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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES






『与えるしあわせを』

日本カトリック移住協議会理事長・那覇司教 石神忠真郎
 海外宣教者を支援する会の皆さん。
 いつもながら、皆さまのご協力に深く感謝しております。
 そして、今年こそは「支援する会」も本格的に活動を開始するものと期待を大きくしております。
 さて、昨年暮のクリスマスに、一つのクイズを考案致しました。
 「クリスマスとかけてプレゼントと解く。その心は…?」(正解は文末に……編集部註)お正月はともかく、クリスマスと申しましても、まだ日本の家庭ではヨーロッパなどのように、家族揃ったお祝いの風景は見られません。しかし教会では申すまでもなく、学校や一般社会でも、よくクリスマスパーティが持たれ、サンタクロースのおじさんからプレゼントを頂き、あるいはプレゼント交換などして喜びを分ちあう光景が見られるようになりました。今ではクリスマスとプレゼントはたやすく連想できるようです。
 よく考えてみますと、クリスマスは、正に、神様が私たち人類に「救い主」をプレゼントなさったことを祝い、喜び、感謝する日に他なりません。
おん独り子を私たちにプレゼントなさる程の神の愛に、私たちは、どんなに感謝しても感謝しきれないものがあります。この感謝の気持を具体的に態度で現わすために、愛の使徒ヨハネの次の教えが、一層身に泌みて感じられます。
 「愛する皆さん、神がこのように私たちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合わなければなりません。目に見える兄弟を愛さない人は、目に見えない神を愛することはできません。」(ヨハネ第一の手紙・四―11、20)
 ところで、海外宣教者を支援する会の皆さんが志していることは、この兄弟愛を実践することではないでしょうか。遠くにいるため、とかく忘れがちな海外宣教者たちのため、そして、彼らを通じて見ず知らずの霊的兄弟姉妹のため祈り、交信して励ましてあげたり、さらに献金をしたり、させたりすることですもの、これらは皆、「受けるより与える方が幸いである」(使徒行録二〇〜35)とのみ言葉が真実であることを知らせてくれます。しかし、これらが持てる者の「施した」という自己満足だけであってはならないのです。マザーテレサがよく言われるように「いたみのあるほどこし」であってはじめて霊的価値も高くなるのです。その時こそ「与える幸せ」は本物となるでしょう。海外宣教者を支援する多くの友の上にこのような「しあわせ」が豊かにありますよう念願しております。
 (クイズの答―「感謝と喜び」です))






『御托身の玄義を今に生きる姿』

横浜司教 濱尾文郎



 今から三年前、ヨーロッパに出向く機会を利用して、横浜教区の静岡県で働いているパリー外国宣教会と、山梨県のミラノ宣教会の宣教師の方々の八家族を訪問しました。また、昨年、カナダ、北米とコロンビアを訪問、教区内で働いているケベック宣教会、キリスト教教育修士会、レデンプトール会、ケベック・カリタス会、クリスト・ロア会の家族及び本部を訪れ、北米ではアトンメント会男女修道会、アウグスチノ会、マリア会、そして南米コロンビアでは、長野県東部で働いているフランシスコ会の宣教師の家族、およそ、三十家族を訪れました。一九八〇年、横浜教区長に任命された時、前任者の荒井司教様から「司教が外国に赴く撥会があれば、宣教師の家族や本部を訪れ、お礼を言ってくるのが大切な仕事です」と云われ、ほんの一部の宣教師の家族方ですが訪問し、日本の教会の司教として感謝する機会に恵まれました。
 この訪問を通して感じたことは、日本に来られ働いている宣教師だけが宣教師でなく、特に御両親、そして兄弟姉妹の方々が皆、宣教師魂を持っておられるということ、そして、その家族を生み出した共同体である、そこの教会自体が開かれた共同体であり、世界の人々の救いに目を向けておられるという事実を体験しました。
 「私の息子は宣教師として、ちゃんと働いていますか」と云う質問は、父親か母親の口を通して云われる最初の質問でした。
 また、宣教師を兄に、弟に、伯父に持つ身内の方々は「神父様は私の教区で本当によく働いて下さってます」と云う時「そうでしょう。彼は本当によい司祭だから」と目を輝かせ、誇りに満ちた答が返って来ます。家族全員にとって、一人の宣教師を身内に持つことは大きな喜びであり、誇りであり、また信仰の支えとなっていると思えました。
 昨年の夏、コロンビアの後、西印度諸島のハイチを訪れ、クリスト・ロアの日本人シスターが、ポールトオプランスで働いておられる所も訪れました。
食べるものも、住いも、職もなく病に倒れる人々を親身になって世話しているシスターたちでした。北の端にあるキャップハイチェンにはカナダ人、ベトナム人のシスターと一緒に祈りに専念している日本人のレデンプトリスチンのシスターらが居ます。
 世界から、とくに日本から贈られる寄付で家のない人々を助け、自分たちの生活を切りつめても、祈りと、困っている人々に手を差し伸べているこれらの邦人シスター方の姿に頭の下がる思いがします。宣教師はカトリックの国から非キリスト教国に宣教に出かけるという姿から、相互に助け合って行く姿に変りつつあります。
 自分の国、家族、習慣を捨て、全身全霊で相手の国の人々の兄弟姉妹となっていこうとする努力は、正に、神の御独り子が神の座から下り、人間の世界に入って来て下さった御托身の玄義を、今も生き続ける姿です。キリスト者なるが故に、民族、国籍を越えて誰とでも交流出来るという生き様こそ、「神の国」のよき証しとなり、よき目に見える徴となるに違いありません。






『聖フランシスコ・ザビエルの生地を訪ねて』

会長 服部比左治
 私は一九七一年四月二十日、スペイン東北部に所在する聖フランシスコ・ザビエルの生地を訪問し、同地の女子修道院の寮に一泊(拙妻及び二女を同伴)翌日は、ザビエル城の管理者であるイエズス会のレコンド神父の案内で、詳しい説明を聞きながら城内を見学した。居城の近くにあるイエズス会修道院で午餐を頂いた後、同修道院提供の車で、首都マドリッドまで送ってもらった。駐バチカン日本国大使として丁重な歓待を受けたことは、心から感銘したが、構内にそそり立つ等身大の聖フランシスコ・ザビエルの銅像を見上げて深い感慨に耽ったことを、今でもはっきり思い出すのである。
同聖人こそ「海外宣教」の一大先駆者であり、我が国民の精神的大恩人の一人である。同聖人の日本上陸以来、四百年の長年月を経ているにもかかわらず、わが国は、いまだに布教地とされており、幾多の外国人聖職者が日本に派遣されて、尊い宣教の使命に挺身しておられ、わが国土を第二の故郷として、骨を埋めておられる。
 過去二千年に亘り、日本人の精神的風土を培って来た神道・仏教・儒教等の価値観を、旧約思想として包容しつつ、カトリシズムの教義をじっくりと日本人の心に植えつけるよう努力することは、日本人聖職者のみならず、私共信徒の重大なる責任である。
 布教地であるわが国からも、日本人聖職者が海外に派遣されて、尊い宣教の使命に精進されるケースがふえて来たが、これは時代の趨勢として当然発生する現象であろう。この地球は歳々、人類にとって益々小さくなりつつあり、全人類が打って一丸とする神の国の実現は、ザビエルの時代よりも容易になって来ている筈である。
 海外宣教に挺身している日本人聖職者に対して、我々日本人が精神的及び物質的に支援を続けてゆくことは、聖フランシスコ・ザビエルより受けた大恩に対して謙虚に報いる一つの途であると私は思うのである。






『初仕事は、パラグアイ邦人移住者の検死』

聖母病院産婦人科 大森茂
 昭和30年頃、まだ戦後の混乱と不況の時期に、炭坑の閉鎖等による多数の失業者を、政府の援助で各移住地に300家族以上の移住者を送り出しました。私が赴任した時は未だ入植僅か3年目の開拓途上にあり、日本では考えられない原始林と闘い、熱帯と云う悪条件の下で、風土病や大怪我、貧困等に悩まされ、人の心も荒み、移住者同士の喧嘩、殺人事件も屡々でした。前任の医師は赴任後間もなく交通事故のため亡くなり、言わば無医村の状態にあり移住事業団の要請で急ぎ羽田を立ったのですが、当時はまだ乗客の殆んどが外人客で、言葉の分らない南米に不安と恐怖をいだきながら、心細い思いで何とかパラグアイに辿り着きました。途中アメリカ、ブラジルパラグアイと入国手続の度に宗教を問われ、日頃無信仰であった私共は些か戸惑いましたが、赴いた先の南米のすべての国がまたカトリック信仰国でした。この時から私共とカトリックの関わりが生れたと云ってよいでしょう。赴任して最初の仕事が、使用人に殺された邦人移住者の検死でした。その後3年間はあらゆる病人の診療に没頭しました。邦人のみでなく周辺のドイツ人移住地からも多数の患者がおしかけました。若かったとはいえ、自分ながらよく働いたと思いますが、ここにもう一人献身的に移住者の世話をしていた神父がおりました。ホアキンと云うドイツ系の流暢な日本語を話す神父でしたが、彼の、正に国境を越えた愛に心を打たれました。
 昭和41年帰国後、聖母病院に勤務しておりますが、途中、昭和46年から2年間、再びボリビア国のサンファンなど沖縄移住地に赴きました。沖縄移住地に着いて最初の仕事がやはり殺人事件でした。病院のすぐ前に教会があり、カリタス会のシスター方が宣教の仕事に励んでおられました。サンファン移住地にはセンターに鳥居のある日本的な教会があり、ここにも日本語の上手なフェルナンデス神父とメルセス会のシスター方が献身的に移住者の面倒を見、又、学校の教育に携わっておりました。
 私の赴任中に丁度浜尾司教様が訪ずれ、コロニア挙げての大歓迎会を催しました。司教ミサを挙げ、病院の患者を見舞って下さいましたが、何より忘れられないのは司教の歌った、あの響きのあるオペラ歌手顔負けの「夜明けの唄」でした。






『きずなのシンボル・マーク』

事務局長 梶川宏
 「きずな」のシンボル・マーク…「えにし」とか「縁」とか云うと運命的、受動的な人間関係を感じますが「きずな」と云うと、もっと人間同士の歩み寄りによる積極的、能動的なものに考えてもよいのではないでしょうか。
 宣教者は、人々との受身の関係の中に生きるのではなく、自国から出て、他の人々と手を取り合って生きることにあり、私たちが、宣教者を通して、他の国の人々と衝極的にかかわり合うことができるようにしてくれる人ではないかと思います。
 シンボル・マークには、三つの手がガッチリと結び合わされています。一本は黄色い手、一本は黒い手、一本は白い手です。
 それは全世界の人種を表わし、丸い地球の上で、すべての人々が手を取り合って生きて行くことを願っています。
 「手」というものは、その人自身や意志を表わし「手をさしのべたり」「手を振ったり」「手をたたいたり」「じっと手を見たり」します。この手が結び合わされることは、人の心と心の結びつきを表わしていると思います。それも単純な握手ではなく、三本の腕が交差しているのは、人種差別や人権無視のある世界の中での心の交わりを表現したいと思いました。
「宣教者を支援する」ということは、決して、日本人宣教師を助けるということだけではなく、私たち日本人が、宣教者を通して、世界の人々とのきずな”を作り、日本人であると同時に、世界の人となることを目指しています。
 このシンボル・マークの一本の腕は、わたしのものでもあると云えましょう。






『海外宣教地へ援助、約五十四万円を』

 海外宣教者を支援する会では、去る二月八日の会議で、海外宣教地への援助については、今後、司祭など数人の援助請願を審査する小委員会の設置によって対応することを決め、事務局長の梶川宏師に人選、審査基準の決定などを一任することになった。
なお、昭和57年度の援助対象は次の通り。
 ブラジル―祈り本四四、000円、ブラジル―折り本、聖書、謄写版セット、新刊書など八六、000円、ブラジル―補聴器、くすり類他四〇、000円、ボリビア―二五〇、000円、アルゼンチン―聖書一四、五〇〇円、アフリカ―一一〇、000円。
計五三九、一〇〇円。






『第一回バザー、成功』

 去る一月三十一日(日)支援する会”会員有志が、会員の樋口百合子さん方で開いたホームバザーは第1回としては大成功とも云える賑わいで、皆さんのご協力によって、純益二〇二、五五〇円を支援の資金として会に寄付いたしました。ありがとうございました。