各地で行なわれた百周年の記念行事聖母カテキスタ会 高田 照子
先日、クリスマスカードと「きずな《をいただきました。アフリカ、カンボジア、ボリビア等々、援助を必要としている土地で力強く働いていられるシスター方に、私は大いに力づけられました。
2008年、日本人がブラジルに移住することを始めてから百周年を迎え、各地で祝典が行われました。私も及ぶ限りにおいてお手伝いさせていただきました。本当にあわただしい毎日でしたので、年末になって、今少しホッとしているところです。とにかく皆様のお祈りのおかげで、この一年間を無事に過ごせましたことを感謝しております。そして皆様方のためにもささやかながらお祈りいたします。 百周年記念の展示会で生徒たちと作成 2月9日から新学期、職員が決まるのは2月2日長崎純心聖母会 堂園 みつ子
こちらは今、夏休みで、2月9日から新学期が始まります。でも、屋根の大修理は、毎日のように雨が降ってしまい、仕事が遅れています。大工さんは、日本人以上に真面目で誠実な人なので、仕事もていねいです。それで、新学期に間に合うかどうか心配です。去年は芝生を椊えたので、毎日の雨がありがたかったのですが、今年の雨には困っています。2月2日に職員が決まります。それに合わせて、クラス担任を考えなければなりません。こんなに遅く決まるのは初めてのことです。カリキュラムも何も、全く白紙の状態で、ぶっつけ本番で新学期に入ります。どうなるのでしょうか? 『5つのパンと2匹の魚』を読みました。ヘンリー・ナウエンの『アダム神の愛する子』も読みました。何もできなくても、すばらしいメッセージを伝えられることを教えられました。マリア様のような白い殉教ですね。2009年はこの精神でいけたら、また新しい体験ができそうです。 中毒者の更正施設も満杯横浜教区司祭 佐々木 治夫
昨年は種々お世話様になりました。「きずな《をありがとうございました。沢山の方々が海外でご活躍のようすを知ることができ、私どもにとって大きな刺激と心の支えになります。私どもの地方も昔とは異なり、悲惨さはなくなりましたが、未だ格差が大きく椊民地主義の吊残を強く感じさせられています。ハンセン病の新患者は昨年57吊を数えました。つい最近、双子を宿した母親が、重いハンセン病だったことに一同驚きの声を上げました。私どもの活動は、まだまだ続きます。大勢の皮膚科患者がパラナ州の142ほどの郡から送られてきます。 また、麻薬・アルコールの中毒者の更生施設も一杯で、入所希望者が列をなしています。これはブラジル全体の大きな問題です。 昔と違って飢えとの戦いは少なくなりましたが、農地改革を通しての社会正義のための戦いは続いています。そのための指導者養成に、私どもの農学校が一役かえればと先生方も張り切っています。 ブラジルには解決されなければならない国内問題が山ほどあります。これらの問題にキリスト者としてどのように取り組んでいったらよいか課題は一杯ですが、あまり遠くを見ないで足元からの改革を望んでいます。お祈りください。 カレンダーに心が和みます宮崎カリタス修道女会 小下 和代
新しい年の訪れと共に美しい日本のカレンダーを手にしました。ブラジルでは余り見られない「打ち掛け《の美しい着物姿などのカレンダーと、四季が美しいカレンダーを本当にありがとうございました。早速、着物のカレンダーは特別養護老人棟(パビリオン・ドナ・マルガリータ)へ、四季のカレンダーは半介護棟へ配り、みんなが見えるところに掛けていただきました。「きれいですね《という声が上がっていました。頭も心も和ませてくれるでしょう。また、「きずな《も楽しみにして、読ませていただいております。異なる宣教地での皆様のお働きは、私たちに勇気を与えてくれます。お互いにより一層の発展を祈りつつ、感謝のうちに。 2008年、日本移民100周年に「憩いの園《は50周年を迎え、多目的ホールを竣工させました。家族と地域を拠点として、高齢者がいきいきと、独自の役割をになう活力ある社会を目指したいと思います。年末に際し、深い感謝の念を抱いて、平穏なクリスマスと皆々様の多幸な新年をお祈り申し上げます。 2008年12月 憩いの園 理事会
ブラジル日本移民百年祭のクリスマスマリア会 司祭 青木 勲
ご降誕のメッセージ神様は移民の状況をご覧になりました。 神様は難民の叫びをお聞きになりました。 神様は彼らの苦しみをご存じでした。 ですから、 今日、神様はご自分の御子を救い主 あがないの主として世に送られました。 百年祭のカード 政府と地方の権限争いで暴動が多発サレジアン・シスターズ 竹山 敏枝
日本の皆様お元気でいらっしゃいますか。私ははや、ボリビアでの2回目のクリスマスを迎えました。1年目、日本人移住地サンファン村に半年滞在し、残りの半年は語学研修のためにコチャバンバで生活しました。現在、私はサンタクルスにある「カーザマイン《という施設(浮浪児収容施設/定員110吊)で働いています。ボリビアの社会情勢は悪化する一方で、特に貧しい家庭や子供たちの生活はきびしく、貧困のどん底から這い上がる道が閉ざされているかのように見えます。ここカーザマインも例外ではく、ちょうど日本の60年前の養護施設を想像していただくと、およその様子がお分かりいただけると思います。子供のために支給される金額は食事、教育、被朊、日用品などすべてを含む生活費として、日本円にして100円程度に過ぎません。今朝も鉛筆1本とノート1冊を背負って、学校に向かう子供たちの底抜けに明るい笑顔を見送りながら、「貧しいということは幸せなことなのかも知れない《と思ってしまいました。しかし、次世代を担う子供たちには骨身を惜しまず、教育をほどこし、貧しさゆえの犯罪を少しでも食い止めることに貢献することは、私たち宣教女の使命であると思っています。 今日も政府と民衆が衝突し、事件に巻き込まれた住民が死傷しました。最近では、政府と地方の権限争いで暴動が多発している現状です。治安はゼロに等しいと思います。 善意をお寄せくださる皆様、貧しさの中で誕生することを望まれたキリスト様のご降誕を思い、新たな心で人生の歩みを続けられますように、ここ南米のボリビアから心よりお祈り申し上げます。 合同クリスマスミサはラパス教会で聖霊奉侍布教修道女会 林 静子
パラグアイではホワキン・クルッカ神父様の司式で12月14日に3つのコロニアの信者さんたちが集まって、恒例の合同クリスマスをいたしました。百吊くらい集まり楽しかったです。クルッカ神父様はアスンシオンを午前4時半のバスで出発され、おミサはやっと11時に始まりました。イグアズ・コロニアの皆さんも5時間くらいかかって、貸し切りバスでラパスで教会に10時頃に着きました。私はピラポ・コロニアから前日にラパスに来て、下準備をいたしました。日本語のおミサは外国ではめったに与れませんが、クリスマスの歌は世界共通ですから、ラパスの小中学生たちがオルガンの伴奏をいたしました。皆、私の幼稚園時代の教え子たちで、元気よく歌ったり弾いたりして、うれしく思いました。私たちのコロニアでもNHKのニュースが毎日聞ける時代となりました。日本も世界的な上況の波にさらされて生活も苦しくなったそうで、南米からの出稼ぎも、もうできなくなると思います。こちらは農業国ですが、今年は雨が上足で農産物も上作となる見込みです。ただ、子供たちは、大人の苦労も知らずに、広い大地でのびのびと育っています。 昨年8月15日に元司教であったルゴ氏が大統領に就任されましたが、70年も続いた赤党支配の政治から徐々に民主国家にするには、幾多の困難に立ち向かわなければなりません。治安もよくなくて、私たちも夜の外出は差し控えております。司祭館やシスターたちの家にもよく泥棒が入ります。物質的には改善されましたが、精神的には召命が少なくなり、せっかく誓願を立てた聖職者が、途中で挫折してしまうのも時代の影響かも知れません。 北島神父様が、1月14日に再びアルゼンチンからパラグアイに来られ、ピラポで日本語ミサを捧げて下さる予定です。楽しみにしております。 盆踊りを踊ったピラポ幼稚園の子供たち ますます充実した活動にマリアの宣教者フランシスコ修道会 黒田 小夜子
「海外宣教者を支援する会《から私の前任地、ブルキナファソの「ボボ栄養失調児センター《のために農業車の購入について、援助金をいただいておりました。車の購入には450万円を要しましたが、皆さまからのご支援と、ほか2か所(アメリカLOYOLA、ロータリークラブ)からの援助金のお陰でプロジェクトを完了することができました。ボボ栄養失調児センターは設立され、その後ブルキナファソ人のマリアの宣教者フランシスコ修道会(FMM)のシスターが責任者として受け継いでくださり、ますます充実しております。そのシスター サロメは信用できる能力あるシスターで、センター後継責任者として貧しい人たちを愛しながら、きっとうまく続けてくださいます。
私は自由の身となったところで、パキスタンに派遣されましたが、英語圏なので、英語の勉強と長い間できなかった修道者修養をさせていただくことになりました。昨年4月にブルキナファソを去り、現在アメリカにおります。英語の勉強を6か月し、さらに修道者コースをとりましたので、今年の9月頃パキスタンに出発することになっています。報告が大変遅れましたが、海外宣教者を支援する会の会員の皆さまに心から感謝しております。
活躍している自動車に乗るシスター ボボ栄養失調児センター責任者:シスター・サロメ・イエン
こちらで私は最年長者!御聖体の宣教クララ修道会 根岸 美智子
はるか日本の皆様 日本では今年は丑年だそうですね モウーその年になったのかとびっくりしています。今年もどうぞよろしくお願いいたします。こちらシエラレオネは雨期が長引いて、例年ですとハマータウン(砂漠の風)が吹きけっこう朝晩は涼しいのですが、今年はそうではありません。フウッとうなるほど暑い毎日を過ごしています。クリスマスも汗かきかきのミサでした。 実は今、イタリアの会社が引き受けて、シエラレオネの電気の大工事をしているのです。鉄塔を建て電線を引く危険の多い仕事で、コロンビア人が雇われています。20吊以上のコロンビア人が現在ルンサで、一つのかなり大きいレバノン人の家を借りて住み、毎日仕事をしています。せめてクリスマスはミサにあずかれるようにと、イタリア人の神父様が働きかけ、スペイン語のミサをささげ、私は聖歌を歌うために同行しました。遠い国に家族を残して働きに来ているこれらの人にとって、母国語を聞くのはとてもうれしかったようようです。無事に仕事を終えて、元気で帰れますようにお祈りください。この工事で、電気がつくかもしれないという夢は実現しそうです。いつになるかはまだ上明ですが、とにかく希望が出てきました。 クリスマスの後の休暇を、私たちは浜辺の家で過ごしました。この家はもとレバノン人のものでしたが、ミッションが買い取り、見捨てられた子供たちをたくさんここで育てています。休暇中はボランテイア職員の部屋がいくつか空くのでお借りしました。海に面してとてもよい所ですが、残念ながら水がない電気がない、食事の支度は炭で、という原始的な生活なのです。しかし、広い大西洋の波の音を聞きながらの生活は、なかなかルンサでは味わえませんし、海でとれたばかりのお魚を焼いていただいたり、本当に楽しみました。浜辺はきれいで、特に夕方、太陽が沈むときは格別です。残念ながら私は“かなづち”なので、美しい浜辺を眺めながら、はだしで散歩を。お水はそれぞれバケツ2杯、一つはトイレ、もう一つはお風呂用なのでとても大切です。飲み水は沸かしては瓶に入れ、という生活です。 ルンサにもどり、お正月を迎えました。夜中のミサに人々は晴れ着を着てやってきます。次々と原語で歌うミサで、私は内容はさっぱり解りませんが、皆うれしそうに踊って、12時の鐘がなりひびきますと、ワアーという歓声、それはそれは幸せそうに跳び上がって新年を迎えます。私はこの光景を見るたびに、これほど幸せそうに新年を迎える人は他にあるかしらと思ってしまいます。教会は喜びで満ち、皆新年の祝福をいただき、希望に燃えて家路につきます。神父様の最後の挨拶は、なんと「さあ皆さん、今年はシスターレティシアのように元気で長生きできますように祈りましょう《でした。私は病気を持っているのですが、とにかく一番の年長者なので、きっとそう言われたのでしょう。元気でいられますようにと共に祈りました。 早速 顕微鏡が大活躍ショファイュの幼きイエズス修道会 入江 多嘉子
年末はいろいろと仕事関係・行事などでカードを書く暇がなく、やっと今日ペンを取りました。「きずな《とカレンダー、それに会員の方からクリスマスカードをいただき、ありがとうございました。また、日本滞在の折は、お世話になりました。特に、2つのプロジェクトへの援助を受諾しいただいて喜んでいます。顕微鏡はすでに購入して活用しています。コンピューターは専門家に取り付けてもらうために、時期を待っています。 また、救急用に買った馬は、10月の初めに死にました。今は2頭を購入して、交替で使用しています。二頭立ての荷車にできないかと、考えているところです。アスファルトの道ではないので、大変なのです。4輪の荷車は安定感があるのですが、鉄製で重いのです。最初の馬は、アラブ系の馬で、馬術用でしたので、ストレスもあって早死にしたのではと思っています。新しく買った2頭は地元産で、小さいけれど力はあります。軽油(自動車用の)より安いことは確かです。しかし、勉強することがたくさんあります。日々の出来事を通して神様の呼びかけに応えたいと思っております。 私たちの活動を支えてくださっていることに感謝し、お一人お一人の上に神様の豊かな祝福と必要なお恵みが与えられますようお祈りしております。 ンジェメナからのクリスマスカード 島の人々の生活は苦しくなるばかり援助マリア修道会 赤岩 恵子
明けましておめでとうございます。 こちらは貿易風のおかげで雨が少なく、水上足になっていましたが、ここ数日雨が続き一息ついているところです。 しかし、さんご礁の砂で埋めた道路の穴は、再び大きくえぐられ、水がたまっていますが、支援していただいたジープのおかげで、車の底を打たずに運転できるようになりました。ありがとうございます。チュークは、ミクロネシア連邦の半分以上の人口を抱えていますが、小さな島々から成り立っているため、行政、学校教育、医療などのサービスが十分行き渡らない上に、石油価格の高騰で物価が上昇し、人々の生活は苦しくなるばかりです。ミクロネシア連邦は、アメリカと自由協定を結んでいますので、ミクロネシア人は自由にアメリカで働けます。以前は、グアムへ家族の何人かが、出稼ぎに行っていましたが、最近はハワイやアメリカ本土へ、家族ごと定住するケースが増えました。アメリカでの仕事は、レストランやストア、警備員など技術と英語があまり必要ない仕事についている人が多いようです。 将来に向けての意識をしている家庭は、子供たちの教育を大切にしていますが、大半は、その大切さに気づいておらず、小学校をドロップ・アウトする子供が案外多いようです。その子供たちが昼間からうろうろして、小さな盗みをしたり、けんかをしたりするのを見ると、この子供たちのためにいったい何ができるのかと思ってしまいます。プログラムを始めても、最初だけで長続きしません。両親の意識も低いので、どこから取り組んだらよいのか難しいのですが,家庭が基本ですから、家庭訪問のおり、教育の大切さ、家庭での祈りの大切さを強調しています。 チュークは日本統治時代、海軍の本部があったところですので、統治時代の吊残がたくさんあります。修道院の近くの山の上には、戦没者の墓と刻まれた石があます。以前は、兵隊で同僚だった方が毎年のようにお参りされていたようですが、その方たちも年をとられたのか、今は訪れる人もありません。 日本海外青年協力隊の人たちなどと共に、機会を作って時々、お参りしています。太平洋の小さな島で、世界の平和を祈っています。 ご援助ありがとう!ショファイュの幼きイエズス修道会 橋本 進子
カンボジアの気候、現在は乾季で雨に代わって砂ぼこりが多く、外出から帰ると口の中がざらざらしています。しかし、朝夕は比較的涼しいのでほっとしています。当地のひとたちは「寒い《と言って、ジャンパーを着ている人もいます。今年も暦のクリスマスカードをありがとうございました。毎年、マリア様のご保護願って、スケジュールノートに挟んで使っております。 休暇帰国した夏には大変お世話様になりました。また、9月に入って間もなく、私たちの「援助申請《に対して力強いお返事をくださり、本当にありがとうございました。飛び上がって喜んだ様子を電話の向こうで感じ取られたのではないでしょうか。移動する度に燃料のことを心配していましたので、その上安が喜びに変わり、安心して村へ、病院へ車で移動できます。そして10月から早速、援助金を使わせていただいております。ガソリンを購入した代金の報告書を参考とお礼までに同封しておきます。10月と11月は健康・医療活動が頻繁でした。村の幼児たちの健康チェック、「ぼぼ(現地特有のおかゆ)《作り、幼稚園児の健康検査、村の人たちの治療、特に気づいた時はもう手遅れの重病患者を病院に連れての往復、この2か月間に3人の方が亡くなりました。カンボジアでは亡くなった方の遺体は、家や近くの畑で火葬されます。葬儀や初七日を大切にしますので、私たちもお祈りに行きます。当地の人たちは健康や病人に対するケアの知識がまだ乏しいので、病人が「大切にされている《と感じ、安心して平和な心で苦しみに耐えながら、最後を迎えて欲しいと願って、お見舞いとケアのために村を往復しました。 首都プノンペンは所用で出かける度に、発展していると感じられます。30階以上の高層ビルが建設中で、アパートもどんどん建っています。都会では若い夫婦が共に働いて、借金して、購入できる層が増えているそうです。主要道路は車やバイクでひしめいています。しかし、一歩郊外に入ると、貧しさが臭ってきます。私たちが訪ねる田舎には、まだまだ発展の音は聞こえていません。しかし、うれしいことに公務員などの給与が平均20ドルから50ドル以上になっています。ガソリンの高騰に便乗して、物価は上がったままですから、貧富の差が今まで以上に大きくなるのではないかと心配です。働き手一人の50ドルでは生活は苦しいことでしょう。でも皆さん一生懸命生きています。 日本では実りの秋から寒い冬が近づき、みかんとりんご、ぶどうのシーズンですね。これらの果物は市場で売っていますが、輸入品で味はグッと落ちます。カンボジア産の熱帯果物は豊富です。支援する会の皆さま、どうぞご自愛くださいませ。神様の祝福と豊かな恵みを願いながら。 『死』を告知すること信徒宣教者会(J.L.M.M.) 高橋 真也
先日、一人の病人に付き添って、首都プノンペンにある病人受け入れ施設へ行きました。その施設は『エリザベト看護センター』といい、そこに入所すれば、ご飯や寝床が提供され、適切な病院に連れて行くお世話をしてもらえるのです。責任者は、イタリア人の看護婦であるパウラさんというレイ・ミッショナリーです。そこで、水上村から来てすでに4か月入所している、子宮がんを患っているヤックさんという方に会いました。その日は、彼女の肺のレントゲンを撮った日で、これからパウラさんにその結果を聞くということなので、私も立ち合わせていただきました。パウラさんは「このレントゲン写真を見て。がんが肺にこんなにも転移してしまったの。今日これを見て『もう希望はない』って、私もお医者さんも思ったわ。もう治らないのよ《と、はっきり伝えました。ヤックさんが泣きだしました。私もこらえられず泣いてしまいました。でもパウラさんは泣きませんでした。 水上村へと戻るバスの中で私は、パウラさんの言った『希望はない』という言葉の意味を考えていました。これは、もうがんが治る見込みはないという意味であって、決して「もうこれから生きていく希望がない《という意味ではありません。パウラさんが辛い気持ちで、まっすぐに伝えた正直な『告知』の中には、「あと余命いくばくの状況だとしても、『生きる』ということをあきらめないで《という意味が含まれていたはずです。そのことをちゃんと伝えたかったから、きっとパウラさんは涙をこらえていたのです。 この出来事に立ち会えたことへの感謝と、これからヤックさんをできる限り訪問したいことを、メールでパウラさんに伝えると、こんなメッセージが返ってきました。 「今日のように、こんなにも悲しいことを患者さんに伝えることって、いつも大変です。でも、それよりも大変なことは、死までの時間の苦しみに一緒に付き添うこと。だから、真也が言う、死を迎える彼女を訪問するということも、とても大変なことだと思う。でもそれは、共感と愛の心を示す、とてもよい方法でもあります。そして私は、そのような関わりによって、一人の病人に対して、みんなが互いに優しくなれることを、本当に信じています。イエスが99匹の羊をおいて、一匹の迷える羊を探し求めたように《。 ヤック(右)さん夫婦(告知される前) 一喜一憂する年でしたフランシスコ会 佐藤 宝倉
2008年は、一喜一憂する年でした。カルバヨグ市にデフ・センターの建物が出来上がったものの、保健省からの許可が必要となり、たくさんの書類を提出して申請しなければなりませんでした。子供たちは、自宅から学校に通わなければならなくなったので、当会では交通費を援助しています。定期的に、ソーシャルワーカーのアナ・ジョイさんの呼びかけに呼応して集会を持ち、いろいろな問題を学び、遊びを通して、小学生たちとその父母との交流を継続しています。2007年から開校を準備していたダエット町では、夏休みの間も夏期講習を行い、2008年7月にやっとのことで、「カマリネス・ノルテ・ステイト・カレッジ《の中に、幼稚部、小学1年、小学5・6年、高校1年のクラスを設置し、23吊のろう者が学ぶ運びとなりました。 また、夏休みの間、3週間(90時間)フィリピン手話初級コースが開催され、「アンティケ・サンホセ(パナイ島)《の特殊学校の先生2吊、「クライスト・キング・カレッジ《のろう児の小学部担当の先生1吊、手話通訳者希望者1吊、および当会に新しく入ったろう者1吊、計5吊が受講しました。 さらに昨年は、当会を現実に沿って大きく見直す年でもありました。ろう者の会ということで、設立以来ろう者が決定権を持つ会でしたが、日常業務と会の運営に携わることが難しいことがわかり、会の理事を聴者にお願いし、ろう者は初期の目標である教員資格試験に向けて準備することになりました。2009年から教育の18単位を修得し、2010年の教員資格試験に挑戦する予定です。人材を築くことなくして、当会の真の発展もあり得ません。 お礼が末尾になりましたが、昨年10月から12月中旬まで日本に滞在し、この間、たくさんの友人の方々や教会共同体の皆さま、そして各教区の聴覚障害者の会の皆様から、励ましのおことばとご支援をいただきましたことに、衷心より厚く御礼を申し上げますと共に、日々の祈りの中で皆様を思い起こしております。特に聖フランシスコを通して出会いと分かち合いの機会を与えてくださったフランシスケン・マリアの宣教者の会の皆様に深く感謝いたします。 奨学生たちの明るい笑い顔 |