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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『アジア』







『ボランティアに助けられて』

〜韓国〜
汚れなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会 飯田栄子
…「聖母の村」開園後、いろいろな問題を抱えて、園長のシスター庄子は大変な忙しさでした。それで、6月の開園時に、院長を私と交代し、シスター庄子は園長職と社会福祉法人の常務理事に専念することになりました。私は、10月にソウルに戻って、未だ不十分なハングル語を再び学び始める予定でしたが、遂に戻ることが出来ないまま今日に至りました。…他の宣教地と違って、物資は溢れる程あり、豊かな生活であり、とくに毎日、何処からかボランティアの方々が来て手伝って下さいます。長期ボランティアの方もあり、とても助けられています。…今、日本人のシスター4名、韓国人シスター9名で、このうち2人は志願者、日本の修道院に3名居ます。
 ミサは4名の司祭が過4日来られ、施設内の聖堂で捧げて下さいます。12月22日には、11名の園生が受洗しました。…ここでミサがない日は、車で片道20〜30分かかる論山邑の二つの教会や、40分かかる公州市の教会に行きます。車の事故が多発しており、車の量も多く、運転の激しさは驚きです。クリスマス、そして、幼児殉教者の日も、雪が降り積もり、通が凍って危険なため、ミサ行きを中止したほどです。(,95・12・30)






『最初の修院長が福者に』

〜台湾〜
聖霊奉侍布教修道女会 山崎陽子
…私は当地で20年目のクリスマスと新年を迎え、まずは一つの「節目」として、思いの新たなるものがあります。
一九九五年は定期の帰省の年にあたり…名古屋聖霊病院の修道院で、ゆっくり過すことが出来ました。この度の帰省では、主に東北地方の3大学(東北・宮城教育・弘前)を訪問し、教官・保証人の方々にお目にかかり、お礼を申し上げることができました。お蔭様で留学生通が落着いた環境の中で、研究を着実に続けている様子に接し、心強いものを感じました。
一九九五年は、私共の聖霊修道女会にとって、誠に記念すべき年でした。一八八九年本会創立にあたり、創立者アルノルド・ヤンセン神父を助けながら、最初の会員、修院長となったマザーマリア・ヘレナシュトーレンベルグ(一八五二〜一九〇〇)が、5月7日、ローマ聖ベトロ大聖堂で教皇ヨハネ・パウロ二世によって列福されました。…日本は例年より厳しい寒さと伺っています。…皆様の上に神の豊かな祝福と恵みを祈りつつ−−−−。
(1995・12)






『近代化の光と影』

〜タイ〜
ヌヴェール愛徳修道会 田上美知子 岩村チエ子 ソンポン カンヤラ ユーピン 村上モニカ
…日本の大震災の後、世界各地で大きな地震が相次ぎ、多くの犠牲者が出たとのニュースも伝え聞いております。
…ここタイにおいても、12年来の大洪水に見舞われ、74県のうち60県以上が洪水のため死者を出し、浸水による家屋の流失、破壊孤立状態等の大きな社会間遠が生じ、タイの新政権は…緊急対策に迫られています。…こうした洪水の影響で、養殖中のワニが彷徊したり…思いがけないことが起こっています。私達の関わっている生徒達も、床スレスレまで泥水に覆われ、家から一歩出るにしても、その泥水の中を歩かなければ外へ出られない家もあり…通学に困難な状態が出ています。…毎月の家庭訪問も、雨のため、洪水、あるいは道が悪く、車輪が泥中に食い込むなど…家の前まで行きながら家に行かれず引き返すなどのハプニングも多く…生徒達は、こうしたところから通っています。スリンの町と云えば、日に日に近代化…街の様子が著しく変化して来ています。最近まで見受けられなかった乗用車が多く走り、…各メーカーの店が軒並みです。…こうした近代化の改は貧しい人々、村人たちの生活を脅かし、追いつめて行きます。
生活は益々厳しく…生徒達も学校から帰って来ると(あるいは土・日・休日も)一日5バーツ、10バーツのアルバイトで家計を助けています。






『二千年前の再現、山岳地帯のクリスマス』

〜フィリピン〜
善きサマリア人修道会 景山ひろ
…9月末に台風ペパンか、バコロド地域を直撃しました。超激しい風雨は木々を薙ぎ倒し、洪水、家屋浸水、倒壊、さらに多くの人命を失う結果となりました。荒涼となった地上は塵芥と埃でいっぱいでした。それでもここ2カ月のうちに、木々は淡い緑の新芽を吹き出しました。フィリピンでは、クリスマスは、待降節中も含めて、とにかく喜び″、陽気″といったお祭り気分が溢れています。
 待降節になると、なんとなく荘厳さに、身を引き緊めて生活していた私は、初めは少し戸惑いました。その後、フィリピンでは待降節の意味合いの実践が、クリスマス直前の9日間のミサに凝縮されていることが分かりました。スペイン語で"AGINARDOミサ"(dawn−暁のミサ)と云い、12月16日からの24日までの9日間、毎朝4時から6時近くまでのミサに参加するのです。ミサは荘厳な祈りと、生き生きと美しい聖歌で、希望の到来を力強く伝えます。
 ところで私は、今年、この国の別な形のクリスマスを体験。私達の奉仕職は山岳地帯にも広がりました。長時間、デコボコ道を越えて行く山岳地帯、そこの住民は、最低限の生活にも、何かと事欠く状態です。医者なし、看護婦(夫)なし、充分な衣食なし−多くの乳幼児達は慢性栄養失調児と云われています。彼らの家−掘立小屋は、家族はもちろん、犬、猫、豚、鶏、アヒル等あらゆる家禽の宿でもあるのです。人々が此処で充分持っているのは、新鮮な空気と美しい、厳しい自然だけです。ここで私が気付いたことは、この情景は、なんと、キリストの最初の誕生日に近いことか−という現実でした。きらめくクリスマスツリー、ケーキやキャロルなど何一つなく、代りに静かに輝く屋群、暗く寒い山野、家畜小屋の飼葉桶、布に包まれた赤子等々、恐らく、いいえ、確かにこの遠い々々辺鄙な山岳地帯の人々は、あの二千年前の、初めての降誕祭の夜を誰よりも生々しく、しかも自然に演出しているのではないでしょうか。







『北米』







『二人の恩人を身近に迎えて』

〜アメリカ〜
メリノール女子修道会 小合悦子
…此処、シスターの養老病棟に勤めて三年目になります。開拓者として、いろいろ素晴らしい仕事をして来た先輩達が、晩年の制限された中で日を送り、宣教者としての最後の段階、十字架の道行を黙々として歩んでいるその伴となれることは、私にとって何よりの恵みです。ここに居ると、自分で自分のことが出来る有難さをつくづくと思います。…この春、ドイツ人のシスターマリ・エリスを本部にお迎えしました。私がカトリックになって間もなく、高野の教会に来られ、レジオ・マリエを始め、それに参加した私は、指導者のシスターの奉仕ぶり、とくに、貧しい人、身障者へ手を伸ばされるのに感動してメリノール会に入会する決心をしたのでした。今年85歳で殆ど失明、また足が悪く、仕方なく本部へ帰って来られました。
50年も日本人と一緒に生活して、この変動は、どんなに辛いことでしょう。お傍で、出来るだけ、その別れの痛みを和らげてあげたいと思っています。また、秋には、思いがけなくマキロプ神父様をお向いの男子老人ホームに迎えました。神父様は私がメリノールに入会した時の主任司祭で、私の霊的指導者でした。神父様からは、神に祈ることを教わりました。シスターになってから神父様の近くに居るのはこれが初めてで、神のおはからいを大切にしたいと思います。






『国際都市の学生によるミサ』

〜カナダ〜
聖ドミニコ女子修道会 田井千鶴子
…カナダのモレアルに来て、まだ三カ月になって居りません。私の地区には日本人が見当らず…私は毎朝、ドミニコ会の教会に通って居ります。…日曜の主日のミサには、各国の学生たちが集まり、さすがにキリスト教の国を感じます。民族が一つになれる場、神の御前に一致出来ることの楽しみを、大学生達は持っています。神父と牧師もシスターもスタッフとなって、大学生の有志と働いて居ります。ですから、典礼がアイデアに富み、美しく、且つ荘厳なミサなのです。11月26日「王であるキリスト」の祝日は圧巻でした。
 その日は、各国々旗が聖堂に吊り下げられ、レバノン、アフリカの各コーラス隊が、楽器持参で力強く合唱し、時々はフランス語の聖歌もありました。私は大変感激し、モレアルが国際都市であることを再確認したことでした。
 モレアルで、日本に宣教者として25年…30年…60年と在日された数人の方々にお会い出来ました。ご年配ですが、お元気で、日本語の達者な方々ばかりでした。そして、日本を愛して下さっている事を、ひしひしと感じました。日本での初期の修道会の土台づくりに大変なお働きをなさった方々ばかりで、日本の教会、修道会がいかにお世話になったかを思い知らされ、彼らに感謝、ご恩を忘れてはならないと切に思いました。(96・1月)






『南米』

ブラジル パラグアイ ボリビア ペルー





『ご援助金は愛のガソリン』

〜ブラジル〜
宮崎カリタス修道女会 田河緑
…一九九六年は、私共カリタス会南米管区にとりましては、喜びと希望によって迎えることが出来ます。昨年12月28日、一人のシスターが帰伯しました。その時ズシリと重い封筒を手渡されました。海外宣教者を支援する会からのご援助金は、日本の皆様方の愛の献金と思い、感謝の心で頂きました。有難うございました。31日に、サンタ・エリザで働いている3人のシスター遠が帰院しました。色は灼け、少し疲れ気味で帰って来ました。車のない不自由さ、不便さ、その他でかなり苦労したようです。昔の宣教師なら取るに足らないものでしょうけれど、現代人にとっては、大いに応えたようです。
「車のお金が貰えたよ。あなた方の犠牲によってこのお恵みを頂いたのよ」と云いましたら、疲れ切った顔が急にほころび「嬉しい、力が出た!」と云って喜びました。豊かな日本人と人々は云いますが、個人的には決して豊かでない日本と思います。でも、他に必要とされている方も居らっしゃるでしょうに、私たちにお恵み下さいまして、ありがとうございました。…現地で養成された会員にも大いに励みになると思います。あたたかい皆様方の愛のガソリンがもっと宣教熱を燃え立たせてくれると思います。
('96・1・1)






『困難を経て、保育所完成』

大阪聖ヨゼフ宣教修道女会 ブラジル修道院
…多くの皆様のご援助で建設していたブラジルの貧しい家庭の子供達のための保育所は…いろいろな困難もありましたが、9月初めに完成し「アミギーニョス・ジ・ジェズス」(イエスの小さな友達)と名付けられました。皆様の物心とものご援助を心より感謝申し上げます。…この保育所が、多くの日本の唐様のご援助で出来たことを知って、こちらでの協力者も少しつつ増えて、国を越えた愛の輪の広がりを、ただただ感謝しています。ボランティアの人達によるペンキ塗り、壁に絵を画いたり、装飾をしたり、食糧の援助を願いに回ったり、慌ただしい準備期間を終えて、11月6日、3歳児13人と職員2人(先生1人、給食1人)と私達、ボランティア数人で、賑やかに、初めての保育が始まりました。子供達の生活は、朝7時30分頃登所、12時頃帰ります。9時のおやつ、11時のシャワー後昼食をして家族の迎えを待ちます。13人の中には、3歳2カ月になるのに体重が僅かに9kgしかない子、やせっぽちで虫のため大きな腹をしている子、チリチリ頭はシラミの巣、食欲旺盛だが昼食後すぐに嘔吐する子、最初、泣き虫だった子も、今はすっかり慣れて、嫌がっていたシャワーも我れ先にと走って行きます。…少し難しい問題としては、今居る13人の子供達以上に、是非受入れたい子供が沢山居ること。その子供達はいろいろな事情で家族の送り迎えが難しいケースと、家族に必要性が理解出来ない、または、興味を示さない子供達です。来年度は子供の人数が増えることになります。どうぞ今後とも…ご協力頂けますようお願いいたします。(.96・11・26)






『ロンドリーナから……』

ベタニア修道女会 ロンドリーナ修道院 松永泰子
 ◎シューバ・デ・オルロ(黄金の雨)という並木の美しい、ここブラジルのロンドリーナより、クリスマスと新年のご挨拶を申し上げます。一年の感謝と新しい年、主の恵みを求めて。
松本圭世
 ◎一年間のすべての出来事を心から感謝しながら、新たな心でまた歩みたいと思います。
木村依子
 ◎沢山のお恵みを頂きながらクリスマスをお迎えすることができたことを、主に感謝し、新しい年も皆様の祈りの中で、み旨に応えていきたいと思います。
間野玲子
 ◎幼きイエズス様の平和とマリアと共に、あなたの愛を人々の中に、みなさまとともに、讃美を主に、感謝を主に、心こめて。
マリアンナ
 ◎ベトレヘムの御子様を頂いて…私も腰をのばして、一九九六年ヘスタートいたします。オン・ザ・ライン!
大場喜代子
 ◎隣の家のサビア(つぐみの一種)がチー・チー・チーと、小鳥なりに神様を讃美しているのでしょうか。新しい年も、幼きイエズス様と神様の暖かい見守りと恵みが、皆様の上にありますようにー。






『新しい経験中……』

マリアの宣教者フランシスコ修道会 佐藤和子
…ノーバ・マリリアの小さなコミノテに移ってから一年になろうとしております。同じマリリアの中でも、いろいろと新しい経験をしております。市営住宅の一つなので、隣の声は突抜け、裏のニワトリは夜もコケコッコー。物騒なので、どこの家にも犬が居り、犬猫の声の賑やかなこと。暑いので、十二時夜半近くまで人通りが絶えません。マリリアの中でも貧しい地区なので、毎日、物乞いの人、子供が、衣類やパンを貰いに来ます。日系カトリックの方々に願って、月1kgの持ち寄り、古着等を配ったりして居ります。
 麻薬患者、エイズ保菌者、父親、母親が服役中だったりと、いろいろな人が集まっています。
 広い広い青空を仰ぎながら、一雨欲しいと思いますが、家の無い人、ファペーラ(貧民窟)に住んでいる人を考えると、天気の方がいいのでしょうか。






『診療には一張羅で〜インディオ〜』

〜パラグアイ〜
聖霊奉侍布教修道女会 上杉もと
…いつも私共宣教者のためにご援助、ご協力下さいますこと、本当に心から感謝申し上げております。ここピラポには、ホワキム神父様とポサダスの北島神父様が、それぞれ月一回お出で下さり、殊に言葉の不自由な日本人の霊的指導をして下さり、有難いことです。
 (同封の写真は)昨年3月に移住なさった落合先生とご一緒に、インディオの診療奉仕のスナップです(が)、先生はご家族と一緒に農業移住をなさり、立派な先生で、コロニアの日本人は大書びです。信者ではありませんが、思うところありと、日曜日のスペイン語ミサには必ずご出席になります。
 私たちの車が着きましたら、人々が走って家の中に逃げ入りましたので(?)「困った」と思っていましたが、出て来た時には、皆一張羅の姿でした。
 8月2日は、ここピラポの入植35年祭で、品田神父様の司式で、慰霊祭が行われました。

8月2日ピラポ人植35年祭・慰霊祭司式は品田神父様
8月2日ピラポ人植35年祭・慰霊祭司式は品田神父様

インディオ村の診療奉仕 診療は落合先生
インディオ村の診療奉仕 診療は落合先生






『日本から援助の橋の祝別』

聖霊奉侍布教修道女会 林静子
…パラグアイでは例年のとおり、三つのコロニアの日系の信者さんが集まって、合同クリスマスを致しました。今年はピラポで行われ、アルゼンチン・ポサーダスから北島神父様、エンカルナシオンからクルツカ神父様がお出でになって、十二月十七日午前十一時半から日語ミサがありました。この時、四人の日系の子供たちの初聖体がありました。…一年一回のこの集まりは、信者さん達の交流のためにも好いチャンスで、ミサ後の祝賀会には、可愛いい子供達の合唱や踊りと賑やかでした。私達のコロニアも、七年前に電気、次の年に水道、一九九五年からアスファルト道路の建設も着工されました。
日本政府の無償援助で、七つのコンクリート橋が一年かかって建設され、十二月二日に橋の祝別式が主任司祭のビセンテ神父様によって行われました。その日は、忙しい中を大統領も参列されました。
私達のコロニアにはまだ飛行場がないので、エンカルナシオン市からヘリコブターで来られ、中学校のグラウンドに着陸されました。
…パラグアイも、三十数年続いた軍人による政治が終止符を打ち、初めて民間人によるデモクラシーの政治ですが、大統領の苦労も多いことと思います。






『深刻な福祉・教育、青少年問題』

〜ボリビア〜
礼拝会 川俣恭子
…10月21日に、スペイン語研修が終って無事サンホアンに帰り、一週間後にサンタクルスに戻りました。
…サンタクルスは発展途上にある活気に溢れた…近代的な街です。
…礼拝会の修道院は高級住宅街にありますが…もちろん、礼拝会がそんな土地を買える筈はなく、昔、ある大金持の熱心な信者のご夫人が寄贈して下さったとのことです。…この修道院では、ヘスス・マエストロという名の小規模な学校を経営しながら、その傍ら同数地内に「未婚の母の家」と、5分はど歩いた所に「アコヒダの家(街で拾って来た少女達の家)」をやっています。「未婚の母の家」には、20人ぐらいのお腹の大きな、または、赤ちゃんを持った少女達(14〜18歳位)が暮していました。…私の滞在中にべルギー政府からの援助で、もと犬小屋のあった所に幼児の保育室が出来上がり、ベルギー大使も出席して、祝別式が行われました。院長のマリア・フランシスカは「でも寄付金が足りなくて、あとペンキ塗りとかは自費でやらないと」と頑を抱えています。ボリビアの福祉対策は殆ど修道会の働きに任せっばなしですが、修道会とてお金はなくて、アメリカや欧州の政府や慈善団体の寄付に頼っている現状です。
 学校数育も同様で、修道会やプロテスタントの教会が経営している小規模の私立学校が、この国の児童数育をやっと支えています。
 公立学校もありますが、ボロの建物があるだけで、設備は充分ではありません。先生の給料は最低の状態で家族を支えるためには、何か副業をしなければやっていけません。この国に最も大切な児童教育なのに−と叫びたくなります。…「アコヒダの家」の方は、もっと新しいのですが、初めは街で、少年少女達が屯している所に、エルマナ達が出かけて、少女たちに言葉をかけて連れて来ていましたが、そのうち、仲間同士の情報で、新しい子が来たり、仲間を連れて来たり、また、ふらりと居なくなる子も居ますが、だんだん落着いて仕事につく子も居ます。…一人のボランティアの婦人が通いでやって来て、彼女達の世話をしてくれています。…貪困、無教育、早婚で未成熟の不仲の夫婦と子沢山、父親や家族の暴力、不安定な政治と社会、簡単に手にはいるコカイン等によるボリビアの青少年問題、日本とはまた少し異なる意味で深刻です。






『医療器具を求めて歩き回る』

〜ペルー〜
フランシスコ会 加藤マヌエル神父
…フジモリ大統領の努力にもかかわらず、ペルーの経済には依然、厳しいものがあります。一七四年も続いた政治家の汚職問題に起因していますが、それを五、六年で解決を求めるのが、そもそもおかしいと思います。このホームの事業はリマの日系人が支えており、この方達は計画を立てながら行動していますが、事業は思わしくありません。…当初、この地区には四、五千人の人達しか住んでおりませんでしたので、この貧しい地区の健康管理のために診療所を建てました。しかし十年のうちに人口が十五、六万人にも膨れ上りましたので、この医療センターには、今一二〇〜一五〇人の患者が毎日診察を受けに来ます。…貧しい地区ですから、最低の診療費しか取れませんので、数でこなさねばなりません。すでに必要な専門科はありますが、歯科は毎日、眼科は週三日の運営です。他の科は週1日しかやっておりません。毎日運営されるのに今一つ必要なのは、各専門科と必要な医簾器具です。ですからホームの予算を確保するはかに、医療器異を求めて歩き回っています…幸いに仙台市・新潟・新発田市のロータリークラブの皆様のご協力によって、眼科の幾つかの器具を寄付して下さることになり、また、坂出市の聖マルチン病院のドミエコ会のシスターのご好意により、眼科の医療器具と十二指腸の内視鏡を頂きました。徐々にですが、私達の希望している方向に、この診療所は動いております。






『アフリカ』

ザンビア アルジェリア





『エイズで死んだ娘』

〜ザンビア〜
コンベンツアル聖フランシスコ修道会 久保芳一
…一九九五年六月に、私は日本での2回目の休暇と眼の治療を終えて、ザンビアに戻って来ました。9月に私はサンビアとザイールの国境線上にあるカニキという小さな教会の主任司祭になりました。
 10月15日、日曜日のミサ後、初めて病人訪問に出かけました。
 私は国境警備の兵隊が立って検問を行なっている所から四百m程離れた畑の中の一軒家に案内されました。ザンビアの何処にでもある普通の小さな家、炊事場兼食掌の土間を通って、人の顔をやっと見分けられることが出来るうす暗い奥の間のベッドに、病人の娘、ジュニス・マンジャビラ(38歳)が寝ていました。…ジュニスのために私達は祈り、病者の塗油の秘跡を授け聖体拝領を終えました。
 老いた母親にジュニスの病状を聞くと、食欲不振、一カ月半の間、毎日、下痢が続いているとのこと。彼女の両足はむくんでいました。
私は日本から送られて来た下痢止め薬とビタミン剤を一週間分あげました。…帰り際に母親は、昨晩ドロボーが入って(主食の)トウモロコシ2俵とニワトリ2羽を盗まれたとガッカリして呟いていました。トウモロコシが不足で、ドロボーも食うに困って貧しい人の家を無差別に襲っているようです。気の毒になりましたが何の持ち合わせもなかったので、そのまま別れを云って去るしかありませんでした。次の日曜日、ジュニスの家を再び訪れました。…病人の症状は下痢の回数も減ってよくなっているとのこと。…日本から、送って貰った品々が、病人にとても役立ったことを喜び…感謝の気持ちで一杯でした。…次の日曜日、前日の土曜日にジュニスが死亡したことを知りました。…その日、ジュニスの妹のクリスティン・ムレンガも病気になり、町の病院に運ばれたと聞き、その後11月12日に彼女が亡くなったという知らせを聞き、この家族は亡びていくのか−と思いました。ジュニスの場合、明らかにエイズで亡くなったのだと思います。ザンビアでは同じようなケースで亡くなる人は沢山居ます。私達の限られた力で一体、何が出来るか。せめて彼等が死の前に、一度でいいから神様の愛と喜びに、秘跡を通して浸ってくれればと願いながら、私は、町のセントラルのホスピタルに秘跡を授けるために毎日出掛ける決心をしました。






『無事に終った大統領選』

〜アルジェリア〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 篠田文江
…世界各地に派遣されて人々の中でキリストの愛を証しするために活躍している兄弟姉妹のニュースをきずな″で読みながら、日本から見ると地の西の端のアルジェリアで、私も大いに慰めと勇気を与えられています。こちらは、一九八八年から始まった暴動、さらに、直接的には、一九九一年選挙以来の過激派ゲリラによって、政治・経済・治安の不安定が重なり、ここ数年間、人々は恐怖と不安の日々を過しています。この社会情勢は教会にも大きく響き、イスラム教徒の中で、生活の証し”を通してキリストの愛を証しするよう努めていた、小さい、小さいアルジェリアの教会は、ますます小さくなっています。と云うのも、ここ数年間に、沢山のキリスト者(修道者も含めて)が帰国し、さらに、昨年来、既に11人の司祭・修道者が、ゲリラの弾丸で殺されてしまいました。犠牲になられた方々は、いずれもこの地で、20年、30年、40年と宣教の道に励んで居られた先輩方です。…11月16日は、こちらの第1回大統領選挙日でした。この日にまた、どのような惨事が起こるのかと、国民一人々々、緊張のうちに、この日を迎えました。この日の治安に当る軍、警官、税関等に関わる人々は、2日前に事前投票を済ませ、この日の治安に全力を挙げました。お蔭で、この歴史的な11月16日は、無事事なきを得、国民は大統領の生れる喜びで、街中、いや国中、いっぱいです。不安の中にも今は喜びの光が射しこんだようです。