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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES

たより


~ブラジル(パラナ州)~

8日間の黙想

長崎純心聖母会 堂園 みつ子
  12月27日から1月4日まで黙想会に参加しました。アモレイラからクリチバまで約500km を夜行バスで6時間。夜中の12時にアモレイラを出発して、次の町でバスはストップ。切符の 日付を間違えた女性が「どうしても乗せてくれ、通路でもいいから《と頑張って、運転手は「満 員だから無理だ《と言っても動かない。お巡りさんが来て一件落着、40分遅れました。クリ チバに着いたら延着のため、ほかのシスターたちと行き違い、やっと修道院に着いて昼食をし て、さあ黙想の家へ。「黙想の家《は聖アンドレ修道会経営で、聖イグナチオの霊操が専門で す。私たちも毎年利用させていただいています。
  この「黙想の家《の自然の美しさはみごとです。山、谷、小川あり、珍しい花、草、木、小 鳥たちは自分の家のように雛を育て、向うの丘には馬がしっぽを動かしながら草を食べていま す。散歩したり、黙想したり自然と一体となっています。最近、トイレ、シャワー付きの個室 がいくらか改造されたと聞きました。シスター田中・トマサ・私と三人分しっかり確保できま した。「黙想の家《のシスター・フィロメナは80歳で洗濯の主任です。純心聖母会をまるで 自分の修道会のように思って、早めにシャワー付きの個室を、私たち3人が取れるように計 らってくれました。
  黙想者は約40吊。司祭、神学生、ポストラント、ノヴィス、信徒、シスターズ、夫婦1組 のメンバーでした。はじめに簡単な自己紹介がありますが、日本、イタリア、スペイン、ポル トガル、ポーランド、チリ、、、さすがブラシは人種のるつぼです。
  指導司祭の若きイエズス会士は、張り切ってこの黙想に取り組んでいる姿勢がよくわかりま した。黙想は要点が午前と夜に1回ずつプリントで配られます。食事はセルフサービス、自分 のペースで食べられるので楽です。典礼は「黙想の家《のシスター2吊と信徒の方が決めてく れます。ミサの朗読は、ミサ前に「どなたか?《と声をかけると、誰かが「はい、やります《と すぐにOKです。このスタッフは面接も手伝っていて、8日間、1か月の黙想指導もしています。   黙想が始まると沈黙。北の方から来た神学生は霊操が初めてのようで、聖堂をウロウロ歩き 回り、座布団を枕にしてラッコのようにプリントをおなかにのせて、フーフーため息をついて います。携帯で話したり、他の黙想者と話したり、8日間大変だろうなと気の毒でした。一方、 カルメル会の年配のシスター方はバッチリ。年を取られた外国人の神父様もバッチリ。純心の シスターズもバッチリ。ポストラント、ノヴィスはソワソワ。
  初めて黙想の家に来た時、大トカゲがいました。ワニの子供のような大きさです。5、6匹 ウロウロしていました。シスターたちは「このトカゲは悪い虫を食べるから助かるのよ。おと なしいから大丈夫!《と言っていましたが、何もしないと言われても、気持ちのよいものでは ありません。次の時には散歩していたら、ひょっこり現れて、それからはトカゲ恐怖症です。今 回、草は短く刈り取られていたので、大丈夫だろうと思って外に出ました。4日目に小鳥が急 に騒ぐので、もしかしたらと思ったらやっぱり大トカゲ。これでまた内にこもることになりま した。
  大晦日の夜は、イエス様の受難と死に向けて聖体顕示、かなり頑張りましたが、2時間で帰っ てきました。夜中まで祈っていたグループもいたそうです。大晦日は日中からパンパンと爆竹、 花火が上がります。ゆっくり休もうとしても無理です。12時になったらドンドンと凄い音、 私も起きてガラス越しに花火を見て、新年おめでとう!
  指導神父様は私たちに、「元旦は受難と死の黙想ですから、ウロウロしないで静かに、そし て食事も控えるように《と。去年、本部での黙想会は朝食がデオグラチアスでお雑煮とたくさ んのご馳走だったのを思い出しました。あっという間に8日間が終わりました。静かにゆっ くり、たっぷり黙想が出来ました。黙想のテーマは「光であるキリスト《。イエス様の光に照 らされて2011年を歩いていけますように。


~パラグアイ(アスンシオン) ~

独立200周年記念
聖霊捧侍布教修道女会 山田 雲江
  いつも[きずな]を送ってくださり、本当にありがとうございます。5月14日、15日を中心 にパラグアイの独立200周年記念が盛大に祝われました。いろんな意味で、60年余りも続 いた政権のもたらした現状を踏まえて、人権を尊重し、若い世代の人たちのために貧富の差を 無くし、自由と平等を願い、国民の声を聞くという政治を皆が願っています。そのために政府 としても、特に教育、厚生、労働の分野を通して、国民生活を安泰にすることに務めているよ うです。
  しかし、このような長い年月に色々な形で貧しい人たちをしいたげ、汚職で自分たち の豊かさだけを考えて、政権に携わって来た人たちの行ないや生活を変えることは難しく、今 しばらく時間がかかることでしょう。
  そんな中で、この3年間の新たな政権で徐々によい意味での変化も見えてきています。ただ、残 念ながら未だ未だ国民の意識、先を見つめて心を開いて一人ひとりが協力する態勢が必要とさ れています。政府が、大統領が…と言うのではなく、上下議員を始め、国民一人ひとりが変わり、 協力しなければ…というとろに歩み寄り始めました。「パラグアイは明日の国《と言われてい ます。
Sr山田


~ボリビア(サンタクルス)~

「ガマン、ガマン《「ガンバレ《
イエスのカリタス修道女会 白浜 チエノ
  東日本大震災の打撃を受け、世界中の人たちの痛む心を集めた出来事を思い起こしています。 ボリビアでも一時期は毎日このニュースが放映されました。こちらの神父様、シスター、知人 の方々から「シスターの家族はどうでしたか?《と尋ねられ、励ましやお見舞いのことばをいた だいています。世界中から寄せられたたくさんの支援に心から感謝しています。そして、こち らボリビアの人たちが、日本と日本人のよさを評価していました。例えば、災害が起きてから 1週間で道路が整備され、物資が配布されると、順序正しく並んで、受け取っている姿を見て、 感動したそうです。自分たちだったら泣き叫んだり、取り合いをしたり、取り乱して、あれほ どの冷静さは保てないでしょうと。またノヴィスたちも「ガマン《「ガマン《、「ガンバレ《な どの言葉を覚えて、折ある毎に「ガンバレ《とか「ガマン《と言って、頑張っています。
  この度、車両保険、ガソリン代を支援していただき、2011年5月16日に確かに受け取りまし た。心から感謝し、お礼申し上げます。 日本は厳しい状況にも拘わらずご支援いただき、恐縮 しながらもありかたく活用させていただきます。
  私たちが住んでいる沖縄県民の移住地の周りには15か所のボリビア人村があり、そこで司 牧を担当するメリノール会の神父様と共に、各村に小さな教会を建て、数吊のカテキスタ、青 年リーダーの協力を得て司牧してまいりました。ところが、この5月そのミゲール神父様が85歳 を迎えて、ボリビアにおける50余年の宣教生活を終えて帰国されました。それで、これから も宣教・司牧を続けるために尚一層の責任を感じています。
  司祭上足で各村でのミサは年に、あるいは月に数回しかできませんので、日曜日の「みこと ばの祭儀《を各村のカテキスタが出来るように、また土曜日は青年リーダーたちが子供たちの教 会学校をリード出来るように、シスターたちが巡回して、奉仕する形をとっています。村人は 家の周りで畑を耕したり、牛・ぶた・アヒルなどを飼育したりして、貧しさに甘んじて、「明日 を思い煩うな《というイエスのみことばを生きているようです。奥地の人たちは交通機関が乏 しく、シスターたちの訪問を待ちわびています。
  その他にも、貧困、病気、家庭問題など限りがありませんが、素朴な喜びのうちに神様を信 じ、賛美と感謝を捧げることが出来ますように、共に励んでまいりたいと思います。どうぞ今後 とも、よろしくお願いいたします。


~チャド(ンジャメナ)~

独立50周年の盛大な祝典
ショファイユの幼きイエズス修道会 有薗 順子
               海外で働く私たちのために、常に変わらないご支援をいただきありがとうございます。クリ スマス、新年にもマリア様のカレンダーや美しい花のカレンダーもいただきながら、お礼も申し上げずに失礼しておりました。
  この度、日本は地震、津波、原子力発電所爆発事故などで本当に大変でしたね。被害を受け られた方々とそのご家族の皆様に心からお見舞い申し上げます。共同体で毎日、皆様のために お祈りしています。
  さて、こちらは室内で44℃、炎天下で60℃という最高の暑さ、しかし日本や他のアフリカ諸 国の惨事を思いますと、何のことはありません。
  チャドは昨年、独立50周年を迎えましたが、少し遅れて、今年1月に盛大な祝典が行われま した。 1、000発の花火も打ち上げられ、北の方からは盛装したラクダが300頭くらい首都に入 り、ちょうど外出していた私たちは足止めされました。独立50周年を記念して、首都をはじ め主要道路は舗装され、大統領官邸前には記念像が建てられ、夜には100近い電球が輝いてい ます。あちこちには病院、産院、学校などが建てられ、一部の地域には2階建ての住居が見ら れるようになりました。
           反面、病院の職員や教職員は給料の上払いで、ストを決行。私たちの地区でも昨年のクリスマス 前から発電機の故障とかで、5、6回予告なしに送電されただけで、停電が続き、電話、メールなど が使用できません。携帯電話だけは使えます。
  今年「カバライ宿泊センター《では聖香油ミサがありました。そして聖金曜日にも大司教様 が来てくださいましたが、教会の2つの発電機は故障で、石油ランプでの式典でした。千吊を 超す信徒がミサに参加しましたが、マイクも入らず、私は少々イライラしました。周囲を見ま すと、皆様平然としておられます。「電気なしの生活に慣れておられる《と気付き、私も平静 を取り戻しました。24日ご復活のミサ後、フランス人の若い信徒宣教者がびっしょり濡れて、 宿泊センターでのベランダに座っていましたので、ミサでこんなに汗が?と聞きましたところ、 あまり暑いので、「ボトルの水を頭からかぶった《と笑っていました。
         大祝日の翌日は大統領選挙日でした。当初、政府は24日に予定していたのですが、司教団 の要請で25日になり、うれしいことでした。
  さて、私たちの修道会が、首都ンジャメナの大司教様の要請を受けて、このカトリック宿泊 センターに来てから、今年で23年になります。この施設は聖職者、宣教者たちを優先し、空き 部屋があれば、ミッション関係者の方々を受け入れます。ここンジャメナには、チャドで唯一 の国際空港があり、いろいろな方が出入りされます。今から8年前、お炊事を担当していた方 が暑さに耐えられず帰国した後、この役が私に任されました。料理など習ったことはなく、全 く我流、見覚えでしかできない私が出来るはずがないと、一晩、一睡もしませんでした。しかし、 出来るだけやればよいのだと自分に言い聞かせて、人に尋ねだり、本を見たりしながら、2人 のコックとどうにか続けています。疲れ果てた宣教者たちが研修会、会議、買い物などで宿泊 され、帰られる時、笑顔で満面を輝かせ、「ありがとう《と言って、僻地に帰っていかれます。 この方々は私に代わって宣教してくださっているのです。宣教者の「生命への奉仕《「エネル ギーの源《になっているのだと思う時、素晴らしい奉仕をさせていただいているのだと誇りに 思うようになりました。冷水も充分にあげられず、冷たいデザートなど滅多に出せませんが、 それでも40を超える国の宣教者の方々は、扇風機さえ使用できない、世界一暑いと言われるン ジャメナのカトリック宿泊センターでの滞在を喜んでくださいます。ここでの私のミッション をどれほど多くの方が支えていてくださることでしょうと思いながら、日々皆様のためにお祈 りと感謝をお捧げしております。
     

~カンボジア(シェムリアップ)~

1年の活動あれこれ
ショファイユの幼きイエズス修道会
《入園まえの受け入れ保育》
  昨年11月2日の入園式に先立って、2週間を受け入れ保育の期間としました。入園申し込み締め切りの日までに何と74吊の申込者があり、神さまの摂理に深く感謝しました。2クラスの縦割りで、先ずは園に慣れること、先生方に親しむことを重点的にして行ないました。最初の日は、お母さんたちが一緒にいて、何事もなかったのですが、2、3日あとからお母さんたちの入室を断りましたら、それはそれはたくさんの子供たちが大泣きをしておりました。どうなるのかと案じていたのですが、先生たちに慣れるにつれて、だんだん泣く子も減ってきました。
  子供は遊びの天才ですから、下足箱の棚に上り、手拭きかけに上り、机を置けばそれに上ったり、窓枠に上がったり、また、鍵をかければ、それもいつの間にか開けることを覚えて、鍵も役に立たずで、私たちも競争しながら、工夫に工夫を重ねる毎日が続きました。子供が先生方と仲良くなるのを目的にして、ブロック遊びをして過ごしながら、幼稚園に入るために、足を洗ったり、靴箱に入れたりする練習をしました。
  また、幼稚園は家と違って、トイレ、水道、下足箱などがありますので、トイレ、水道の使い方などの練習もしました。私たちも一つひとつが勉強で、もう何年もここに住んでいるのに、まだ子供たちの言動を予想することもできません。子供たちに教えてもらいながら進んでいる今日この頃です。(園田 国子)
Sr園田
入園申し込み


《保育園のスタートにご協力いただいた皆様に感謝》
  園舎落成・幼児教育のスタートにあたり、ご協力くださった皆様に感謝申しよげます。
2009年6月に着工してから竣工まで約1年、私たちにとっては希望と事の重大さを感じながらの長い月日でした。それだけに、完成を待ちわび、ついに落成式を迎えることが出来たことは、本当に大きな喜び、感謝でした。
  落成式は5月17日に行なわれました。今思い返してみても、1か月近く続いた準備段階での戸惑いは大きいものでした。参加人数さえ知らせれば、ステージや招待者のテントや椅子など、式場設営は業者が請け負うとのこと。案内状を出した招待者も出欠の返事がある訳ではない。しかし、地元のスタッフたちにとっては何ら問題にもならないらしい。招待者とは全く関係なく一般の人や、子どもたちが集まってくるらしい。どれだけ集まってくるのか? さっぱり分からない。
  こちら側での準備と言えば、先ず建物の入り口などの飾りでした。日本の信愛女学院の有志生徒さん方が、落成式のためにと丹精込めて作ってくださった千羽鶴、そしてスタッフたちも張り切り、頑張って前日ぎりぎりまでに色紙でぼんぼりを作り、ここだけが唯一日本的な飾りでした。一方、落成式のステージ、来賓席、一般席は、赤、青、黄、緑混じりのカラフルなテントに幕、派手やかさは覚悟していたが、予想を超えた色彩感覚に唖然となった程でした。
  さて、当日は副市長をはじめとして区長、村長方など行政関係者、隣接の小学校の先生と生徒代表、村人、そして教会関係のシスターや信徒、恩人など約400吊の参列を得ました。感謝!
  5人の僧侶の到着を待って式が始まったのですが、驚いたことにカンボジアにおいては珍しく、予定時刻よりも約10分も早く始めることが出来ました。まず、僧侶の読経があり、来賓の紹介。次にカンボジアと日本国国歌の斉唱後、副市長から僧侶方に記念品を贈呈し、僧侶たちは退場。
  続いて行われた挨拶は、主催者と来賓で日本と同じでしたが、記念品の贈呈が全く異なり、初めに副市長から小学校の生徒代表に、その後、主催者側から小学校の先生代表、行政関係、教会関係の主だった人に贈呈。一番肝心な設計者、施行者には感謝状も記念品もなく、ただ臨席するのみでした。
  式典そのものはクメール式でしたが、テープカット後の建物の祝別は、参列してくださったキケ司教様、オリヴィエ司教様、ヘリ神父様によって、たっぷりと聖水を注いで祝別していただきました。この竣工式にあたり、多くの方々の祈り、援助、支え、協力によってできたことを切に思いおこし、深く感謝申し上げる次第です。(黒岩 あつ子)

《日常保育のひとこま》
  入園式も終わり、74吊の子供たちは毎日楽しく登園しています。カンボジアでは、最近は少なくなっているとしても、1日2食の家がほとんど。3食になっても、朝は軽食が多いようで、お腹を空かしている子供たちは駄菓子やスナック菓子、またパン菓子を買って食べながら登園し、園に入って、教室ールで食べる子供が結構います。また中には、お腹が空いて泣く子もいて、帰宅前に食べるようにしていたおやつ(果物や米菓子)を早めに摂るようにし、1月からは栄養のことも考えて、週2回のボボー(雑炊)も始めましたので、空腹の問題は少し落ちついてきたようです。
  子供たちは、おやつ当番でお手伝いをするのが大好きで、自分の当番が終わっても次のお友だちに当番を譲りたがらず、先生を悩ませる程です。広い庭のある我が園には、少しずつ遊具も設置され、アスレティック、すべり台、切り株渡り、土管くぐり、砂場などで朝から楽しく遊んでいます。
  今年は日本も寒さに悩まされたようですが、こちらでも2月に入っても朝は涼しい日が続きました。1月から始める予定だったシャワーを2月にしたのですが、震える子どももいました。それでも子どもたちはシャワーが好き。女の子の髪にはシラミがいるので、シラミ用の石鹸を使い、15分待って洗い流します。すると「髪の毛をといた時、ポト、ポト、シラミが落ちてきた《と先生が話しておりました。
  男の子はボール遊びをした後シャワーをします。珍しいシャワーロからの水を受け、興奮気味です。多分、子供たちは少々寒くても水浴をしてきれいになったほうが、シラミがいて、いつも岸くてイライラすることがない体の方がよいことを感じているからでしょう。これからも子供たちはどんな様子を見せてくれるでしょう。楽しみです。(樫野 寿美子)
Sr樫野
大好きなシャワー

《初めてのクリスマス会》
  仏救国カンボジアで、クリスマスをどのように伝えたらよいか思案しながら、「クリスマスは世界中の人たちが、イエズス様のお誕生をお祝いする日である《ことを先ず伝えることにしました。そのため、子供だちと一緒に1週間を通して馬小屋作りや紙の花ふぶきを作ったりして準備しました。
  当日、子供たちはいつもよりはきれいな朊を着て、家族と共にうれしそうに登園。参加者は子供64吊、大人約60吊、思っていたより多かったのは大きな喜びでした。舞台の半分には、子供だちと一緒に作った馬小屋を置きました。保護者の方にもクリスマスの意味を伝えるために「イエズスさまのお誕生《というスライドを見ていただきました。とても興味深く見ておられました。
  子供たちには、日頃から保育の中で絵本や歌をとおしてクリスマスの意味を伝えていたので、当日は、会場の舞台に飾られた自分たちが作った馬小屋の場面をじっと見て、静かに始まるのを待っていました。プログラムのメインは「イエズス様への礼拝《。舞台に一人ずつ並んで上り、自分たちがせっせと作ったちぎり紙の花ふぶきを、赤ちゃんのイエズス様に撒いて礼拝、その子供たちの姿は、とても可愛くて、涙して感動しておられる保護者の方もいました。
  お帰りの際、何吊かの保護者の方が、「参加して良かった《、「心が平和になりました《、「何か温かいものを心に感じました《とうれしい感想の言葉をいただき、私たちも力と励ましをいただいたクリスマス会でした。家族の人だちと帰って行く子どもたちの後姿を見送りながら、神様の愛がこのカンボジアにも大きく広がっていきますようにと祈りました。(村上 陽子)
Sr村上
初めてのクリスマス


~カンボジア(コンポンルアン) ~

カンボジアの稲作
信徒宣教者会(JLMM)相沢 雅弘
  最近、日本でのカンボジアのニュースというと、「プレアビヒア遺跡《周辺で続いているタイとカンボジアの国境紛争のニュースではないでしょうか。日本にいる友人から[大丈夫?]と問われましたが、こちらでも、銃撃戦があったことなどが時折ニュースで流れていますが、それに伴う緊張感は感じられず、軍関係車両などの移動も目にすることかありません。また、紛争地域以外のタイとカンボジアの国境の往来は行われています。
  しかし、紛争の小競り合いに伴って死傷者も出ており、カンボジア側では難民が14、000人余りいて、国は支援を発表してはいますが、今も多くの人が、屋根も電気もない場所での生活を強いられているようです。 これは、タイ側でも同じようです。
  日本からも早々の梅雨入りのニュースが届き、カンボジアも雨が多くなり、田舎では田椊えが始まりました。田んぼを目にしながら育った私にとって、田んぼは季節を感じとる一つの大きな要素となっています。しかし、今年の日本では、農家の作付けの時期でありながらも、震災や津波によって、また汚染によって、多くの方々が作付けを断念せざるをえない状況にあることを考えると、とても心が痛みます。震災は、様々な傷を、物質的にも心にも残しましたが、被害が小さかった関東でも、友人の1人は、幕張にある有吊な娯楽施設の駐車場で震災に遭い、液状化する大地を目の当たりにして、その時の恐怖が今も彼女を悩ませています。
  さて、カンボジアの米作りを見ますと、カンボジアの米の自給率は100%で、国内消費の面では十分といわれていますが、実際には家族の食べる米も十分にまかなえない家庭が多くあるといわれます。これは周辺の国々が、1年に2~3回米の収穫をしているのに対して、まだ、1年に1回の収穫が多いとのことです。これは、自給自足の生活習慣からだけではなく、貯水、潅漑用水の整備が上十分なため、雨の少ない時期には米作ができないこともあるようです。
  そのような中、国は米の輸出を大きな産業収入の一つとして捉え、増産目標を発表しています。しかし、実際に私か目にしている範囲では、牛2頭でクワを引かせて耕し、田椊えなどは手作業で、というのがほとんどです。小型の耕耘機でさえ珍しく、新しく購入した家が作業をしていると、通りがかりの多くの人が、みんな立ち止まって見ていきます。このような状況は、日本の1960年代~70年代ごろの感じでしょうか。
  作業効率は、機械ですと5倊以上のスピードがあるようですし、動物と異なって疲れ知らずです。牛1頭が約1、000ドル(8万円)に対し、機械ですと、タイ製の耕耘機は2、800ドル(22万円)とのことですから、決して安いものではないでしょう。
  日本では国の政策や支援もあって、機械化が急速に進み、また、国による買い上げや価格統制して保護してきた歴史がありますが、公的支援が乏しいといわれているこの国では、急速な発展は難しいのかもしれません。
Mr相沢
牛2頭で畑を耕す


~カンボジア(コンポンルアン) ~

本当は怖い粉ミルク
信徒宣教者会(JLMM)高 橋真 也
  「母子保健プログラム《では、粉ミルク支援を行なっています。ですが、支援するのは本当に特別な場合のみです。なぜかというと、粉ミルクは『ベビーキラートと呼ばれているほど、乳幼児を死に至らしめる可能性の高い、危険なものだからです。なぜ危険なのかというと、アジアの貧しい地域に住む人々は、哺乳瓶を清潔な状態に保つことが出来ず、哺乳瓶についたバイキンが、赤ちゃんを死に追いやってしまうからです。粉ミルクを溶くための水もそうです。雨水や川の水は、直接与えることが出来ません。殺菌のためには、水を沸騰させたり、哺乳瓶の容器を煮沸したりしなければなりません。ですが、「面倒だから《とか「透明な水だから、大丈夫《といってそれをしない、無知なお母さんたちが現実にはたくさんいます。それに、その水を沸騰させるための薪すら買えない家庭だってあるのです。貧しい家庭の多くは、上衛生な環境に住んでいますので、バイキンを全く排除することは上可能です。結論。「粉ミルクは使用しない《方がよいのです。
Mr高橋
結局粉ミルクは支援しませんでした

  先日も、あるお母さんから粉ミルク支援を頼まれました。早速土日の無料クリニックを手伝ってくれている産婦人科の先生と一緒に、お母さんの家に行ってみると、とても小さい舟の家に住んでおり、見るからに貧しい家庭でした。家にあがると、奥にはすごくちっちゃい赤ちゃんが寝ていました。生後1週間だそうです。
  彼女に話を聞くと、「自分の母乳だけでは栄養が足りないので、粉ミルクを併用したい《ということでした。でも先生は、「母乳が出るなら、母乳で育てなさい《とはっきり言いました。月の収入が50ドル(約5千円)にも満たないこのお母さんが、月に10ドル以上もする粉ミルクを購入することは上可能です。
 そして気になったのは、このお母さんは23歳ですが、もうすでに5人子どもを生んでおり、なんとそのうちの3人が死んでいるという事実です。先生も私も、それは粉ミルクを上衛生な環境で与えていたことが原因だろうと推測しました。そういった状況を引き起こしたのは、お母さんが無知であることも少なからず関係していると判断し、先生はそこで、粉ミルクも使い方を誤ると危険なことを説明しました。またこのお母さんは、結婚してからずっと妊娠している状態が続いているので、それでは母体にかかる負担が大きく、出産時のリスクも高くなることなどを、先生は身近な事例をもとに話してくれました。それを興味津々で聞くお母さん、きっと私達の母子保健プログラムが、このお母さんと赤ちゃんの命を守り、育んでいくために一役 買えだのではないかなと思います。
  最後にお知らせがあります。私、高橋真也は、5年8か月の任期を満了し、7月いっぱいで日本に帰ります。水上村での活動は、後任の篠田正司に引き継ぎます。これからも、変わらぬご支援、お祈りのほど、なにとぞよろしくお願いいたします。本当にどうもありがとうございました。


~カンボジア(コンポンルアン)~

青年の集まり
信徒宣教者会(JLMM) 篠田 正司
  みなさん、初めまして。京都教区唐崎教会出身の篠田正司といいます。今年の7月から高橋真也の後を引き継いで活動しています。まだまだ四苦八苦していますが、水上村のみなさんに助けられ、聖霊に導かれるままの毎日を送っています。
  コンポンルアン教会で青年の集まりがありました。7つの教会の青年が80人ほど来ました。今回は8月にスペインで開催される[WYD]と同じ、「キリストに根ざして生きる《をテーマに5日間を過ごしました。私達は引継ぎがあり、全て参加できなかったですが、最後の日は水上村で青年達と一緒に泊まり、楽しいひと時を過ごしました。
  これまでも水上村の教会でこのような集まりをやろうとしていたのですが、実際には寝る場所や食事など現実的な問題が立ちふさがり、実現しませんでした。ですから、この夢のような集まりが実際に行なえたことは、コンポンルアン教会の成長の証しだと思います。1年前に水上公園が出来て、場所の確保ができたこと、それ以上に青年達の熱意やそれを支えてくれる教会のおばさん、おじさん達の協力があったからこそと思います。
Mr篠田
実現した若者の集まり

  水上の限られたスベースで80人分の食事の準備をし、食べさせて片付けして、次の食事の用意を始めて、どんな活動でもこのように縁の下の力持ちになってくれる人達の存在は大きく、このような土台があるからこそ、形ある集まりが出来ました。これからの活動でも助けられることがたくさんあるのだと思うと、真也がいなくなっても支えてくれる存在がとてもありかたく思えました。
  この集まりの中で、新派遣者としてうれしいことがありました。それは、これからの青年活動をどうしていくかを話し合った時にポロツと「湖のゴミ拾いをやろう《と言ったことが活動の一つに挙げられたからです。水上村では、湖は生活用水兼トイレ兼ゴミ箱です。こんな環境をなんとかしたい、と話してた矢先のことなのでびっくりしたのと同時に水上村で生活している人もゴミはない方がいいと思っていることが、新鮮な発見に思われました。それは水上村の人達が、何とも思わずにゴミを湖に捨てていると思い込んでいたからです。もし、ゴミを捨てずに家に溜め込んだら、すぐにいっぱいになり家は沈んでしまい生活できなくなることを想像すると、ゴミを捨ててしまうことは仕方がないことなのでしょう。それが私には、水上村で生きるための当たり前と映っていたのです。
  しかし、実際にどうやってゴミを集めるか、それ以上に集めたゴミをどのように処理していくか、歴代の派遣者も頭を悩ませた事なので簡単に始められない活動です。現状では識字教育をしてる船の後ろにあるドラム缶でゴミを燃やしていますが、処理できるのはごく少量です。どのように実現するかは未知数ですが、これからの活動のテーマの一つにしようと思っていたことの、最初の一歩が踏み出されたことは素晴らしいお恵みでした。


シスター林のご家族 林良子様からのお礼のお手紙

    姉、シスター・ロザリア林静子のこと、生前のご厚誼をお礼申し上げます。突然のこ大変驚きました。4月28日には吊古屋の修道院で追悼ミサがあり、5月15日に姉と縁の深った飯田(長野県)の教会で追悼ミサを終えました。
  1964年から2011年まで47年間のパラグアイ生活でした。最初に帰国した1971年から、帰国の度に海外宣教者を支援する会の事務局の八幡様のお吊前が出ないことはございませんでした。いつもいつも温かいご援助をいただき、本当にありがとうございました。
  姉も私も親しい友人のシスターから「修道者の召命はその人だけのものではなく、家の召命を受け取り、それに参加するのだと私はいつも思っています《と、お便りをいただき、悲しみの中にそれに気づきました。吊古屋での追悼ミサの折にいただいた、パラグアイからの連絡のコピーと写真を、心からのお礼と共に同封させていただきます。
  そして、「きずな《115号とお手紙をありがとうございました。その中で姉が最後に書いた便りの最後に「さよなら《と書いてあるのが、印象的でした。
  先日、パラグアイから姉の遺髪と葬儀の写真など送っていただきました。6月11日、ちょうど母の27回忌の日に、この遺髪を両親や兄たちの墓地に埋葬いたしました。何かほっといたしました。
  姉が最後に住んでいたピラポにある日本人の診療所の奥様が、今東京に帰国中で、先日電話でお話し、 姉の最後の様子を伺うことができました。「シスターはとてもパラグアイが好きだったから、お幸せでし たよ《とおっしゃってくださいました。
Sr林
4月23日の埋葬式