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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『アフリカ』






『はじめて、マラウイから』

〜マラウイ〜
無原罪聖母宣教女会 守山陽子
 ‥マラウイには、日本人として、たった一人の宣教者ということもあり「きずな」を心感く読ませて頂きました。
 ‥私の派遣されたマラウイは中央アフリカの面積九四、〇八〇平方キロへ北海道の一・二倍)、人口約六打方人という小さな国です。
 国土の二割を占める細長いマラウイ湖に沿った南北に細長い国で、タンザニア、モザンビーク、ザンビアの国々との間に国境をもっています。十九世紀半ばに、リビングストンによってヨーロッ.ハに紹介されました。
 ‥私の到着した二月は、ちょうど雨期の真最中で、稼が輝くはどに美しく、ブーゲンビリアやハイビスカスなどの花々が、あでやかに咲き誇っていました。‥一九六六年就任以来、カムズ・パンダ大統領による一党支配の続くマラウイは、今のところ政情も、治安も安定しており、中南部アフリカ諸国の中では稀な平和″を維持しています。モザンビークとの国境をもつ南部マラウイの村々には内乱の続くモザンビークから‥難民が雪崩れこんでいるそうです。
 私の今、居りますMZIMBAは、北部マラウイの丘陵地帯、標高一九〇〇メートルの所にある小さな村です‥日中、30C〜35Cの気温でも湿気がなく、サラッとしていて暑さを感じません。朝夕は気00温も下がり、20C〜18Cとなって、ヒーターが必要なほどにヒンヤリとします。‥私はただ今、チトノブカ語の研修中です‥文法があって無きが如きチトノブカ語は難しく、四苦八苦していますが、やっと簡単なあいさつを覚えて、周りのマラウイの人たちとも挨拶が出来るようになりました。‥こちらに来て間もなく二カ月になりますが、人々の礼儀正しさ、温和さと共に、子供たちの働く姿が目につきます。頭に水の入ったバケツや大きな束のたき木をのせて軍ぶ少女たち、牛や山羊を追う少年たち、赤子を背中に負う少女たち、バナナやパパイヤを道端で売る少年たち。マラウイの小学校就学率は、わずか15%、一年間の授業料が、日本円にして約一万円(二五〇kw)、しかし、日仏仰自rl疋の生活をしている村の子‥ともたちにとって、家事を支えることが先で、学校に行こたくとも行けない子どもが多いとのこと。学校自体、数が少なく全部の子供を受け入れることは出来ない状態です。






『教会には首にタオルがけがファッション?』

〜シエラ・レオネ〜
御聖体の宣教クララ修道会 根岸美智子
 ‥ここルンサ‥は、暗いニュースはありよしても‥人々は相変らず朗らか‥明るくできますのは、‥いろいろな国の宣教師たちを通じて、日本、イタリア、スペイン、アメリう、ドイツと各国からの援助が、直接、人々の手にわたる喜びがあ・′Jからと思います。
 ‥クリスマスには、イタリアからお米、ペインからはミルクと豆、日本から沢山の衣類を頂いて、人々は大喜びでした。教会の中は、日本の洋腸を着て、タオルを首にかけてやって来るのが流行しました。お風呂屋さんではないのにと、思わず苦笑してしまいますが、汗の流れるこの国には、とても便利なものなのです。
 ‥ここアフリカにもイギリスからの放送が入って来ます。東ヨーロッバは大きく変化しているようですね。人々に自由が与えられることは嬉しいことです。この世の中から、血を流すことが絶えたら、もう天国でしょうね。しかし、その道はまだ遠いようです。
 中国、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの人々を考える時、不安が黒い雲のように立ち龍めます。今車、0・L・G中学は創立25周年を迎えます。






『教会は生きている』

〜チャド〜
ショファイユの幼きイエズス修道会 永瀬小夜子
 ‥旧年中は本当にいろいろありがとうございました。‥新しい年も神様のお恵みが豊かにそそがれますように。
 この言葉をやはり日本人として一筆書いて、やっと新年らしい気分になっ(た)私です。‥この都会(ジャメナ)より車で二十分も抜けると、すっかり田舎です。‥機会が出来、聖夜のミサについて行きました。薄暗いランプの光は満天の星の輝きを一層神秘に‥幼子から老人まで‥声を張り上げ、全身で踊ってのミサ‥本当にここはアフリカと思いました。‥この地での人々の生活は相変らず貧しさ、粗暴や身勝手も多いですが、この貧しさをうまく受けとめて、懸命に生きる信者の家庭も多くなりつつ‥何より教会は生きています。私も、チャドの地にいるとの意識はなく、声を立てて笑ったり、想ったり、嘆いたりで忙しさきわまりない日々を元気に…。
 正月は‥人々は祝日だから当然と‥強い酒がふるまわれて‥祝え書こべで、道路に寝込んでいる人ありで、ボン・ナンネ″ボン・ナンネ≠ニ楽しんで‥酒がこうして飲めるのは平和だからと元気ニコニコしている人も多く、碁に少し多く貴ったお金はすでになく‥貯えることを知らない人達です。明日の心配をし過ぎる私の方が間違っているのかな‥と、これからも、また、多くの問題にぶつかることと思いますが、新しい心で、皆様に支えられて、元気で日々を過したいと思っています。
一九九〇・一・三






『綿、上物は輸出、下物は輸入』

〜チャド〜
ショファイユの幼きイエズス修道会 有園順子
 ‥さて、私は。Sr脇山が日本管区長に任命されたため、二月末よりギダリに転任し、Sr内田、大湾の許に参りました‥ここでも‥村々の婦人たちの生活向上のために、尽力したいと思っています。
 ギダリはライと違い、綿花栽培が盛んで(す)‥戦前は綿工場もありましたが、現在は閉鎖され、職を失った村人たちの生活は苦しくなっています。他国と比べ、綿の収穫はすべて手でなされるため、一級品でも一キロが一〇〇Fならばまだよい方で、今年などは97F(四八円)、チャドは、これらを輸出し、チャド人のためには、下等品を輸入する状態です。ここで私達に要求されているのは、やはり、幼児教育で、父兄の手でレンガを作り、焼き、園舎を建てるという意気込み。しかしながら、屋根用のトタン、セメント、先生の養成費などの援助を求められています。
 三月には脳髄炎が流行し、Sr大湾の勤める診療所は超満員で、病人は木の下にゴザを敷いて休み、二頭立てでくる牛や牛車と同居のようなものでした。幸い、いくらか、村のためにワクチンを供給されましたが、死者が多く、死体を巻く白布は、ムンドゥでさえも見つからず、村人たちは、もう泣く元気もなく、直ちに葬るという有様でした。






『南米』






『育てた子が、今は先生に』

〜ブラジル〜
聖ドミニコ女子修道会 宮内永子
 ‥私の方では、今年、もう一人、先生を傭いました。末婿の母の子で、父親は日系だったとのこと‥五歳くらいの年から面倒をみていましたら、貧しいながらよい子に育ってくれました。今年は16歳、高校二年生で数学が好きなので、識字教育で数学を手伝いたいと申出てくれたので、はじめて、彼女が生長して、もう人に教えられることに気付き、タイプライターの先生としてやとうことに決め‥三月から授業をはじめました。彼女は先生として大変すぐれた才能を示し、とても喜んでいます。‥去年までは、日本語教室の他に、貧しい小さい子供達のための識字教育をしておりましたが、近くのドミニコ会 のブラジル人シスターが、志願者の若い人々とそれをすることになり、私たちは‥青少年と云われる、十一歳〜十六歳ぐらいの子を手伝うようになりました。とくに、十二〜十三歳は、働くにも働けず、遊び場もなく、道端で遊びながら悪いことしか覚えないので、今年はタイプと編物と絵を教えることになりましたが、人材の面で本当に試練に出会います。今年も絵の先生として大いに張り切って準備して下さっていたブラジル人のシスターが、一週間前に病気になり、どうしても出来なくなり‥困り果てておりました。
 ‥誰でも出来る仕事ではありません。前から親しくしていた近くの学校の前の校長先生に‥電話をかけてみましたら‥幸運なことに、絵の大好きな彼女が‥布に絵を向いて売り、貧しい子供の学資に出来るように指導を引き受けて下さいました。
 ‥日系については、私は沖縄の人々の共同体をお世話していますが、軒なみに日本に出かけていて、心配なこともいっぱいあります。






『中村長八神父五十回忌』

〜ブラジル〜
マリア会 長谷川一郎神父
 ‥私は中村長八神父様の命日三月十四日に、アルバレス・マシヤードの墓地と、師が住んでおられたグァイサラの教会でミサを捧げることが出来ました。‥午後四時、灼熱の太陽の下で、百余名の市民と市長を始め、町の主だった人々の前に立った時、改めて師の偉大さをこの身に感じました。‥夜は町から4キロ離れたグアイサラの教会では、日系人と現地の人々がすっかり溶けこみ、四旬節の兄弟愛運動の讃美歌を元気よく歌う若者たちの姿に接した時、「天に居られる中村神父様は、さぞ満足だろうな」という思いに駆られ、追悼ミサでの説教は、用意した原稿を機に、そのことを話しました。
 日伯司牧協会の目的は、日系人が現地の教会に溶けこむことであり、そのことが見事に実現していたからです。‥昨年から私が携わっている宣教は、まさに、師の後継者として、日本の教会、そしてマリア会から遭わされているのだと思うとき、改めて、私に与えられた分野の宣教について、考え直さなければならないという思いに駆られています。
 なお、中村長八記念館は、八月にアバレシーダ巡礼に来られる、日本教会の代表の方に落成式をお願いするつもりで、工事を進めております。しかし、今回の経済政策で、果して予定どおり工事が出来るか心配です。‥、ところで、いま、気になっていることは、日系人が続々と出稼ぎに日本に向っていることなのです。最近は、私の巡回粗からも日本行きが出て来ております。2つのケースとも、訪問先で突然知らされたので、カトリック手帳から、行先の教会と、そちら(支援する会)の住所と電話番号を教えることしか出来ませんでした。‥そちらでは、どのように対処なさっているのでしょうか。‥出来れば、次回の巡回の折、この問題を皆で考えてみたいと思っています。
 *中村長八神父は、ブラジルにおける日系人移民の八十余年の歴史の巾で、その開拓時代を共に生きた日本人最初の宣教師。






『生活苦から、パラグアイに帰郷する人』

〜パラグアイ〜
聖霊奉侍布教修道女会 林静子
 ‥私がこの冬、六年ぶりの休暇で‥帰りました時に‥寄付を頂き、‥二月二十三日に早速パラグアイのゼロンクスの会社を訪ねて、コピー故を見せて寛いました。‥シスター山田にお願いしてコピーを運んで頂き……今日(三月十九日)試運転をしてみましたが、よくうつります。‥歌の練習など‥テキストのコピー、幼推園でも使用出来ますので便利です。‥本当に皆様のご親切のおかげと、厚く感謝申し上げます。‥去年から今年にかけて、パラグアイからも、多くの日系人が出稼ぎに日本に帰って居ります。‥円が高いので‥円を稼ぎたいので‥日曜も祭日もなく、働いている人々も居ります。
 ‥パラグアイは‥今‥秋に入るところで、ボツボツ大豆の収穫が始まっております。錦も取り入れをしております。日系人が毎月、出稼ぎに日本に出て行き‥日系人の数は減っておりますが、反面、ブエノスアイレスに、労働者として移住しこいたパラグアイの人々が、政情、インフレのひどさで生活出来ないために、続々と故郷パラグアイに帰って来ております。‥国内での移動も多く、落着いておりません。前の政府が外国に土地を売ってしまって‥農業者が土地がなくて困っております。南米諸国は、どこの国も対外赤字とインフレに悩んでおり‥小学校にも貧しくて通学出来ない子供たちをみると、可哀想になります。

新しいコピー機の前でSr.林
新しいコピー機の前でSr.林






『小さな共同体で』

〜ペルー〜
天使の聖母宣教修道女会 井上優子
 ‥「きずな」ありがとうございます。‥各国に散らばる兄弟たちのニュースは、また、私の宣教への励みとなります。治安が悪く‥ペルーは‥一般市民の生活が不安です。‥エスキベールという所に参りました。小さな共同体、四名の姉妹です。二人はカナダ人、一人はペルー人、日本人の私、このエスキベールには、沢山の日系人が住んでおります。‥大統領選挙前後、危険を避け外出いたしませんので、様子をみたあと、家庭訪問を始めます。






『中米』






『デモと封鎖の中、無事帰る』

〜ハイチ〜
クリスト・ロア宣教修道女会 須藤昭子
 ‥ハイチでは三月十二日に‥軍事政権べり倒れ‥臨時政府が出来て、民主的な、はじめての女性大統領(臨隼)が生れました。一九八六年にデュバリュ政権が倒れて以来、四年∴同緩いた不安定な状態は、まだまだ続きそうです。けれども希望の光がかすかながら見えはじめた感じがします。先週末曜日でした。払はいつものように一人で自動車を運転して、ポートプランス(首都)に買物に出かけました。
 その帰り道、不法に殺された人々の間で、街の人が裁判を訴え、道の路を塞いでしまいました。遠回りをして帰らなければなりませんでしたが、その途中で会った人々が「シスター、神さまがあなたを守って、共に居て下さいますように!!」と叫んだり、両手に石を持って反抗していた若者が「シスター、あなたは通っていいですよ」と道をあけてくれたりして、大変な中にも嬉しい気持でした。
 もちろん、無事に着いた時、案じていたシスターたちは吃驚しました。ラジオなどで、危険が報道され、私が帰って楽ないと思っていたからです。何も知らないでいた私は、本当に神さまが共に居て下さったことが、あとで分った次第です。






『山の傾斜地も畑に』

〜ハイチ〜
無原罪聖母宣教女会 本郷幸子
 ‥灰の水曜日を迎えた昨夜から今日、同じ付かしらと思うような静かさです。素朴なカーニバル、草木の枝を折って頭にのせて、タンブーに合わせて踊っていた若者たち。三日間も学校が休み、ゾロゾロとついて歩いている子供たち、例年にない祭り気分が盛り上っていました。喜びを表わすのが祭でしょうが、飲んだり、たべたりしない祭、本当の喜びが表われているようでした。
 雨期に入ったハイチは、雨の合間をみてモロコシの種をまき、自給の努力をしています。畑はやせているので、収穫も限りがあります。誰でも、食物の足しになるように、空いている土地利用ができればよいのですが、石ころが多く、雨が降るたびに、新しい石が生れています。移民とか開墾の苦労が分るようです。
 フレールのご厚意で、山の傾斜を、午後の学校の子供たちの農業の訓練に使わせて頂き、私も子供達と畑の仕事を始めました。
 一回ぐらいしか食事をとっていないこの子たちが、日中の暑さと力仕事で消耗するエネルギ1を考えながら、無理をさせないように働いております。‥耕作機があれば‥合理化への欲求を払いのけながら、草取り、石をよけたりしながら、三カ月後のモロコシの収穫を待っております。
90・3・1   






『アジア』






『車が買えた!!』

〜ポナペ・ポンペイ〜
援助マリア修道会
 ‥曇天のむし暑さとは裏腹に、私たちは喜びと感謝で、心は晴れ晴れです。と申しますのは、待ちに待った車を、やっと帝人できました。日本からの援助で、ポンペイ中に電気柱(ポンペイの人はそう云います。電柱のこと)が立ちました。ランプ生活の村人には、文字どおり明るいニュースになりそうです。真にそうなるには‥気が遠くなる程、待たなければならないでしょう。現在、六〇〇〇V必要な電気使用量に対して、三〇〇〇Vの量しかなく、その上の電柱ですから(停電は日常茶飯事なのです)‥その仕事に来られた、日本の会社が、仕事が終って、使用した車や機械など、一般に売りに出され、たまたま私共がトラックを購入出来ました。
 真赤な車です。‥工事に使ったものなので傷みもひどく、自分たちでペンキを塗りかえたり、あちこちの修理のため、部品購入に奔走しておりますが、車購入については一段落です。
 本当に有難うございました。








『机、椅子なし教室の識字教育』

〜フィリピン〜
ベリス・メルセス宣教修道女会 吉屋孝子
 ‥私の新しい任地、マリガヤ村―マニラ空港から車で二時間ばかりのところに私共の修道院があり、この近く、ジプニーで十分ぐらいのところにあります。サンボアンガ‥と同じように、ここでも家を建て、自給自足が可能な方法をとり〜豚、牛、鶏、野菜、花―共同体を手伝っています。今建築中のコンクリートの家に引越すのは二月‥しかし家屋は十分でなく、第一回の工事で四十家族可能で、あとは次の資金を持っての工事となります。私の担当‥は、子供たちへの識字教育です。幼児、三歳〜小学生から高学年に該当する年令の子供達がやって来ます。‥(教室は)もちろん机も椅子もありません。書く時は地べたに紙を置いて書くわけです。‥朝は九時に授業を始めるのですが、子供達それぞれは朝の水汲みの仕事があって‥シスターあとで行きます‥とにこやかに応答してくれます。共同のポンプは二カ所で五百家族がこの周りに住んでいます。






『麻衣ちゃんへの手紙』

〜韓国〜
聖霊奉侍布教修道女会 佐藤志つ枝
 さまざまな様子を学ぶでしょう。イエスリは、私たち一人一人に、何をしてほしいとおっしヤるのでしうう一dU近くにいる友達と仲よくして、そして、遠くにいる人々、私た一「の兄弟がどんなふうに生きているかなって、思いやりが出来たら、すばらしいと思います。
 一月二十一日

同 斉藤武美
 麻衣ちゃんお元気ですか。今、東京は寒いです。ソウルは大寒になったとたんに、日中でもマイナス5度、8度の気温でとても寒いのです。しかし、日本より雨が少ない所ですから、雪もあまり降らず、青空に陽が照って、家の中から外をみてみると、そんなに寒いとは信じられないのです。
 韓国の人々の昔からの知慮で、床の下から温かくなるオンドル暖房のおかげで、寒さ知らずにいることが出来ます。
 私は、麻衣ちゃんが、どうして私の任所と名前を見つけ、クリスマスカードを送って下さったのかわからず、びっくりしました。
 ありがとうございました。今、ようやく返事を書いているわけは、私はようやく、きのう六カ月の長い旅行からソウルに戻ったばかりだからです。シスターの集まりで、フィリピンに寄って、ローマに居ました。そして、修道院がはじまった歴史がある、オランダ、ドイツに行き、日本に捕ってからここに果たのです。
 あちこちに行き、いろいろな人と会いましたいだんだん生活が苦しくなっていくフィリピンの人々、そして、金持のヨーロッパと日本。みんなが本当に考えた助けあいをしなければいけないのにと、悲しく思いました。麻衣ちゃんも、テレビや本を通して、世界の、田川麻衣さま、神様のゆたかなお恵みジつちにクリスマスをお迎えのことでしょう。とてもきれいな字と文章のカードをくださって感心しています。学校ではきっと熱心な牛し徒さんでしょうね。
 おうちでも教会でも、もちろん熱心だdこ思います。‥押さまの愛、せいれいにみたされますように。





『〜フィリピン〜』

カトリック信徒宣教者会 斉藤トモ子
 マイちゃん、こんにちは。クリスマスカードありがとう。
 私に送られて来た、どのカードより、うれしかった。どこで私の名前と住所を知ったの〜。私は、フィリピンイロイロ市というところのスラム、貧しい人ばかりが住んでいる所で生活してます。
 この国は80%がカトリック信者です。私の生活しているスラムもほとんどの人が信者で、そして、一つのコミュニティができたのです。その中の小さな、小さな診療所で、看護婦として働いています。コミュニティセンターには、一つの家族が住んでいて、私もその人達と生活しています。その家族の長男が、ちょうど小学5年生で、マイちゃんと同じ年ですね。考えられないと思うけど、おフロはなく、バケツに水道の水をため、そこでからだを洗うのです。
ベッドはあるのだけど、7トンはありません。‥日本人にはとても考えられないことです。でも、この生活は、フィリピンの貧しい人たちにとっては、普通のことです。水道も電気も、トイレさえない家も、たくさんあります。エスペランザという私の生活しているスラムは、低い土地で、三六五日、つまり一年中ドプのような汚ない水があり、その上に竹とトタンと木とダンボール、布などでできている家があるのです。‥ここの人たちは、みな神様の子供です。明るくて、とてもいい人達ばかりです。私は、日本では、神様に出会ったと思った事はなかったけど、この国で、貧しい人達の中で、イエズス様がいるなあっと感じてるのです。