ローシャイタ神父様の思い出ノートルダム教育修道女会 兵頭 晃
“しばらくウェブサイトを開けないでいましたので、先口合ずな112号を拝見して、ローシャイタ神父様のご帰天を知りました。神父様との関わりは長く、半世紀以上になります。神父さまが第3修練を終えて日本に帰られたとき、広島にお出でになり、ベルギーに一時帰国されたエリザベト音大のゴーセンス学長の代行をされました。未だ30歳過ぎで、見上げるような長身から、私たち学生を優しく”見下ろして”いらっしゃいました。黄金バットのような長い黒のマントを羽織られた神父さまの最終誓願式には、オルガンを弾く喜びもありましたし、卒業証書もいただきました。後に私が、司教協議会の典礼委員会に務めていたときには、何かとお会いする機会もありましたが、東京を離れてからはお会いすることもなくなりました。でも、ローマにいたときには、ブラジル管区の姉妹が、ローシャイタ神父さまのことを誇りにして話してくれました。
2006年春、一時帰国中にイグナチオ教会の小聖堂におりましたら、偶然、ポルトガル語のミサの準備に入ってこられ、全く思いがけない再会の恵みをいただきましたが、あれがお目にかかった最後になりました。神父様のご生涯とご奉仕、神父様を日本に派遣してくださったブラジルの教会と、ご家族の皆様に感謝を捧げたいと思います。長患いはされなかったご様子ですので、それがせめてもの慰めです。神様のもとで終わりのない命を楽しまれますように。ありがとうございました!帰国途上に書院での手伝い聖パウロ女子修道会 清田 光子
今はもう8月も末、私か日本で過ごした1か月の休暇は夢のように過ぎてしまいました。6年目の帰国で、あれこれと思いがけないこともありましたが、シスター方のなつかしい姿に接して、身心共によみがえったように感じました。そして、やっぱり私は日本人であることを認識し、再び宣教地に向かう力をいただきました。ボリビアに帰る途中、ペルーのリマに立ち寄りました。私たちの地方区長さんから年末までアレキーパ(ボリビアに近いペルーの町)の書院の手伝いをするようとのことでした。その後、ボリビアのコチャバンバに帰ることになると思います。当地では、アレ牛一八市創立470周年を祝っており、8月15日にはとても盛大なお祝いがありました。 私たちの修道会もペルーでの創立50周年を祝いました。クラシック・コンサートでは、モナステリオ・デ・サンタ・カタリーナ修道会の美術館を借りて、盛大に行ないました。幸い協力者の方々がよく準備をしてくださり、2人だけの私たちは本当に助かり感謝しております。 その後、8月9日から15日まで司教区の“Ser mujer, Ser consagrada”というテーマの講座が開かれ、私たちも書籍の展示即売も兼ねて参加することができました。 こちらは冬が終わり、毎日よい天候の中で過ごしております。海抜2,350m、気温は15~24度です。アレキーパ市は火山石で建てられた建築物が多く、白い町といわれています。 日本の富士山に似た、「ミスティ《と呼ばれる山を朝夕眺めながら、祈りと宣教に力を注ぐことができる恵みはとても大きなことです。聖パウロが生涯をかけてイエスを告げた姿を思い浮かべずにはおられません。 書院でのお手伝い 夜間も携帯電話で聖霊捧侍布教修道女会 山田 雲江
7月16日シスター林からローシャイタ神父様のご帰天の報せをいただき、週に一度ごミサのため私たちの修道院に来てくださる、クルッカ神父様にお願いしてごミサをお捧げいたしました。長い間、私たち宣教者を支え、共に歩んでくださいましたことに心から感謝すると共に“本当にご苦労さまでした、ありがとうございましたと申し上げます。パラグアイでは今年は思いがけない寒波に見舞われ、いつもの年より冬を長く感じました。でも、この1週間暖かい日が続き、日本の桜の花によく似たラパチョの花が美しく咲き始めました。 そんな街角で一人の女性に声をかけられ、その問いかけに耳を傾けました。3年前、息子さんを事故で亡くされ、その辛さ、苦しみを受けとめることができず、神を信ずることだけでなく、祈ることもできずに、過ごしているとのことでした。行き交う人通りを気にすることなく、時間も気にせず、少しずつ心を開いて問いかけ、ありのままの心持ちをぶつけてくださることを感謝しながら、「じゃ、この3年間、亡くなられた息子さんのために祈ることもなく…《と問いかけましたら、急に涙を流しながら、うめくように「祈らなかったんです!できなかったんです!《 と言われました。「じゃ、これから一緒にお祈りしましょうね《と、住所と吊前、そして電話番号をメモして、この先連絡を取り、つながりを保っていくことを約束して、お別れしました。 こんな出来事は、用事で出かける折々に起きたりします。そんなことから、私の携帯電話は真夜中も必要な方が安心して呼び、一緒に祈ったり、話したり、聞きたいことを尋ねだりして、気持ちを落ち着けて、新たに眠りにつけるようにと、お捧げしています。 こんな奉仕を通して、逆に私の方が心を開かれ、強められています。 また、日本の皆様の、たくさんの祈りと日々のお捧げにより支えられ、生かされていることを感謝しながら。 桜に似た美しいラパチョの花 ピラポ移住地このごろ聖霊捧侍布教修道女会 林 静子
このたびは[カトリック生活]、「聖母の騎士《、「あけぼの《など多数送っていただきありがとうございました。7月に発送してくださったものが船便で3か月かかって漸く着きました。50~60代の日系一世の信者さんたちに配って、喜ばれております。日本の雑誌はこちらでは貴重なものです。ここピラポでは、アルゼンチンの北島神父様が休暇で日本に帰られましたので、3か月間は日本のミサはございません。ピラポ・コロニアでは8月1日から3日まで、入椊50周年祭があり、日本からも岩手、高知両県の知事代理を始め、大勢の方たちがパラグアイに来られ、賑やかでした。来られた方々はほとんど皆様が民宿されて、喜んでお帰りになりました。 こちらは今年、毎週雨が降りましたので、お陰様で豊作の年となり、お百姓さんたちもホットしております。 しかし、パラグアイの大統領は舌がんに罹られたと推定され、ただ今入院されています。問題がたくさんある国なので、心労も多く、誰が就任しても政治は難しいものでございましょう。 私共のピラポ聖霊小学校は人が少なく、シスターはたった3人の共同体でしたが、8月から1人、9月からもう1人、ボランティアとしてドイツとオーストリアから若いお嬢さんたちが1年間の予定で来てくださいました。スペイン語の勉強中で、1人は幼稚園で、もう1人は小学校の手伝いをしています。私たち聖霊会のシステムで、すでに7、8年前からパラグアイにも来てもらっています。18歳から20歳までの若くて、高校を卒業したばかり方たちですが、第三世界で生活するのも勉強になると思います。帰国して結婚する方もあり、中にはシスターになる人もいます。 時節柄、パラグアイでも少子化か進み、多くて4人、大抵3人位の家庭になっています。そうすると召し出しも少なくなって来ていますし、以前にはたまにしかなかった離婚も多くなりました。迷惑なのは子供たちで、淋しい幼少時代を送っていますが、この国ではおばあさんたちが90%位は孫の面倒をみています。 これがこの国では救いになるのかも知れません。 写真は今年8月16日の子供の日に写したものです。後ろに立っているのは中学生のグループで、ピエロの朊装をして幼稚園にやって来て、子供たちを喜ばせてくれました。お陰様で子供たちは親や先生の苦労も知らずにのびのびと成長しております。 未だ上安の多い社会情勢聖母被昇天修道会 横山 まさ子
こちらエクアドルは雨季の冬に入り、夜が暑くなってきています。今年の夏は寒くて、温度が24度以下になると長そでの上着が必要です。気温の変化が激しく、またほこりも多くて、大多数の人々が風邪をひき、私も何度か風邪薬のお世話に。
6月中句から約1か月カナダの本部で過ごしてきましたが、出かけるまえに転倒、左手首を骨折しギブスをしての旅でした。
9月30日エクアドルに緊急事態が発生して、日本大使館から外出を控えるようにとの連絡が入り、その日一日中テレビの前にクギ付けになってしまいました。公務員改正法が実施されることになり、それに反対した警察官が全国的にデモを実行し、大統領暗殺をはかり、未遂に終わりました。大統領は全国に非常事態を告げ、まだ解除されておりません(10月12日現在)。
警察官がいない町は大変です。ある所では閉鎖された商店の扉を壊して侵入し、商品全部が取り去られ、残ったのは壁だけでした。日頃住民はあまり警察官を信用していません。この事件は夜遅くまで放映されましたが、大統領が軍の兵士に囲まれて、官邸に逃亡するときの銃撃戦は激しく、市民や警官に死者が出ました。現在は落ち着いておりますが、いつ何か起こるか分かりません。分かっていることは今後はそろりそろりと物価の値上が始まり、貧しい人たちの生活は一層苦しくなっていくことです。
お礼が遅くなりましたが、先日ご援助いただきました小型トラックの修理が終わりました。なんと55か月もかかってしまいました。修理の部分品を買い求めるために係のシスターは飛び回りました。おかけさまで快適に運転が出来、宣教に役立ております。コミノテの姉妹たちも大喜びで、感謝しております。本当にありがとうございました。
私が担当している子供たちの聖書の分かち合いの集まりも軌道にのり、喜んで集まってきます。もう直ぐクリスマスの準備に入ります。共に仕事をしてくれるカレンは17歳の女の子、将来は小学校の先生になりたいと言っていますが、今は夜間の大学を探しています。現在、大学はお金がかかりませんが、交通費が大変です。夜はバスがありませんので、タクシーを使います。昼間働くところをして探していますが、これも容易ではありません。
世界の平和を聖母マリアに祈り求めながら、皆様方に神様の恵みが豊かにありますように折りつつ。修理が終わって大活躍 エコロジー計画を推進サレジアンシスターズ 小濱 静子
ローシャイタ神父様のご逝去の知らせに驚き、日本に帰国しても、お元気な神父様の姿を拝見できないことはとても残念です。この会のお陰で、いろいろとご援助をいただきましたことに心より感謝申し上げ、神父様のご霊魂の永遠の安息を心よりお祈り申しあげます。先日は、サレジアンシスターのボリビア宣教女のために交通費のご援助をありがとうございました。安全ということ、無事であるということがどんなにありかたいことか、ということを実感する毎日です。 先月、サンタクルスのイエスの力刀タス修道女会で行われた黙想会に出かけました。その夜、私か住んでいるサンファンの信徒会館に盗難があったと連絡をもらい、一時帰りました。入り口の鍵を壊し、私の事務所や寝室の引き出しをみんな開けて、お金を探したようです。幸いお金も物も無事でした。本当に油断大敵です。私自身、2月にサンタクルスのタクシーの停留所で強盗に直撃されましたが、同僚のシスターも、J神父さまも、教会も修道院も、盗難の被害を受けています。 今年も皆さんの祈りと援助に支えられ頑張ろうと決心し、サンファンでエコロジーの計画を立てていました。日本の管区長とボリビアの管区長が同時に視察に来られ、よい仕事だから、共同体を作るがよい、3人の姉妹で一つの共同体を作るように、人材を本部に要請すると話されて帰られました。しかし、いつになっても猫の子一匹も来ません。今年の復活祭を終えると、私は落ち込んでしまい、もうボリビアでの宣教は諦めて、数年の後には帰国することを考え始めました。 復活後の第2日曜日にボリビアの管区長がサンファンを訪問することになっていました。その前夜、私の帰国の予定とその後のことをお願いする考えをまとめました。 日曜日の明け方夢を見ました。私は、ボリビアの若者たちの真ん中で頑張っているようでした。そのとき側から、黒いスーダン姿の神父様が大きな声で「シスター・マリア、前に進め、前に進め《と叫びました。私その声でびっくりして目覚めました。その声はスペイン語でなく、イタリア語です。黒いスーダン姿の神父様は、こちらでは見たことはありませんが、何だか見たようで親しみを感じるのです。そしてようやく気がつきました。ドンボスコの若い時の写真を思い出しま した。今年の3月にサンタクルスでドンボスコのご遺物を迎えて、サンファンでも荘厳なミサを捧げ、私はそのミサの準備をしました。「ああ、ドンボスコはあの時私を見たのだ《と私はびっくりしました。そして、昨夜の考えを改めて、管区長にはサンファンのエコロジー計画を話しました。神様のみ旨は、自分の計画ではな く、神の道具として命の続く限り働くようにということだと分かりました。 婦人会がコチャバンバに巡礼に 福音宣教フランシスコ会 司祭 小川 満
『福音宣教』この言葉を聴くといつも必ずといっていいほど、かつて、ブラジルを訪問してくれたある日本人の司教様のことを思い出す。私はその時、アパレシーダの日系人の巡礼に加わり、彼の通訳を命ぜられた。同行中、司教様はご自分がなさる説教についていつも心配されて、私の意見を求めていた。どのような話が移民の方々の関心を引くのだろうかと心配だったのである。ブラジルにはじめて来られた司教様にしてみれば当然なことであったと思う。私は自分の経験から、「巡礼者にはお年を召された日本からの移民の方々が多く、難しい神学的な話、またはカトリック要理的な話よりは、日本から移住してこられ、幾多の困難や苦労を家族とともに乗り越えられて、子供やお孫さんたちを立派に育てられた苦労をねぎらい、ブラジルの社会に多大の貢献をなさったことを評価してさしあげるような話がピンときますよ]と繰り返し申しあげてあったのですが、いよいよ荘厳な巡礼団のミサが始まり、説教の時になると、出てきた言葉は、『宣教と布教の違いについて』というとてつもなく難しいお話だった。 私白身もその時どれだけ司教様のお話を理解できていたかは今でも疑問に思っている。それよりも何よりもポルトガル語に通訳していた私には、瞬間的にはブラジル語での宣教(ミッション)と布教(プロパガンダ)という単語が出てこなかった。かろうじてミッションの単語は空っぽの頭からしぼり出したものの、プロパ ガンダは私の頭の中ではテレビや雑誌に出てくる宣伝広告ぐらいの認識しかなかったので、ついに布教という言葉を使わずにいい加減な訳でその場をしのぎ、ごまかしたことを思い出す。 そのことを思い出すたびに20数年たった今でも冷や汗が出てくる。2千人以上もの日系人の巡礼者の前で、自分の無能さと無力さと無知をさらけ出した一幕だった。 その時は、難しい話をなさった司教様を恨んだりもしたが、今となっては、自分が謙遜になれるよいテャンスだったのだと思えるようになった。自分が本国から持ってきた文化なり発想なりをいったん神に預け、与えられた土地で、そこの文化や習慣に溶け込み、その土地の人の考え方、発想、生き方などを、身をもって体験し、理解し、受け入れなければ、本当の意味での宣教はありえないし、宣教師でもありえない。何かの真似事をしている単なる道化師でしかない。それを実現するのには心からの謙遜が必要であると解った。 また自分が取るに足りない、一介の弱い人間であることを受け入れなければ、自分のうちに神の力が働くわけがない。聖パウロが言った。 『誇る必要があるのなら、私の弱さにかかおる事柄を誇ります』(コリント第2・11章30節)。 また『誇る者は主を誇れ。自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです』(コリント第2・10章17節)といっている。 最後に熱烈な宣教によって主イエスから使徒とされ、自分も使徒と自覚していた聖パウロの次の言葉を、宣教師として私たちは肝に銘じ、さらにこの福音宣教の月を、主イエスの宣教師としての自分の過去を反省し、宣教者としての自覚を新たにしたい。『わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれがわたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実にあなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。』(テサロニケ第1・2章19節) (日伯司牧協会オリゾンテ誌10月号からの転載) 夢の実現信徒宣教会(JLMM)高橋 真也
私には活動当初からずっと抱いていた夢がありました。それは、『水上村に住む子どもたちが走り回れる公園を作ること』です。水上村の子どもたちは湖で泳ぐことは出来ますが、走り回ることは出来ません。陸地もなければ大きい家もないのです。陸地に住む普通の子どもたちであれば、誰もが当たり前に出来ることが出来ないのです。そんな子どもたちのために、思いっきり走り回れる公園を作ってあげたいとずっと思っていたところ、今年に入り、ひょんなことから、NPO法人「芝の会《という団体が、水上公園設置の費用を支援してくださることになったのです! 4月に始まった工事は7月に終わり、立派な公園が完成しました。
出来上がった公園では、毎日多くの子どもたちがはしゃぎ回っています。サッカーをしたり、ゴム飛びをしたり、ただ直線をひたすら走って往復しているだけの子どももいます。よっぽど走れることがうれしいのでしょう。子どもだけでなく、青年たちも集まります。私もその輪の中に入って遊ぶのが好きです。みんな日が暮れるまで遊んでいます。最近の私の楽しみは、この公園で汗だくになることです!
この公園は、子どもたちのためだけに作られたものではなく、お年寄りなど、村人みんなが集まれる場所であることを願って作られました。そしてまた、貧しい家庭の人たちが、冠婚葬祭などで広いスベースが必要な時、無料(安価で)でこの公園を貸し出そうという計画もあります。公民館みたいなものです。
これから先もずっと、この公園が村人のために使われていくことを願っています。この公園を作るために
支援をしてくださった方々にお礼を申し上げますと共に これから日本の皆様がこの公園に遊びに来て、子どもだちと体当たりの交流をしてくださることを願っております!水上公園の外観は体育館のよう 栄養補給プロジェクトの重要性ショファイユの幼きイエズス修道会 谷村 恵子
この度、長い間カンボジアのためにもご尽力、ご支援くださったローシャイタ神父様のご帰天を知ってびっくりいたしました。心からお祈り申し上げます。 これからも神様の元で貧しい国の人々を見守り、そして取り成しをしてくださることと信じております。カンボジアヘのご支援ありがとうございます。心より感謝申し上げます。「きずな《の皆様の支援を頂いて、異文化の申で働いておられる多くの皆様にも大変励まされております。支援する会のお陰で、チョンカチアン村とキリボン村の就学前の子供たち(0歳~5歳)の栄養補給のプロジェクトを実施することができました。プロジェクトは始まったばかりでが、問題が少しずつ見えてきたところです。例えば栄養失調症、貧血症、心疾患、呼吸器官の疾病などの早期発見につながり、このプロジェクトは、村においては大変有意義で大切だと思いました。 この1年間、村の入り口に近いところでプロジェクトを実施しましたが、村の奥の方、山裾に近ければ近いほど、水、食料、貧困などの問題が子供たちの発育に深刻な事態をもたらしていることもわかりました。学校へは遠く、家の手伝いもあって未就学児も多いと思います。カンボジアは発表された数字だけを見ると、復興を遂げているように思われますが、都市と田舎の格差はまだまだ大きいと思います。 ご支援いただいたお金の使い方について少し説明いたします。通常、50人単位で栄養補給を実施していましたが、本年6月から9月まで、ハンディキャップ・センターにて実施しましたら、吊簿以外の子供たちも来て、利用者は100人を越えました。そのため食材を増やし支出が多くなりました。 10月以降もプロジェクトを続けていますので、残りの援助金を使わせていただいております。本当にありがとうございました。改めて支援の継続をお願い申し上げます。携わっている村々の現状から、これからも健康に関するプロジェクトの実施の必要を強く感じます。母親たちに「食の重要性《を訴えたいのですが、今のところ「生きるために食べる《のが精一杯の状態です。子供たちの世代になれば少しは楽になるのではと期待いたします。それで未来の子供たちのために、今しばらく続けてご支援をお願いできないでしょうか。 どうかご援助をよろしくお願い申し上げます。 若いお母さんたちのボボ作り 宣教50周年の宣教クララ会御聖体の宣教クララ修道会 根岸 美智子
9月は新学年が始まって、本当に大忙しの月でした。最近のシエラレオネは、教育に関して小・中学校は、一応無料になりました。しかし、マリアイネス学園中学部はいまだに経済面の承認がいただけないので、自費に。それでも今年は英語、数学、理科、社会の教科書を何冊か文部省はくださいました。大きな進歩です。それにルンサでは、英国の会社による鉱山が小規模ですが再開しましたので、2つの鉱山会社から、幼稚部から高等学部までの生徒の何人か優秀の生徒に大学まで含む奨学金をくださるそうです。見なければ信じないのが現在の私の心情ですが、少なくとも中学部では10人の一年生が奨学金をいただけました。しかし職業センターにはこの風は全く吹きませんので、相変わらず日本の皆様のご支援に頼っている次第です。でもとにかく希望と夢が出てきたことは確かです。 9月25日には、宣教クララ会のシスターがこの地にきて50周年になる記念ミサが行われました。創立当時のシスターは4人でしたが、3人はすでに他界しており、最も若かったシスターエデルミラが18年ぶりにシエラレオネを訪れました。その変化にびっくり! 24歳でシエラレオネに来られましたので現在74歳、あまり私と違いません。この旅行切符は、米国に滞在している「OLG学園《の卒業生が、皆でカンパして彼女にブレゼントしたそうです。なんとうれしい事でしょう。 小さな藪の中の小屋からはじまり、立派な校舎や修道院に。そして戦争ですべて廃墟になり、あのときはもう駄目かと思うほどでしたが、皆様からのすばらしいご協力によってすべて立派に再建され、一層すばらしいものになりました。感慨無量です。神様を讃えないではいられません。私か来たときは皆、外国人宣教師ばかりでしたが、今は大多数がアフリカ人になりました。これも大きな変化です。彼女達もがんばっています。でも、経済的にはやはり支援なしでは出来ません。皆様、どうぞこれからも温かい愛の目でお支えください。 式は全シエラレオネから大勢の人が参加して、美しく盛大でした。2人の司教様のもと50人近くの神父様の共同ミサ、その後お祝いがありました。米国からシスター・エデルミラが到着しましたら、何と回教寺院でも歓迎の挨拶と感謝の祈りがあったそうで、モスクでニュースを聞いてかけつけましたという方もいました。これがシエラレオネのとてもよい所なのです。回教もキリスト教も皆兄弟です。最近、中近東の方がきて反対の宣教をするので残念に思っています(アルカイクだという人もいます)。でもシエラレオネの人は、シスター、私達は違う、皆兄弟ですし家族だから、他の国であるいやな事はこちらでは決して起こらないでしょうと、楽観的に言っています。そうでありますように皆様もお祈りください。 ハイチ発 11月18日クリストロア宣教修道女会 須藤 昭子
お久しぶりです。まだ生きていますよ!「コレラ《がすぐそばまでやってきていますが、大丈夫です。びっくりしたのは、去年そちらから送っていただいたクリスマスカードやカレンダーが、昨日到着しました。ありがとうございました。 大統領選挙が11月28日にあり、コレラ騒動もあり、どうなることやら分からず心配しています。援助活動もなかなか進みません。まだ私たちの仮設住宅もできてなくて、上自由しています。明後日、レオガンの IOM事務所に行き、まだテントで暮らしている人をコレラから守るためにも、仮設住宅をお願いしてみるつもりです。 |