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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES







『地球家族』

マリアの宣教者フランシスコ修道会 林節子

 18年間の外国での生活を終えて、昨年の8月に帰国して以来、いろいろな機会に、様々な方々から「ご苦労様でした」、「大変だったでしょう」等の思いやりのある言葉をいただく時、とても戸惑う事が度々でした。それは皆様からのねぎらいを受けながら、私自身の中ではアンゴラの生活が大変で重荷に感じられていないことからくる、申し訳ない気持ちなのかも知れません。長い戦争による危険な状況の中で生活したことや、共産主義のもとで物資が不足して無いものづくめだったことも、不思議に私には苦しかった思い出にはならなかったのです。かえって、生きるために最大限の努力をしている人々や、極限状態にあっても心と思いの自由を持ち続けて生きていた何人かの人々に出会って感動し、”最も大切な事は何か“を考えさせられました。そしてその体験は私を内側から変えてしまうほどでした。
 私が16年間生活を分かち合ったアンゴラの国の人々は日本人と異なった習慣、生活スタイルを持っています、だから質問に答えようとする時、自分の体験を分かち合おうとする時、日本人との相違点を話すことが普通でした。違った文化への理解と尊敬を共に持っていただきたいという思いが強かったからなのです。でも「アンゴラ人は日本人ととても違っている」という発想が根本にあり、違いばかりを強調していると気づかされました。しかし”Blue dot”(青い点)という写真集を見た時の驚きが私の視点を変えました。その写真は数千の星がちりばめられている天体を撮ったものでした。一つ一つは小さくて、その中の青いブルーの一つの点が地球だと知ったとき、ハッとしました。なんてちっぽけなのでしょう。広い宇宙の小さな地球に住む人間たちという見方をその時からするようになりました。同じ地球に住む人間たちはお互いにそれほど違わないのです。地球に住んでいる人間は皆で一つの家族を作っていると言う事です。そこから地球家族という考え方ができるようになったのです。民族によって外面的な違いがあっても、人間の本質である、命、愛、自己実現への望みは皆が同じ様に持っているのです。このような視点を持つようになると、他の大陸、国に住んでいる人たちのことにもっと関心が起こり、優しい心でこの地球家族を大切にしようと思えるです。自分の国のことだけを考えるのは不十分で地球単位で考えてほしいと思うようになりました。16年間一緒に生活してきたアンゴラの人達は私たちと同じ望み、理想、信仰を持ち、同じ地球家族に属する私の兄弟でした。彼等の悲しみ、喜びは地球家族の悲しみ、喜びでもあるのです。






『第六四回役員会報告』

 「会」の第六四回役員会が、一九九八年(平成十年)三月十六日(月)午後六時から、東京・四谷の上智大学SJハウス会議室で開かれ、次の案件を審議、決定した。
  • 「きずな」第六二号について・編集担当者より、故梶川宏神父への追悼文が多く寄せられたので、それらをまとめて二十ページに増ページしたとの報告があった。
  • 「きずな」第六三号について・巻頭言は、アンゴラから帰国したSr林節子(マリアの宣教者フランシスコ修道会)に依頼する。発行は六月一日、原稿締切日は、五月十日、発送は六月三日(水)の予定。
  • 援助審議(別項)
  • その他・「きずな」の誌面体裁を横組みにするための検討資料として、サンプルを用意し、意見を交換したが、次回、もう一度検討し十六年目の活動に入る九月号から変更することを了承した。  ・二月二十八日(土)に真生会館で行われたSr林節子の宣教体験を聞く会は、五十名近い出席者があったことが報告された。
     真生会館のカトリック学生センターと共催という初めての企画だったが、一つの試みとして成功したのではないかという意見が出された。
     ・「会」を将来にわたって継続するため、少しずつ若い世代の方々を役員に加えていくことについて話し合われ、次回、推薦できる方について、資料を提出することになった。
     ・次回役員会は、六月十六日(火)十八時より、東京・四谷上智大学SJハウス会議室で行なう予定。






『援助決定』

 (199昨3月1日決定分)
地域申請者概要援助額
アルゼンチン、パラグアイ北島泰治神父(神言会・アルゼンチン東管区)アルゼンチン・ミシオネス州とパラグァイ・ピラポ市の日系人司牧のための移動手段である自動車の維持と燃料費(1年分)として3,000USドル<384,000円>(@128円×3,000)
ペルー加藤マヌエル神父(フランシスコ会)エンマヌエルホームの子供たちの食費(1年間)の一部援助として5,000円ドル<640,000円>
ブルキナ・ファソSr.野間順子(マリアの御心会)村の診療所専用のオートバイ購入費、ガソリン代(1年分)309,600円、156,000円
日本カトリック移住協議会寄贈の衣類の発送の荷造費、送料300,000円
計 1,789,600円






『十六年のアンゴラ宣教報告』

(講演要約)

 十六年間に亘るアンゴラでの宣教から帰国された、マリアの宣教者フランシスコ修道会、Sr林節子さんの「報告会」が、一九九八年(平成十年)二月二十八日(土)午後一時半から、東京・信濃町の「真生会館」で、「会」と「カトリック学生センター」の共催という形で開かれ、約五十人が参加した。
 シスター林の現地報告の概要は、あらまし次のとおり。





『共産主義からの脱皮の過程で果たしたアンゴラの教会の役割』

−十六年の宣教体験を通して−
〜アンゴラ〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 林節子
 アンゴラの教会は、他のアフリカの国と違い、社会主義政府の中で非常にユニークな生き方、役割を果して来たが、四つのポイントを挙げてお話ししたいと思います。

貧しいものとされた教会“
 私は一九八〇年にアンゴラに入りました。その時点で人口の五〇〜六〇%はカトリック信者、他の宗教と云えばアニメズム(原始宗教)だけでした。一九六〇年代に、アフリカでは、いろいろな国が独立しました。最初に独立したのはザイールですが、その南に位置しているアンゴラも、当然その影響を受け、対ポルトガルとの十五年の戦争の末、一九七五年に独立をかちとりました。
 しかし、ポルトガルとはどういう利害関係からか、ソ連の影響が強く、社会主義政権を作って、アンゴラを独立させるというお膳立てが出来ていたのです。
 新しく出来た故府は共産主義政権でした。
 すべての財産は共有財産。個人の私有は認めないという社会主義イデオロギーで、教会、教区、修道会などの共有財産は総て没収、カトリックの学校等も国営化されました。今まで修道会、教会、教区が持っているものでアンゴラ人を助けていこうというミッションのやり方は、これ(国営化)によって、全く手段を失ない、シスター達も失職、アンゴラの教会は初めて貧しくされました。しかし、それによって、貧しい人達との連帯、この体制の中で、貧しい人達と共に生きていくというのは、どういうことなのかを学ぶことが出来たのは大きな召命でした。…最初に行った時に私は「自分に何が出来るか、何かをしてあげたい」という気持があったのですが、ある時、あるブラジル人のブラザーが「何が出来るか、心配しなくていい。(アンゴラ人)彼らと一緒に生活し(彼らが)何を考えているかが分るようになったら何をしたらいいかが分かる」と教えられました。私達が貧しい人たちの中に入って行って、本当に現実生活を知ることが出来ました。
 社会主義の国ですが、教会の存在は認めたわけです。しかし、活動は教会の敷地内だけで、教会内に住んでいる司祭のほかは、外に住んでいる修道者、信者は、家に集まったり、私たちの家に青年たちが来てミーティングするとか、近所の女の子を集めて裁縫などを教えたりするのを、政府の人に見付かると、大きな処罰を受ける、そういう点、非常に慎重にならなければなりませんでした。

アンゴラ人の自立を促進した教会“
 第二は、五百年の宣教の歴史はあるがIncukturation(福音の文化的受肉)が出来ていなかった。アンゴラ人の司祭、修道者の召命が殆ど促進されていませんでした。常に外国人宣教師が居ないと、アンゴラの教会は動いていかなかった状況でした。
 一九七五年独立の時点で、外国人がアンゴラに入って来ることに対して規制が強くなりました。殆どの外国との国交がなくなり、そういう時点で、(教会でも)司教の交代がありました。
 司教は十四人居ますが、たった一人のポルトガル人司教を除いて殆ど全部の司教がアンゴラ人司教に代りました。
 司教団が最初にしたことは、アンゴラ人の司祭、修道者の召命を促進することでした。それにかなりの労力を注ぎました。独立してから二十三年になりますが、(今)アンゴラ人の司祭がすごく増えて来ました。一つの教会で一年に二十人位、司祭が誕生しています。修道者の召命も増え、かなりの養成をしなければならないが、自分たちの中から自分達の教会の指導者を作っていこうという意識はとても大切だと思います。アンゴラの司教様方もー生懸命に、こまめにMentalizationをして、カトリックの家族の聞からも、どんどん召命者を出していきました。
 しかし、そのために、大きな犠牲を払ったというケースもあります。私達の修道会に入った、奥地から来たお嬢さんが二年間の修練を無事終えて初誓願を立てることになり、誓願式は(出身の)奥地の小教区で行うことになりました。アンゴラ人の誓願式は見たことがないということで私達が計画したわけです。式はとてもよく出来ました。初誓願を立てたシスターは「すごく勇気を得たので、皆の前で話させて欲しい」と司教様に願い(許可を得て)皆の前で話してもらいました。まず、司教様と修道会に対して、お礼の言葉を述べた後(次のように)話しました。「神様は本当に一人々々を呼ばれるのだから、もし神様から呼ばれている人が居るならば、その家族は、その若い人の障害にならないように、神様に応える自由を与えて下さい」…すごい拍手喝采で終わった。
 そのあと私は日本に帰って来たのだが、それから二週間も経たない時だった。電話がかかって来て「そのシスターが死んだ」と云う。
「どうして?」…。一カ月後、私がアンゴラに帰って聞いた話では、(彼女は)伯(叔)父さんの権限を侵害するような(あのような)発言をしたので、おじさんに毒を盛られて死んだという。
 結局、アンゴラの家族制度の中では、とくに若い女の子の人生は母方のおじさんが決定する権限があある。(あの発言は)(その)、おじさん達の権限を侵した(から)というのです。
 ここ二十五年間に、若いシスター、司祭が沢山出ていますが、徹底した養成をしなければいけないと思っています。一人の司祭が、三十〜四十の地域を持っている。よく面倒をみきれない。沢山司祭は居るが、アンゴラでも司祭不足です。(それを補うため)地域ごとに「キリスト者の信仰共同体」を作っています。そのリーダーである信徒の養成にも、とても力を入れています。スペイン人のシスターが二人、リーダー養成のための二年間のプログラムで教育しています。(例えば) (家族もちの場合)自分の妻子を連れて、二年間寄宿生活し、午前中は授業、午後は畑を耕やす。非常に安いサラリーだが、それをもらって家族を養う、司祭不足を補うというより、司祭と信徒がチームになって働く時代であることをよく意識して、信徒養成に力を入れている点は見習うべき点だと思います。

”命を保護する教会“
 社会主義体制になった時、ソ連は、アンゴラにキューバ人を送り込んで来た。兵士ばかりでなく、教師、医師、技術者なども…。
 恐しいことに、キューバでは大工だったが、二カ月ぐらいの講習を受け、アンゴラでは外科医というケースもありました。
 (とくに)キューバ兵が、モラルの面で、とても悪い影響を与えた。(彼らは)アフリカに長い間あった伝統、目上の人を敬まうことを根底から覆えし、結果的に売春になるが、女性たちとの自由な愛による妊娠、堕胎が非常に増えました。
 アフリカでは、命に対して、それは人間の命ばかりでなく、生きているもの、木、魚、動物、生きているものに非常に大きな尊敬をもっています。それが、根底から引っくり返された訳です。
 それから、社会主義の考え方は、生産能力のある人、生産に協力出来る人が勝ち(ということ)なので、老人、心身障害者、無能力者達は疎外されていきます。社会主義になった時に、商店は全部、閉鎖されました。そして、一カ月に一回、国が指定した商店で、政府から配給切符を貰った人だけが、その商店で買うことが出来る。
 その切符は働いている人だけが貰える。従って、子供、老人などは貰えない。しかし、商品がキチンと分配されていないので、切符を持っていても買えないことがある。(しかし)店に入っても自分が好きな物を、好きな量だけ買うわけにはいかない。向うが指定したものを強制的に買わなければいけない。(ですから)父親だけしか働いていない場合は、それで(その量だけで)家族が一カ月保っていかなければいけないのです。社会主義(では)の共有財産を、平等に分け(るというのに)るのは矛盾で、何が平等なのか、非常に不正義な平等だというこうとです。
 今までアフリカ人は「生きているものを大切にする」というメンタリティを持っていました。そういう意味で、社会主義が若い人に与えた影響は非常に大きい(と言えます。)一九七五年からの内戦の中で、十五歳ぐらいの子供たちも戦場に送られ、彼らの血の中にある、命に対する大切さという思いが戦争によって引っくり返され、耐え切れずに精神異常になるというケースも教会で手がけていきました。
 年二回ある司教会議の度に、司教団は政府に対して「沢山の人が命を失い、若い命が減っていくことは、アンゴラの将来にとって、どんなに大きなダメージとなるか」を訴えて来ています。

「正義と和解を叫んだ教会」
 カトリック教会は政治的な活動をしてはいけないということは、とても難しいということを感じました。
 社会主義体制が終って、自由主義になって新しい政府を作ることになった時、多くの党が出馬しました。その時、カトリック、キリスト教党を作ったら(という動きもあったが)、教会は中立の立場を守りました。社会主義体制の時も、教会は、政府、ゲリラ双方の側から沢山の干渉を受け、苦しみました。
 例えば、緑の迷彩服(政府軍とゲリラの兵隊の迷彩服は、色が少し違うだけで殆ど似ている)を着た兵隊が教会に来て、食物とか、傷の治療、薬などの物乞いをする。それに対応して(病気などを)癒してやると、政府軍側が「あの教会はゲリラ軍の兵士を助けた」と教会を告発して、教会は苦しみました。部族戦争になり、政府軍は中央部族、ゲリラ側は南の部族を率いて戦い合った。一時は修道会、教会の中でも、司祭同士でも部族が違うというだけで、険悪な雰囲気が流れた(こともあった)そうです。ある修道会でも、若いアンゴラ人シスターたちが争ったというケースも聞いたことがあります。
 そこで、中立の立場だった外国人宣教師たちが「教会の中で仲間割れがあってはいけない」アンゴラ人司祭やシスターの中でも「自分たちが仲間割れしたら、アンゴラの教会の力が割れていくではないか」ということで和解しました。そして、それを小教区の中で拡めていき、例えば、聖書会を開いたり、青年グループに劇をさせて子供たちに見せたり、いろいろな方法で、アンゴラの将来のために和解が一番必要だということを意識させました。これらのことが、一九九四年の平和協定調印に向っての、とてもよい準備になったと思います。