KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES

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シスター林 静子の最後のお便り

2009年に金祝を迎えられ、パラグアイで46年間にわたり福音宣教に尽くされていたシスター林は、今年の聖週間の聖木曜日のミサの準備中、突然の停電のため転倒されて、病院に運ばれる途中で意識がなくなり、病院に到着して間もなく、帰天されました。心からお悔やみ申し上げると共に、シスターの天国での平安を心からお祈り申し上げます。亡くなられる直前に投函されたシスター林のお便りが5月11日に当会の事務所に配達されました。そのお手紙の全文とシスターが所属されていた聖霊奉侍布教修道女会の本部から頂いた追悼の言葉を併せて掲載させて頂きます。
 
 
SrSHayashi
 
《聖霊捧侍布教修道女会 シスター林 静子からのお便り》
  海外宣教者を支援する会の皆様
  †主の平和!
  ご復活おめでとうございます。皆様お変わりございませんか、お伺い申し上げます。
  3月11日の東日本大震災の結果、大勢の亡くなった方や行方不明者、それに福島の原発事故のために疎開しなければならなかった方たちのニュースを拝見して、心を痛めております。
  パラグアイ、特にピラポ移住地には岩手県、宮城県など東北出身の人々が多いので、毎日ニュースを見聞して、涙を流しております。海外協力隊でこちらに来ていた方たちの内、2名は急いで帰国されました。私も少女時代に東京大空襲で、疎開したり、焼け野原になってしまった我が家や母校の小学校を見て、苦しかったことを想い出しました。
  日本はこれから皆で力を合わせて、再建に向かうことと思います。幼稚園の子供たちと一緒にお祈りしております。聖堂で誰のためにお祈りしましょうかと聞くと、直ぐに「ハポン(日本)」と答えが返ってきます。
  移住者たちは50年前に移住した当時、道路も水道も、電気・ガスもない生活を体験しておりますので、今の災害で苦しんでおられるご苦労がよく分かります。私も14年間電気のないランプ生活や、つるべ井戸で水を汲む生活をしましたので、よく分かります。第2次大戦でめちゃくちゃになった後、日本は国民の勤勉さで世界で一流の経済大国になりましたが、この天災で精神的にも、経済的にも打ちのめされましたが、きっと復興することと確信いたします。
  こちらは夏の暑さも過ぎ、大豆の収穫も終わり、これから次の農作物の蒔き付けに入るところでございます。今年のパラグアイの大豆は豊作で、値段もまあまあと言うところで、皆さんホッとしております。今まで日本の方たちにさんざん援助をして頂いたので、少しでもと義援金を集めて、日本に送りましょうと、運動しております。2月初めに私たちの学校運営のために援助申請をしましたが、それは恐れ入りますが、取り消して頂きたいと思います。
  この国の文部省から多少ですが、私たちの学校の先生の給料が3月から一部支給されることになりました。父兄も学校経営のためにバザーをしたり、食べ物を作り売ったりして、協力してくれております。
  この国は台風や地震もなく、海のない國ですから、津波の心配もありません。父兄たちも日本で被災した方たちに比べれば、ここは農業国ですから、食べる物には欠けることがない、良いところだと申し合っています。日本に出稼ぎに行った人たちもボツボツ帰って参ります。会社が無くなったり、事業を縮小したりで、人員整理のために失業して、困っている様子です。日本に行き、一時帰国してきた留学生も計画停電や飲料水の不足で困ったことを話しておりました。
  お陰様で私の日本にいます姉1人と妹2人は神奈川県と長野県でしたから、地震でびっくりした程度で、被害はありませんでしたので、ホッといたしました。
  会の皆様、健康に留意なさって、良いご復活節をお迎え下さいませ。聖霊の御慈しみよりて。さようなら。こちらは夏の暑さも過ぎ、大豆の収穫も終わり、これから次の農作物の蒔き付けに入るところでございます。
4月13日



《聖霊捧侍布教修道女会本部から頂いたシスター林 静子の追悼文》
  4月21日、聖木曜日に急逝いたしました、本会のシスター・ロザリア林 静子について、早速お悔やみを頂戴し、まことにありがとうございました。
  故シスター・ロザリア林 静子は1929年に東京で生まれ、1956年といえば太平洋戦争後10年余の頃で、まだまだ日本の社会も貧しく、教会も海外からの宣教者を受け入れるばかり、今と違って一般人の海外渡航は稀な時代でした。そのようなときに、シスター・ロザリアは海外で奉仕することを志して、海外宣教のために創立された聖霊会に入会しました。
  1964年にパラグアイに派遣され、日本人移住地で働くことになりました。40余年前のパラグアイは、都市と田舎では生活の差が大きく、移住地では電気、水道もなく、交通手段も車がなければかなり困難であったようです。ラパス移住地の幼稚園で働くかたわら、教会の司牧活動を手伝い、多くの信者さんとの関わりを大事にしていたと聞いております。仕事のために必要だからと、パラグアイの国籍をとりました。日本へ帰省したときには、パラグアイから日本へ帰国された方々を訪ねて歩くのに多くの時間を割いておりました。
  この4月21日、教会で聖木曜日の典礼の式の準備中、停電となり、電気の具合を見ようとしているときに暗闇のため何かに足をとられて転倒しました。すぐピラポ移住地の診療所でみていただき、医師の診断で脳外科のある大きな病院に行くようにと言われ、80km離れた病院へ転送される途中、意識を失い病院に着いて間もなく亡くなったと聞いております。
  彼女の生き甲斐だった司牧活動の最中の突然の出来事で、知らせを受けた日本の管区のわたしたちも言葉がありませんでした。享年81歳でした。4月28日に日本では故人のご親戚の方もいらしていただき、名古屋の管区本部で追悼ミサを捧げました。
  生前、故人の任地宣教のため貴会に物心両面で多大のご支援を賜りましたこと、厚く御礼申し上げます。有難うございました。
                     
聖霊奉侍布教修道女会