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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『南アメリカ』

パラグアイ チリ ペルー





『少し開かれた(?)パラグアイ』

〜パラグアイ〜
聖霊奉侍布教修道女会 山田雲江
…パラグアイの情勢は、いろいろなマスコミがニュースの種に欠けることのないはど、いろいろな出来事が起こっています。
…時を待つ−というか、最も下に、押えられている貧しい人達が、自分の考え、意見を主張しても警察に連行されたりすることがなくなっただけでも、良くなったわけです。独裁政権の下で閉鎖された放送会社がありますが、今は、その放送局で電話を通して自由に発言したり、役所の手落ちなどが指摘されるなど、だんだん良くなっている部分もあります。国会議員、判事、弁護士、医師、教師、バスの運転手など、いろいろな分野の人達を集めてのパネルディスカッションで、放送中、視聴者が直接に電話で質問したり、意見を述べたりなどということも行われています。
「きずな」を頂く度に、支援する会の会員が絶え間なく増えていっていることを知り、本当に嬉しく思います。このようにして、主が始められた教会の宣教に参加される方が増し、主のみ国の完成のために協力して頂けることは、私にとって大きなはげみとなります。
 また、きずな″を通して、同じ召出しの道を歩む宣教者の方々を、主がどのように導き、生かしておられるかということも、分かち合って頂け、小さな自分の体験の恵みを、主において確かめさせて頂いております。…ここ三カ月、なにかにつけて変わっていく規約や法律のため、書類の書替えなどで、役所へ行ったり来たりです。






『母国への想いを・子らの日本語教育に託す一世達』

コングレガシオン・ド・ノートルダム 渡辺素子
…ここ、ピラポ移住地は、入植35年を、8月2日にお祝いいたしました。5日間にわたり、記念の祝賀行事があり、一日目は物故者慰霊祭が、神言会の管区長品田豊神父様の司式で行われ、二七〇名の方々を追悼いたしました。慰霊祭では、共同墓地に眠る方々に、まず佐々木日本大使が追悼の言葉を述べられ、続いて関係者代表が、スペイン語の通訳つきで追悼文を捧げました。参列者はビラポ近郊のコロニアの小・中・高生徒と、聖霊幼稚園児約二千名の他、招待者、一般の方々で、広い墓地が埋められました。…その後、会場を日本人会中央公民館に移し、式典、祝賀会がありました。高知県から入植第一陣がピラポ入りした8月2日が、ピラポに住む日系移住者の方々の記念の日なのだそうです。私は、南米パラグアイが日系人先駆者なしには、今日目にすることの出来る豊かな緑地、畑、生活のたたずまいは無かったのでは…と、苦労された一世移住者の偉大さに改めて感嘆させられました。今、私が日本語学校で教えている生徒は、殆ど三世です。中には二世も居りますが……。
 小学生(1年〜6年)が57名、中学生が60名足らずで、やはり子供の数は少なくなっています。授業は土曜日、一日6時間のプログラムです。日本で文部省が年2回実施している漢字検定試験がパラグアイでも行われており、チャレンジして、結構合格(1級〜7級)している生徒も居ます。また、年一回の国語能力検定試験には、各コロニアの日本語学校の小・中学生を受験させる程の日本語教育への力の入れ方、熱心さには驚いています。異国で、これ程、日本語教育を普及、促進させているのは、パラグアイだけではないでしょうか。このようにして、母国語を子孫に遺していこうとしている一世の方々の、故国への熱い想い、深い愛が窺えます。
 (しかし)残念なことは、教科書が日本円に換算して余りにも高額になるため…手許に教科書を持てないこと、読書欲を満たす日本語の本が少ないことです。開校以来、同じ本ばかり。もちろん図書室もありませんので、子供たちは職員室の一部の本棚から本を出して、土の床に腰を下ろすか、立つかして読んでいます。日本の子供達とは、比べものにならない不自由な教育事情の日本語学校です。






『六歳のエラディオの死』

〜チリ〜
カロンデレットの聖ヨゼフ修道会 真木栄子
…昨年、3年ぶりに家族に会い…3カ月日本に滞在…6月にチリに戻ってから時があっという間に過ぎてしまいました。…チリの地に着いてみると、わずか9時間の飛行で、こうも世界が違うのかと、改めてショックを受けました。毎日、ドシャ降りの雨が続き、泥まみれの道をサーカスの綱渡りのように歩いて人々を訪問、朝は○度C以下の寒さで凍てつく家の中、雨がやんだ時を見計っての手洗いの洗濯、確かに住み心地のよいアメリカや日本、第一世界を出て、第三世界に住むのは容易ではありません。しかし「栄子、お帰り!」と迎えてくれるポプラシオンの人々の笑顔に接して、わが家に帰って来たと実感したのも事実です。
…チリに帰国してから…今までの疲れが重なり、体調を朋し、…8月末インフルエンザに躍り、咳がとまらなくなりました。…12月に良い医者に出会うまで咳で苦しめられ続けました。…「ケガの功名」とでも云うのか、一月に胸のレントゲンを医者に見せたところ、肺には問題なしだったのですが、私の背骨が曲っているとのこと、3月に専門医に診てもらったところ、脊柱側湾があり、幼児期からのものであろうとのことでした。…現在、これ以上悪くならないために、運動療法をすることが日課となっています。
…私達はポプラシオン内に一軒を借り、共同体が集まります。少しづつ共同体で奉仕する人々が増えてゆく段階は…大きな喜びを与えます。この共同体作りに奉仕しているのは、男性より女性の方が、はるかに多く、貧困とマチスモ(男性優位)の思想が強いポプラシオンでは、彼女達の苦労は大変なものです。…主人を交通事故で亡くし、女手一つで、幼い息子と母親を養うため、早朝から夜まで働く女性、失職の夫、4人の幼児を抱え、朝、晩働きつづけながら、その間に時間を作り、会議や母親のクラスを受け持つ女性、…確かに一つの共同体を形成していくのは容易ではありません。
…6月8日夜、生まれた時から肺ガンで、一生懸命に生きていた、6歳のエラディオが息を引き取りました。若い夫婦には、一歳余りの兄と同じ病を持つ女の子が残されています。二人の子供の病いと御夫婦の痛みを知った昨年来、共同体の大人も青年も彼らを見舞い、遊び、寄付集めに奔走したりして共に歩んで来ていただけに幼児の死は皆に大きな悲しみを与えました。…多くの青年男女、母親たちは…通夜にあずかって祈り、歌い、両親と共に痛みを分かち合いました。…通夜は、彼らの小さな家の3畳ほどの一室に遺体を安置し、花とローソク、そして、常時男女一組が遺体に付き添い、隣人・友人たちが入れ替わり訪問し、祈り、歌い、南新達は自分たちの寝室に閉じこもったまま。…訪問者を迎えて挨拶しなければならないという義務もなく、人間的な暖かさと、思いやりを感じました。
 雨も上った土曜日朝、小さな聖堂での葬儀の祈りが終ると、バスで墓地へ−。墓地に着くと人々は、入口から両側に列を作り、両親と遺体を迎え、その後を祈りながら進んで行き、墓地には静かな音楽が流れ、マイクがゆっくりとエラディオの死を悼む…日本での慌しい共感性のない葬儀社のそれを思い出しながら…情緒のある、悲しみを共にする人々の暖かさ、優しさを感じておりました。






『ストリート・チルドレンの増える理由』

〜ペルー〜
フランシスコ会 加藤マヌエル神父
…ペルーの総人口は二千二百万人ですが、その内、一千四百万人、つまり、国民の三分の二は極限状態に置かれています。毎年、二十万人の中学生と大学生が卒業しますが、彼らの為には職が有りません。アルバイト式の仕事をしている人達を含めれば七割近くの失業率です。元々ペルーは農業国ですが、テロ活動と今は、政府がこの方面に余り力を入れていませんので農民は農業に見切りをつけて、山から下り、リマ市では毎年二十万人の地方の人達が周りの砂漠に侵入して、小屋を追って生活し、命をつなぐために、露店商人になっております。月給は、例外を除けば、平均百五十ドルです。目下、リマ市に、ストリートチルドレンがあふれている原因はここにあります。つまり、親たちは彼らに、食事を与える事が出来ませんので彼らは自然と外へ出て糧をさがします。一部の真面目な子供たちは、靴磨きか、自動車を洗って僅かなお金をもらって生活しています。でも大方はひったくり事件を起こしております。大人達もこれに似た事をしております。
 この様な事情の中での日系人の生活もそう楽ではありません。日本の様な所へ出稼ぎに来ている所以はそこにあります。
 この様な状況の中で、私達が営んでいます社会事業は容易ではありません。海外の援助なしでは非常に難しいです。
 私達移住者の子供は小さい時に、一世の両鯛桝に強く言われたのは「出来るだけ早く経済の自立を目指せ」と。そして、このホームの子供たちの実践教育の為にも必要だと思いますのは自活の道です。
その一環として、始めはホームの周りの貧しい人達の為につくりました医療センターです。この目的達成の為には、色々な必要な専門科とそれに伴う医療器臭が必要となっています。また、去年オープン致しました、この診療所の隣にある小さなカフェテレイアと食堂です。そして、今年は若者たちの為の黙想の家です。ペルーの事ですからこの三つの手段で、四、五年を目標にその方向に向けてやっております。
 その間はどうしても国外の援助に頼るほかありません。ですから、恐れ入りますが、今年も、ホームの子供たちの食事の為のご協力を心からお願い申し上げます。
(10月28日)

診療所隣に建てたカフェテリアで手伝いしている女の子たち
診療所隣に建てたカフェテリアで手伝いしている女の子たち

屋上を利用して大部屋2つ(各100平方m)、1階・子供達の食堂、2階・黙想会用食堂、3階・大会議垂(100人収容)を作った
屋上を利用して大部屋2つ(各100平方m)、1階・子供達の食堂、2階・黙想会用食堂、3階・大会議垂(100人収容)を作った






『アフリカ』

ザイール チャド シエラレオネ ルワンダ





『貧しさは病を呼び…』

〜ザイール〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 佐野浩子
…関西大震災の時には、伊丹に住む家族のこともさることながら、生まれ育った地の人々の苦しみ、痛みを共に感じておりました。
…復興も超スピードで進んでいることでしょうが、とれでも、傷ついた心を癒すには、まだまだ曙が必要でしょう。心から、お祈りのうちに一致しております。
…私もずイールに来て、はや13年になろうとしています。あの頃、平和だったザイールも、今は不安定と不穏の中で揺れ動いています。
…私の宣教地区は、"Dulie"という片田舎で、町から五百キロ、ガタガタ道をトラックで、2〜3日、時には二週間かけての旅行で、到着します。診療所、一般病棟、マテルニテ、結核とハンセン病のサナトリウムが私の活動地点です。貧しさは病を呼び≠ナ、今日も三百人近くの外来、入院患者を相手に過ごしました。
 ないないづくしの中でも、人々と共に笑ったり、泣いたり、恐れたりしながら、神の愛の存在を感じて生きることが出来るのは、素晴らしいことと思います。ここには、その他、女子の職業学校、小中学校、農業学校等があり、コミノテ7人のシスター達が、それぞれのタレントを生かして、奉仕させて頂いております。
 暗いニュースの多い世界の申で、私たちの小さな存在が、一つの小さな光になりますように……。
(8月13日)






『新しい仕事を』

〜チャド〜
ショファイユの幼きイエズス修道会 永瀬小夜子
…修道会のメンバーの異動があり、共に長く働いたシスターが、一人はミッションを終えカナダへ、一人は転任で奥地へ−で、新しく加わったカナダのシスターと、てんやわんやの日々でしたが、ようやく落着きました。…今年は私達は一つの新しい仕事を始めました。
現在のところ20名足らずですが、12歳〜18歳くらいの、奥地に住み、教育の機会に恵まれない女の子達の寄宿です。…そのまま村に残っていると、年頃になると第2、第3夫人として、金のあるミューズルマンのお嫁に−が実情で、折角の宗教生活も捨てる優秀な子供たちを見兼ねてです。…植民地の名残りで綿の栽培に熱心な地区がありますが、土地を荒らすとか、農作物が減るとか、人々の争いも、よく話し合いもなされず、畠を焼いたり、その地区の責任者が殺されたりということもあります。農作物を作っても収入にならず、それでも懸命に働いている村に兵隊が駐屯すると、そこら中の家畜その他、骨も残さぬほど食べ尽くされる。親切にもてなせば、村はどん底の貧しさになるし、変なもてなしをすれば荒らされるしで、兵隊の姿を見るだけで、緊張とアレルギーを起こしそうだという話しです。…少々のことがあっても、あの戦争の辛さはもう十分と、事を荒立てず、自分達の所が安全であればと…じつと息を殺している人も多いようです。






『修道院は、空っぽ』

〜□ーマ・シエラレオネ〜
御聖体の宣教クララ修道会 根岸美智子
…シエラレオネから避難し、すぐ戻れるとばかり思っていましたが、依然として(現地の)状態が悪く、未だにローマに居ります。
 しかし、いつまでも(シエラレオネの)学校を放っておく訳にもいきません。司教様はじめ、神父様達の要望もあり…必要に迫られ、9月7日、シスター3人がシェラレオーネに戻りました。…先発隊の3人はへ院長エリサ、高等部校長ローズメリー(2人ともメキシコ人)、小学部校長のエスリカー(シエラレオネ人)です。…私も当然−と思っておりましたが、思わぬ理由で待ったがかかりました。
 日本は経済大国なので、日本人は人質になりやすいので危険…という理由です。…私は此処ローマでシエラレオネからの多くの報告や緊急な援助願いの通信を受け、日本から支援を頂き、送るという、仲介の役をしています。…その後、フリータウンからのファクス、シスター・ローズメリーからの便りによると…到着したシスターをみた人々は喜びで泣き叫び、踊り出して大変だったようです。
…文部省の人々も、シスターを見ると手を叩き、躍り上って喜んだそうです。現在のところ、私たちのミッションは、出て来る時、すべての食料は避難民にあげ、残っていた物も、毎夜のこそ泥に持って行かれ、修道院は空っぽですが、幸い、学校、病院、教会も奇蹟的に反乱軍の手からは、免れました。…修道院は、ホコリ3寸どころか、汚なさの限り。シスターが3人の手伝いに助けられ大掃除、やっと、食堂と台所を綺麗にして、食事が作れるようになりました。神父様が少しになったがと取っておいて下さった、昨年、コンテナで頂いたラーメンで助かりました。給食も続け、奨学金も滞りなく生徒に与えられています。…残念ながら危険はまだ通り過ぎてはいません。…南部の村では反乱軍のために百人位殺されました。私達がルンサに到着した日も、ルンサとマケニの道路は、反乱軍のため封鎖されました。…まだ、とても危険です。…危険を逃れてフリータウンに転校した生徒もかなり多く、(また)飢餓状態のケネマ地方から逃れた避難民の生徒たちが、沢山ルンサに入っており、一層貧しい生徒の集まった状態になっているようです。
 宣教者たちは、皆、命がけで頑張っております。