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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES





『アジア』






『無惨な母子のきず〜ゲリラ地帯の実態調査〜』

〜フィリピン〜
聖母訪問会 遠藤マツエ
 イサベラというと、誰でも「あ〜NPAのところ。ゲリラのすみか」と怖がります。このイザベラに来て通年以上たちました。今年のはじめ停戦条約が切れてから…ゲリラと軍隊の衝突が続き、その度に多くの農夫…女・子供たちがその巻き添えになっています。
 …10月に入って、人権擁護委員会の主催で実態調査団が組まれました。…この調査団は総勢盛名(教会、報道、医療関係者ら)、名目は医療奉仕団ということでしたが、実際に医療に携わる人は女医一人、助産婦、そして私(看護婦)の三人だけでした。幾重にも包囲された軍のチェックポイントを、くぐり抜けていかねばなりません。
 出発前夜のオリエンテーションを受けながら、生きて帰れないのではないかと思いました。早朝、ジプニーに乗った一団はハイウエーを突走ること一時間。最後の町でジープを捨て…ガタガタの木材専用トラックに乗りかえ、無蓋事、開いなしのトラックにお米のザックや救援の晶を載せ…デコポコ道を疾走すること数時間…次々と軍のチェックポイントに会い…やっと一つの村に着いた時…道端で遊んでいた二、三人の子供たちが、.大声で泣きながら散って行きました。軍隊が来た=c軍隊の掃討を受けた村人たちは恐怖に脅えた日々を送っていたのでしょう。家を焼かれ、家族をとられ…銃で傷ついた人々の傷口は大きくたゞれ…見るも無惨なものでした。
 一人の母子は、銃弾が母親の右胸から抱いていた赤ちゃんの唇を通り抜けていったとのこと。二人の傷口のむごさに顔をそむけてしまいました。…戦争体験のない私ですが、これはまさに野戦病院だと思いました。






『31人中、6人が小児結核』

〜フィリピン〜
聖母訪問会 小田美恵子
 …あのアキノ政権が生れた革命と同じ月(一九八六年二月)に始まったギバン保育園は、二回卒園生を送り出し、現在は午前芸名、午後7名の子供を保育しています。…5月に教区司祭の異動があり、シスターたち(私も)は他の家に引越し…さて、保育園はどうなるのだろうか〜一時は路頭に迷いかけましたが、プルガナン司教様が修道院の横に保育園を主目的とした建物を建てて下さることになり、…8月の半ばにコンクリート造の園舎が完成しました。
 …保育園では10月2日に教区のクリニックで身体検査を実施しました。驚いたことに、31人中6人が小児結核と診断されました。…貧血気味の子どもも数人居ました。一〇〇%の子供のお腹に寄生虫がいます。…10月、11月にギバン村では、3人の子供が亡くなりました。…皆ハシカでした。…その前日には、貧しさ故に9歳の娘を親切な家に預けることになった母親と一緒に泣きました。






『貧しい母たちの大遠足!!』

〜フィリピン〜
聖母訪問会 諏訪清子
 …三度の食事も事欠く人々の、どん底の生活が少しでも向上するようにとはじめたギバン・ソーインググループも8年日を迎えています。…日本の皆様の大きな支えと励ましのおかげで、今年も小さな歩みをつづけて来ました。今年のプロジェクトとして、懸案であった奨学金制度が、このグループによって始まったことは、メンバーの一人々々にとっても嬉しいことでした。今年、高校に入る7人がメンバーの子供の中から選ばれて入学しました。……緊急貸し出し金の制度も、少しずつ広げられていくようになり、急病や薬の購入などの時、このグループのお金を借りることが出来るようになり、大きな助けとなっています。…何といっても、今年のハイライトは、10月に行った遠足でした。…貸切バス、同伴者一切なし。一時間半のバス旅行、フライドチキン、スパゲッティ、アドポ(フィリピンの代表的肉料理)のメニューなど、ギバン村から一歩も出たことのないようなお母さん達にとって、夢のような一日でした。…貧困の中で、その日暮しの村の婦人たちにとって、一日の遠足は、想像に余るビッグニュースでした。…バスの中でけ小学生のようにはしゃいだり…帰途に小さな町で立ち寄ったアイスクリームのお店でチョコレートアイスクリームを頂いた時は最高潮。…「今までの人生で一番楽しかった」「うれしかった」の興菅収まらぬ二、三日でした。






『中米』






『新生児の生死のはぎまで』

〜ハイチ〜
無原罪聖母宣教女会 本郷幸子
 …日本の新聞でも報道されたと思いますが、十一月二十九日予定された大統領選は中止…首都ポートプレンスを中心にハイチはゆれています。…私の仕事の紹介をいたしますと…(首都から二百km離れたレンべ町(人口一五、〇〇〇人)にある私設の医療施設聖ヨハネ病院の薬局で働いています。産院・小児病室・オプセルバション合せてベッド35台、検査室(マラリア・血液・尿・細菌・虫)レントゲン室を備え3名の医師が診療に当っています。毎朝早くから、二五〇名位の病人が診療を待っています。薬局といっても薬を調合するのではなく、患者を待たさずに薬を渡せるよう準備したり、補給したり、在庫が少なくなると首都まで注文に行ったりします。……薬は殆ど輸入品で、船が着かないと晶切です。…この国は教育も急務ですが生きる”手助けが、やはり優先します。生活知識の不足、衛生環境の不備、水の問題から起きる病気が多く、産院で新しい生命の誕生を喜ぶ傍ら、小児病董で新生児の破傷風、チブス、マラリア…などで毎日のように幼い生命が息を引きとっている矛盾の中で、過しております。…読み書きが出来ない人の率釦%。カトリック教会は識字教育に力を入れて、子供たちは修院と同数地内にある教区の学校の放課後の教室で、読み、書き、生活の実践などを受けています。…小さい女の子(小4ぐらい)が働き口を頼むのにはびっく刷りしました。まさにおしん≠サれ以上でしょう。自分で食べ口をみつけなければ、空腹は満たされないからです。






『南米』






『都会の少年ギャングたち』

〜ブラジル〜
聖心会 平尾道子
 …当地、政情、経済事情共にますます難しくなっておりますが、無事に過しておりますので、御安心下さいませ。学校は今、学年末に入り、忙しくなりました。…来年は職業教育とのつながりを持たせた、課外の部活動や、地域の人々の…教育活動も企画しており(ます)…先日、私共の教区のミサで、再びアヤクチヨからいなくなった家族を探して、陳情に下りて来た人々に紹介されました。
 アヤクチョはセンデロ、ルミノンの始まった所で、テロリスタ、警察軍双方からの犠牲者が多く、孤児の多い所ですが、近所の人の所にひきとられている15才の女の子も、目の前で両親、兄弟が殺され、学校で突然襲った一団によって生徒が殺され「言うことを聞かないと、こうなるんだ」と叫ぶのを日の前にした経験があり、心に深い傷を負っているということです。(12月)






『目の前で、両親、兄弟が殺され学校で生徒が』

〜ペルー〜
淳心会 V・マルゴツト神父
 …全国でインフレがすごく上って、貧しさと飢えが増えて、暴力も増える一方です…捨てられた子供達がとても多くなって、全国で七百万人になってしまったことです。どこでも施設が満月以上で、もう少年犯罪のケースだけしか受けないので、都会のコンクリートジャングルで、彼らはギャングになって、とくに夜中は危ないです。
 ブラジルでは毎(日)五分ごとに七人の子供が飢えのため死んでいます。未成年の売春を調べたところ、アマゾンのベレンの町だけですが、十二才から十四才までで三万人以上です。
 皆様のお蔭でアモレイラは十年前とくらべて変りました。託児所、幼稚園、基礎教育学校、社会センター、老人の町、無宿者の宿屋などが出来て、アモレイラで、もう飢えのために死ぬ子供は一人もいません。






『五分ごとに7人の子が死ぬ』

〜ペルー〜
マリアの宣教者フランシスコ修道会 佐藤和子
 …ブラジルでは…今年のテーマは「未成年」。ブラジルには、二千六百万人からの貧しい子供達が、貧困の中に生きています。見捨てられた子供は七百万余り、五分ごとに七人の子供が飢えで死んでいきます。…今年はとくに、物価凍結が解かれてから、毎日の物価上昇。目の前に、日常必要なパン、乳児に必要なミルクがあっても、貧しい人達には手が出ない状態で、それらの悪循環から犯罪がますます増えて、一般市民の生活をおびやかして居ります。
 その反面、この十日から夜店が開かれ、美しく飾られた町の大通のイルミネーションが、夜空に美しく輝き、人々の日を引いています。先日、訪ねて行った一人の貧しい家の人と話していた時、色々の祝日が迫った時、美しい店とイルミネーションを見て「自分にとって、それは悲しさ、淋しさを感じる。何故なら、子供に、家の者にしてやれない惨めさをもっとも感じる時だから…」の言葉が胸にひびいています。……今の私達に何が出来るのかと考えさせられました。そして、具体的に何かしなければ…もっと…もっとというあせりも。…今年は気候も不順で、37度〜適度の暑さかと思うと、肌寒い朝晩だったりで、病気の方、弱い方々には勿論、私どもにも調節をとるのが難しいこの頃です。






『アフリカ』






『豊作だが…豊かさはない』

〜チャド〜
ショファイユの幼きイエズス修道会 有園順子
 …二カ月前まで、青々としていた修道院の河原の雑草も、白くなり、川の水も少なくなって、気温も早朝で16度、日中は34度という昨今です。…あの大飢饉から2年、幸い、豊作に恵まれましたけれど、人々の生活は決して豊かなものではありません。お腹が空いたとか、病院に行くためにお金がない、着物が破れて……と修院を訪れる人は絶えません。…現在、ムンドラに来ております。あと一週間もしないうちに、さらに三名の日本人のシスターを迎え、二、三支部に分れることになりましょう。(12・17)






『部落全体が洗礼志望』

〜プルキナ・ファソ〜
レデンプトール会 G・プドロー神父
 …11月14日にアフリカでの仕事も2年日を迎えました。…仕事の面では、この夏には、2日間の黙想会を5回、6日間の黙想会を2回、10日間の黙想会を1回指導しました。…また、レデンプトール会入会志願者に面接するために、片道千キロの道とはいえない穴ぼこ道を、車で何回も往復したりしました。…ここの教区では…求道者は二千人以上…洗礼を受けたい人は数えきれないほどで、中には、部落全体で望んでいるところもあるそうです。
 …こちらには、司祭への召命を感じている青年は多勢いますが、家庭の事情や経済面で実現させるには多くの困難があります。
 …この秋、志願院が落成し、3人の志願者を受け入れて、本格的な養成をはじめるはずでしたが、10月15日に、この国に起ったクーデターのため、国境が一時閉鎖されるなど、いろいろな事情で…まだ、一人しか来ていません。








『難しい、国外への払出し』

〜ウガンダ〜
聖パウロ女子修道会 鈴木寛子
 …はじめてお便りします。…どのミッション地でも同じだと存じますが、ここでも国外への払出しの点で困難です。私たちの使徒職は本を必要としますので、ウガンダで本を印刷しますと、紙の輸入などの点で価格は高くなりますし、時間もかかり、その上、あまり美しいものが出来ませんので、少しはウガンダで出版しますが、ケニアの女子パウロ会でパンフレット程度のものを印刷し、あとはイタリーで印刷(パウロ会)して葺います。その他、インド、イギリス、アメリカのパウロ会 から、英語の本は送ってもらいます。
 …人々は貧しく、ウガンダのお金の価値が低いので、価格を安くしないと、人々が買えませんので、私たちはバンクレートより安くしております。…(こちらでは)平常の月は、日本のお金で二万〜二万五千円位で足ります。私たちの所に毎週来られるのは、カンパラ市でも、ごく一部分の人で、地方に行けば、終ることのない部族間の争いで森に逃げ、耕作も出来ず、飢える人々が何千人もおります。
 …カンパラ市内こそ、今のところ何事もありませんが、経済的な状態は、昨年よりは、より困難な状態です。安全性と云えば、以前は町から町への交通は…部族と部族…地方の町には発つものグループのゲリラがいて、通行は難しく、安全性もありません。

インド人襲撃の最中、任地に赴く、インドミッションのパルタサール、ドレ両神父
インド人襲撃の最中、任地に赴く、インドミッションのパルタサール、ドレ両神父






『私達自身のものは何もない』

〜マダガスカル〜
マリアの御心会 本間良子
 今年…お送りいただいた日本庭園のカレンダー…一月、一月めくっていったカレンダーには、余白に、その時々の出来事や予定、想いが…記されています。…今日はカレンダーの余白の出来事を…お知らせしましょう。…三月のカレンダーの余白には、インドの聖人、無原罪の聖母のカルメル会創立者KURIAKOSの御絵と、その会からマダガスカルにミッションとして派遣された、三人の神父様の御名前か記されました。折からマダガスカルの各地方都市で…インド、パキスタン人への襲撃が頻発し、緊張した雰囲気…でした。…任地に出発するという前日に、昼食にお招きしました。「ちょうど大変な時に着きました。でもかえって、キリストの愛を証しするよう招かれた一番適した時です。おそれてはいけません」と、深い、静かな、そして、光るあのインドの人特有の日で、決心を現わしておられました。…七月にはマジャンガの各地にいらっしゃることになった、若い三人組のインドからのミッショナリーと教区の名が、カレンダーに記されました。ジョージ神父はマンズシューザ、一年のうち六カ月から八カ月は、陸路(の)交通不能となる山の中の教会 です。
トレ神父はマジャンガから一〇〇キロメートルほど南東に行ったマルヴァイの教会。といっても一つの教会の司祭でなく、その周囲二百KMに散在する巡回教会二十四カ所を受け持っています。回るには自動車か丸木舟か徒歩かです。…「マルヴアイ」というのは「ワニの多くいる所」という意味で、実際、大きな沼から生捕りされたワ:が三匹、教会の敷地の囲いのある所に横たわっていました。
 …バルクザール神父様は、内陸のマンディサーラ教会に派遣されました。…バルクザール神父様は、内容のマンディサーラ教会に派遣されました。この司祭も三十カ所の巡回教会を、もう一人のフランス人の司祭と受け持つことになったのです。自動車か牛革で通じる教会は四カ所、あとは、山地をひたすら徒歩で行くのだそうです。
 どうしてそんな僻地に教会があるのか…信徒になった人達が飢饉や災害で生れ育った土地に住めなくなって移住した時に、定着した土地に自ら教会堂を建て、司祭に来てくれるように願い出る…そういうふうにして出来た教会が、この地方には多い…ということです。
 ちょうど先週のことでした。パルタザール神父様が突然、タナナリープにいらっしゃいました。…アミーバーで動けなくなった同僚のフランス人の神父様をかついで、病院まで運ばれたのだそうです。
 看病するバルクザール神父様も、やせ細っていらっしゃいました。
 今週はじめバルクザール神父様は「いつまでも教会を不在に出来ない」と帰ってゆかれました。帰られるにあたって…薬や…ビタミン剤等を無理やり持って行って頂きましたが、その時、うっかり「せめて、ご自分のためだけにも」と云ったら「私たちのミッションの地では、自分のものは何もない。村の人達の整えてくれる宿で、ベッドで、食事で生活し、私達は神の御言葉を告げ、恵みの秘蹟の司祭となるように働くだけです」と静かに応えられ、胸の締めつけられる思いがしました。






『給食に、毒蛇もやって来る?』

〜シエラレオーネ〜
御聖体の宣教クララ修道会 根岸美智子
 …シエラレオーネは11月2日よりエマージェンシィ・ステイト”を宣言し、取締がとても厳しく、いまだに緊張状態が続いております。しかし、貧しい、苦しい中にも、今年は宿しいことがありました。畑月より始まった小学校の給食です。お腹をすかせ、目をトロリとした生徒の目が輝やき…家に帰っても親の手伝いをする…父兄からも深い感謝が寄せられています。
 喜ぶ小学生の給食に、自分も頂きましょうと思ってか、蛇君もやって来て、皆をびっくりさせました。七年生の教室の屋根の隅に黒いものが垂れ下り、ゆったり動いているのを生徒がみつけ…パニック状態にさせました…長さ二メートルもあるマンハという、猛毒の蛇でした。






『ハシカ追放キャンペーンを』

〜シエラレオーネ〜
御聖体の宣教クララ修道会 鶴田順子
 …こちらの様子は…日々、経済的にもいろいろな面で、苦しくなって来ています。今年の二月、三月、六月まで、ハシカの大流行で、たくさんの子供達が亡くなりました。栄養状態が悪いためハシカへの抵抗力がないのです。一九八八年の同じ二月から六月にかけて、なんとかハシカの流行と死亡率を減少させるため、母親、成人のクラスと、ハシカのワクチンのキャンペーンをはじめつつあります。
 毎日、痩せ細った乳幼児を見るのは辛いことです。こちらの習慣も関係して、乳幼児の食生活はとても粗末で、卵、肉、魚など蛋白質性の食品は、大人の男性が殆ど摂取し、残りが子供たちへ回って来ます。毎日、声を枯らして二人のシエラレオーネ人のスタッフと指導に当っていますが、まだまだ目標までとても遠いです
(12・25 1・1)