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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『北・南米』

ブラジル パラグアイ チリ





『子供の村≠後継者へ』

〜ブラジル〜
淳心会 マルゴット神父
…昨年(一九九六)の年末に突然、私は病気になりました。両足と手の指六本が急に利かなくなりました。幸いに一時的のことで、次の日には少し歩けるようになり…ロンドリーナ市の日系人の鍼術で…今はもう殆ど直っています。…この時、一番大きな心配は”私が急に居なくなったら(子供の村の)子供達はどうなるのだろうか“ということでした。そして、友人からの手紙のことを思い出しました。彼は愛徳修道士会のブラザーで、鳥取の彼らの施設で知り合い、今、ローマの本部の院長になっています。彼の手紙に、愛徳会がブラジルでミッションを始めると書いてあったことを思い出し、ローマに手紙を送って「“子供の村“をブラジルでの最初のミッションにしたらどうか」と尋ねたのです。間もなく返事が来て”興味(関心)がある“ようでしたので、大きな希望を持ちました。二月になって、ブラザー・エリクが此処に着き一カ月聞手伝って、総会長にリポートを送りました。四月に愛徳会の総会長の返事が来ました。
”ポジティブ‥でした。…しかし、ブラザー・エリクは入国許可が出るまで三カ月以上待たなければなりません。ブラジルに着いてからブラジリアにある宣教者のための学院で、三カ月、ブラジル語、文化などを勉強して、十二月から”子供の村“で手伝っています。
一九九八年からは私が責任を少しつつ彼に移し、一年経ったら、全部ブラザーたちに任せてもよいのではないかと思っています。
 こうして、来年(一九九八)からは、私は、もっと自由になって東北ブラジルの日本人移住地を訪れる暇が出来るでしょう。
 私がしたいもう一つのことは、前に一緒に住んでいた子供達の家庭訪問です。
 二〇〇〇年には、私が神父になって五十年になります。この半世紀の半分は日本で、半分はこのブラジルのアモレイラで過しました。アモレイラに着いた時には、幽霊屋敷のような崩れそうな神父館と雨が漏って壁にカビが生えた聖堂しかありませんでした。
 今は教会と、移住民の旅館を、若い熱心なブラジル人神父に任せ、日雇人の子供の託児所、幼稚園、貧しい老人の町を長崎聖母純心会のシスターにゆだね、今度、愛徳修道士会のブラザーが”子供の村‥を責任をもって受けて下さるので、私は、少し休んでも構わないと思います。お蔭様で体は丈夫なので、養老院に入るには、まだ早いと思います。ブラザー達が落ち着いたら、暫く休みをとって、ベルギーの、五十年前に私が最初のミサを献げた教会で、感謝のミサを献げたいと思っています。
 それから、出来れば、日本へ帰って、ブラジルから出稼ぎに行っている人達のために働きたいと思っています。ブラジル語も日本語も出来る神父は少ないですし、今、日本には二十方位のブラジル人がいるそうです。それに、日本人の宣教者としてブラジルへ来た私が、今度、ブラジル人の宣教者として日本へ帰るのも深い意味があると思います。
 今まで助けて下さいました日本人の皆様への深い感謝と共に、これからも、アモレイラのシスターたちの仕事と”明けの星・子供の村“の子供たちを忘れず、続いて助けて下さるようお願い申し上げます。
一九九七年末






『麻薬患者に殺されたワウマン神父様』

〜パラグアイ〜
聖霊奉侍布教修道女会 林静子
 (今年)一月十五日に、六十七歳の神言会のワウマン神父様(オランダ人)が、一人の麻薬患者の青年(二十六歳)によって殺害されるという事件が起り、大きなショックを受けました。
 ワウマン神父様は以前十四年間、エンカルナシオンで司牧され、小神学校の校長やカテドラルの助任司祭のルシリョ (信徒使徒職)の創立者で、明るく、人望のある方でした。たまたま二週間の夏休みをエンカルナシオンで過すためにおいでになって居りました。
 亡くなった夜は、一軒の信者さんから夕食の招待を受け、寄付金(五十万グァラニー)を、現在のサン・ルカ教会の布教費として受け取って、神言会ハウスに夜遅く帰って来られました。たまたま、食堂に電気がついていたので不思議に思って入ってみると、一人の青年が冷蔵庫から、飲みもの、食べものを取り出して食べておりました。「貴方は神学生ですか?。泊まる所がありますか、食事が済んだら電気を消して休んで下さいね」と云って二階の自分の部屋に行きかけると、後ろから青年が襲いかかり、抵抗する神父様を食堂のナイフで突き刺して、現金と腕時計を奪って逃走しました。
 ワウマン神父様は、ちょうど病気のエンリケ神父様の (看護に当っていた)看護婦さんに一部始終を話して、車で病院に運ばれましたが、肺と腸の内出血がひどく、息を引きとられました。その日はお通夜で、サン・ルカ教会に五千人の信徒が集まり、翌日の埋葬式は神言会墓地で行われましたが、司教様二名、神父様が四十名も集って盛大でした。昨年も三十四歳の若い神父様が自動車強盗殺人で殺害されたという事件がありショックでした。布教者の数が足りないというのに、残念で仕方がありません。






『減少する幼稚園児』

聖霊奉侍布教修道女会 伊藤伎余子
 …こちらは少し朝夕冷えますが、日中涼しくなりました。
 でも、今年の夏はとても蒸し暑くて、御老人は大変な思いをされたようです。
 この度は荷物三柵相…本当にありがとうございました。
 園児の数も二十四名と本当に少なくなりました。この国のいろいろな教育方針が変りますので、日本人の幼稚園がどのような存在となりまうか不安です。
四月三日

送られたぬいぐるみと一緒に
送られたぬいぐるみと一緒に






『地元で喜ばれた、図書室のオープン』

〜チリ〜
カロンデレットの聖ヨゼフ修道会 真木栄子
…一月にチリに戻った時、母と妹も一緒でした。チリで共に過した三週間は、八十四歳の母にとって、また、老いた両親を日本に置いて、全く反対側の地の果てで奉仕する私にとって、長年の夢と望みがやっと叶えられた感動の日々でした。日本に帰国する度に「今度はずっと日本に居るの」と遠慮がちに尋ねてくる母の思いと、「ずっと一緒に生きていこう」と話し合っているチリの女性達の思いに挟まれて、痛みを感じながら、主からの呼びかけに耳を傾けています。私が奉仕するポプラシオンの人々の賑やかで温かく、愛情の龍った歓迎や、土埃にまみれてデコボコの道を歩き回り、私と共に働いている人々や場所を、しつかりと自分の目で確かめて安心し、嬉しそうに笑っている母、理解出来ないスペイン語や英語を耳にしながら静かに座っている母…母の存在をこの土地で確認出来たことは私にとって、何よりも大きな慰めでした。
…私達の小教区サン・セバスチャンに勉強室兼図書室が建設されたことを以前にお話ししたでしょうか。
一九九二年、チリでの一年目、着いたばかりの熱意と、目にした現実の悲惨さに動かされて、少しでもポプラシオンの現状を知らせることが出来ればと書き始めたチリだより、このささやかな”たより“と読んで、財団にかけ合って援助を確保して下さった上智大学の恩師・霜山徳爾先生、すぐに援助の手紙を送って下さった曽野綾子さま、その他多くの人々の善意を受けて、家が居間と寝室だけで勉強する空間のない小・中・高生のために、机と椅子とスペースが確保されたのは、一九九四年のことでした。
 図書室は建設されたものの肝心の本がなく、一九九五年一年間は本集めに奔走しました。…一九九六年八月になって、ようやく、基本的に必要な辞書・歴史書・文学書、子供のための本なども整えることが出来ました。このようにして図書室は、現在、日曜日以外は毎日、ポプラシオンの人々に開放されていて、小・中・高校生をはじめ大人の人達にも大きな教育の場として期待されています。図書室を訪れる人は目に見えて増えており一日九十人にもなる時があります。一九九六年九月に図書室をオープンした時には、(地元の新聞に)「このポプラシオン(低所得者居住地)、「カルロス・ツループに本が…」という大きな見出しと写真、カラー刷りで一ページで紹介されたほどの大きな出来ごとでした。
 このポプラシオンに住む者に大きな希望となっているこの図書館は、百%善意の人々によって地の果てのチリまで届けられた「神様の賜物」でした。






『大寒波で送電塔倒壊、牛が凍死』

〜カナダ〜
師イエズス修道女会 原田昌子
…クリスマス前にポスト・オフィスの十五日間のストで郵便が送れず、年が明けて早々、メキシコからの悪天候がUSAを通過して、モントリオールとその近郊にとどまり、五日間、雹と霰が降り続き、三十トンの重さに耐える送電塔に六十トンの氷が張りつき何本も倒れ、一週間から、ひどい所では一カ月半の停電で、機械がポストコードを読めず、郵便物はまた山となりました。
 畜産業の人々は、牛が寒さで凍え死に、また、石油ストーブで暖をとっていた人が酸素不足で亡くなるなど、生活が脅かされる出来事も続きました。
 この体験を生かして、電気一本の生活から脱け出そうと、ソーラーシステムの暖房、ガス湯沸し器、ガスレンジなどの展示会が先月開かれました。また、寒さの問も、林産業の人々は暖房用木材をどんどん切り出し、何十倍もの大型トラうクで、長距離を運び、無料配給してくれるなど、開拓精神の逞しさを、今も垣間見る思いです。
冬季オリンピックに参加したカナダ選手達も何人か流感にかかって帰って来ました。また、私達の修道でも、先週、八人中六人が流感で、一週間、聖堂を閉めるなど、珍しいことが続いております。






『アフリカ』

アンゴラ シエラレオネ alt="コンゴ共和国" href="63_2.html#新・コンゴ、巡礼地”枯れた木"> チャド マダガスカル





『ゲリラ地獄からの脱出』

−二週間の逃避記録〔−〕−
〜シエラレオネ〜
御聖体の宣教クララ修道会 根岸美智子
…私は神様の大きな憐み、聖母の御保護、皆様の絶え間ない祈り、宣教師たちの深い愛、ルンサをはじめ村の人々の暖かい愛のリレーによって、私の命は助けられました。
 今日は長くなりますが、生まれて始めて経験〜二週間の(ゲリラからの)逃亡生活を日を追って書きましょう。

放火・略奪・暴行の反乱軍“
 二月はじめ、シエラレオネの首都フリータウンで・西アフリカの連合軍(エコモ)による武力行使が決行されました。
 荒れ狂った反乱軍は家を焼き、略奪、暴行−フリータウンは完全な無法都市になっていました。
一番戦闘の激しかったのは東の港、沿岸キッシードツキヤード近辺でした。そこは、いつも私達がフリータウンに出かけると休ませて頂く、ヨゼフ会の修道院のある所です。その他、ザベリオ会、マザー・テレサの会などが近くにあります。雨のような機関銃の轟き、ルンギ沿岸からのロケット砲(ミサイル弾)のヒユーという嫌な音、爆発〜生きた心地もありません。聖堂に集まって緊張のうちに祈る、ラジオ無線で地方に状況を知らせる、ベッドの下にもぐったり、飛び交う銃弾に神経をすり減らす一週間が過ぎました。五日目にとうとう学校の一部に爆弾が落ち、作裂、校舎の一部が大被しました。
エコモの兵隊は市民を守り、最小の被害でフリータウン全市を占領、市民連は解放され、喜びに湧きました。

”来襲!!反乱軍”
二月十三日
 私は三九度の熱を出しました。一週間前、シスターの一人がマラリヤと腸チフスで熱を出し、やっと元気になったところでした。
 そこで私も病院に連れて行かれ検査を受けました。結果はネガティブとのこと、しかし前例があるので腸チフスの薬を頂き、重湯だけ頂き、家に戻って休んでいました。午後七時、夕食の重湯を頂こうとした時、中学のコンテ先生が走って来ました。
 ”シスター!、発電機を消して下さい。今、反乱軍が卓二台でヨゼフ会を襲っています。略奪が続いています。次はこちらに来るかもしれません‥。神学生もやって来て「すぐ逃げるように」と言う。
 ふらふらしながら、私は何も持たずに中学に、そして近所の民家に逃げました。約一時間すると、小学部の門番のアルサインが来て”シスター、ここは学校に近かすぎて危険です。私の家に逃げて下さいとすすめる。そこで二十分程度歩き彼の家へ行く。貧しいながらも一生懸命、私たちを休ませようとケロセンランプやろうそくをつけて自分たちの部屋を提供してくれる。心配する子供達は、私達を囲み、交代で、そっと(家を)脱けて、今、反乱兵は何をしているか偵察し、伝えに来てくれる。町の若者や先生が、反乱兵に対抗しようと若者を集め、アフリカ独特の威嚇の叫びをあげる。オルモストという青年は、兵隊あがりなので、銃を持って反乱兵に向い銃を放つ。しかし、武装兵にはかないません。たちまち、唇に弾丸を受け、傷ついた若者達は、チリヂリに逃げ去りました。怒った反乱兵は、指導者四人を殺そうと捜しはじめました。「シスター、僕たちを心配しないように。シスターこそ気を付けて下さい」と云いながら、闇の中に消えて行きました。…略奪物資を”これは自分のだ、あれは俺のだ‥と争いながら、反乱兵は車一杯、四時間にわたって荷を積み、マケニの方向に去って行きました。
…私達は十二時間半、自分の修道院に戻りました。

”反乱軍、修院へ乱入、無差別発砲“
二月十四日
 ヨゼフ会の神父達は、近くの薮で一夜を過し、朝六時、修道院に戻り、ブルー神父は寝巻に着替え、少し休もうとしたそうです。
 マリオ神父はセンターの被害を見に行きました。その間に三台のトラックで沢山の武装反乱兵が乗りつけました。先生や職員達は、学校、修道院を守ろうと門をコンクリートで閉ざそうとする。しかし、門はアルーページタンカーで簡単に破壊され、(反乱兵たちは)「近寄るな、我々の的はミッションだ、近寄る者は皆殺しだ!!」。そして、通りかかった自転車に乗った青年を銃撃、血だるまになって倒れる青年、一人の神学生が助けようとするとさらに銃撃、必死になって彼を助けて家まで連れて来ましたが、青年は一時間後に死亡しました。罪もない市民をこのように殺すとは“まさに悪魔的存在です。
 シスター達は朝のミサに出かけましたが二十分もしないうちに舞い戻り「シスター・レティシア、早く逃げるのです。また、ヨゼフ会がやられています。次は、此処に来ると言っているそうです。早く!早く!」私は熱で床についていたので、靴さえはいておらず、サンダルのまま飛び出しました。…病院からブラザー達が心配して駆けつけて来ました。「シスター、病院に逃げなさい。病院はいつも安心だったから心配しないで」。ブラザーの一人を私たちに残して、Brフエルナンド、ギルバルトは神父様を捜しに行きました。自分の危険を顧みないで他の宣教師を捜す、この愛の一致は本当に美しいと思いました。
 途中、銃声が激しくなりました。”シスター危ない“一人の人がこわれかけた貧しい小屋を指し「ここならシスターが居るなどと思わないから、ここで暫く隠れて下さい」…ここで一時間ぐらい待っていました。この間、私は激しい悪寒がして熟も上り、唾で薬を飲む、吐き気がしそうだ。我慢、我慢とじっと待っていました。
 村人がやって来て「シスター、病院の方に反乱兵が行きました。危いから病院へ行くのはやめて、炭鉱の方に逃げなさい」と教えてくれました。途中、銃声が激しくなり、中学のアンドレア先生が「シスター、私の家に神学生達が隠れています。こちらに隠れて」と招いてくれます。朝から、いや、前日から何も頂いていない私達を心配し、オレンジやバナナを持って来てくれる。しかし、私は頂けない。「これなら元気になります」とヤシのジュースを持って来てくれました。…そこで一時間も待ったでしょうか。病院の従業員が走って来ました。お医者さん、神父様連が反乱軍に捕まり連れ去られたというのです。…顔色を変えて病院からBrピーターが走って来ました。「シスター、逃げるのです!!、白人は捕まり連れ去られました。白人を探しています。…色黒の私もルンサでは白人なのです。ピーターとSrエリサに支えられ逃げる私、高熱のため、目もよく見えません。しかし走らなければならないのです。ルンサの人々は同情と悲しみの顔で私達を見送ります。「ミッションの人達が居なくなったらルンサは終りだ」と叫ぷ人も居ました。私の足は進まず、銃声は近づいて来る。学校の父兄のシセイさんが持って来てくれた自転車の前に私を乗せ、ピーターが全速力で走り出しました。
 川底のような道をピーターは汗をかき真剣(に走り)で、やっとテンダタという村に辿り着きました。…いよいよ、これから沼地と草原です。自転車を持主に返してくれるよう、心配してついて来た少年に頼み沼地の旅が始まりした。

沼地の逃避行”私を残して逃げて!!“
 燃えるような日光は容赦なく照りつけ、熱のある私には暑さは感じません(が)、ピーターに支えられ、一生懸命に歩きました。
 いくら努力しても私の歩みは遅く、逃げる皆にとってどれ程大変か。「皆さん、私を残して逃げて下さい。私は何処かの村で隠して頂くから」と言いましたが、シスター・エリサ(院長)は「シスターを置いては何処にも行きません。そんなこと考えないで下さい」となだめる。いよいよ沼は深くなり水も増してくる。ピーターは、無理矢理私を背負い、水の中に入って行きました。彼の息も苦しそうでした。「シスターは僕のお母さん。こんなこと何でもありません。シスターが、僕を育て、今の僕にして下さったことに較べたら何でもありません。おんぶします」(ピーターは)深い沼地を私を背負い逃げてくれました。潅木の繁林を、草原を川を、丸太橋を(進む)私はもう極限でした。今度は中学の職員のモハメッドが(彼はがっしりした男で、力も強い)「シスター、私が背負います。我慢して下さい」と、私を背負い、物凄い速さで歩き出し、全員のスピードも上りました。村を抜け、沼を渡り、丸太橋を(越え)午後一時にやっと、三人の神父とブラザーの待つ、村のはずれの薮の中に辿り着きました。
 「モハメッド、有難う。本当によく頑張ってくれました」「シスター、シスターのためなら、どんなことでも喜んで」持っていたビスケット二枚を彼にあげると、彼はニコッと笑って受け取りました。
 そこで、一枚の布を敷いて、皆で休みました。
 Brカーディナルはとてもスマートな人で、ピーターをはじめ現地人のブラザー三人の他、職員の協力により、パン、水、缶詰などの食物等、ちゃんと準備していました。ヴィククーが、もう少し(したら)水を持って来てくれることになっている。それを待ってから出発しよう」(ということになり)私は病いの身、何も(食物は)入りませんでしたが、水を飲めることば恵みでした。村の人達は、沼地を越え、林の奥まった所で私達が一泊出来るよう、もう一つの村の林まで導いてくれました。夕方でしたので私も歩きました。

”密林のホテル“
 「ここが私達の今晩のホテルですか?」と私が聞いたので皆笑いました。(そこは)村人が米を樽(う)つ、小さなバッファで日本の相撲の土俵のような所で柱四本にパームの葉で屋根を葺いたオープンエアで、女性優先で四人のシスターともう一人、何処からか、一緒に逃げて来た娘さんの五人が、神父様、ブラザー、神学生、案内の村人、先生達は、皆、木の下で一夜を明かしました。
 二月十五日
 朝、村人がバケツに水を汲んで運んで来てくれました。女性組が先ず洗面、一つのバケツを(の水を)四人で分け合い、顔や手足を洗い、下着を洗い(石鹸なし)、その後、神父様達がバケツの水を頂き、やっと少し汗のにおいが弱まりました。ブラザー・カーディナルスが病院から持ってきたパンを皆で頂きました。(現地人のブラザー連が反乱兵の居ない間に隠しておいた食料と水を後から運んで来たものです)私は何も(口に)入らず、ビスケット二枚をやっと頂きました。村人が米はまだあるので、昼はごはん準備しましょうと言ってくれました。いよいよ十二時・村から食事をこちらに運ぼうという時、隣村からメッセンジャーが駈けつけ「逃げて下さい。反乱兵が隣村まで来て探している。村人は誰も行方を知らさないので、殴られています」と報告。すぐに出発、また、行列が始まりました。
 村のエルグーが先頭の道案内してくれ、沼地を、薮を越え何時間も歩きました。次の村に着いた時、中学の先生シュクは、村人からハンモックを借り、大きな棒にそれを吊るし「シスター、恥かしがらないで、そんな時ではないのです。早く逃げなければ…」と皆に言われ、しぶしぶ、この時から私はハンモックの人となりました。
 背の高いピーター、チビッコ先生のコロマ先生、バランスがなかなかとれません。私の肩も紫色に変色しました。それでも速度が早いので我慢しなければ……。途中で何度も、村人が、あの村に反乱兵が来ているから入らぬようにと知らせてくれます。その都度、深い森に入り、分らぬように前進…沼、潅木、草原、川を何度も渡り、八時間逃げ続けました。反乱兵の居ない村に着くと、村人たちは私達を迎え、オレンジ、バナナ、ココナツジュースを提供し、私たちをいやしてくれました。

”ハンモックで愛のリレー“
 村から村へと新しい運び手の愛のリレー、ハンモックの私は、お蔭様で一番早く先頭を切って逃げることが出来ました。
 夜九時頃、やっと、ポートロコ市から十一マイル(約二十五キロでしょうか)の村に着きました。
 村のエルグーは親切に、少し行くと川がある。そこは深いので夜は危険です。泊まった方がよいとすすめる。私は村人に背負われて、その村から一キロ先の沼地のヤシの林の中にあるバッファにたどりつきました。第二夜の野宿となりました。
 粘土(質)の土の上に枯草を集め、布を敷き、今度は皆、時計のようにバッファの中に横たわりました。五人の女性、ブラザー、神父、神学生、先生、職員、皆仲良く時計の針のように、全く身動き出来ない一直線に横たわり休みました。大きなアリが時々現われ、耳、肩、手をチクンと刺す、物猛い痛み。空腹を癒すため、ピーターが持って来たカサバ芋をふかしてもらい皆で頂く。
 夜中の十二時頃、最後のルンサ脱出者(の)二人の神学生が到着しました。エリックとトーマスです。捕われそうになった時、村人の機転で助けてもらったそうです。反乱兵が「ここに神父は居ないか?、此奴がそうではないか?」とトーマスを指した時「いや、彼は熱心な回教徒で、一日五回も祈っている」と居合わせた人が答え、彼を救ったそうで、ギニビサウ人の彼は命拾いしたそうです。
 この報告を受け「では寝みましょう」と一時二十分頃、皆静かになった時、「ズドーン」という銃声に皆飛び起きました。銃声はかなり近い。(続けて)第二の銃声、バッファから二十メートル程の近く。この時、皆、一斉に薮の中に逃げました。しかし、高熱と疲れでぐったりしている私は、いくら力を入れても立ち上れません。
 院長のSrエリサが私を一生懸命起そうとしていました。ジャニー神父はケロセンランプを消していました。(次号へつづく)






『新・コンゴ、巡礼地”枯れた木=x

〜コンゴ〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 中村寛子
…梶川神父様の御逝去の報せ…非常にショックを受けました。
 神父様は海外に居る私共の神父様で、力強い「盾」のような方として、私の心の中に居て下さいました。私はとくに、アンゴラで捕虜になり、その解放後…報告会、手記のこと、その他、いろいろお世話になり…優しいまなざしの神父様に接すると安心感を持ち、何でも出来るような気にさせられました。
…私達の(居る)国がまだ混乱中に、対岸のコンゴ・ブラザビルで戟争が始まり、今度は、そちらから(の)難民がキンシャサに押し畑寄せ、私共の会のシスターもこちらに避難して来て、両方の混乱の数カ月を過ごしました。
 誰もが旧大統領と反政府カビラ軍が、首都キンシャサで戦争を起すと思っていたのに、奇蹟的に、無血で政権が変わりましたのに、隣国のコンゴ(同じ国名で紛らわしい)・ブラザビルが、国民同士の戦争で廃櫨と化しました。
一九九七年、三十二年間続いた独裁政治の崩壊と共に旧ザイール国はコンゴ・「Republique Democratique du Congo」として新しい歴史のページを繰りました。…政権交替から…もう一年過ぎ…ザイールからコンゴに名前は変っても、まだ変化はなく苦しい生活をしていますが、戦争がなくなって落着いていることば大きな幸せです。
 人間的に考えて、あり得ないと思われることが次々と連鎖して起こり、奇怪な感じに捉われ、理解に苦しみましたが、別の面から見たら納得できた私の体験を皆様に分ち合う義務を感じています。判断は各人におまかせします。
 ずいぶん以前から、コンゴ人(ザイール人)シスターの間で、Mンゼテ・エカウカ(Nzete Ekauka“のことが話題になりコミノテを二分化する兆しさえありました。
 それは、イエス・キリストとその御母の数カ所での同じような御出現で(す)。とくに、ラファエルという現在、大学生の青年に、十年以上、御出現が続いており、この青年を通じて、ザイールから始まって、アフリカ全体に平和が訪れ、それが世界の平和に導くものとなるよう、そのために聖母マリアが働いていらっしゃることを告げられているということです。「ンゼテ・エカウカ」というのは”枯れた木“という意味で、ラファエルがまだ、十五、六歳の少年だった頃、不治の目の病いを患い、医師はサジを投げ「祈るより他はない」と告げました。それで祈ったら、イエズス様が彼に現われて癒され、その後、御出現が続き…マリア様に引き継がれ「イエス・キリストはこの国を救おうとなさっているが、そのために、「罪の許しへの取執しのミサを、この地で(彼の両親の家)でイエズス様に捧げること」(という)メッセージが託されました。この少年●●●は「誰もこんな子供の言うことは本気で聞かないから、しるしを与えて下さい」と頼んだところ、庭にあった大きな枝を張った木が、一夜にして枯れてしまった(ということです)。…そこで一カ月に二、三回ずつ御出現が続いて、巡礼地となっています。
 御出現の度毎に、このンゼテ・エカウカでミサを捧げるように言われますが、教会の権威者は、この御出現を認めず、ミサを行うことを許可しません。
 何年も前から聖母マリアはラファエルを通じてザイールの将来について予告しておられました。それが全部実現していました。
 独裁政治が変るために、二人の死があると告げられていました。その一人は、暗殺されたブカブの大司教(イエズス会員)と分りましたが、…二人目は…政府軍の最高司令官で国防大臣のマレエ将軍。信仰の人で毎朝のミサを欠かさず、兵士達がキンシャサで略奪することを禁じ、市民も信頼を置く立派な人でした。(将軍は)首都に迫っていたカビラ軍との対戦を回避し、市民を死に追いやる首都の破壊をやめるよう、モブツ大統領…を説得に行きましたが、大統領の考えを変えさせるに至らず、頭に銃弾を(撃ち込まれて)受け殺されました。それから何が起ったのか分かりませんが…(モブツ)はキンシャサ全滅の計画を放棄し、モブツをはじめ家族、大臣、国の主だった人々が夜の明ける前、国外に逃げてしまい、…五月十七日午前十一時頃、カビラ軍は首都に入り、あっ気なく占領してしまいました。…後で分ったことですが、キンシャサが全滅するように爆弾が仕掛けられ、スイッチを押すだけ…だったそうです。
 皆様は、これらのことを、どのようにお考えですか?






『貧しさの中で、信じること』

聖心会 嶋本 操
…こちらは政治の混迷が続いており、…人々の生活は変っていません。ここの学校や修院関係の知人だけでも殆ど、二日おき位に数人が亡くなります。…そして、そのお葬式も、一晩中起きて歌っているので、行くだけで疲れてしまうというような毎日です。小学生の中にも、両親が次々と亡くなって、お姉さんの婚家先に引き取られて通学している一人の六年生の女の子は、朝食を食べずに来るということで友達が気付いて、(自分たちもパン一個の朝食で済ましているのに)「シスター、何とか、食べさせて上げてくださいませんか」と言いに来たとのこと。子供達の優しさと行動力に感心しました。長い年月の間、道義も理屈も足で踏まれるような時代を過したコンゴの人々の生活は、何とも足場が弱くて、弱い立場の人は本当に苦しい日々です。その中で、どうしてこんなに明るく、朗らかに歌い、祈って生きていけるのでしょうと思いますが、それが、貧しい中で信ずることを習った人々の力強さなのでしょうか。






『司教区設立50周年』

〜チャド〜
援助修道会 天野洋子
…梶川神父様のご帰天のお知らせ…心よりご冥福をお祈り申し上げます。数年前、帰国致しました時…神父様にお目にかかり、…その折、アフリカ・チャド国モンゴの町での活動にも関心をお示し下さり、大変励まされました。
一昨年、ヌジャメナ司教区設立50周年を祝ったのを機に、”友愛に満ちた“学園になることを願って、モンゴ女子小学校が「フラテルニテ学園」と命名されました。
 創作教室で、美しい日本のカレンダーを見付けた子供たちが、「きれいな日本、すてき!!」と歓声を上げながら集まっている姿が、しばしば見られます。カレンダーを通しての交流と、支援金で購入させて頂いたカセット・テープレコーダーで、日本の童謡を聞くことにしています。ヌジァメナ司教区50周年にあたり、私の住んでいるゲナ県出身の2名の新司祭が誕生しました。
 1月には、(この)司教区での最初に叙階された、イスラム教徒から改宗されたルイ・ドラマン神父様がご帰天になりました。






『ペストが流行』

〜マダガスカル〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 平間理子
 いつも「きずな」やカードを有難うございます。昨年十二月二十二日に送って頂いたクリスマスカードが、三月十五日に、十二月十五日に送って頂いた「絆」が三月十九日にこちらに届きました。
…どこを、どう回ったのか…とにかく届いただけでも感謝しております。梶川神父様の帰天を知り、何年も前に、私共の会で行われた宣教の研修会をして下さったことを思い出しました。ご病気だったとは全く知りませんでした。でも、天国で私共を見守り、導いて下さっていると思い、また、天国で取次ぎをした下さる方がお一人増えたので…大いに働いて頂こうと思っています。
 ここ、マダガスカルでは、三月十五日に「憲法改正?」の国民投票が行われました。いろいろ噂がありましたが、三月十九日現在では「(憲法を)変える」が五〇・一%、「変えない」が四九・九九%で、わずか〇・〇二%しか差がありませんでした。
 昨年から今年のはじめにかけてペストが流行し、私の居る都会だけ(でも)で三十二名が死亡。現在は腸チフスが流行しているようで入院が増えています。ペストは隔離しますが、他の病気は一般患者と同じです。でも、私は今のところ伝染病にもかからず元気です。
(一九九八・三・一九)