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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES

2005年度 宣教者のお話を聴く会

日時: 2005年11月23日(水・祝)13;30〜16;00

会場: 東京四谷 SJハウス会議室(上智大学キャンパス内)

講師:

  1. シスター真神 シゲ(メルセス宣教修道女会)
    ペルー、エクアドルなど中南米の貧しい地域に住む女性の自立を助け、子供たちの教育を支援する活動をしている。
  2. シスター牧野 幸江(マリアの宣教者フランシスコ修道会)
    初に台湾の高砂族の村で助産所を始めてからこれまで、マダガスカルで助産婦として働き、特に貧しい母子や妊婦のために活動している。
  3. 野原 昭子(福岡教区・湯川教会所属信徒宣教者)
    1998年、ポリビアのコチヤバンパで障害者受け入れの短期入所施設を立上げ、リハビリや自立支援に奮闘している。
 
3人の講師、左からシスター牧野・真神と野原さん。

3人の講師、左からシスター牧野・真神と野原さん。




メルセス修道女会 シスター真神シゲ

女性の自立を支援する運動のために90歳のスペイン人のシスターが作った人形を見てくださいと。

女性の自立を支援する運動のために90歳のスペイン人のシスターが作った人形を見てくださいと。



 私はご紹介頂いたメルセス修道女会の真神です。北海道出身で、これまでペルー、ニカラグアなど司牧活動に従事しながら、中南米で女性の自立のための環境作り、子供のケアーのための乳児園や病院などの運営に取り組んで参りました。その間、沢山の方々、そして「海外宣教者を支援する会」からもご支援頂き、さらに本日は私のこれまでの活動についてお話しする機会を与えて下さって、有り難うございます。
 大聖年の2000年に最貧国の対外債務を取り消してもらうという運動に教皇様を初めとし、各国のカトリック教会が取り組みました。その時私はペルーにいて、この運動のためにペルーの貧しい人々の署名を貰う活動に参加しました。1980年代から極貧の人たちがセロの山の麓に穴蔵を掘り、そこに住み着き、3万人くらいの集落が出来ていました。それはセイテ・ドクトンブリエ(10月村)と呼ばれる場所で、昼間でも一人で出掛けるのは危ないような集落でした。まともな道路も水道も電気もない、衛生状態の悪い住居でした。メルセス会はそこに乳児園を開き、働くために自分の子を育てられない母親たちを支援していました。地元の教会の青年たちや乳児園のスタッフと一緒に行動しましたが、この貧しい人々にこの債務帳消しの運動の趣旨を説明し、サインを貰うことは容易なことではありませんでした。何故こんな運動が必要なのか、理解して貰うのが、先ず大変でした。
 そんな活動の中で、ある朝5歳くらいの男の子が熱湯をかぶって火傷して、亡くなるという事故に出逢いました。その集落には病院などはなく、街に下りて、病院に連れて行かねばなりませんでした。でも、診て貰った時は手遅れで、子供は亡くりました。水はコカコーラの瓶に入れて、保存し、それを使うのですが、もし、冷たい水が十分家にあって、それで火傷を直ぐ冷やせば、助かったかも知れません。
 1967年平和のためのメッセージの中で教皇様は、「アジア、アフリカ、南米には貧しくて、飢えている民が沢山いる。この民の苦しみの前に教会は愛で応えなければならない。」と話されました。この5歳の子が火傷で亡くなった時、私はこの教皇様の言葉を思い出し、何とかしなければと思いました。
 日本に帰って、北海道の教会でこの貧しい人たちを援助してもらえるよう「めぐみ会」に呼び掛けました。 そのメンバーの皆さんが「ヒラソル(ひまわり)の会」を立ち上げて、私の運動を助けてくれました。
 セイテ・ドクトンブリエの衛生状態を改善し、婦人たちの自立を図る事業を立ち上げました。婦人たちは、それまで、年1回コーヒー園で栽培の作業を手伝う以外、まとまった仕事は無かったのです。手芸の作品を作り、これを日本で売って収入を得ることを考えました。初めて、その作品が売れた時の喜びは大変なものでした。どうしたら売れる物が作れるか。日本の人々の趣味から、文化まで勉強しました。
 子供たちも貧しい環境の中でなかなか教育が受けられない状態です。学校は小学校が一つあるだけで、中等、高等教育を受けるためには、町へ下りて行かねばなりません。教育にもお金がかかるので、お金がないために学校に行けない子もいる。そのために子供たちにも押し葉を切って、絵葉書を作ることを覚えてもらいました。どんな大きさの葉書が日本で売れるのか、どんな図柄が喜ばれるのか、皆で考えました。
 青年たちは、日本の援助で養魚の技術指導を受けて、テラビアを養殖することを習得しました。育った魚を市場に持っていくと、よく売れます。そこで、魚の勉強に熱が入りました。インターネットも使って、魚の養殖の情報を集めました。10年間は何とか援助することを約束し、その後は自立しなければならないことを理解してもらい、そのような自立体制を確立するために皆が頑張りました。
 次に、ニカラグアでの活動ですが、そこでは先輩のシスター広田と共に司牧活動に従事していました。その中で、社会や家族から見捨てられた障害児の救済事業に取り組みました。日本の教会の援助でカーサ・デ・エスペランサ(希望の家)を建て、この不幸な子供たちを引き取りました。施設は援助で出来たが、その維持の費用は自分たちで何とかしなければなりませんでした。それで、子供たちの教育を兼ねて、絵葉書作りに挑戦しました。障害児に根気よく教えて、木の葉の色を使って絵葉書を作りました。初めは売れない物も多々ありましたが、子供たちも努力して、何とか売れるデザインの葉書が作れるようになりました。オリジナリティを失わないようにして、しかも、日本で買ってもらえるものを作ることへの挑戦です。
 子供たちは朝10時頃、カーサに来て、作業をしたり、休憩時間に遊んだりします。1時ころ昼食になり、3時頃から勉強の時間になります。子供たちが一番輝いている時は、もちろん休憩で遊んでいる時です。作業の時は寝ている子もいます。勉強の時間は30人くらいの子供たちに6〜7人のシスターが先生です。手話を習ったり、スペイン語を習い、動詞の活用から基礎を学びます。刺繍の実習もしますが、できる子、できない子と色々です。
 ここで私は3ヶ月働きましたが、自分なりに納得いかなかったことも多々ありましたが、後になってとても良い経験だったと反省もしました。
 グアテマラでは、子供の教育という仕事に携わりました。10年間は財政的支援がもらえるが、その後は自立しなければならないことを分かってもらい、収入が得られる事業を立ち上げました。それはパン工場の運営でした。必要な土地も確保できて、工場を建て、パンを焼く窯を造りました。子供たちは、朝4時から始まる作業の時間割を作り、それに従って作業を分担しました。7・8時頃にパンが焼き上がり、それをお店に運んで、お金を稼ぎました。そのお金が教育費に当てられるのです。皆様の援助がこのような面でも役立っていることを感謝します。
 メルセス会はアフリカにも修道院を持っており、アフリカの子供たちも自分の手で素晴らしい絵葉書を作っています。幾つか持ってきましたので、見てもらいたいと思います。
 世界中にはまだまだ、すざましい貧困が存在することは新聞などでも報道されています。貧困をなくすために人口を減らせというのが世界的趨勢でもあります。でも、自分としては、少しでもこの貧困な人々と生活に関わりを持つという気持ちを大切にしたいと思います。スペイン人の90歳のシスターが「私が今できることは人形をつくることです」と言われましたが、その言葉が忘れられません。自分が関わっているということが一番大切と思います。疲れ果てた時でも、初心に帰り、また勇気が出てくるようにしています。




マリアの宣教者フランシスコ修道会 シスター牧野幸江

マダガスカルの貧しいが明るい人々のお話しを。

マダガスカルの貧しいが明るい人々のお話しを。



 マダガスカルで病院の看護活動をしている牧野です。いつも海外宣教を支援する会から支援をいただき感謝しています。暮れに送って頂くカレンダーは私たちのコミュノーテ(共同体)にとって待ち遠しい贈り物です。「きずな」は私たちの励みとなっています。とても疲れて、嫌な気持ちの時、他の人々の働きを知り、皆様のお便りを読み、勇気づけられています。
 マダガスカルではシスター遠藤、平間と私、3人が活動していますが、シスター遠藤は私のいるアンティスラベから南へ600kmのところ、シスター平間は北東360kmの町で働いています。私のところは標高1500mの高地で、旧植民者のフランス人たちが避暑地としていた町です。気候が温暖で、にんじん、じゃがいも、柿、リンゴなど野菜や果物がたくさん採れて、住みやすい場所です。農業は手仕事で、年1回田植えをします。男が耕し、女が苗を植えます。日本の能率的な農業とは比べものになりません。道路は悪く、交通が難しく、農産品の売り先も限られます。何で人々はこんなに貧しいかと頭を抱えることもあります。
 私は診療所と助産院で助産師の役をしています。昔流に言えば「とりあげばあさん」です。助産院では1ヶ月に100人くらいの赤ちゃんが生まれます。夜勤は2・3人いますが、夜中にベルが鳴ると、起こされます。日本と違って、出産は実に簡単です。ただ、中には難しいケースもあり、手術が必要な場合もあります。問題は皆が病院に行きたがらないことです。それはお金がないからです。可哀想ですが、お金がないことは直ぐ死につがなるのです。病院もお金がないと分かると、キチンと対応してくれないのです。どうしても危険で、シスター助けてくれと言われると、お金を上げるしかない。そっとポケットにお金を入れてやり、病院に行かせます。
 今は日本に帰り、黄金の日々を送っていますが、現地からは早く帰って来てくれと言われます。帰るときのために、土日の暇な時に知り合いに電話して、余った医薬品をもらっています。薬品でも注射器など医療器具でも期限切れのものを持って行きます。もちろん、器具などは再消毒して使います。抗生物質は期限がきれていても1・2年内なら大丈夫です。ただし、日本語の説明しかないものは、私が扱っています。
 マダガスカルにはカトリック教徒が人口の半分くらいで、その他にプロテスタントの信徒もいるので、キリスト教の影響が強く、人工流産すると罰せられます。一家族8〜9人の子供を作り、子供は大切にします。子供がたくさんできても、父親がしっかり働けば、食べるものは何とかなります。米も穫れ、飲む水もあります。でも、三男、四男などからは自分で耕す畑がないので、仕方なく人に雇われるか、出稼ぎに首都のタタナリヴへ行くしかありません。奥さんと子供を置いて行くのです。赤ちゃんを育てるのはお祖母ちゃんです。
 貧しさはひどいものです。食事は一日一食です。赤ちゃんにも着せるものがない時は、日本から送られてきたものを着せて帰します。診療所にも子供を裸で連れてくるのです。5〜6月は相当寒く、霜が下りることもあります。ボロを着ての生活には馴れています。
 診療所と産院では給食は出しません。それは人手と経費の問題があるからです。食事は持ち込みか、病院内で炊事するかのどちらかです。貧しいながら、分かち合いの風習はとても良いものです。食べるものがない人にはお金のある人が分けてあげるのです。時にはシスター食べていかないと声を掛けられます。お産の後、砂糖湯を飲ませるのですが、その砂糖は自分で持ってきます。少しでも砂糖に余裕のある人は、シスターにも分けてくれます。貧しい中で生きるために、皆で分け合うことを大切にしています。
 離乳食はなかなか旨く行かないので、授乳を1〜3年ほどしていますが、6ヶ月もすると、栄養不足で母乳が出なくなります。その時はミルクをやるしかありません。病気の子には朝夕診療所でミルクを飲ませると、元気になり、傷の治りも早くなります。双子などは母乳が不足するので、ミルクを飲ませると、どんどん太ってきます。
 痩せている乳児の母親に乳を飲ませているかと聞くと、ミルクなど高くて買えないと言います。現地には牛はたくさんいて、診療所にも2頭いますが、乳の採れる牛は少ないのです。
 捨て子の話をしますと、捨て子は多いので、マザーテレサの施設で世話をしています。一時はその子たちを里子に出していたのですが、どうもそれを商売にしている人がいることが分かり、新しい大統領は、聖公会の信者でもあり、国外に里子を出すことを禁止しました。国内での里子引き取りは問題ありませんが、引取先を探すのが大変です。
 新しい大統領は国作りのための第一歩として、教育の重要さを強調し、貧富の差なくどんな地区にも小学校を建てることをその政策として打ち出しました。年齢に関係なく皆が教育を受けることを推奨しています。5・6歳の子と23歳くらいの青年が一緒にアルファベットや算数を勉強しています。毎週1回、給食の日が設けられており、その日は生徒がワッと押し寄せます。中には小さい子を連れてくる生徒もいます。
 貧しいことで、一番可哀想なのはお金がないと病院に行けないことです。それは直接死にもつながります。私たちは期限切れの薬品でも使って、できるだけたくさんの子供たちを助けたいと思っています。これからも皆様のご支援をよろしくお願いします。





福岡教区湯川教会所属信徒宣教者 野原昭子

ボリビアの障害を持った人々を救うために。

ボリビアの障害を持った人々を救うために。



 これまで私の活動に何度が支援をしていただき、改めて感謝します。告白めいた話になりますが、私は24年間修道院生活をして、ペルーに6年間、ボリビアに3年間派遣されました。その間修道院の規則には不従順でも、年寄りの人、病気の人、障害の人を見ると、その世話をせずにはいられなくて、修道院のスケジュールに自分を合わすことができませんでした。そして、このような状況を突き詰めて考えなければならなくなりました。祈りの中でもう一度自分を見つめ直し、何故障害者を見捨てることができずに、世話をするのか思い巡らしました。そこで自分の心の奥でわだかまっていたことに気付きました。それは障害をもった妹が5歳で亡くなったことです。泣くことしかできない妹の死に、ごめんなさいと泣いた自分を思い起こしました。それが原因であれば、これ以上修道院に迷惑を掛けることはできないと考えました。障害者をお世話する場を求めて、修道院を出る許可を特別にいただきました。
 いざ修道院を出てみると、自分が如何に世間知らずであったかが分かりました。それまで24年間腹が減る経験もなく、貧しいのは怠け者だからよ、と卑下していました。でも、月5千円程度で生活することになり、食費は日に150円程度で済まさねばなりません。一日一食で、後は水を飲み、仕事も最低なことをするという生活を1年間続けました。バス代も惜しいので、1時間以上も歩いて仕事に行きました。それは、苦しんでいる人々の中に入らないと駄目と思ったからです。障害者の傷を消毒するのも、ガーゼなどなく、古着を切って素手で蜂蜜を流してお終いです。このやり方も患者さんから教わったものです。
 最初は施設を作ることは絶対にしないと、心に決めていました。それは事業を運営する大変さを知っていたからです。一人でできる仕事、それは自分で障害者のところを回り、治療の世話をすることでした。しかし、その内、障害をもった人たちがどんどん私のところに押し掛けてきました。しかし、そのような人々と共に一緒にいる場所がなかったのです。そんな時、ある人が10部屋もある大きな家をただで使いなさいと、貸してくれたのです。こうして、嫌だと言っていた施設作りが始まりました。
 そうなれば、まとまった資金も必要になるので、1年間日本に出稼ぎに行かざるを得ませんでした。といっても突然帰ってきても、良い仕事がある筈がありません。ある日、人の紹介で働きに行った先の社長さんが、100万円を黙って寄付してくれ、仕事はしなくていいから、帰りなさいと言われました。
 そうして皆のための家を開いて6年が経ち、25人の障害者のお世話ができるようになりました。障害のある人たちは、仕事をしたくてもする仕事がなく、乞食をする以外にお金を稼げないのです。だから、この人たちにできる仕事を教えなければなりません。絵を描くこと、カードを作ること、編み物をすることを覚え、自分たちで収入を得る道を開くことです。最近は障害児を捨て子にするケースが増えています。私たちの家では障害児の3分の1が孤児です。この子たちの面倒を見てあげるしかないのです。
 今、コチャバンバの町はずれにある奇跡のイエズス像を前に、人々は祈っています。そのイエズスは口から血を流していて、その前に貧しい人々は病気の人を連れて行き、そこで皆と一緒にロザリオを唱え、奇跡を願っているのです。豊かな社会の下で踏み台になっている人々、人間扱いされていない人々、苦しみだけのために生きている人々と一緒に苦しんでいるキリストがいることを私は実感することができます。ボリビアだけでなく、アフリカでも、インドでも貧しい人々が同じように苦しんでいる。その苦しみのためにイエズスは泣いて、口から血を流しているのです。そのイエズスの写真をたくさん複写していただいたので、皆様もご覧下さい。
 その私たちの家の持ち主から来年退去するようにとの話がありました。何れ起きることですし、25人の人たちの住む家を自分で建てるしかありません。障害者を移動させる車も、井戸も必要です。およそ2千万円の資金が必要となります。すでに1千万円程度は集まりました。土地は借金して確保しました。果物の木を植え、鶏を飼い、野菜を栽培して、自給自足体制を目指しています。これから10年掛けて、土壁の家を完成させたいと思っています。
 来週の火曜日また現地に戻りますが、これからも引き続きご支援下さい。有り難うございました。