日時: 2008年4月22日()13:30〜15:30会場: 上智大学構内SJハウス中村長八神父の写真を背にして話される青木 勲神父 《日本人移住百周年と中村長八神父列福運動》マリア会 青木 勲神父(1)日伯司牧百年の略史先ず、簡単に日本人移民の問題を含め、日伯司牧の歴史を振り返ってみたい。1887年に黒人奴隷制度が廃止され、1905年にはイタリア人移民が中止された。その結果、ブラジルでの綿花やコーヒーの栽培のための労働力が不足してきた。そこで日本人の農業労働力が必要とされるようになり、多くの方たちが政府の海外移住政策にも夢を抱いて、ブラジルに入植した。その移民の姿は5年前にテレビのドラマ「ハルとナツ」で紹介された、そして今年、ブラジルでもこのドラマが上映されたが、見た人たちは、現実がそれよりずっと厳しい、苦労三昧のものであったと語っている。最初は殆ど奴隷に近い扱いで、借金を重ねるばかりで、夜逃げや自殺者が出るほどであり、それが当初からの苦しい移民生活の流れであった。マラリヤやその他の風土病に罹ったり、予想以上の辛酸をなめて、失望のまま帰国した人も多かった。 そのような苦境の中で仕事にも馴染み、借金も少しずつ返し、やがて自分で土地を借りて、生活の基盤を作り上げていった方たちもいた。今では大きな家屋敷を持つほどになっている人たちもいる。そして、移民という形としては、この最初の段階から大戦の終わるまでの移民と、戦後に再開された移民という別の人たちに分けることができる。 最初の移民の方々の中にはたくさんのカトリックの信徒がおられた。それは福岡、佐賀、長崎からの人たちで、いわば昔の浦上の殉教者の末裔の方々であり、しっかりした信仰を持っていた。この人たちはつらい仕事のなかでも日曜日に教会に行くため、朝早くから家族揃って2里、3里の道を厭わずに歩いて、ミサに与った。神父の言葉も分からないが、ただ人の真似をして頭を下げ、跪いて、ミサに参加した。参加はしても神父様の読まれる言葉も、説教も理解することはできなかった。でも何とか昔からの信仰を守ろうと必死だった。 そんな様子を見ていた現地の神父たちが、何とか日本語で信仰の教育をし、日本語でミサの準備をしてあげたいと思った。そんな思いが、文部省経由で日本の司教団にも伝わり、何とか日本語の分かる司祭を派遣しようという動きが始まった。 この要請を受けたのは東京、大阪、長崎で活動していたパリ・ミッションであったが、それぞれの地区での宣教司牧に手一杯で承諾の返事は直ぐには出なかった。何度かやりとりの中で、すでに奄美大島で25年間宣教司牧に尽くしてこられた中村長八神父が58歳の年齢であるが、私で良ければ老骨に鞭打って出掛けても良いという提案をされた。最初反対していた長崎の司教も、長崎で信仰を守った人たちの子孫のためであればと、承諾の決断をされた。こうして1923年の8月中村神父はブラジルの地に入られ、プルデンテの近くのアルバレス・マシャードに宣教の拠点を置かれた。移民が始まって、すでに20年近くになっていた。 その後、イエズス会やフランシスコ会の神父たちが日本から出掛けるようになり、徐々に日本語で布教ができるグループが出来上がった。それで最初は言葉が分からないまま、ミサに与っていた人たちも、日本語でこれらの神父を通して、また神父の生きざまを通して、新しい信仰生活ができるようになり、日本語での福音宣教が始まった。 そして1938年、中村神父の晩年であるが、教皇ピオ十一世から「グレゴリオ大褒賞」を授けられ、その伝達者として任命されたのが、東京の暁星出身の山本信次郎海軍少将であった。山本少将は教皇のメダルを持って、サンパウロに赴き、教皇の代理者としての同地の司教と共に中村神父へ謝意を表明するため、そのメダルの叙勲式を行った。中村神父はフランス語を流ちょうに話され、その式の中でもフランス語で感謝の辞を述べられた。 それより前の1927年にはイエズス会を中心として、日系信徒の青年を教育する目的で、サンパウロに聖フランシスコ学園が設立されるということもあった。 中村神父の叙勲の後、戦争が勃発することになるが、終戦から8年後の1953年に青年の会である「暁の星カトリック・サークル」が結成されることになる。この「暁の星」の起源は、かつて山本信次郎氏がイタリアに在勤中、マリア会神学校の校長に対して日本国民の回心のために「暁の星なる聖母マリアに対する祈り」を広めることを依頼したことにある。この祈りはその後20に近い言葉に翻訳され、その一つのポルトガル語版をペトロ・パウロ・コーペというオランダ人の神父が持っておられた。この神父は中村神父とも親しく、土橋、牧山、大西など青年の協力を得て、サンパウロ州のプレジデンテ・プルデンテにおいてこのグループを結成した。それは特に二世の青年たちにとって、非常に大きな力となり、彼らの信仰の中心となり、グループ内で共同生活をする中でマリア様に対する信心と教会に対する奉仕という面で大きな役割を果たすようになった。 このグループ結成の動きは、司教、教区司祭、修道女の支援を受けて、次々と他の都市へと広まっていった。現在では正式な会として残っているグループは35位であるが、一時は120を超える組織となった。そして非常に多くの方が今でも「暁の星」の会のOBとして、各方面で活躍されている。このグループが始まった段階で多くの神父たち、特に50周年を迎えられた佐々木神父、そのお姉様のシスター佐々木、シスター佐藤などが最初のメンバーである。その次が松尾神父、亡くなられた山頭神父など。私はそのずっと後で、現地に行ったのが1977年であるが、もう32年経っている。この4月20日には「暁の星」の婦人会は50周年を祝った。今年は移民の百周年であると共に、「暁の星」のヨゼフ会、マリリア会、青年会などが、各地で同時に50周年、40周年などを祝うというおめでたい年でもある。 このようにして、「暁の星」のグループが各地で結成された段階で、それぞれ分散したグループに対して日本人の神父やドイツ人神父などがばらばらに新しい仕事を始めていた。しかし、どうしても全体を統一していく必要に迫られ、1967年に初めて日伯の司牧協会(PANIB)が設立され、「暁の星」のグループを含め、ブラジルにいる日系信者のために、統一した一つの方針を立てることになった。丁度昨年がPANIBの40周年に当たり、記念の行事を行った。 私がブラジルに着いた時は、まだ多くの神父たちがおられたが、その後、その数も減り、年配のシスターたちも次々と帰国されていった。長谷川神父も亡くなったので、自分はバウルーを本拠地としているが、サンパウロ州の内陸では一人になった。そのため活動する範囲も直径500キロを超えることになる。サンパウロにはまだ神父がいるが、頭は白くなり、視力も落ちている。交代要員がいないというのが、現状である。私たちもPANIBでも日本語で話すことができなくなった。日本語だけという人はもう85歳以上であり、2世、3世はポルトガル語しか話さない。私も普段の会合では90%ポルトガル語で、日本語は殆ど使わない。ただ、サンパウロでは、まだ日本語で告白される方もいるので、私は出掛けることがある。 そのような状況の中で、まだPANIBは存在を続ける理由があるのかということが問われている。というのもPANIBは、そもそも日本語によって福音宣教を行い、日本人の家族と子弟の教育を行うとうのがその目的であった。その意味でPANIBの役割はなくなりつつある。おそらく今後は、日本の文化、教育など価値観をどのようにブラジルの文化に供給していけるのか、新しい意味での文化共存という面で、存在価値があるかも知れない。日本語による日本人のための司牧という役割は、もう殆どない。私と長谷川神父は、サンパウロ州の内陸部ではPANIBを止めにしようと、もう10年前から準備していた。しかし、自分としても責任ある立場に立たされたら、今急にという訳にもいかない。 現実には日系人も4世、5世の時代に入ってきている。3世がすでに60台に入っている。その次の世代がお父さん、お母さんという段階に入っている。もう3代目、4代目になると、日本はどうゆうところか、という話しになる。今回の巡礼に参加した人たち中にも、旅館で浴衣の着方が分からない。温泉に入るのも抵抗があり、個室のシャワーの方が良いという。日本的雰囲気に馴染めないという状況である。顔は日本人なので、日本語で話しかけられるが、その言葉は理解できない。今回も日本人でありながら、日本人ではないという複雑な気持ちを経験した。そんなわけで、PANIBの仕事も40年間続けてきたが、そろそろ方向転換を求められている。 最後に日系の人たちの数であるが、ブラジルではすでに100万人を超えている。その内で日本に来ている日系ブラジル人の数は30万人に及んでいる。それに、日系のペルー人、アルゼンチン、コロンビア人を含めると、日本にいる日系南米の人たちは45万位になる。この日系人にどのように対応したらよいのかが日本の司教団全体の大きなテーマとなっている。 一昨日もこの問題について横浜の梅村司教と話し合ってきた。司教が言われたことは、働きに来ているブラジル人を初め外国人に対して属人的な扱いはしません、その人たちに対して日本の教会という一つの共同体の中に入ってもらいますということだった。外国から来ている神父や信徒たちに同族の教会というのではなく、地域社会の教会に入ってもらうということである。その意味で外国から来られる司祭や修道女にとって日本語の習得と言うことは不可欠であり、日本の教会に参加してもらうことが大切である。同時に日本の教会としても世界に開かれた教会となり、全世界の信徒のための教会になるということは、大きなお恵みである。教会としてヴィジョンを変えていくことが必要でもある。どうしても最初は中南米の人たちに対して、厳しい見方をする傾向にあった。教会に来ても後を濁して帰るとか、時間に対してルーズであるとう問題があった。彼らにとって何でもないことでも、日本のしつけの観点からもっと自覚して、郷に入っては、郷に従えということがあった。この点は梅村司教も指摘されていた。それは教会を窮屈な社会にすることではなく、自由にものを言える場に変えていくことであり、それによって外国人との問題を摩擦ではなく、良い刺激としたいものである。 ◎ 百年祭行事予定 これまでの日伯の歴史のあらましを話したが、今年は特に移住百周年ということもあり、日伯の行事プランとして挙げられている7つの項目について述べたい。 @ 中村長八神父命日:3月9日 中村神父の命日は3月14日であるが、今年はそれが聖週間に当たるので、繰り上げてこの日に命日の行事に当てた。百年祭と列福調査を兼ねて、長崎の高見大司教様にご足労を願って招待をした。と言っても、往復の航空料金は負担いただいての招待であった。サンパウロからさらに700キロの距離にあるアルヴァレス・マシャードで記念ミサが行われた。リオデジャネイロからは佐野神父が参加された。記念ミサの様子は全ブラジル向けのテレビ放送でも取り上げられた。 テレビ・ニュースのインタビューの中で大司教は次のように述べられた。「私たち日本の教会として、ブラジルにこのような神父がいたことは、非常に誉れであり、またこの秋には日本の187人の殉教者が列福される。この人たちは16世紀の人であるが、中村神父は20世紀の今の聖人である。これらの殉教者にも、またその末裔である中村神父にも同じように、神に対する愛と信仰に対する情熱の血が脈々と流れているのである。このことは大変価値のある、名誉なことと思う。」 日本の国は単に経済的、技術的に強いというだけでなく、信仰の面でも大きな意味を持っているのだ、ということをブラジル市民が再認識する良い機会であった。これが中村神父の記念行事の大きな成果であった。 A 百年祭記念日本巡礼:3月27日〜4月9日 私が団長となってこの期間日本を訪問した。参加者は日系人で、当初32名の予定だったが、結果的に20名となった。一番若い人で55歳、最年長が74歳、男性6名、残りが女性という構成であった。 第一日目にこの上智のSJハウスに来て、ローシャイタ神父と八幡さんに出迎えていただいた。どこに行っても、先ずミサに与り、説教を聞いて、それから女性の希望を入れて、買い物というスケジュールであった。旅先ではどこでも人々の愛情を肌身に感じ、皆感謝していた。翌日も神父様のお話しを聞いてから、マリア会の本部を訪問した。ローシャイタ神父を初め皆様にお礼を申し上げたい。 日本の各地で暖かい歓迎を受けると共に、至る所で桜前線に出会うことができた。東京でも、京都でも、山口でも、長崎でも満開の桜に出会え、その美しさに皆が感動した。ブラジルには沖縄の桜があるが、桃に近いような赤みがかった桜であり、今回ソメイヨシノの本当の桜の美しさを満喫できた。ブラジルの原色に近い花の美しさと違った、日本ならではの淡い花の色の良さを鑑賞できた。 京都では賢明学園の高橋先生に素晴らしい歴史の話しを、翻訳を通してであるが、していただいた。上智大学、イエズス会、私たちマリア会の果たした役割、日本の教会の役割などの話しをしていただいた。その話しを聞いた場所はフランシスコの家という京都の中の建物で、そこで京都におけるザビエルの最初の宣教、京都での殉教の跡をつぶさに見てきた。何故当時の為政者が信徒を迫害しなければならなかったのか、この日系の人たちはこれまで理解できなかった。ブラジル化した人たちには単なる野蛮な行為としか受け止められなかった。 高橋先生は3つの点を指摘された。一つは、ザビエルの説教の中で「敵をも愛せよ」という理論は、当時の戦国時代の封建領主にとって極めて困るものであり、受け入れられなかった。第二に、当時の仏教、神道などの宗教団体の指導者が危機感を持ったこと。第三には、キリスト教を受け止めていくと、神がすべての中心になってくる。それは当時の日本の政治システム上、受け入れられないことであった。 京都の後、広島の原爆記念館、山口、そして津和野と巡礼を続けた。津和野の殉教は浦上の四番崩れで、明治の初めの時代である。16世紀から江戸末期、明治の初めの四番崩れまでの殉教の歴史のつながりを完全に理解できた訳ではないが、津和野の狭い三尺牢の中でどうして信仰を持ち続けられたのか、ということに皆が感嘆の声を上げていた。命まで犠牲にしてイエスに従っていく信仰を日本語も十分に話せない宣教師が、そしてそれを応援したカテキスタが、どうしてあそこまで徹底的に植え付けられたのか、その福音宣教の秘訣は何だったのか、という疑問を皆が持った。何故そのような福音宣教が今できないのか。このことが巡礼を通じて、皆の頭に残ったテーマであり、国に帰ってからそのルーツをもう一度私と一緒に勉強したいというのが結論だった。 長崎ではイエズス会の6聖人の教会を訪ね、一般には公開されていないフィリピンのマニラから送られた3聖人の骨を香部屋で見せてもらった。信仰の歴史を体験したような気持ちになり、皆感激した。さらに福江、久賀島へと渡り、多くの信徒が迫害され、信仰を捨てるように迫られた跡を訪ねた。島原にも行き、人々が何故殉教の道を選んだのか、イエスに従うこと、洗礼を受けることの意味をもう一度勉強したいという気持ちになった。これは今回の巡礼の予期しなかった素晴らしい成果であった。 B 移民祭公式行事:6月18日 まず、最初の移民船が神戸港を出航した4月28日を記念して、この4月27日に神戸メリケン波止場で池長司教司式のミサが行われる。名古屋、浜松などからバス10数台を連ねて、関係者が集まることになっている。(編集者注:実際は池長司教が急遽ローマに行かれたため、さいたま教区の谷司教が司式された。) この移民船は6月18日にブラジルに到着した。この日を記念してブラジルと日本と両方で記念ミサを捧げることになっている。東京ではカテドラルで東京駐在の外交団、および関係者が参加してミサが捧げられる。現地の方へは濱尾枢機卿が来て下さるはずであったが、帰天されてしまったので、岡田大司教に代わりの方の派遣をお願いした。最終的に沖縄の押川司教が来られることになった。PANIBを初め、多くの関係者の奔走と努力により、やっと全ての予定表が出来上がった。 18日10時からサンパウロのカテドラルでミサが執り行われる。その午後にはブラジルに入っている全ての日系の宗教団体がサンパウロの大きな広場に集まって、次の3つの大きなテーマで話し、合同で祈るというイベントである。 第一には、私たち日系人を受け入れてくれた寛大なブラジルに対する感謝の意を表明すること。 第二には、今の世界の政治情勢に鑑み、全世界の平和と話し合いを目指すこと。すなわち、権力や武力によることなく、人間同士の平和な話し合いを進めて行こうという意向。 第三には、自然の環境問題、水、大気汚染、地球温暖化などの問題である。 これらのテーマについて全ての宗教団体がそれぞれ7分から8分くらい、その独自の装束で感謝と祈りを捧げる。 押川司教には10日間の滞在を予定してもらっており、この記念ミサの後、直ぐパラナ州の方で待っているグループを訪問する。 C 宣教師大会:7月14日〜17日 2年に1回、日本の宣教師の会合を開いてきており、この7月には日本から移民、難民と移住者司牧の専門家でもある谷司教に来てもらうことになっている。本来なら濱尾枢機卿に全世界レベルで、そして谷司教に日本とブラジルのバイラテラルなレベルで話してもらう予定だったが、濱尾枢機卿が亡くなられたので、谷司教とサレジオ会の比嘉神父に話してもらうこととなった。大変興味ある会合になると思う。 特に日本ではたくさんの出稼ぎの人たちの問題が出ている。一つは家庭の問題で、離れた夫婦が離婚して、日本で別なカップルが出来てしまい、その子供たちの国籍の問題も出てきている。ブラジルに帰りたくても、帰れなくなった大人たちと、日本から帰りたくない子供たちなどの問題もある。 もう一つは日本の刑務所に入っている人たちの数が増えてきたと言う問題である。私は今回もそのような人、3名と会ってきた。会うためにはブラジルの領事館の正式な書類が必要である。今回比嘉神父にお願いして、私のいる町出身で18年の刑の服役者と会った。さらに近くの町から来て麻薬の罪で入っている人2名とも会った。 このような多くの受刑者については、教会サイドとしてのパストラル・ケアーとリーガルな面、すなわち入国管理法上と労働基準法上でのチェックが必要となる。法律と生活権の面でたくさんの問題がある。その意味でも今回の谷司教と比嘉神父のお話は非常にためになると思う。 さらにブラジル司教団からも難民・移民問題の専門の司教と担当のチーフを招待して、参加してもらい、ブラジル側とも司教団レベルで話し合うことにしたい。 この難民・移民問題に関する話し合いの後、谷司教にお願いして、日本語による黙想会を開くことにしている。宣教師、修道士だけでなく、日本語で黙想をしたい方たちにも参加してもらうよう働きかけている。 D アパレシーダ日伯司牧大巡礼ミサ:8月3日 これは全伯レベルの行事で、ブラジルの全共同体が2年に1回、マリア様の巡礼地として有名なアパレシーダに集まるのである。アパラシーダはサンパウロの東120キロ位のところにあり、昨年ここでラテンアメリカ司教団の会議が開催されたところである。前回の巡礼では約3,500人の日系人が集まった。それにブラジル人の巡礼者も3千人近く来るので、6千人以上の人たちが集まるという大行事である。巡礼ミサの司式には谷司教、PANIBのブラジル代表司教、マメーヂ司教が参加される。各地から多くの人たちが前の晩バスで出発し、朝方現地に着くようにしており、バスの数は50台を超える。 E ゴンザロ教会の自然環境回復: 11月に入ってからあるが、プロミツソンという町の近くのゴンザロ教会で自然環境回復の行事が予定されている。この教会は福岡の大刀洗にある今村教会と全く同じ設計図で建てられたもので、ブラジルでは日本人により建てられた唯一の教会である。献堂式の最後のミサは中村神父が挙げられている。百年祭の記念にこの教会の自然景観を50年前建てられた時代に回復させようというのである。環境を回復して、そこに3キロのアクセス舗装道路を造る計画である。そのためにサンパウロ州元知事の秘書の協力も得て、今ブラジルの州政府と交渉中である。テレビ局クルトゥーラも取材を準備している。 この道路が引き込まれると、移民百年祭を契機にブラジルの教会史の中に新しいページが開かれる。それは日本人の手によって建てられた日本人のための最初の教会として紹介されるからである。 F PANIBの機関誌ホリゾン 私たちが持っているこの機関誌に日本人移民に日本人移民百年史を掲載することを企画している。それは、ブラジルにおける日本人宣教の歴史、それに移民以前の日本における教会の歴史をまとめた総合的なものを考えている。ただ、何れの執筆者も多忙で、なかなか原稿が出来上がっていない。イエズス会の尾崎神父にはすでにイエズス会のレベルでの準備をして下さった。フランシスコ会の方でも準備が出来ている。私は自分が来る前の歴史を書くことになっている。松尾神父が来られてからの宣教の経緯もまとめてもらっている。とにかく百年に1回のことなので、記録としてきちんとしたものにして残したい。必要経費の問題もあり、ブラジル政府にも百年祭行事の一つとして参画してもらうように、話し合っており、政府の資金的支援を期待している。 以上が百年祭の行事の概略であるが、この計画を進めるに当たって、私は次の4つのことを基本として日系人に話している。 @ あなたたちは日本人であるが、もう皆ブラジル人になりきっている。だから、まず第一には皆が学んできた日本人としての教育、家庭における躾けに関する価値を決してなくさないように。 A 二番目には、ブラジルにいる以上、私たちを受け入れる環境を作ってくれたことに感謝し、私たちも誰でも受け入れ、皆と共同して行動できる広い心を持つこと。どうかすると日本人は、限られた人でグループを作ったり、心を閉めてしまうところがある。もう私たちはブラジル人ですよということを示すこと。 B 日本人として日本文化を身につけてきた以上、自然環境の問題に対して、皆と一緒になって協力して、しっかりしたものの見方、判断力を身につけていきたい。 C 最後に、日本人の素晴らしいところは、やはりプランニングができる、計画性があるということである。ブラジルについて常日頃思うことは、何か緊急性がある時は、さっと参加できる。クリスマスや復活祭の時、色々と必要なものがあっという間に集められる。食材や、料理、ご復活の卵など皆の協力で直ぐに用意ができる。だけど、こんな問題があるから、計画を作って、時間を掛けて行動しようとすると、全く駄目である。じっと耐えて計画的にやっていくことができない。その点日本人は計画を立てて、じっくり取り組んでいく地道さを持っている。私がいつも3つのことをお願いしている。それは、何時もどう行動するかのヴィジョンを持ち、生き甲斐というべきパッションを持ち、それがあれば具体的な行動に出る段取りが決まり、そこにミッションというものがある。この3つをなくさないようにしましょうと言い続けている。 もう百年が経過して、日系人は完全にブラジル人になりきっており、皆が素晴らしい仕事をしてくれている。社会のトップの層には、ドイツ系、フランス系の人が多いが、日本人は頭ではないが、首の部分、中枢を支える責任のある地位で責任のある仕事をしている。その人たちが、もう少し信仰の面でこのヴィジョン、パッション、ミッションを持っていただくと、本当にブラジルにとって貴重な、新しい人材となる。 最後にPANIBの問題であるが、この日本語による日本人のための使命はもう終わると思う。でも、なおかつ続くならば、今述べたように教育、躾けの面、文化的な面、さらにプラニングの面で、貢献していく場があると思う。私自身、マリア会からPANIBの仕事を辞めて欲しい、本務があるのだから、と言われている。この7月には他のミッションに専念するためにPANIBの責任を解除して欲しいと思っている。ただ、若い人がいない、後任がいないというのが一番の悩みである。 (2)中村長八神父列福運動今から25年ほど前になるが、1983年に中村神父がブラジルに来られて60年の節目に、長谷川神父が中村神父のことを考えてみることを提唱された。そして、60周年を記念して、中村神父の最初の本拠地であったアルヴァレス・マシャードに600を超える人たちが集まった。それはサンパウロ、クルチバ、リオデジャネイロなどから延々と時間を掛けて、バスで集まったのである。サンパウロからでも9時間掛かる距離である。これは単に60周年記念のためというのではなく、新しい世代の人たちによる信徒のコミュニティが作られたと言える。これが契機となり、長谷川神父を中心に中村神父に関する資料をまず収集しようという調査委員会が立ち上げられた。これまでバラバラに分散されていたこの資料を集めることから初め、その資料の一部が保管されていたバストス市営博物館の協力も得られた。日本からは野下千年神父が来られ、色々な協力をいただいた。それから、島本司教、佐藤司教、ローシャイタ神父などから多くの面で支援をいただき、ついに1991年、アルヴァレス・マシャードに中村長八神父の歴史記念館を設置するための竣工式が執り行われ、99年には完成した。 そして1996年に現地に来訪された佐藤司教とローシャイタ神父から、これからは中村神父の列福の準備を始めたらという提案をいただいた。それ以来列福の理由を判定する作業を行う組織が動き出した。1999年自分の所属しているボツカツ大司教区の全司教の賛同を得て、列福調査委員会が発足し、調査開始のための書類を作成した。そして、その文書を2002年にはローマに送ったが、その返事は来なかった。実は、返事は来ていたのだが、その時丁度プルデンテの司教の交替があり、その返事が自分たちの所に届かなかった。そのため、再度2005年にローマに手紙を出したところ、ローマから返事はすでに出してあるということであった。 ということで、これからは列福の申請を具体的に行うこととなり、日本側は高見大司教と担当の野下神父、ブラジル側はプルデンテのジョゼ・マリア司教と担当のルーベンス神父が申請者となる。先ず、中村神父の生き証人、そして神父と直接話をしたことのある人などから証言、および証拠となるものを全部集めようということになった。すでに100を超える証拠文書が登記を終えている。そして、生存している関係者たちにインタビューをして、その中で中村神父がどのような生き方をされたかを確認し、それをPANIBの名前で正式にブラジルと日本の関係司教たちに提出することになっている。 以上がこれまでの中村神父列福運動の大きな流れである。 今年は、長崎の殉教者188人の列福式があるので、17世紀から明治にいたる昔の聖人たちに先ずお先に上がってもらい、それからブラジルの今を生きた、20世紀の聖人、中村長八神父を日本においても、ブラジルにおいても広く知って欲しい。 もうひとつ話したいことは、1943年に斉藤というある先生が小さな本を書かれ、その94ページに次のような記述がある。 「1940年3月14日に中村神父は帰天された。その時プルデンテの隣のアチスという町の司教からマシャードの司教に次のような指示があった。それは、今日亡くなった神父様はとても高い霊性のある、優れた教育者であり、社会にすごい貢献をした方であるので、何十年か先に必ずやその墓を開くことになる。その時神父様の身体が痛んでいないよう、町の一番良い場所に神父様のためのお墓を準備して欲しい。」 マシャードという町にはブラジル唯一の日系人のためのお墓がある。そこに中村神父を入れるはずだったのが、司教は日系人の方たちに、神父様はこんなに優秀な方なので、是非町の一番近いところに遺体を埋葬したい、そして将来必ずお墓を開けることになるので、遺体がバラバラにならないように、十分大きな敷地に、総煉瓦造りのお墓にして欲しいと言われた。日系の人たちがこれを受けて、お墓を用意した。それが今、現実になろうとしている。 中村神父は殉教者でなく、証聖者であるので、どれほど生きた模範を示し、信仰の証を残されたかを証明しなければならない。どうしても奇跡が必要となる。だから神父のために祈る時には、はっきりその意向をただして、中村神父の取り次ぎに従って、この祈りをお願いしますと言っていただきたい。そして、何か起こったら、是非連絡して欲しい。今ブラジルで一つの奇跡が起きている。カンポ・グランデの方が長くガンを患っていたが、中村神父のことを聞いて、7日間の祈りをしたところ、本当に治ってきた。これはまだ医学的チェックが済んでいないので、今はまだ正式に奇跡とは言えない。皆様のところで何か中村神父の取り次ぎにより、良いことが起きたら、是非委員会の方へ連絡していただきたい。 もし私たちの中村神父がその素晴らしい生き方によって列福されるなら、本当に全世界に誇れる聖人になると思う。だから皆様に是非祈っていただきたいと思う。 どうも話しが長くなったが、長時間聞いていただいたことに感謝する。 |