『ザ・メッセージ』(海外短信) (敬称略)
『ECHO』(横浜市・天使幼稚園)
(函館市・湯の川教会信者一同)
(富山市・梶山美知子)
(竜野市・竜野教会)
(大和市・石井とき江)
一方、宣教者受入れ国の実情を適確に発表する限度について差障りがあろうかと存じます。しかし、会員は、生々しい状況下で、どのように宣教者の方々がご苦労なさっているかを知り、ささやかな支援を送りたいと思いますので、せめて、地域別を代表する集約レポートの発刊・講演会による発表など、いかがでしょうか…。 (藤沢市・沢地隆治)
(宝塚市・ショファイユの幼きイエズス修道会・有薗順子)
『アフリカ・レポート』「会」の前事務局長である梶川宏神父様は、昨年十一月二十二日から十二月二日まで、国際協力委員会秘書の資格で、アフリカ各地の宣教状況を祝祭した。これは、フランス語圏における宣教状況・日本人宣教者との接触、アフリカの現状に触れることによって今後の国際協力委員会として、宣教活動の在り方などを考えることを目的としたものである。以下は梶川神父様の「アフリカ・レポート」である。(この稿は引続き、連載していきます。)国際協力委員会・秘書 梶川宏
Sr・谷口から聖体拝領…(シスター谷口達と)日本からのことを話した……後、そこの教会の「みことばの祭巌」に与りました。司祭が居ないので、神学生の助祭がやって来ての…一時間にわたる「みことばの祭儀」は…すばらしく…八十名ぐらいの小さな子が一生懸命、静かにごミサに与り
…ミサ中は、一人の青年が音頭をとって、フランシスケンのノヴィス達がクムグムを打って…若い人たちは南米でみるカルカス楽器を打って歌を歌っていました。…赤煉瓦の円形の座席の真申に祭壇があり、そこで助祭は…すべての人にご聖体を配っていました。 …聖体拝舘の時、シスター谷口も…ご聖体を配っていたので、私もシスター谷口からご聖体を頂きました。…その後、フランシスケンの人々と食事をしました。食事は…粟をよくこね、熱湯で煮たものササゲの煮たもの、さつまいも…さつまいもが出たので「日本では一本五百円もするよ」と言ったら、持って帰れと云われた。…そして宣教師の家に帰って来ました。 十一月二十四日・日曜、朝、ゆっくりする。いろいろな所に行って来ました。アザーサ、コンゴ、カテドラルで主任神父さんと共同ミサを行なう。カーディナルは日本の神父を紹介して、教会が世界的であることを信徒に話しておられました。…ミサが終ってから私達は町の市場に行きました。…センター中央市場で…凄まじい喧騒、いろいろな物を売っていた…砂糖、栗、稗の粉、ピーナツ、サラダ、牛肉や鶏も売っていました…市場は大変広く、いろいろな物が各自の習慣によって売られていました。…シスターの所に帰って…皆で食事をしたあと…修道院で休み…現地のシスターの運転で外を回ることになりました。その前にシスター黒田が働いている公立の病院に行って来ました。…歩いて十分ぐらい…病院に入ると…病院の形はしていますが、部屋には七人のベッドがズラリと並び、ハエがブンブンと飛び、人々が、庭の木の板や、木の所で寝っころがっている…この病院を見て、…病院というよりも、老人ホームか…人の休むところ…逃げこむ所のような気がして来ました…あまり綺麗でないベッド、しかし、ベッドで寝られるだけいいのかもしれません。一日の滞在費が一〇〇フラン(日本円七八〇円)(でした)。 …午後三時半…車で回ることにし、駅に行きました。駅は24時間営業なのに人々はゴロゴロ寝ていて誰も来ないので…仕方なく予定を変更して、被昇天会の修道院に行きました。…田舎にある修練院できれいな庭に小さな祈両所がありました。…二階建ての学校を見てくれというので、学校を見に行きました。それは女の子たちの商業学校で政府…公認の学校で…タイプやミシンのかけ方、家事一般、それに農業を教えています。 初めて、アフリカの汽車に…… 十一月二十五日・月曜日、朝四時半に起きて、 五時半に迎えが来るというので、待っている間に、真赤な鋏がこびりついているようになっているシャツを、…洗いました。…初めてアフリカの汽車に乗り、グドゥグへ行く事になりました。二等が…混んでいて乗れないので、一等に替えました。…一等と云っても、窓が開いたり開かなかったり、シートがこわれていたり、はげていたり、中のスポンジが出ていたり、あまり綺麗とは云えない。……日本の一等とかグリーン車とは違います。二等が二五五〇円、一三七〇円足すと一等になるとのことです。…六十キロ、六時間の旅行です。しかし、シートだけはゆっくり座れるので安心しました…うとうとしているうちに、どうにかボポジュラdンを出発し、一路グドゥグへ進む。…十五分ぐらいウトウ卜し目を開けると…シスターが…向い側に離れて立って、イヤホンで、ラジオかステレオを聞いている青年…彼は神学生かもしれない…話しかけてみましょうと言って…駅に止った時話しかけたら…神学生も近づいて来て、挨拶したので、話しはじめました。 生活を共にする宣教師以外不要…… まず初めの質問は「外国の宣教師をどう思うか」と尋ねました。 彼は次のように答えました。「自分の文化を押しつけたり、自分がいつも正しく、アフリカ人を軽蔑したりする宣教師はいらない。一緒に生活し、勿論、我々と同じ生活が出来ないとしても、我々の生活を理解してくれる宣教師が欲しい」……彼はいみじくも、現地の神学生として、はっきり言ってくれたわけです。 ブルキナ・ファソの経済状態を聞いたところ「一番大切なのは……潅漑のための運河を作って水を貯め、全体に流す、出来るだけ供給する濯漑用水を作らなくてはならない。なぜかと云うと、毎回、雨期には洪水が起るので、その水を出来るだけ大切にし、自分の国で運河を作って…洪水の水を支配したい。水の支配こそ、ブルキナの農業・工業を盛んにするに違いない」と言っていました。 …グドクタに近づくと、室内の温度は35℃、アマゾンの季節と云って、朝と夕は涼しく、ある時は寒くなるようです…こうやって汽車の旅を続け、約六時間後、八時三十五分に出発して、二時十分に、やっとグドゥグに着きました。 そこの修院はフランス人、ベルギー人、ドイツ人、ブルキナ・ファソなど六人のコミュニティでした。…着いて少し休み、シャワーを浴びました…アフリカ人は…清廉にしているので驚いていました。もちろん、モスラムの人や、ポポジごフッンやワガドーグーや、あるいは、グドゥグの町は、汽車の中の人々の服装など見ると、きちんとしていて、身体も大きく、見る人々の姿勢が正しく、綺麗なお妹さん達もいっぱいいました。アフリカ人の美しさを、この旋行ではじめて発見したような気がしました。 信者が作った潅漑ダム 十一月二十六日・火曜日。今日が最後のブルキナ・ファソの日。 さっそく、近くの婦人達を教育するセンターを見せてもらいました。婦人たちがシスターの指導で、織物や、生活指導を受けていました。…教会に挨拶に行きました。ここの神父様は、シャルル・ドゴールの甥御さんで、ドゴール神父様と呼ばれていました。かっぷくのいい神父様で…三十五年間、ここで働き、この教区の三代にわたる人々を知っているそうです。この教区は信徒は一万六千人、三つの教区に分れています。毎年二千人の洗礼志願者の勉強会があって、そのうち、毎年二百人が洗礼を受けます。大変厳しい四年間の勉強と、待降節の四週間から六週間の間の勉強があるのです。この教会では、クリスマスの時にしか洗礼を授けていませんでした。これらの勉強を指導するのはカテキスクで、その養成は小神学校の近くにあるカテキスク養成所で行なっているそうです。 カテキスクの生活費は教会から出るのだそうですが大変のようでした。十時からドゴール神父様の教会でごミサをたてることになりました。…ドゴール神父様は、この付近に十以上もの教会を作り、どれも一杯になっているそうです。村の人、信徒が泥をこね、壁を作り、鉄骨を建てて作った、信徒の教会なのだ…と話していました…司教区で作った濯漑用水のダムがありました。すばらしいダムでした…この水だけは乾期にも潤れず、動物なども助かったのだと許していました。信者たちが心を合せて作ったのだそうです。私は何か、そこに信者の力、司教達の力を感じました。 『今、アフリカに生きる』内容紹介…アンゴラ捕虜行進・チャドの大地で・体内に虫が巣くった少年(シエラレオーネ)・ガーナの学校とヤングたち・アルジェリアの砂漠で共に祈るうちに・マダガスカルに石神司教様を迎えて・ブルキナ・ファソとペナンを訪ねてほか 発刊が延び延びとなっていました「今、アフリカに生きる」が発行の運びとなりました。 アンゴラ内戦に巻きこまれ、反政府軍の描虜となった、シスター中村寛子(マリアの宣教者フランシスコ修道会)、の「アンゴラ描虜行進」のほか、アフリカの大地に生き、宣教に従事しておられる宣教者の方々のレポートを編集した、迫力あるドキュメンタリーです。 一冊について一〇〇〇円のご寄付をお願い致します。 |