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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『アフリカ』






『援助で小さな家″建設のメド』

〜ガーナ〜
神言会 菊地功神父
 …ご援助をいただけるとの通知を頂いて……本当にありがとうございます。……屋根をかけるのに充分な資金となります。
 さて、建築屋のおじいちゃん神父が、やっと元気になってきて、先日、私の所へ図面を持って来てくれました。集会室(各種グループのミーティング、カテキズムクラスなどに使用)が2室、寝室が3室、それに台所と食堂の小さな家です。彼に言わせると、千五百万円はかかると言うのですが、私の試算では、九百万円ぐらいで収まると思われます。さて、イラク問題のとばっちりで、ガーナでは石油製品が50%も値上りで、車に給油するたびに財布が軽くなります。おまけに、冷蔵庫は石油式ですから、これも石油(灯油)代がかさみます。8月半ばに隣の教会の主任が病気になり、先日、スペインへ送られてしまいました。代りに行く神父もいないので、私が毎週一日は出かけることになりました。穴だらけの道を一時間半もかかり…昨日も、その教会からの帰りに大雨になり、四輪駆動も滑る坂を登れずに立往生しました。今年(9月からの新学年度)は、ガーナ人の大神学生の司牧実習期のスーパーバイザーになり(ました)。大神学生と言っても、何か自信に溢れて一人前の神父のようで、なんとも頼り甲斐のある人です。






『ジンバブエ・昨今』

〜ジンバブエ〜
ナミュール・ノートルダム修道女会 伊東千秋
 *この項は、去る11月6日、ジンバブエから一時帰国された、Sr伊東千秋の中央協議会 々議室での講演の要旨をまとめたものです。
 なお、シスター伊東は、12月、再び任地へ向われます。
 ジンバブエという国は、ご存知の方も居らっしやると思いますが、アフリカ大陸の南部、南アフリカ、ボツアナ、最近独立したナムビア、モザンビーク、それらの国に囲まれた内陸国です。
 面積は日本より少し大きな程度、高原地帯(一八〇〇〜一九〇〇メートル)、人口は約九百万で、殆どの人がブッシュなどに住んでおり、約一七〇万人ぐらいが都市に住んでいると云われます。
 都市といっても大きな都市は二つ、その一つパラリが首都でプラワヤというのが第二の都市で、ここに約百万人が住んでいます。
 内戦を経て一九八〇年四月に黒人政権の国として独立してから、今年で十年になります。十年前には独立直後でまだ、植民地という印象でしたが、十年経って、白人が非常に少なくなったのが目立ち、銀行や政府官庁など殆ど黒人が多く見られるようになりました。植民地時代、一部は裕福な町という感じがしていましたが、最近では、給Z術や機械の管理などが難しくなり、機械が故障しても部品がなく、機械そのものも60年も使っている。新品も入らず技術者も居なく(生産力が)だんだん低下していくという難しい状態になっています。
それに人々が生活するための農業が、干ばつが続いて、農作物がとれず生活の面で飢餓状態が数年続いたこともあります。
 そういう国ですが、他のアフリカの国々に比べると、ある意味では豊かだと思います。殆どスラムがないのです。なぜかと云うと、田舎から出て来た人たちは、拡大家族の中に吸収されていって、土で作った丸い家にかなりの人数が住んでいます。政府としても、都会に出ても職がなく貧しい人が、より貧しくなるので田舎に居て、土地を耕やし、物を作っていた方が豊かに、安定するので、なるべく地方で生活するよう地方開発に力を注いでいます。キリスト教者は全人口の約20%、そのうち12%ぐらいがカトリックと二石われています。ジンバブエにキリスト教が入ったのは、一八八七年ごろでしょうか、一八九九年にはノートルダム会が入りました。南アフリカボツアナの国境近くのブッシュの中に学校を作りましたが、一九七八年に、ゲリラ戦でブラザー二人が殺されたりしたので全員引揚げることになり、学校は閉鎖されました。私が最初に行ったのはブラワヤから一四〇キロほど離れたルパニという所で、ここに病院があるのです。その病院に看護学校を作って欲しいという司教様の要望でした。日本から行った二年ほどは大変でした。その間にアメリカから黒人の方で、長い間、看護婦の教育を専門にしておられる方が居らっしゃるので、その方と共同で学校をはじめました。
 いろいろ問題もありました。二つの政党の争い、部族の争いから病院なども24時間、軍隊に包囲されたこともありました。病院ですから、いろいろな所で怪我した人たちを収容していたのですが、ブッシュなどから病院に避難して来た人が居るのが政府としては、好ましくないということで包囲されたりしたわけです。
 アフリカという所は本当に素晴しく、アフリカ人はあたたかい、豊かな心の人たちです。私は教会の仕事で小教区の青少年のためと婦人や若い人たちに手に職をつけ、技術を教えるということで、洋裁や編物、栄養や料理を教えていました。
 司教様が教区の司牧センターを建てられ、そこで教会のリーダーの養成をしておられ、そのセンターで、伝道士、カテキスタたちの教育をする責任者として私は働いております。
 アフリカの人たちは、とても暖かく(私達を)迎えてくれます。
 アフリカでは女の人は、大きな労働力です。女の生活というのは朝早く起きて、二〜三キロ離れた所に水を汲みに行き、食事を作って、子供を学校に出して、一日中働いています。男の人は都会に出稼ぎに行っている人が多いのです。
 そのせいか、女性の平均寿命はそう高くないようです。
 また、赤ん坊の死亡率も多く、マラリア、ハシカなどが多いようです。地方に行くと、予防接種がまだ普及していません。
 いま、ジンバブエで行なわれている「開発」の一つは、井戸を掘ることです。井戸を掘って、その井戸は共有のものとしています。
 その井戸からとれる水も共有のものとしその水で畑で食物を作りますが、その畑も共有です。そして、そこで採れた作物を市場に出す。そうすることによって、自分たちも生活が出来、いくらかの、現金収入もある。教会としても、いま、そういう開発作業をすすめている。若い人たちは貧しく、不便な所に行かなければならないか句もしれませんが、それによって、信仰の体験も一層、深まるのではないでしょうか。とくに若い人たちにとっては…(文責記者)










『南米』






『新任地で』

〜ブラジル〜
コングレガシオン・ド・ノートルダム 斉藤好枝
 …去る八月十九日(日)午前五時四十五分、無事にブラジル・サンパウロ空港に到着いたしまし.た。…空港には中島先生と二人の方(男性)が出迎えて下さり、大いに助かりました。…私が修道服を着でいませんでしたので見つけられず、暫らく時間がかかりましたが無事にキジに着くことが出来、教会 での九時三十分からの日曜日のミサにも、少しおくれましたが出席することができました。私は当分神父様方の修道院に宿泊することになりました。…昨日はアバレシダの聖母の二年ごとに行なわれる巡礼にも行って参りました。
十万一千人もの人々がブラジル国中から集まりました。日本語ミサが大聖堂でたてられn日本語学校の子供達も笛を吹き、歌い大活躍でした。この小さな黒い聖母マリアに対する熱烈な信心に圧倒されそうでした。…日系人の万達はとても協力的で、私共はお弁当も持たずに行き、おふくろの味を思うままに味わわせて頂きました。
 ミサは相馬司教様が、沢山の司祭方とお献げになり、熱狂的な雰囲気でした。言葉は日本語で、ブラジル語の説明が所々にありました。こちらでは、日本語が何処へ行っても聞えて来ますので、折角習ったブラジル語も、彼方に遠ざかってしまったようです。でも、中には(二世、三世)日本語の話せない方々も居られますので、だんだん復習して参りたいと思っています。こちらには、純心をはじめ、日本人の修道会の方々が活躍しておられ、感心しています。






『六年目迎えた託児所』

〜ブラジル〜
ベタニア修道女会 ロンドリーナ修道院姉妹一同
 ブラジルは、寒かった冬も終りに近づき、南国らしい暑さが始まりました。小包をありがとうございました。…私達の託児所も小さな出発から少しづつ増築し、今年は保育室、小聖堂が出来上ります。
 …まだまだ問題の多いスラムで、麻薬、未婚の母、その他絶えませんが、小聖堂が出来上る(9月中旬)ことにより、主のみ業がいろいろな形で広がることを願っております。

同 大場嘉代子
 …冬来りなば春遠からじ〜と申しますが、一時は伊Cになった気温、もっと南の地方では雪が降り、他にはコオリ″がはり、まったくの冬景色でしたが、この頃は寒さもやわらぎ、日中は急に夏になったようです。しかし、夜は相変らず毛布三枚がけ、スラムの人たちは、もっと寒いだろうなあと心が痛みます。
同松永泰子…日本からのご協力によって、こうしたインフレのひどいブラジルで、託児所を続けていますことを、深く感謝いたしております。
 二歳から六歳までの八十人の子供達が元気に通って来ております。

同 松本圭世
 …皆様からの支え、励ましを受け、勇気が出てきます。スラムの中での小さな託児所も、今年で六年目を迎え少しづつ大きくなり、今年は保育室増築、聖堂建設に取り組み、完成を目指しております(政治、経済情勢は不安定な中ですが)…。

同 松浦和子
 こちらは今冬。とくに今年は寒さがきびしく、貧しい人々にロンドリーナ市から毛布、服などが配られ、ファベェーの一軒ごとにわけて届けましたが、ほんの僅かな人々だけでした。…パンを貰いに来る人々がどんな所に寝ているのかと心配いたします。また、所によっては雨で流されたり、自然から、また、政治からのしわよせは、一番貧しい人々の所へ押し寄せることをみても、あまりに、も広く、多く、難しく、私たちにとって「大海の一滴」の苦しみです。






『建物老朽化で、危険な子供達』

〜ペルー〜
フランシスコ会 マヌエル・加藤神父
 …ペルーは、南米のハイチに次ぐ第三世界の貧しい国であります。
 …二、二〇〇万人の(人口の)うち、一、二〇〇万人は貧しくなり、そのうち七百万人は極貧状態に、…その日食べる物もない状態に落されております。ただ今、リマの大司教様は、全ての小教区に小さな食堂を設け、貧しい人々に一日に一食でも与えるよう、お求めです。話をちょっと変えて、日系人について一言申し上げたいのです。
 一八九九年四月三日に、自分の家庭の経済を良くするために、出稼ぎに船出いたしました。当時のペルーのお金は、イギリスのポンド並みだったと聞いています。ですから、一、二年働けば、一財産作ることが出来、錦を飾って日本へ帰れると思っていました。
 それが、いま、移住九十周年を祝った時点で、なんと皮肉にも、二世、三世が、両親や祖父母の祖国へUターンして、出稼ぎに六千乃至八千人来ているそうです。…また、移住九十周年にして、初の日系大統領がペルーに誕生したことは、我々日系人はもちろんのこと、日本人にとりましても考えねばならないではないかと思います。
 と申しますのは、このようにお世話になった国が、日下、貧しさのどん底に陥っているときに、それを黙認することが出来ますでしょうか。また、とくに、われわれ二世にとりましては、フジモリ新大統領の失敗は、われわれの失敗にもなりかねません。ですからー私達の責任は非常に重いと思います。
 目下、「日系連帯十字軍」を編成、10万ドルを目標に募金を進め貧民街での食事支給に参加しています。
 …ペルーの一般国民は非常に苦しんでいますが、その中でも最も苦しんでいるのは、何の責任もない子供たちだろうと思います。この一部の子供たちを、現に、シスター文吉が所属するペルーの邦人修道会(Agustinas del Santisimo Salvador)が預っております。
 でも、五十人の面倒をみるのは、なみ大抵の業ではありません。
 …こどもたちは老朽化した建物の中に住んでおりますので、いつ何時、地震で倒れてしまうか分りません。それを心配したシスター文書と幹部の人たちは、ホームの隣の空地に三年前から建物を建てはじめました。しかし、現在のペルーの、最悪の経済事情では、物価はうなぎのぼり、…寄付も、ぜんぜん集まりませんので、工事は、完全にストップしている状態です。…皆様のご寛大な援助に頼るほかはありません。






『北米』






『若い誓願者たちに圧倒ざれつつ』

〜カナダ〜
無原罪聖母宣教女会 高橋興子
 …私は5月14日以来、ここ、ロンゲイユの小さな修道院で生活しています。セント・ローレンス川をはさんで、モントリオールと向い合っている、小さな、静かな町で、バスと地下鉄で20分行けばモントリオールのダウンタウンに着きます。8国籍、11人の姉妹と共に住んでいます。有期誓願者が相手ですから、彼女たちの若さとエネルギーに圧倒されて、私も若返ります。ペルー、ボリビア、キューバ、ハイチ、マダガスカル(二人)、フィリピン(二人)、日本、カナダ(二人)という内訳ですが、とくに南米やカリブの人たちとの接触ははじめてなので、驚くことが沢山あります。と同時に、国を越えて、人間はすばらしいな、同じだなとも思います。
 こちらは、いま、ワールド・ミッション・サンデーの準備に取り組んでいて、教区ごとに集まりを持って、テーマの説明とか、その内容をどのように生きたらよいのかなどの、分ち合いがなされています。私は、ケベック市と、ここ、ロンゲイユと、二度集まりに出ましたが、とくにケベック市では、一五〇名の参加者のうち、百人以上が信徒で、その熱意に驚きましたし、教会″の理解の仕方が開かれていて、ユニバーサル・チャーチという考え方が定着している点で、さすが、教会の伝統ある国だな…と感心しました。