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KIZUNA 日本カトリック海外宣教者を支援する会 JAPAN CATHOLIC ASSICIATION FOR AID TO OVERSEAS MISSIONARIES

宣教者の声

『根本 昭雄神父様の追悼』(2008年2月1日帰天)


  フランシスコ会のニコラス根本 昭雄神父が2月1日結核性髄膜炎のため帰天されました。1931年生まれですから、享年76歳でした。
  2月5日六本木チャペルセンターの聖堂において、フランシスコ会員、友人たちの家族的な雰囲気の中でお通夜がとりおこなわれました。修練期から一緒に過ごされた戸田神父はその説教のなかで、次のように話されました。
 「戦後の引き上げの時、大切に扱ってこなかった朝鮮半島の人たちに『あわれみ』を掛けてもらったことが原点になり、根本神父様は、常に虐げられた小さな人たちとともにいる姿勢を貫かれた。1984年のアントニオ神学院で養成担当の時も、いち早くボートピープルとの実際的な係わりを持ち、正義と平和運動にも熱意をもって当たられた。南アフリカでの宣教活動の中で、AIDSホスピスの問題に取り組まれ、多くの患者の最後を看取り、『第32回医療功労賞海外部門』を受賞された。その後、2005年に多数のAIDS患者数が未公表のロシアに自らすすんで、派遣されたが、昨年8月一時帰国中に体調を崩された。」
  海外で全力投球された宣教者のお葬儀に参列させていただくといつも「わたしの元に来なさい。休ませてあげよう」というキリストの言葉が実感として胸に迫ってきます。
(Y.M. 記)
Y. M.記


『春山 勝美神父様の追悼』(2007年11月30日帰天)


  フランシスコ会のアンジェロ春山 勝美神父様が11月30日直腸がんのため入院先の病院で帰天されました。 享年71才でした。
  春山神父様は聖地エルサレム聖墳墓教会で12年間巡礼者の方たちのお世話をしながら、ホームページ「エルサレム便り」で聖地の近況を知らせておられました。
  12月4日葬儀ミサ・告別式が六本木のチャペルセンター聖堂で行われ、帰国するまで働いた聖地の司教様から心のこもった弔電が寄せられました。
  春山神父様、神さまのおそばでゆっくりしながら、「海外宣教者を支援する会」を見守ってくださいとお願いしつつ、お別れしました。
(T.Y. 記)
Y. H.記


『浜尾枢機卿追悼』(2007年11月8日帰天)

 ステファノ浜尾 文郎枢機卿の急なご逝去の知らせを受け、この8月にローマに帰られる前には、12月の司祭叙階50年の金祝のことや、来年予定されているブラジル行きのことなど話されていたと聞き、耳を疑いました。
 浜尾枢機卿は、私どもの海外宣教者を支援する会ができる前、司教協議会の国際協力委員会の委員長として、また、移住協議会の理事長として、秘書の梶川 宏神父とともに、日本から異国へ移住した日本人や、世界各地で働く宣教者を訪ね、世界との交流を熱心にすすめられました。その流れがこの会を生む原点となったのだと思います。
 当時は日本の教会のことや自分の小教区にばかり目が向いていたのを、世界の人々とともに生きるようにと目を開いてくださったのが、浜尾枢機卿でした。また、東京教区の青少年司牧や指導、第2ヴァチカン公会議後の信徒の再教育プログラムなどにも、開かれた教会への熱意で働かれていたのを、葬儀での白柳枢機卿のお話を聞きながら、次々と思い出しました。
 その後、横浜教区の司祭として積極的に働かれていましたが、ヴァチカン教皇庁移住・移動者司牧評議会議長に任命され、活動の場をローマに移し、豊富な語学力で意欲的な活動を続けていらっしゃったのです。
 浜尾枢機卿のモットーは、葬儀で配られたカードのことば、「御国が来ます様に」で、葬儀のミサで読まれたマタイ福音書(25/31〜40)の通り、弱い立場に置かれた人々、差別されている人々、忘れられている人々のために、力強い行動力でキリストのお望みのままを生き、神様のもとに召されました。
 浜尾枢機卿様、どうぞこれからも私たちを見守り、導いてください。お別れの悲しみのうちに、カテドラル大聖堂には大勢の人が集まりましたが、その悲しみを乗り越えて、それぞれの場で神の国の実現のために働く力と勇気を与えてくださるように、お取り次ぎをお願いいたします。
Y. H.記


石川神父様の訃報に際して

 ブラジルの北部パラ州カスタニャール教区の司祭として宣教と司牧活動に奔走されていた石川 祐之神父様の葬儀ミサが7月14日に横浜の司教座教会である山手教会で執り行われました。休暇で一時帰国された後、帰任の途中のニューヨークでブラジルへのフライトを待機中に肺炎から敗血症をおこされて、同地の病院での緊急治療の甲斐もなく、48歳という若さで帰天されたのです。7月1日のことでした。
 石川神父様のこれまでの海外宣教に対する真摯な思いと全身・全霊を打ち込まれた活動を見てきた多くの人たちにとって、この突然の訃報は大きなショックでした。出身の横浜教区の人々だけでなく、何よりもブラジルの現地で神父様の帰りを待っていた人たちの驚きと悲しみは大変なものでしょう。日本の葬儀ミサに合わせて、現地でも追悼ミサが捧げられていると梅村司教様の説明がありました。
 石川神父様は当会にもメールで現地の活動状況を時々知らせていただき、その要約を「きずな」やホームページにも掲載してきました。ブラジルでの司祭職が日本では想像できないほど信徒の社会生活に深く関わっていて、肉体的、精神的に厳しいことが切々と伝わる報告もありました。その中で昨年の9月にブラジル滞在1周年目の感想を寄せられた報告(紺碧の空と真っ赤な大地から:第4号)に次のような文章がありました。
 「出国前は是非実家で泊まろうと願ったのですが、結局無理で、成田出発当日、それも30分だけ行くことができました。こんな時も携帯が鳴り響き、落ち着かない中、お茶を飲みつつ、私はこう切り出しました。《父さんも母さんももう決して若くないし、私も派遣中何があるかわからないし、日本に来てくれたたくさんの宣教師のご両親の犠牲を思いつつ、もしもの時は天国で再会しましょう!》 母は微笑んでいましたが、涙もろい父は泣いていました。」
 でも、そのお父様は葬儀ミサの中で、悲しみを抑えて次のように淡々と挨拶されました。
「ニューヨークの病院で遺体と会ったとき、とても安らかな顔をしていました。13年間の司祭職をやり遂げて、 きっと満足して天に召されたのだと思いました。これまでの皆様のお祈りと支えに心から感謝いたします。」
 このお父様の言葉に、悲しみをこらえていた参列者の方々は、涙が溢れるのを止めることができなくなりました。
 「海外宣教者を支援する会」としても石川神父様の命を賭けられた宣教・司牧活動に心から感謝すると共に、神父様とそのご遺族様の、そして悲しんでいるブラジルの兄弟姉妹のこころの平安のために心を合わせて祈ります。
2007年08月04日