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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES

宣教者の声

ボリビアからのお便り(サンファンにて)

サレジアン・シスターズ シスター小浜 静子
 海外宣教者を支援する会の皆様へ

 皆さんお元気でいらっしゃいますか。
 いつも私たちの宣教のためにいろいろとご配慮下さって、本当にいつも感謝しています。今回は筆無精の私も一筆しなければならないと思いました。
 帰国しました折、ボリビアのサンファンの日系人は今年入植50周年を迎えますので、皆様にお祈り下さいとお願いしました。そして、ボリビアに戻りました。
 サンファンの日系人766名は全員がカトリックではありません。日系の事務所JAICAの会員の半数はカトリックですが、戸数でいうと半数は仏教、神道、創価学会、真光、プロテスタント、無宗教です。だから、JAICA自体は多宗教団体ですので、平和を保つために宗教色を濃く出すのを恐れるむきがあります。
 今回50周年祭に当たっても、再度会議を開き、教会では記念碑と慰霊碑の祝別、それに慰霊祭の祈願をサンファンの主任司祭が司式する以外は関係なしということにしました。南米カトリック国のやり方で、枢機卿様にミサを司式して頂きたかったのですが、無理と分かり、カトリック信者で8月20日・21日の記念式典に先立って、サンファンの教会でサンタ・クルスのエスタニスラオ補佐司教様をお迎えして、荘厳な50周年の感謝と慰霊のミサを行いました。
 その時の様子の詳細と写真を同封しますので、どうぞよろしく。

ボリビア日系人 コロニア・サンフアン入植50周年の感謝と慰霊ミサ
 7月31日(日曜日)午前10時よりサンタ・クルスの補佐司教エスタニスラオ師を迎え、サンフアンの教会で荘厳なミサを捧げることができました。
 サンフアン・コロニアは今年入植50周年を記念して、いろいろな記念行事を企画しております。大きな記念祭典(式典)は8月20日と21日の運動会や盆踊りなどですが、8月20日の記念式典の折には時間の都合で、ミサを捧げることができません。慰霊祭もありますが、主任司祭の追悼の祈りだけになっています。
 入植者の半数以上はカトリック信者ですので、前もって御ミサを捧げたい、と思っておりました。
 折りよくエスタニスラオ司教補佐は、元コンベンツアルのフランシスコ会員ですので、コルべ神父様の縁の日系人ということもあり、喜んで御ミサを捧げ に来てくださいました。そして昼食会にも参加してくださり、子供の日本舞踊 も観覧され、喜ばれ、和やかなひと時を過ごされました。
 サンフアン移住地は幸い50年の歴史が教会とともに始まっています。それは長崎県出身の信者さんたちがいたために、当初の開拓時代、司牧の面ではイエズス会の神父様方から、よく教えてもらいました。イエズス会よりサレジオ会に引き継がれ現在に至っております。シスター方も当初はメルセス会、礼拝会、現在はサレジアン・シスターの担当になっております。

 主任司祭ニグリス師は、多くの司牧担当地をもっておりますので、サンカルロス司牧センターから、土曜日の夜のミサ、日曜日の9時のミサ、火曜日の夜のミサに来られるだけです。そのため普段は、教会の留守番役がいます。私は、サンフアン・コロニアの教会の留守役をあずかって、病人見舞い、地区のロザリオ会、お通夜や葬儀ミサの準備や連絡、日系人の学校での宗教の授業など担当しております。シスター漢那はモンテソから援助マリア修道会のアスピランテを連れて、日曜日に典礼の支援のために来ます。今回のミサでも奉納や聖歌で大いに貢献してくれました。
 サンフアン・コロニアは、日本国政府の援助と日系人の努力によって、素晴らしい移住地、ボリビアにとって貴重な農業モデル地区となっています。
 本当に当日のミサで奉納した、米、果物、卵、などは彼らの汗の実りであり、神様の祝福のしるしです。50年の感謝と慰霊のミサを日系人だけでなく、地元のボリビア人とともに捧げ、昼食会も司教様を囲んで、和やかな雰囲気で、ひと時をすごせたのは、素晴らしいことでした。ディオス・グラシアス。

 昨年私が日本に−時帰国した折、日本の多くの友人、知人、教会の信者さんたちに励まされ、献金とお祈りを頂きました。とくにサンフアンの50周年のためにお祈りくださった方々に、この紙面をお借りしてお礼を申し上げます。皆様のお祈りで、立派な感謝と慰霊のミサができました。今後とも宜しくお願いいたします。日系人の人たちも、今度は100周年を目指してさらに一歩と前進すると思います。 皆さんの上に主の恵みが豊かでありますように。

祭壇の前で
祭壇の前で、左側からシスター小浜、サンタクルス教区エスタニスラオ補佐司教、サンカルロス教会ニーノ主任司祭

パンとブドウ酒の奉納
パンとブドウ酒の奉納

ボリビアと日本の国旗も
ボリビアと日本の国旗も

ミサに与る日系信徒の人たち
ミサに与る日系信徒の人たち

2005年8月某日




シエラレオネからのお便り(ルンサにて)

御聖体の宣教クララ修道会 シスター根岸 美智子
 海外宣教者を支援する会の皆様へ

 暑中お見舞い申し上げます。いかがお過ごしでしょうか?こちらは7月から休暇に入りましたが、休暇になりますとイタリアから若者たちが休暇を利用して毎年やってきますので、また忙しくなり、休暇返上という感です。今年も3人の男子、8人の女子学生たち、18歳から22歳ですから、ご想像くださいませ。いつも静かな修道院もこの時はギターや歌声がかなり夜遅くまで続き、にぎやかな家になります。私も孫に囲まれたようですが、若者は若者なりに貧しい国の生活にショックを受け、自分から奉仕しようと一生懸命努力し、奉仕の喜びを見つけて行くのは端で見ていても嬉しいものです。皆、とても素直で良い若者です。信仰も深まって帰る若者も多いです。もう最近はこちらの時間割に慣れたのか、9時半の消灯時間になりますと皆お部屋に戻ってゆきます。10時半には静かになります。
 最初の頃はにぎやかで、耳に栓をしたい位でしたが、昨日などは熱心に告解にも参加していました。次の月曜日にイタリアにもどりますのでこの便りを持って行って項きます。アフリカで投函するよりは安全、かつ早いと思うからです。
 今年の夏はいかがですか?とても暑いですか?こちらは今年の雨期は雨が非常に多く、たくさん雨が毎日降っています。気温はおかげさまであまり高くなく、日本より涼しいといえましょう。9月になりますと、ものすごい雷が毎日のようにやってきて、それから乾期に入って行くというのがこちらの季節のパターンです。
 平和にはなりました。しかし、どこでも同じですが、ここシエラレオネの状況は一向に良い方には向かっていません。人々の暮らしは大変になるばかりです。一握りの人がお金をみな取ってしまい、後の人々は皆、極貧にあえいでいます。
 しかし、日本人とシエラレオネ人とはかなり違います。戦後の日本人は貧しい中にも努力して日本を築き上げました。しかしシエラレオネ人はどちらかと言うと現在に生き、過去もあまり考えないように未来も考えないようです。今日を楽しくという人が多いのです。せめて私たちの所で働く教師には一般の人々の模範となるよう、自分の生活をどのように向上しなければいけないか、一つ一つ教えています。
 平和になって、少しの進歩かなと思いますのは教会にやって来る人の衣装が変わったということです。今から3年前は皆、イタリアや日本からのコンテナ支援の衣類を着て、日曜日にやってきました。しかし今は皆、こちらで作った典型的な衣装で男性も女性もやってきます。レースやビーズの入ったぴかぴかする生地が大好きで皆、それぞれきれいに着飾って、日曜日のミサにやってきます。これを見ている限りでは、もう貧困は終わりかなと誤解しそうです。ところが実際は、こちらの人は着ることが一番の趣味なのです。どんなに借金しても、きれいな洋服を着たいというのです。子供が病気で薬が買えない人がきれいにかざって教会やモスクに行くのです。何が一番大切なのか考えないのです。でもとにかく教会のミサに来る人々の衣装がきれいになったのは、一つの向上かもしれません。衣食住のうち一番大切にするのが衣のようです。後の食・住はまだまだお粗末です。特に住の方が問題です。一般の小屋には家具という家具は何もなく土間に寝るだけです。トイレも台所も家の中にはありません。
 私たちの最大の問題は教員不足です。政府はなかなか雇ってくれません。その上、地方で電気も水道もない所には大学の先生はなかなか来てくれません。そこで、どうしても教員住宅を作らないと教師が来てくれません。私たちは土地の人から家を借りては、教師を招いています。それでも適当な家がないので、最近教員住宅を2軒4世帯のために建設しました。しかしこれらの家にはトイレも台所もありません。別にそれを作らなければなりません。たとえ大学での教師の家庭でも、トイレも台所も家の中では使い方も知らないのです。ですから、まず台所のために、家ごとに庭に小屋を建ててあげます。セメントの小屋です。底石を並べ、キャンプのようにまきで食事を作るのです。また、トイレと水浴のできるブロック建物を敷地の片端に各世帯ごとに作ってあげるのです。トイレット・ペーパーを使う水洗トイレなどは彼らには別世界の人のやることなのです。トイレは穴だけ、そこにバケツに水があるだけです。日本の昔は新聞紙など使いましたが、ここシエラレオネのルンサにはまだ新聞紙などありません。
 食についても家族がテーブルに集まり、お皿がありスプーンを使って食事をするなど、未だにここでは見られません。すべて食事は庭ですから、おもいおもいに座って、洗面器のような器にごはんを入れて、子供たちは数人そのまわりで手使って、つつき合って食事をします。食欲旺盛な子は早く食べ、ゆったりしている子はあまり口には入らなくなり、痩せてしまう子もいるわけです。このような競争に耐え抜いた子供たちが成長してゆくわけです。
 シエラレオネには日本で忘れてしまった良い面を持っている所もありますが、一方、このようにたくさんの面で改革しなければならないこともたくさんあります。
 給料をもらえばすぐ皆使ってしまい、どのように家庭の経済を切り盛りしてゆくかを考えません。お金が少しまとまって入ったから、貯金しようという考えがない、いつも借金に追いかけられているのがシエラレオネ人の多くです。そこで私は最近自分の所で働く職員には給料の一部を保管して、これは困った時のためと一時預けを引き受けています。文盲の彼らも喜び、感謝しています。教師もシスター銀行に口座を開きました、これから少しずつでも貯蓄して行きます、と昨日も報告に来た先生がいます。教師でさえそうですから、一般は更に教育が必要です。それにしても、ほとんどの外国からの支援は、底辺までには一向に届きません。今年は昨年より経済的には厳しくなっていますので、センターに来る生徒も減るでしょう。年間1万円の月謝ですが、支払えないのです。
 中学や高等学校の志願者は多いのですが、ドロップアウトの生徒の多い職業センターは人気がありません。極貧者ばかりが無料授業を求めて、ここにやって来るのですが、まだ全員奨学金にはほど遠いのです。お祈りくださいませ。
 昨年は発電機をありがとうございました。大助かりです。問題は燃料のガスオイルです。年間約25万円かかります。これを助けて頂きますと本当に助かりますが、それまでお願いしたら厚かましいですね。どうぞお祈りくださいませ。
 雨が降って、道がけずられ、川底のようでしたが、今はもっとひどく、滝の階段のようになりました。ある道はもう大変です。私はホンダの三輪車に乗って通勤していますが、今はちょっと遠回りしなければなりません。それでも道がひどいので、まさにサハリパークを走る車の選手の気持ちです。60代後半になった婆さんを忘れ、ヘルメットをかぶって、軍手をはめて、勇ましいいでたちで、毎日出掛けます。子供たちが大きな声で毎度、応援してくれます。
ルンサから車で2時間
ルンサから車で2時間ほど北に行きますと、このような千メートル位の余り高くない山が幾つかあります。滝もあり、とても美しいです。

2005年08月18日