『南米』『無事帰国、感謝のミサを』フランシスコ会 加藤マヌエル神父
この度は3カ月以上の日本滞在中、とくに、入院中はいろいろな面でお世話になりました。……3カ月以上も留守にしましたので、皆は私のことなど忘れているだろうから、ゆっくり休みながら日本の皆様に、お礼の手紙を書こうと考えていました。しかし、後から知ったことですが、日系人のための唯一の邦字新聞に、私の日本での入院と2月27日の帰国、また3月1日の誕生日に、無事帰国の感謝のミサを聖アントニオ教会で挙行されると報じられていたため、思いがけなく多くの方々が参加して下さいました。また、毎日のように多くの方々から電話や訪問で休む暇がありません。嬉しい悲鳴を上げているところです。
……17年前に8人のストリート・チルドレンで始めたホームも、今、80人が入園しています。2歳から22歳の食欲旺盛の子供達ですがこの子供達はホームに来るまではあまり食べるものもなかったので、二つのこと、食事と愛情にとくに気を付けて育てています。 ペルーの経済は依然として厳しいです。 このような生活の中ですので、今まで、比較的裕福だった日本人もその煽りを自然に受けてこの十二、三年の間、多くの日系、非日系人が日本に出稼ぎに出掛けています。 そして、経済が一向に良くなりませんので、ペルーに見切りをつけて家族で引き上げています。ただし、お年寄りはここに残っています。 この人達が今、問題となっています。 幸いに、ホームがある区役所が、私達の事業を認めて、新たに、10.800uを贈呈して下さいましたので、6,000uを老人ホームにあてることにし、目下、その準備に取り掛かっています。 このために、日本は勿論のこと、北米、カナダ、ドイツに協力援助を呼びかけています。 2000年3月20日
『小学校の増築工事進む』宮崎カリタス修道女会 ペルー姉妹一同 Srベラジア田中
大聖年の恵みと回心の年も、いつもの年と変わりなく矢のように早々と過ぎ去っていきます。
この年だけは、一日一日を大切に聖化しようと思いながら、スラムの人々とその日その日をあくせくと忙しくしています。 多大なご協力で、S.J.Mのサンマルティン小学校の増設工事は着々と進んでいます。 毎年、一つの教室を作るのに、経済的に大変頭を悩ませるのですが、今回は、2カ月近くで小学6年までの教室が、近く、出来上がります。砂漠地のlnvacion、掘っても掘っても砂ばかり、土台がしっかりしていない幼稚園舎の上に小学校増設で、思ったより予算が上回り、二倍の建築費でした。 それでも、私たちにとっては、思いがけない多額の愛の献金を受け、索漠としたバンプローナ砂漠の生ける水、オアシスのような大きな恵みでした。 この大きなニュース、喜びを貧しさと戦って生きている子供たちに与えて下さった、多くの善意の方々に心から厚く感謝致しております。 もう直ぐ新学期が始まります。 『ペルー農業に生命を捧げた三人の日本技術者』天使の聖母宣教修道女会 井上 優子
1999年は日本人がペルーに移住して百周年を迎えました。残り少ない一世のお年寄りは一カ月に一度、リマのヘスス・マリア区にある聖フランシスコ教会で、加藤マヌエル神父様の日本語ミサと集会を楽しみにして、家族に付き添われて来ます。ある方は杖をつき、ある方は車椅子で……。日本人の信徒宣教者と私達数名のシスターがお年寄りのお世話を致します。
私はリマから90km離れたワラール市のイスキベールに住んでいます。リマからワラール迄行くのには、バスで砂漠と海岸地帯を横切りますが、通る度に決して同じ形を止めない砂丘に出会います。絶えず風が吹き、形を変え、自然の美しさ、偉大さを味わえます。砂漠地帯の終わりから遥か遠くに見え出したワラール市は、一面に豊かな緑畑があり、民家もまばらです。 小さな町ワラールからボロボロのバスに乗り換えて修道院に着きます。ここから10分程先の農業研究所ドノソには、1993年に3名の日本人農業技師が日本政府から派遣され、この国の農業発展のため農業技術を現地の人に伝えていましたが、テロリストに射殺されました。 この事件後も、彼らの研究のトマト、えんどう豆の改良は現地の人に受け継がれ、トマト、えんどう豆等はペルー全国に広がっているそうです。 1997年、「日本大使館占拠事件」の際、取材に来た、ある新聞記者と加藤神父様と私の3人で厳戒のドノソの中に入りました。その後のドノソを知るためでした。 3名が射殺された事務所の前は、今は何事もなかったかのように静かで、研究所の人々が、行き来していました。 三つの建物にそれぞれ故人の名が付けられ記念されていました。生命を捧げたのですが、今、こうしてペルーのために役立っているということは、亡くなった彼等が、この国に「共に生存した」証しではないでしょうか。 2000年1月17日
『大統領は誰?でも貧者との分かち合いは毎日』天使の聖母宣教修道女会 井上 優子
……4月12日に日本から援助金が届き、一同大喜びでおります。有り難うございました。
皆様のお祈りと汗の恵みを大事に使わせて頂きます。一つ一つのレンガに皆様の心が残ると思うと、感慨深いものがあります。 早速、工事が進められました。残念なことに先月から値上がり始め、なかなか思いどうりにはなりません。 この工事を通して、失業者にも少しばかり生活が潤います。永い間天井を取り替えていない(という)現場労働者が、使えない状態の、“ポリーヤ(剥がした竹細工の天井)”でも、「欲しい」と言って持って行きました。 次期ペルー大統領選挙をめぐって現フジモリ大統領と人気の高いエンハンドロ・トレド氏との間で(選挙は)大揺れ、国が半々に分かれ、不安、不安定な状態です。“大統領は誰?”と騒いでいるときでも、私達は貧困者と毎日分かち合い前進していかなければなりません。 『まがみのペルーだより』ベリス・メルセス宣教修道女会 真神 シゲ
2月1日、エクアドルへの旅立ちです。
南米管区管区長マルティナ、副管区長ロサ、マリアンへレスと私の4人は、3月8日から始まる管区総会に出席するため、正午に出発しました。バスは太平洋沿岸を走ります。流木をつなぎ合わせた家が延々と続く海岸や、緑の芝生とカラフルな家並みの大金持ちの人々の海岸、また再び、朽ちた木で囲まれた家並みが続きます。翌朝8時、チクライヨに到着し、エクアドル入国の手続きを終えて、国境線を越えると、“BIEN VENIDA (ようこそ)”の旗がはためき、活気溢れる歓迎を受けてウワキリアに入り午前11時に修道院に着きました。 ……マリアンへレスは、30年間ウワキリアで働いていました。長年の教会共同体作りが実り2月8日にオープンするスーパーの最後の仕上げにシスター達は顔を輝かせていました。スーパーの他に宿泊所、集会所、図書館もある大きな建物を自分達の手で造っていったのです。 一つの屋台から、教会の人達が力を合わせて一つの目的に向かって働いて来ました。 3人のメルセスのシスターとホセ・アントニオ神父が司牧にあたっています。畑、養豚、養鶏場もあり、貧しい人々が自立出来るようにと配慮している姿に、小さな神の国を見たように感じました。6日、キトに向かいました。 キトは、エクアドルの首都です。山腹に広がる広大な都市です。 海抜3,000メートル、湿気がなく涼しく、日中は暑く、緑溢れる所です。このはずれの山の中にメルセス会の修道院があります。今は3人の修練者1人の有期誓願者、養成担当者の2人のシスター、合計6人の共同体で、教会の隣です。朝夕は寒く暖房なしで、湯たんぽを使いました。 ……9日から8日間の黙想、コロンビア人神父様の指導でした。南米の現実を中心に神のみ言葉、神様の望まれる地球家族、神様が一人一人に託された望み、一日3回の講話とミサ、言語、文化の異なる中での分かち合い、“私たちは一つ”の実感を味わいました。 黙想の後半から各地区の司牧の実態についての分かち合い、深めが始まりました。ペルーとエクアドル合計6つの地区の仕事、生活などについて。総長のアランチャと私を加えて32名、私にとって、忘れられない良い黙想でした。 私は、17日から代議員でないシスターたちとキトの町を見学、ちょうど、先住民の集会デモに出会いました。なんの主張も政治への参加も認められない彼等の、民族、部族衣装を着けた彼等のデモにエールを送ると、“GRACIAS!”と言って握手をしました。黙々と行進して、主の祈りを唱え、主の望まれる神の国づくりに私たちも呼ばれていると主張しているだけなのに、マスコミは騒乱として扱い、警察は催涙弾を投げつけました。政治、経済とも非常に不穏な状態です。 キトは、アンデスの中腹にひらけた盆地都市で、山に向かって箕しい人々が住んでいます。 歓楽街のど真ん中にカルメル観想会、さらに登ると大きな洗濯場、100家族位の老若男女が楽しそうに洗濯をしていました。山の上には水道がないからです。 赤道にも行って来ました。地球の真ん中、南北の分かれ目、0度の所です。キトからバスで1時間、山の中に突然、小さな町が現れました。まさしくエクアドル、赤道です。 黄色い線があって、この線を跨いで「北半球に今、私は居る」「ホラ、今は、南半球に」と楽しみながらも、人間の生活の南北はなんとしても一つにしなくては」と思いました。 ……さて、私は、8月半ば頃、日本に帰ることになりました。日本では、移住労働者、とくに、南米からの人々のための活動に協力することになりました。神様が私に与えて下さったこの新しい道を、皆様に支えられて歩んで行きたいと思っています。 どうぞ、宜しくお願いします。 2000年3月1日
『郵便物配達も、週一回に』聖霊奉侍布教修道女会 林 静子
…昨年から私の住んでいるラパスコロニアにも郵便局の出張所が出来、1週間に1度づつフエンカルナシオンの本局から、郵便物が届くようになりました。
…今日は聖木曜日で、エンカルナシオンのカテドラルに、エンカルナシオン教区の司祭方が、40名以上集まって、司教様とご一緒に荘厳ミサがありました。修道者も一般信者も参加して、歌ミサもギターの伴奏で南米らしく賑やかでした。今年は2000年の行事として、私達日系人グループも巡礼を企画しております。5月の第1日曜日に、コロニア、イグナスの信者さんたちと私たちのコロニアの信者さんのグループが、クルツカ神父様のいらっしゃる、マリア・アクリシア教会(指定巡礼教会)に巡礼します。 今年は大豆の収穫も大半済み、値段も割合良く、農家の人々も喜んでいます。5月になるとまた、小麦の蒔き付けの準備が始まります。 4月19日
『改善されたドゥラドス青少年拘置所』殉教者聖ゲオルギオのフランシスコ修道会・札幌マリア院 林 七枝
「会」から頂いたスポーツ用衣類、靴などを、ドゥラドス青少年拘置所に贈ったところ、(品物の)受領書とともに、(同所の)近況報告が送られて来ました。(以下は)同拘置所からの手紙の内容です。
「1999年3月4日に、ベルモンテ・ジュクルヴァ夫人が新たに青少年拘置所のディレクターに任命されました。 この施設には22人が監禁されています。 この青少年達は窃盗、麻薬、殺人未遂、殺人の罪を犯した人々だが、(彼等を)矯正し、社会復帰させるため、次のプロジェクトを実施しました。 (1)宗教:過2回市民団体に来てもらい、指導と音楽を伴う祈りによって、神と共に過ごす素晴らしいひとときを持つ。 (2)教育:教師の指導による読み書きの教室を開き、良い結果を麗している。 (3)手仕事:木工、粘土、紙工芸、家具再生の技術を習得し、収入もはかる。 (4)菜園:自給自足のためとその家族にも配られる。また、サン・フランシスコ保育園、ドゥラドスで最も貧しい施設にもまわす。日本から送られた衣類は、この保育園に市の福祉団体を通して届けました。 (5)スポーツ:サッカー、バレーボールなど。 (6)青少年の家族への社会・心理的な援助。 (7)退院者への仕事斡旋、学校復帰への援助。 以上述べたように、やることは山ほどありますが、給料はごく僅かで、政府の資金援助はこの施設を維持するためには、全く足りません」 ドゥラドス青少年拘置所からの手紙はこのような内容のものです。 また、拘置所について、新聞記事は次のように紹介しています。 「カンポ・グランデ及びボンタ・ボランの青少年拘置所は治安に関して危機に瀕している。 カンポ・グランデの施設では、1999年の初めに既に20人の脱走者が出ている。そのうちの5人は、5月4日に格子を破り脱出した。 ボンタ・ボランのヌネス・マルセリノ議員は「青少年の治安を確保出来ない上に、最悪の状態にある」として、「拘置所の廃止」を州議会に求めている。 ドゥラドスの状況も最近までボンタ・ボランとそう変わらなかった。 施設設備全般にわたって亀裂と水漏れでだめになっていて、住宅向けの建物をそのまま施設として利用していたため、最悪の状況で経営されていた。 しかし、新ディレククーに変わってからドゥラドスの施設は、保安官や青少年に手伝ってもらい建物を改造しこの状況を改善しつつある。 拘置所の新管理者ベルモンテ・ジュグルヴァ夫人によると、いちばん初めの対策は青少年が刑期を終えたら直ぐに解放されるように働きかけたことである。その結果、監禁者を36%減らす事が出来た。 さらに、彼等の更生を支持するためと、自己の尊厳を回復させるため、家族構成を強化するプログラムを結成した。このプログラムはさらに、菜園などによって自給自足への活動なども計っている、それは、施設内の消費のためと、少ないが外部にも売ることで、青少年たちの収入源にもなっている。 施設の美術工芸などの講座を維持するためには援助が必要だとジュグルヴァ夫人は述べている。この講座は、青少年が更生し、自己尊重を回復し、社会復帰を図るためには必要、欠かせない講座だからである。 アストルフイ・ジョアオン青少年裁判官によると、「ドゥラドス拘置所の状況は落ち着いていて、とくに、心配ない」と言っている。 「拘置所全般的な状況を考えると、殆どの施設は青少年達が社会活動をするために、専門家が足りないのと適切な設備が整っていない」と、同裁判官は述べた。 『活気あるハイチのキリスト教』クリスト・ロア宣教修道女会・武島 愛子
私はハイチに来て10年になり、貧しい病人の方々のために、看護婦として働いています。
1998年、(それまで)健康だけが取り柄だった私は結核に感染し、1年間、カナダ、ハイチで治療、静養、やっと、昨年七月から働けるようになりました。 現在、都心より1時間離れた自然と水に恵まれたシグノでハンセン病患者の病院で、総婦長代行として働いて、もう6カ月になります。 大病をしたお陰で、患者さんへの接し方が変わったように思われます。年齢を問わず患者さん遠から「ママ、ママ」と呼ばれています。 日本とは違い、入院患者は常時20数名で、入退院は激しいです。一般的に患者に対する家族の受入れは良い関係です。しかし、貧しさ故に屡々、家族の世話までしなければならないのが現状で、外来の患者も多いです。 ハイチはキリスト教国なので、プロテスタント、カトリックの教会はあちこちにあり、教会はとても活気があり、タンブー(太鼓)に合わせて歌い、踊ります。ミサも3〜4時間かかります。 3月に国会議員選挙があり、治安は不安定でハイチでは珍しく、今年になって外国人の暗殺が数件あり、私たちも驚いています。 外国人を対象にしたお金目当ての強奪も年毎に増え、私たちの姉妹も被害を受けました。 国民の生活は物価、失業率が高くなり、厳しいです。でも、日本人の生活から消えていく笑顔、人懐っこさがハイチの人々の中にまだまだ残っているのが救いです。 『アフリカ』『見ると聞くのとでは大違い』大阪教区司祭 小田 武彦
昨年暮れから今年のはじめにかけて、姉(マリアの宣教者フランシスコ修道会員)を訪ねてエチオピアに行って来ました。
姉が働いている病院は、政府の官僚が遠くから何時間もかけてわざわざ入院して来るほど、エチオピアでは設備もスタッフも整っている方だとのことでした。ところが私は、病院内にある清潔な修道院に滞在しているにもかかわらず下痢に悩まされ、一週間以上、トイレとベッドから離れられない状態になってしまいました。 なんとか下痢が治まってから、姉の案内でカトリック宣教者が働いておられるさまざまな小教区や施設を訪問し始めました。一つひとつの体験はとてもすはらしいものだったのですが、それらは私がもっていた価値観や判断基準を大きく揺さぶるものでもありました。 たとえば、ある教会に隣接された小学校で働いているシスターは、村人たちにトイレという概念そのものがないので、小学校にトイレを作って、子どもたちに大便、小便を一カ所でする訓練をなさっていました。識字教育に加えて衛生教育や生活習慣を変える訓練をされるご苦労は並大抵のものではないだろうと、心から頭が下がりました。 ところが、そこから車で二十時間はど離れた教会に行ってみとる、教会敷地内にトイレどころか井戸もなかったのです。そこで働いておられる司祭は、地域の人々と同じように小川の水を飲み、同じものを食べ、人々と同じようにトイレのない生活をしつつ、キリストの福音を伝えることを大切にされていたからです。自分が奉仕しようとしている人々の生活様式を尊重し、周りの人々の文化を侵すことなく連帯しようとなさっておられる姿に圧倒されてしまいました。聖堂の一角に作られた屋根裏部屋が司祭の私室だったのですが、西欧文明の名残をとどめていたのは、わらを集めて作られたベッドの上に、雨や夜露をしのぐためにかけられたビニールくらいでした。 宣教者が宣べ伝えようとするキリストの福音と、その宣教者が生まれ育った国の文化や風習との関係は、現地の人々にとっては抜き差しならない問題だということがひしひしと伝わってきました。ただ、一週間以上もひどい下痢に悩まされた私にとって、その司祭の生活は頭で理解できても体が拒否反応を起こしてしまうものでもあったのです。 エチオピアはちょうど乾期で、前を行く車が五十メートル以上離れていても、巻き上げる土煙で前がまったく見えないはど。窓が閉まっていてもカラカラに乾いた粉塵が車内に入ってきて、マスクをしているにもかかわらず喉がいがいがになってしまいます。各地の訪問を始めたとたん、夜中も咳が止まらなくなり、睡眠不足状態になってしまいました。一週間ほどで何とか気管支炎は和らいだのですが、でこぼこ道を走り続けたからでしょうか、今度は腰や首が痛み始めました。さらに言葉がまったく通じないということで緊張状態が続いていたこともあって、「早くこの環境から脱出したい」という思いがどんどん強くなり、我ながらあきれてしまいました。 水道や台所、トイレという文化がない国で働いておられる宣教者の方々の生活を実際に拝見し、それぞれの喜びや悩みを聞かせていただくことができたのは本当に得難い体験でした。そして、これまで姉からいろいろと聞かされてはいても、ほとんど自分が何も理解していなかったのだということがよく分かりました。 エチオピア訪問は私にとって、宣教地といわれる国々で働いておられる方々への尊敬を改めて深めてくれると同時に、自分自身の弱さを思い知らされる体験でもありました。 エチオピア・シダモ族の竹製の家 エチオピア・ブシュロヘルスセンターで働くSr小田美津江 『コレラ患者が続出』マリアの宣教者フランシスコ修道会・遠藤 能子
大聖年、新世紀2000年のお喜びを皆様と共に、この新しい千年期の節目に生きられる恵みを与えて下さった神に感謝しています。
……マダガスカルは今もコレラが発生し続けてその対策に力を注いでいますが、衛生知識と衛生設備の乏しい国、地方ではなかなか困難です。私の住んでいる僻地にも、トイレを作って応援しているNGOがありますが、永年の習慣を変えることに住民は大きな抵抗があり、努力が必要とされています。 私の働いている小さな診療所でも、今の時期毎日ひどい下痢で点滴を必要とする患者が続出しています。コレラの発生を恐れて、衛生指導に力を注いでいる毎日です。 『難病治癒、この国で必要とされて』カトリック信徒宣教者会 Dr.桝田 英郎
いつも「きずな」を有り難うこざいます。
4年間働いたMbalmaypから、昨年7月愛徳姉妹会が経営するDschang(チャン)の病院に移りました。 カメルーンは、人口1350万人と言われ、首都には医科大学があります。定員70名と聞いていますが、私の此処の免許証の番号から想像すると、その半分も医師になっていないようで、慢性の医師不足で、看護婦が医師の代理をしています。医師になってからの専門教育も、この国では出来ず、外国で2〜3年研修を受けて専門医になっているので、実力はありません。眼科医も私の来たころは13人ぐらい、最近は30人位登録しているようです。機械の揃った病院は首都のヤウンデと港町のドアラに一つづつありますが、公立病院は医療費が高く、従ってキリスト教のミッションの経営する病院に患者さんは集中します。この病院もカメルーン人の医師は一人だけで、多くの患者さんは看護士が話を聞いて薬を出して帰すのが現状です。 薬は毎年ヨーロッパのカトリック教会からの援助で送られて来るので、カトリック関係診療所は患者さんに安く薬を提供する事が出来ます。こちらに来て暫く経った頃、イタリア大使館からの紹介で、「蚕食性角膜潰瘍」でヤウンデの病院に入院中の患者さんが、主治医の眼科医と一緒に来院しました。この病気は、黒人では若い人に起こり、角膜が穿孔して失明します。10年位前にアメリカで簡単な手術で治るという論文が出たのを知っていたので、手術したら見事治りました。 第三世界は外からの情報が入り難いのと、経験が少ないのでこんな事が起こるのだと思います。 私は未だ未だこの国で必要とされていることを感じています。 2000年2月25日
『水…水…水…』ショファイユの幼きイエズス修道会・永瀬小夜子
…チャド北部の方の内乱に関するニュースは、途絶えていますが、軍の車が北へ北へと走っていること、軍の病院には多くの負傷者が…といったところで、人々は右に左に揺れています。
ミッションやNGOのトラックは要注意といったところです。軍の車が不足すると、強制的に借り上げということになり、戻って来た時には使い物にならぬくらいで、修理代には泣かされます。 今、一番多い病気はmeningitis(脳膜炎)のようです。潜伏期間の長いエイズと違って、死を急ぎます。“頭が痛い”と訴えて、首のうしろが膠着したようになると、もう手おくれです。 このN'DJamena、首都を化粧しようと、まず道路の舗装が始まって喜んでいました。 (工事は)私達の家の裏まで延びて来ましたが、大きな障害は水道管で、トラックが通るたびに水道管が破裂します。この水道管は植民地時代のもので、現在の部品を取り付けても、勢いに押されて、毎晩、洪水で、皆、頭を痛めています。 私たちの家は1カ月、まだ、いつ終るかではなく、いつから工事が始まるのか、部品不足と水なしです。 ですから、大人も子供も、手近にある、リビリというアルコールをつい口にしてしまうのです。アルコール中毒の多いこと、婦人たちの手近な現金収入はアルコールを売ることです。 戸口に空瓶が置いてあったら、その家に行けば飲めるという印しなのです。奥さんたちは、まず、主人に売りつけているのです。 子供たちも、カワキを癒すために、それに、婦人たちも同じです。 これから、チャドは、太陽が灼けつくような時期です。 『日本語で話す懐かしさ』御受難修道女会 松田 翠
こちらは朝、晩は秋の深まり、冬の始まりのように寒いのも、今年の異常気象のためのようです。でも、昼間はやはり熱帯、常夏のように汗びっしょりです。
私もこちらに参りまして今年で25年になります。日本では学べない沢山の事を学ばせて頂きました。それでも、日本から友達、お客様、ボランティアの方々が見えると、懐かしくて、すっかり、日本語でおしゃべりを楽しませて頂いています。 いつもサポートと励ましとお祈りを有り難うございます。「きずな」をとても興味深く読ませて頂いています。 私どもよりもっと大変な所で働いて下さっている方々に心から感謝とお祈りを捧げます。 『靴がない子、登校不許可』御聖体の宣教クララ修道会・小川 知子
過日、お願い申し上げましたインド援助の件につき、ご返事を頂き、また、申請のお許しを頂き、有難うございました。
現在、インドでは、4人のメキシコ人シスターと現地の姉妹達15人(修練者、志願者)が、診療所で病人の世話をしています。 利用する人は殆ど貧しい人々で、お金を払うことが出来ない程です。 最近、学校が「靴がない子供には登校を許さない」ということで、私たちが世話をみている22人の子供たちは学校に行けなくなり、心を痛めています。 インドと同じ地域にある、こちら韓国から、出来るだけ、古着や文房具などを送っています。 2000年1月22日
『無題』御聖体の宣教クララ修道会・Sr.ローザ・マリア・エストラーダ・フロトーレンス院長
私たち宣教クララ修道会は、私達の要請に対して、皆様が迅速に対応して下さったことに、心から感謝いたします。
私たちの診療所の資材を購入する目的でご寄付頂いた援助金を2000年4月6日に受領いたしました。 日の浅い、この修道院での任務の一つは、ランチの郊外にある地域の診療所で、奉仕を行うことであり、そこには、周りの村々から人々が助けを求めてやって来ます。この多くの人々は、私たちの所に来るために、何マイルもの道のりを歩くのです。そして、この人々の経済状態はとても悲惨なもので、治療代を全額支払うことは、殆どの場合、不可能なのです。 皆様のおかげで、私達は貧しい人々のために最も必要な薬品を買うことが出来ました。これにより治療代を全額支払えない人たちにとっては、大変、助かることになります。 それと同時に、私達は診療所を充実するために必要な、幾つかの器具と備品を購入しました。 今、私達は聖書の中の「あなた方が、最も小さな人々にしたことは、私にしてくれたことである」という主のみ言葉を思い出しています。 神様は皆様の寛大な行いに対して、きっと報いて下さると思います。 |