は緑でとても美しいです。人家は殆どありません。湿地帯も続いています。
 食糧事情は数年前までは、ロシアの産物しかないので乏しく、長い行列をしなければ何も手に入りませんでしたが、今は、お店にはかなりの品が並ぶようになったそうです。
 私は毎日午前中にロシア語の特訓中です。
 まるで舌をかむような発音、一歩歩くと忘れてしまうというのが現状です。現在、新しい土地に教会を建てています。こちらのミッションは、まだ始めの段階です。
 ここでの私達の収入は全くありませんので、生活は厳しいです。ボルガ何では、沢山の魚が漁れますが、今は公害のため食べるのは危険なのだそうです。食べないように云われていますが、貧しい人々にとってはどうしようもありません。頂くより仕方がないのです。
 町には信号が殆どありません。数年前までは殆ど車も走っていなかったそうです。この町は軍事都市だったので、外国人が入ることは禁止され、住民も簡単に出入り出来なかったそうです。ロシアのミッションは、これからです。

モスクワで初の聖体行列
モスクワで初の聖体行列


Sr根岸美智子
Sr根岸美智子






『アシジに巡礼団続々…』

〜イタリア〜
コンベンツアル聖フランシスコ修道会 瀧 憲志神父
 ここアシジは5月、6月は暑い日が続きましたが7月は雨、曇り、そよ風の吹く日が続いて凌ぎやすい気候でした。ウンプリア平原は、今、油となるための向日葵が満開です。
 さて、コンピュータ誤作動騒動やテロ活動の予告などで不安の中に明けた“ジュビレオ2000”キリスト生誕2000年記念の“大聖年”のこと)も前半が平穏に過ぎ去りました。
 アシジには予想されたはどの巡礼団の訪問がなく、一般観光客も、ゆっくり名画を鑑賞するチャンスに恵まれています。ただ、巡礼団が、殺到する日があって、終日、どのチャペル(聖フランシスコ大聖堂は、上下大聖堂の本祭壇の他に、5つの小聖堂の祭壇でミサが出来る)でも、ミサが捧げられている日もあります。
 その半面、終日、巡礼団が全く来ない日もあります。
 今日までの半年間に、日本から69グループ(仲間だけの小グループも含む)1500名余がアシジを訪問しています。
 6月の「国際聖体大会」参加のグループは、7つのグループで結成されていて、160名余の大きな団体でアシジを訪問しました。
 8月の「ワールド・ユース・ディ」参加の若者達のグループは、14日と16日に合計で8グループ、220名が、アシジに巡礼しました。