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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES







『宣教師たち』

コンベンツアル聖フランシスコ修道会 前・日伯司牧協会々長 松尾 繁詞
 ブラジルの宣教者たちにも高齢の波が寄せてきた。私もその中に飲み込まれてしまいました。すでに多くの宣教者たちが天に召されましたが、十一月になると何故かフレイ・マルチニョ神父を思い出す。その霊名日が十一日であるからかも知れません。彼は聖フランシスコ会の神父で、日本人移民のために在俗修道女会を創立し、ブラジルの日本人移民のために一生を捧げてくださった恩人です。私が思い出すのは彼の死です。彼はカテキスタ養成に全力を尽くし、黙想の家を建て、最後の仕事のように小聖堂を建てて、内部に十字架の道行きを作っていた。壁に穴を掘り、セメントを見えるようにして、粗雑な感じを与える十字架の道行きを自分の手で細工していた。彼はすでに癌と仲良く何年聞かすごしていたので、やがて最後を迎え病床に臥す身となった。最後が近づいた事を知ったシスターたちは部屋に集まって祈りを捧げていた。彼は合図をして、近くにいた神父を呼んだ。一緒に十字架の道行きを作っていた神父です。苦しい息づかいで何かを言おうとしていた。神父は大切な最後の遺言かも知れない、一言たりとも聞き逃してはならない、と思って、耳を彼の口元に近づけた。弱々しい小さな声だったが聞き取れた。「神父さん、十字架の穴はうまくいったかね?」「はい、うまくいきました!」びっくりしたのは、神父のほうだった。
 マルチニョ神父は、自分の“死”なんか考えていなかったのではないか?死なんか神のみ手に委ねて、精一杯生きることことを楽しんでいたのではないか?自分のことを忘れて、すべてを捧げ尽くしていった彼の生き方に共鳴するのは私だけだろうか?私は彼の宣教者としてのあり方に大きな励みを何時も感じます。
 もう一人の神父は、五十年以上をブラジルの福音宣教に尽くして、三年前、八十八歳で亡くなった。彼の最後の言葉は「イエスよ、私を憐れんでください!」だった。最後の息の中に、心底から吐き出された魂の叫びだった。この神父と共に三十五年余を共に働いた私にはそれが痛いように響いて来る。
 「きずな」を読みながら、つねに私たちの福音宣教がたくさんの善意の方々に支えられていることを知っています。心から感謝を捧げながら、一方では、それに充分に応えていない自分の限界をも知っています。「……私はすべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです‥‥‥」(コリント9・22)聖パウロの宣教者としてのあり方に全力を尽くしながら、それでも何もしていない、何もできない自分が見えてきます。「イエスよ、私を憐れんでください!」ここに私も行き着くようです。
 皆さん、私たちのためにお祈りして下さい!






『74回役員会報告』

「会」の第74回役員会が、2000年9月12日(火)午後6時から、東京・四谷のSJハウス会議室で開かれ、以下の案件を審議、決定した。
議事
1.「きずな」72号について
(1)巻頭言のシスター井村(聖パウロ女子修道会)の「新しい時の始まり」は、日本の女子修道会の動きが分って、とくに海外で働いている人々にはよい情報となったようである。
(2)7月16日に行われたシスター篠田(マリアの宣教者フランシスコ修道会)の講演をテープから起して要旨を掲載したこと。また、シスター根岸(御聖体の宣教クララ修道会)のロシアからの初の聖体行列の報告記事は、写真を大きくして掲載したとの担当者からの報告があった。
(3)横組みの体裁にして読みやすく、若い世代にも受入れやすく、写真等も効果的に使われていてよいなどの感想が述べられた。
2.「きずな」73号について
(1)巻頭言は、ブラジルを訪問した梅村昌弘司教に依頼する。
(2)ロシアのカトリックの現状について関心ある人も多いので、現地からの生の声や情報を掲載してはどうかとの提案があり、関係者に手配してもらうことになった。
(3)原稿締切りは、11月10日、発行は12月1日、発送作業は、12月6日(水)の予定。
3.援助審議 (別項)
4.その他
(1)日本カトリック移住協議会の解散(2001年3月)に伴う、「会」の組織上の位置づけや活動について、宗教法人の傘下の委員会に加わるか、日本カトリック公認団体の一つになるかなど、全員の考えを出したが、後者をとる意見が多かった。11月2日の、司教会議の意向も参考にして、今後、検討を続けるために、検討委員会を発足させた。メンバーは、中谷神父、シスター斉藤、長井、牧野(俊)、樋口、吉岡、諏訪の7氏とする。第1会会合は、10月24日(火)に行う予定。
(2)次回役員会は、12月12日(火)午後6時より四谷・SJハウス会議室で開催の予定。






『援助決定』

 (2000年9月12日現在)
地域援助申請者援助概要援助額
プルキナ・ファソSr野間順子(マリアの御心会)子供と婦人たちのための要理クラス、識字教室のトタン屋根小屋5棟の建設費の一部として200,000円(1,834弗)
ポナペSr赤岩恵子(援助マリア修道会)宣教家庭訪問用のトラック1台購入額(17,000弗の1/2)926,500円(8,500弗)
計 1,126,500円






『講演『ザンビアでの13年』』

〜ザンビア〜
コンベンツアル聖フランシスコ修道会 久保 芳一
 アフリカ・ザンビアから一時帰国中のコンベンツアル聖フランシスコ修道会の久保芳一師が、10月21日(土)午後1時30分から、東京四谷のニコラ・バレ(ショファイユの幼きイエズス修道会)会議室で、ザンビアでの13年間にわたる宣教の実態について、次のような報告を行った。参加者約20人。
 ザンビアは、むかしローデシアと言っていたが、1964年にイギリスから独立した。
 ザンビアは、周囲を8つの国(ザイール・アンゴラ・ナミビア・ボツアナ・ジンバブエ・マウライ・モザンビーク・タンザニア)に囲まれた海のない国だ。私は奄美大島出身だから海が好きだが、ザンビアでは海水浴が出来ない。川と湖はあるが、ワニが居るからなかなか泳ぎにも行けないが(それでも)、ワニと寄生虫の居ない湖に3回ほど泳ぎに行ったことがある。北のアンゴラ、ザイール(旧)で内戦が続いており、難民がザンビアにも流れ込んで来ている。
 ロサカという所が首都だが、北に上った、ザイールとの国境近くのウンドラという所に私達の本部修道院がある。
 私たちの修道会は、70年前にザンビアに入った。それ以前は、イエズス会の司祭達が、1カ月に1回ぐらい、鉱山の鉱夫たちに公教要理等を教えるために訪れていたそうだ。
 ザイールの国境沿いの露天掘りの銅鉱山地帯は、フランシスコ会の受持ちだった。
 最近の情勢だが、アンゴラとザイールに割合近い、メネバという所に難民キャンプがある。そこで日本のNGOの方々が手伝っていたが数年前(内戦が)、大分収まったので引揚げるということだったが、また、アンゴラの方で、いろいろなことが起って、毎日10人〜20人と難民が、国境を越えて逃げて来ている。
 というのは、アンゴラでは(ゲリラの)、シャリンビの兵隊たちが、ダイヤモンドを採掘する地域を抑えている。
 ダイヤが欲しい、とくに、南アの人達がダイヤを手に入れ、代りに武器を送ってくるので争いが収まらない。しかも、ゲリラは少数だから、なかなか兵士を確保できない。そこで村に行き、若い14〜15歳の少年達を集めて、兵士に仕立てる。それが怖いので、家族が国境を越えてザンビアに逃げて来る。私が今居るのは、アンゴラまで、車で54kmぐらいの国境沿いに住んでいる。
 本部のあるウンドラまで600kmぐらいある。道路(状況)は悪く、最初の300kmぐらいは、(アスファルト)道路に穴があいて、30〜40km延々と続いているが、なかなか修理してくれない。援助は多分、来ているのだろうが(それが)、途中で消えるのだろう。小さな子供達が、学校にも行かないで、土とか石を拾って来て穴を埋め、車を止めて、小銭をせびっている光景がよく見られる。後の300kmは砂利道だから、どんな車を持っていっても車が傷む。
 ザイールでは、ぬかるみに車がはまったら、ブッシュで車の中で2日間ぐらい泊まらなければならなくなる。
 私が行ったのは13年前、1987年10ごろに、私はローマに寄り、イギリスに行き、カンタベリで4カ月、それからマンチェスターで4カ月、英語を勉強し(現地に)行ったが、現地では1〜2年は(相手が)何を言っているのかも分らず、日本人も私1人だった。
 現地では、(聖職者への)召命は沢山居るがなかなか成功しないようだ。神学生志願者は、いくらでも来る。
 (町に来ると)1日3回御飯が食べられ、町に行けばコンピューターもあり、車もある。
 24時間、電気もっいているし(彼らにとっては)一つのカルチャー・ショックで長続きしない。田舎の方やブッシュではクリニックもなく、自給自足している人が大半だが、そういう所から若い人たちが町にやって来る。
 それから、もう一つは、「コンパウンド」という貧しい人たちの町(スラム)(多い所では1万〜2万人の人々)のアバラ家に住んでいる人たちの中からも、召命の人が来るが、やはり、カルチャー・ショックで長続きしない。
 コンパウンドら、神学校に通わせるというのも一案だが、召命の難しさを痛感している。
 1988年夏、はじめてザンビアの地に降り立った。飛行機から見ると、高いアリ塚が何千と立っている光景が異様に見えたが、ザンビアでは井戸を掘る時、アリ塚とアリ塚を直線で結んだ線上に水脈があると云われている。
 井戸を掘る時、アリ塚の直下か、線上を掘るといいと云われている。
 ザンビアに着いて最初の5カ月は、学校の先生から個人的にべンバ語を勉強した。ザンビアでは1部族に1言語あると云われ、73部族あるから73語あることになる。
 言葉には苦労した。われわれ日本人宣教師はそれを覚悟して宣教に行かなければいけないと思う。
 今居る所では3つの部族が居るから、3つの言葉と英語、スワヒリ語などをよく知っている、5〜6カ国語分る人は沢山居る。
 ザンビアにカトリックが入ったのは、およそ100年前。最初、フランス人の宣教師がやって来た。White Father(ホワイト・ファザー)と呼ばれ、真白い服に数珠のようなものを下げていたと云う。宣教は、北東の方から全国に拡がっていった。カトリックばかりでなく、プロテスタントも多い、カトリックは35%ぐらい、プロテスタントは80〜90%は居るだろう。
 回教徒も南下して来て、朝5時からスピーカーでコーランの声が流れ、学校やクリニックを建て、月謝などもとらず、教科書もタダで配るなど、よく宣伝している。
 (前述のように)召命(の人を)を集めるのは難しい。とくに女性の方が難しい。女の子は働き手で、収入源だから、もし、召命を求めて女子を欲しいなら、その子が一生働いて、家族を支えるぐらいのお金を家族にやらないと、志願者になれない。
 (ところで私は)ベンガ語の勉強を終って、イベンガという所で、ドミニコ会のシスター達が女学校をやっているミッションに行った。
 イベンガから、キトエという町、さらにロワイシヤという小さな町に行った。
 そこは、キトエからそう遠く離れていないが植民地時代は、小さいがイチバンきれいな町だったと云われる。ザンビアは、今は銅鉱山をみな手放した。世界銀行が、手放さないと融資・資金援助はしないと圧力をかけた。とにかく、銅を掘っても採算がとれない。
 1975年にべトナム戦争が終り、銅の値段も、暴落した。それで、ザンビアは、ますます貧しくなった。貨幣価値は下がり、私の居る問に、平価切下げが2回もあった。
 商人の間からピストル自殺者も出た。物価もどんどん上がり、誰も、止めることが出来ない。ザンビアは銅の輸出以外にはなかったが、最近は、4〜5mの丸太棒をフランスに輸出しているようだ。この丸太棒は黒檀より固く鋸も折れるような木で、多分、クラリネットのような楽器を作る材料なのだろう。しかし、そのために森が切られていくのは残念だと思う。
 ザンビアで、いちばん良い診療所は、教会やシスターたちがやっている診療所だ。キチンと整理され、鍵もかかって、盗まれないようにしているから薬などもかなり貯蔵されている。他の所では、薬が来ると、皆給料が安いから売りとばしてしまう。とくに抗ガン剤のような高価な薬は…。
 一般の人の所に行くはずの贈物(Donation)が売りとばされたり、着服されたりするので、貧しい人は、常に貧しい。
 私は、日本から来た学用品、靴などは直接彼らに配るようにしている。それと同時にニワトリや魚などとの物々交換にもあてている。
 宣教の面では、私達の場合、22〜23の分教会があり、それを3人の司祭が分担している。
 あるオランダ人の司祭は、1人で30〜40の巡回教会を持っている。月曜から金曜まで巡回教会を回って、日曜日に主任教会に帰って来る。
 そして、また、月曜日から出かけて行く。
 教会の中には、いろいろな組織がある。
 (独特の)組織の中に、「ナザレトの会」というのがある。一夫多妻の国で、信者の中にも奥さんが4〜5人居る人も居り、それらの人は(教会に来ても)聖体拝領など(の秘跡を)受けられない。(ナザレトの)会は、ごく自然に一夫一妻にしようという、若いお母さん達の会で、一夫多妻をなくそうと運動している。ミサの時やお祝いの日は踊りをする小さな子供たちのグループ、聖歌隊、侍者グループも、日曜日に巻きスカートにべールを被って踊る。
 20キロ、30キロも歩いて、ドラム缶を半分に切って山羊の皮を張ったドラム、タンバリンの代りにコカコーラのフタをハンマーで叩く、そんな(手作りの)楽器を持って巡回教会を訪問することなどが盛んに行なわれている。
 ザンビアでは30〜35%がエイズ患者というが、実際には50%ぐらいではないかと考えられる。
 例えば2000年5月30日現在でロワイシャでは、エイズ患者が396人、年間死亡率は70%が亡くなっている。薬がないこともあるが、食糧がなくて死ぬ人も多い。
 結核患者も多い。来年からは田舎の方でのエイズ患者との関わりを持ちたいと思っている。



ザンビア宣教13年
ザンビア宣教13年